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大越帝国【ベトナム】訪問記

【1】

2024年10月。再び大越国を訪問することとなった。2年ぶりのベトナムになる。あの暑さ、クラクション、食事、自然、人々が私を待っている。実際には待っていない。私の空想に過ぎない。今回の目的もベトナム人技能実習生の採用面接になる。3日間の滞在。ハノイとハロンで過ごすことになる。土曜日に関西国際空港の近くにあるホテルに宿泊。日曜の午前の便で夕刻にハノイに到着する。初日はハノイで宿泊の予定だったが、採用面接に応募していた実習生がキャンセルとなった。ベトナムの実習生送り出し機関から予定変更の要望が来た。今回の旅の道連れは4人。採用予定の企業の社長2人。国内の仲介企業のベトナム人1人。そして、私。社長の1人とは2年前も同行しており、久しぶりの再会となった。もう一人の社長は、知人らしく同じ地域の会社だそうだ。年上の社長(前回の同行者)を呂不韋、年下の新顔を李斯としておこう。ベトナム人は范蠡でいく。新顔は李斯のみで、呂不韋と范蠡は今回も道連れ。土曜日の夜に前乗りで大阪宿泊であった。しかし、プロレタリアに十分な睡眠など用意されない。土曜日の労働の日。朝の5時からバリバリと工場で労働していく。この労働が次への娯楽へと導く。これを乗り切れば、という精神は存在しない。なぜなら、私は案外、この仕事を気に入っているからだ。残業は月に大きな声で言えないくらいしているが、時間をお金に換える。その軍資金で趣味を楽しんでいく。最も今回は仕事の一部。つまり会社からの援護射撃がある。たっぷりと軍資金を持ち大遠征を敢行する。土曜日の前乗りは午後3時の予定だった。しかし、間に合う訳もなく、范蠡に遅参の件を報告。チェックインは次の日の午前4時までに済ませれば問題ないようだ。この時までは、4時まで、と鼻で笑っていたのだ。現在の会社の状況は悪い。従業員は特に。病気での離脱、退職、多くの戦友が去っていった。しかし、ここで食い止めなければならない。連鎖を断ち切る。そう思い残業に励む。午前5時からの労働。終了したのは午後9時。万事が流転している。午後9時。空港までは3時間。つまり、この時点で日付変更線を越える。越境するのだ。さらに帰宅し、身支度を整えなければならない。諸君、案ずることはない。荷造りは終わっている。万事が順調だ。人は限界を超えると一つ成長できるものだ。何々、慌てることはないのさ。ダーウィン先生も進化の危険性を述べている。この極地を理解していく。帰宅。さあさあ、これから海外への旅が始まる。興奮が高まる。心の中がぐつぐつと煮えてくるのが分かる。定期的に心に刺激を加えてやれ。そうすれば、人生少しは楽しめるかもしれない。この【かもしれない】というのが重要だ。決して断定してくれないもどかしさ。この焦らしの中を歩いていく。とっくりと牛のように。范蠡が申した。「最悪、パスポートさえあればなんとかなるっすよ。」ふむ、海外旅行も難関ではないのだ。一度行ってしまえば、大体の構造が見える。入浴を済ませよう。たっぷりと湯船に湯を溜め、労働の疲れを取っていく。じわじわと体温が上がり、汗が噴き出してくる。この忍耐の時間がたまらないのだ。私はマゾヒストではないが、適度な苦痛は脳髄が歓迎している。刺激が強すぎる令和の現在だが、刺激をコントロールすることも一つの処世術かもしれない。古代の偉人たちに学び、自身に活かしていく。このような離れ業を習得できれば、大いに羽ばたくことができるだろうに。お生憎様、穴倉の中でうずくまっている。そして、1日の小さな作業に取り組む。このアングラ感が、ふへへ。フヒッ。風呂上り。冷やしておいたプロテインを体内に流し込んでいく。集中、集中するのだ。口に含まれ、飲み込まれたPが体の中を縦横無尽に駆けまわる姿。火照った体を冷ましていく。充満。Pの充満。快楽。歓楽。Pは百薬の長となるだろう。さっさと身支度を済ませて夜道を行こう。キャリーケースに全てを詰め込み、出発するのだ。そして、気が付けば午前0時前になっていた。どういうことだろう。Pを補充した時は22時だったはず。時を超えたのだろうか。いつの間に仮眠をとっていたのだろうか。無情にも時計は時間を刻み続けている。ふむ、やってしまったか。なんとも滑稽だ。さらに、きれいな姿勢のまま眠っていたようだ。しっかりと眠る気持ちがあったのだろう。さあ、眠ろうといったように。諸君、慌ててはいけない。こういう非常事態こそ人格が現れてくるのだ。自暴自棄になってはいけない。体制を立て直そう。準備はできている。後は、眠気を覚まし、長時間運転の心持に切り替えていくのだ。午前零時、自宅を出発する。さあ、長期戦の始まりだ。チェックインには間に合うだろう。遅参は極刑。獄門も覚悟しなければ。おお、何ともきわどい戦いになってしまったものだ。諸君、参ろうか。

【youtube宣伝】半隠遁生活のススメ

【2】

暗闇の中を発進する。今宵も行こうじゃないか、諸君。チェックインには間に合うだろう。焦ることはない。ベトナムは逃げない。じわじわと真綿で締め上げていくように攻める。この夏、車が故障し、新しい車に乗り換えることになったのだ。同時に洗濯機も故障し、合計で百万円の出費が発生した。昔の時代でいうところの飢饉だろう。しかし、この半隠遁者は貯蓄をしていた。普段、Wikipediaを読むことを至上の幸福としている私。趣味にはあまりお金がかからない。旅行と書籍くらいだ。服飾も着潰すまで買わない。清潔感を最低限出し、王道のファッションをすればお金も浮く。そのため今回の出費に何とか耐えることができた。と言っても富豪ではないので、これからも勤倹貯蓄の生活は続く。その愛すべき車に乗り午前零時過ぎ、関空に向けて出発。既に残暑は消え去った。熱帯夜が懐かしいくらいだ。秋の夜を静かに駆ける。ドライブのお供には何を選ぶか。今回のドライブのお供はオーディオブックだ。月1500円で数多の本を聴くことができる。まさに知識の宝庫ではないか。いい時代に生まれたものだ。本当のところは、身銭をはたいて本を買いたいところなのだが。しかし、現実は甘くない。勤倹貯蓄の日々のため、本の購入は控えている。このような工場労働者にも優しいサービスとなっている。知的生活は私に幸福をもたらしてくれる。しかし、新たなことを知るということが、どうして幸福につながるのだろうか。知るという快楽。これに気が付いたのは、25歳の頃だ。読書習慣が身に付いたのは大学四回生の時。かなり遅い。それまでは、ラノベを数冊読破しただけという不名誉な記録に終わっていた。待てよ、どうして読書量が少ないと不名誉なことになるのだろうか。そもそも私は誰と勝負をしているのだろうか。これも資本主義の負の要素なのか?常に競争を強いられる。常に他者よりも上に。しかし、この競争が成長も生み出してきた。文明を前進させてきたのであろう。その潮流に私も乗っている。乗っている方が何かと恩恵が多いからだ。今日では、格差の問題や生活困窮の問題が取り上げられる。いかにして、自分の人生を全うするか。これに尽きるのではないだろうか。大いにやってやるさ。そうだろう、諸君。今回の旅のお供は【森博嗣著 ヴォイド・シェイパ】一言でいうと剣豪小説。山で師匠に育てられた男・ゼンが師匠の死をきっかけに山を下りる。そして、人々との交流を深め、数多の修羅場を体験する。という小説だ。さすらいの旅というテーマもあるので、これから海外に旅立つ私にうってつけだ。ホテルまでは三時間。暗闇のドライブが始まる。深夜ということもあり、ほとんど交通量は無い。土曜日のため、多少の車はいるだろうと思っていたが、予想が外れた。念のためガソリンスタンドで給油しておこう。備えあれば憂いなしだ。こういう時の24時間のセルフスタンドは最高だ。今の時代、24時間営業が当たり前になっているが、昔では考えられないのではないか?贅沢な時代だ。この時間に働いてくれる人がいるからこそ、いつでも給油することができる。最近のガソリン代も高くなったものだ。160円台が常。しかし、慣れてくると何も考えなくなる。むしろ、考えると苦しみが増すだけなのではないか?どうしてこうもガソリン代が高いのか。高くなっている要因は何か。政府の経済政策がおかしい。どうして補助金を出さないのか。人生の中で不満な感情があると幸福は逃げていきやすい。この不満が大きな躍進に繋がる原動力になる時もあるのだが。金というものはいつの時代も人間を右往左往させる。紙幣の発明がここまで生活に食い込んでくるとは。はてさて、この金の連鎖から抜け出すことはできるのだろうか。いかにお金を使わずに生きていくか。これも面白い試みではある。普段の生活でストレスがあると、お金を使いたくなる。発散が必要になってくる。資産を築くのも一種のゲーム。どこまで溜めるかを面白がる。とにもかくにも面白がってやろうと私は思っている。ガソリンスタンドで給油を終えて出発。次に向かうところはコンビニだ。ドライブのお供には飲食物が最高だ。オーディオブックと飲食物。至高、まさに至高である。これ以上の幸福は見つかるかもしれないが、私にとって、上位の幸福に値する。何を買おうか。カフェインは外せない。万が一居眠り運転などすれば、人生が破滅する。折角の海外出張も台無しになる。他の車を巻き込んでみろ、何人を犠牲にすることになる。それほど車を運転するということは責任が重い。カフェインは重要だ。コーヒーにしよう。メーカーはどうするか。BOSSにしよう。安価でカフェインを摂取することができる。安物買いは時として、お金、時間、健康を奪っていくが、今日はそんなことは言っていられない。とにもかくにもカフェインを取り、確実にホテルまで行く必要があるのだから。甘いカフェオレもいい、ブラックコーヒーもいい。カフェラテも捨てがたい。ここは漆黒を選ぶとしよう。次に何を食べるか。小腹が空いているのは事実。満腹まで食べてしまうと眠気に襲われる。その対策として、腹半分に抑えておきたい。コンビニ飯は案外高いのだ。節約もかねて。今日は菓子パンにしようと思う。選択したのはフレンチトースト130円。深夜にフレンチトーストを食べる。何とも罪深いことだ。深夜のコンビニはどうしてこうもワクワクするのか。二つ合わせて300円。悪くない選択だ。この選択が吉と出るか凶と出るか。誰も知ることはないだろう。知る必要もないのだから。道連れができたことで、いよいよホテルに向かう。ここまで多大な準備をしてきたが、もうすることは決まっている。ひたすらに道を走るだけだ。誰もいない夜の公道を。

【3】

着々とホテルに向かって前進している。夜のドライブというものはどうしてこうも私の心を昂らせるのだろうか。高速道路というものは、一見、変わり映えのない景色が続くのだが、私はこの景色が好きだ。日本の高速道路は山間部を貫く道が多い。山岳戦に挑んでいるような気分だ。さらにこの景色は季節によって表情を変える。特にこれからの季節は紅葉の季節に近づいていく。それを眺めながらのドライブは快楽だ。暇つぶしに高速道路ドライブなどはどうだろうか?ガソリン代が高騰している昨今では、贅沢な趣味になってしまうが、あてどもなく高速道路を彷徨い、山間部、海岸線を疾走するのは気分が良い。天気が良ければ猶更だ。雨の日も悪くはない。趣がある。しかし、車の速度がある程度出ているため、事故の確率は上がる。一種の賭けではあるが、そういう遊びも時には人生に弾みをもたらすだろう。今回の夜間走行は雲一つない深夜であった。深夜の山間部を独り運転する。オーディオブックを聴きながら。ナレーションも落ち着いた声色で雰囲気を作り出す。全てが調和している。まさに今回の運転のために結成されたオーケストラのようだ。気持ちを昂らせることはないが、深い海を淡々と進んでいくような静けさがある。この静けさが、日々の多忙を浄化していく。魂の浄化がまさに行われている。何という神聖さであろうか。この清さを邪魔するものは居ない。少なくともこの運転中は。時々、垣間見る三日月も美しい。浄化を加速させる。今日の街中は随分と明るくなり、月の光を必要としなくなった。おかげで、夜の活動時間も増え、人生の快楽が増加した。都会にいると、月明かりや星の輝きを意識することは少ないかもしれない。しかし、私は地方暮らしの人間だ。県庁所在地の周辺はネオンの輝きに満ちているが、一度、郊外に出ると、町の光は薄れていく。それに反して、月と星は輝きを取り戻す。この都市と地方の両得が良い。昔の人々は電灯などなかった。電気すらなかった。火だ。火が人々に明りをもたらしていた。しかし、火は電気よりも効率が悪い。天気にも左右される。夜などは漆黒が世界を包む。人々は暗闇の中で月と星を眺めただろう。現代よりもいっそう輝いている天体を。今も山間部や海に出れば同じような景色を見ることができるかもしれない。だが、昔ほどの闇は存在しない。闇は世界から除け者にされ、居場所を失っていった。しかし、時として人々は闇を求めた。都会の喧騒に疲れたのだろうか。神秘の世界に誘われたのだろうか。怖いもの見たさの好奇心だろうか。諸君は何を思い、闇を求めるのだろうか。自分の好みを掘り下げていく。これは人生の中で重要な行為だ。幸不幸。好奇心のままに漂流する。なんとも魅力的な生活だ。しかし、現代は多忙だ。仕事に忙殺される。その間隙を縫い、趣味の生活を味わう。至高の時間を味わう。幸福が来る。私の許にやってくる。徳島からホテルまで三時間。高速に乗り、淡路島に上陸する、そこから海を越え、神戸に侵略、続いて大阪に乗り込むという行程だ。徐々に都会の風を感じることになるが、渋滞の恐れはないだろう。順調にホテルまでたどり着けそうだ。鳴門海峡を渡り、淡路島に上陸する際、大鳴門橋から、風力発電所を拝むことができるのだが、夜のため闇に飲み込まれている。残念ながら素通りという形になった。遠くから眺めたことしかない。今度、時間があれば近くまで行きたいと思う。自然エネルギーの注目は年々増している。自然を活用するために自然を破壊するという点もあるが、どうにかして地球への負担を減らす、未来の生態系を守るという点で、賢者たちが奮闘している。ここまで自然エネルギーの開発が進んだのも、賢者たちの努力の結晶だ。結果だけを見て、メリットデメリットを叫ぶことはできるが、私は自然エネルギーの知識を欠いている。まずは、基本的な知識を仕入れてから、批判するべきだと思う。つまり、私はまだまだ無知なのだ。一方で世界の全てを知りたいなどと思うこともある。全くおこがましいものだ。誰しもが願うことなのだろうか。全知全能になりたいと。限られた時間で、限られたことしかできない。これが人間の儚さであり、一方で、人生を有意義にしようという意志の源なのかもしれない。私も30歳だ。三十年生きてきた。人生100年時代というが、私はそこまで長生きできないと思っている。ということは80歳くらい。80くらいが妥当ではないかと思っている。さらに、各地に自由に行き来できる体力がある年齢と考えると。それはもう60代までではないか?どうなのだろう。自分の健康管理にもよるが、体力は刻一刻となくなっていく。老いが来てしまうのだ。つまり、行ける時に行っておかなければならない。国内外。仕事とは言え、貴重な海外視察の機会だ。ベトナムについて事前知識を詰め込んでおくと、少しは充実するだろう。社会の雰囲気、建国の歴史と現在までの過程。人間模様。食文化。経済状況、政治情勢。学ぶことは多くある。ベトナムだけでも大量の知識を知ることができる。これが世界各国となると。ふむ、非常に好奇心をくすぐられるものだ。人生は有限だ。何を取り、何を捨てるか。この選択は重要だろう。私は何を選択していくのだろうか。海の漂流物のようにフラフラと生きていく。既定路線からは外れてしまったようだ。これからは未開地を開拓していかなければならない。だが、不思議と不安はない。気持ちの昂ぶりが私を前進させる。何も恐れることはないだろう。いつ死ぬかは分からないが、毎日を適度に過ごしていく。人生の思い出を少しづつ作りながら。時々は記録もしていこう。自分が生きた軌跡を残していく。子孫に伝えるということもないが、ふとこれまでの人生を振り返りたくなる。その時に大いに重宝するだろう。これまで自分は何に時間を費やしてきたのか。それが分かれば、これからの人生の指針になる。過去の趣味を掘り下げていくのか、新しい趣味を開拓していくのか。大いな楽しみとなるだろう。淡路島を縦断していく。暗闇の淡路島は旅行者の不安を駆り立てる。街の明かりが少ないため、孤独感が一層と濃くなってくる。さらに深夜帯の運転だ。人々は眠りについているだろう。しかし、諸君。案ずることは無いぞ。私は孤独に慣れている。むしろ孤独を好み、求めている。私の快楽なのだ。暗闇、孤独、月明かり。いい詩ができそうじゃないか。漢詩なんかを読みたい気分だ。李白、杜甫、白居易。なぜかこの三人が頭に浮かんだ。唐の巨人たち。ベトナムから帰国した後で、書店漁りでもしてみようかしらん。淡路島観光は是非にお勧めしたい。自然が多いというのは言うまでもない。山川海。多くの自然愛好家を楽しませるだろう。リゾート観光地としても、近年、開発が進んでいる。海沿いの宿泊施設が続々と建設中だ。私は貧乏旅行を特に愛するので、縁はなさそうだが、時にはそういう楽しみ方もいいかもしれない。1つの経験として。お勧めは、伊弉諾神宮だ。神話の中で最初に誕生した島。神に由来する島とは何とも趣が深いではないか。私もこの神宮を訪問した。じっくりと境内を散策した後、大凶のおみくじをお土産に頂いた。全く神々も分かっているじゃないか。私には大凶がお似合いであると。この屈辱を忘れない。いずれは神々の首を私が挙げることになるだろう。今は忍耐の時だ。臥薪嘗胆しなければ。諸君も、淡路島に立ち寄った際には、訪れてほしい。その後は、幸せなパンケーキという、海沿いに立地している飲食店に立ち寄った。大凶と幸せのパンケーキというアンバランス。この不協がなんともいじらしい。不幸者が幸福を貪る。面白いじゃないか。とっくりとパンケーキを堪能した。海を眺めながらというのも粋だ。と言っても、天気は曇天であった。全てに見放された半隠遁者の淡路旅行。幸も不幸全てを抱きしめてやろうじゃないか。これが神道。神道思想。森羅万象が私を追い詰める。これも悪くない。構われているうちが華なのさ。淡路にはまだまだ思い出があるが、今回はこれくらいにしておこう。淡路を縦断するには小一時間ほどかかる。だが、車での長距離旅行も苦にならない性格だ。五時間ほどなら平気で運転できる。これもオーディオブックのおかげだ。ラジオ感覚で本を聴くことができる。なんともいい時代だ。淡路島の思い出を想起しながら深夜の島を縦断していく。目的地までようやく三分の一が終わりそうだ。

【4】

淡路島を抜け、遂に明石海峡大橋に差し掛かる。徳島、淡路島を征服。次は兵庫本土、大阪へと進軍していく。橋というものは文明の象徴であろうか。海を越えることができる技術。空を飛ぶより前に交通の要となってきた存在だ。先人に感謝をしつつ、兵庫本土へと渡る。橋ができるまでは、船での行き来であった。それなりの時間もお金もかかってくる。橋が完成したおかげで、日帰り旅行が簡単になった。非常にありがたいことだ。兵庫だけではなく、近畿、中国地方にも足を延ばすことができる。これまで以上に知見を広げる機会を得た。もちろんネット時代の今日では、容易に検索することができる。わざわざ現地に赴かなくとも、その地の雰囲気は感じられる。と同時に、現地でしか触れられないものも存在する。文明の利器も古代の知恵もバランスよく活用し、人生を充実させていきたいものだ。有限な人生をいかに生きていくか。幸福になりたい、誰よりも、どのような手段を使っても。ということは簡単だが、実際に実行するのは骨が折れる。元来、私は怠け者だ。気を抜けば怠惰の世界に陥ってしまう。時々、この沼に入るのも悪くはない。しかし、長時間浸り続けると、なぜだか、罪悪感のようなものが込み上げてくる。これは資本主義に、進化論に毒されてしまったということなのだろうか。どちらも持続的な成長を求めていく。人生の中で可能な限り、最上の自分を目指すことこそが最善の道なのだと。これに反するのが、老荘思想。東洋の秘宝だ。私はこの老思想に心酔している。無為自然。言葉だけではこの少なさ。しかしこの四文字にすさまじいほどの奥深さがある。それを自分なりに解釈し、実生活に落とし込んでいく。これが何よりの快楽である。だが、この現代の快適さも捨てることはできない。そこで生まれたのが【半隠遁生活】だ。人間関係をできるだけ制限し、自分の世界に没頭していく。これを死ぬまで続けていく。さて、兵庫とはなかなかに縁の深い人生を送っている。最近では、城崎、出石、明石、姫路、神戸に赴いた。それぞれの町では、城下町、神社仏閣、古墳、城跡などを巡礼した。やはり、歴史好きの私にとって、旅とはこれらに触れる時間が大半を占める。過去の遺物と言われれば、そこまでだが、その歴史ロマンが私を惹きつけるのだ。歴史旅も私の人生の重きを占めている。これからもよき友として、生活の核となるだろう。徳島県は四国の中で、近畿に一番近い。そのおかげもあって、よく歴史旅に赴ける。近畿に出てしまえば、そこから、無限のアクセスが誕生する。東西南北、どこへでも行ける。多少の金銭は、必要になってくるが、人生の思い出を作ることができるなら、安いものだろう。ぐつぐつと考えている間に、明石海峡大橋が終わる。深夜の神戸ということもあり、町の光は少ない。夜景好きにはがっかりの景色かもしれないが、私は不満はない。むしろ、ぼんやりとした明るさが、なんとも寂しさを引き起こす。それでも、現代は明るすぎるのではないだろうか。電気は、夜の時間を大幅に増やしてくれた。自由時間も、労働時間も。淡路島も通過し、兵庫県の本土に到着。ここからは、大阪に向けて東進し、続いて、関西国際空港付近まで南下するという進路になる。ホテルへのドライブも、ようやく半分近くまで進んできた。しかし、油断はできない。どこで刺客が現れるか分からない。神戸の思い出を想起しつつ、暗闇のドライブは続く。

【5】

ついに、天下の台所、大阪府に突入した。この深夜ドライブも、終幕が近づいてきている。ホテルまで、1時間と少しだろう。しかし、ここにきて、疲労が蓄積されてきた。眠気を呼び起こすあくび、かすむ目、苛む頭痛。自分が労働終わりであることを、忘れていたようだ。プロテイン、コーヒー、オーディオブックの効力も、徐々に失われてきている。彼らも、十分に尽力してくれてた。彼らの力がなければ、瀬戸内海に沈んでいただろう。疲労は、間違いなく私を追い詰めている。崖端とまでは言わないが、戦況は芳しくない。旗色は悪い。大阪に入って、大攻勢が続いている。諸君、ここまで来て倒れるわけにはいかない。この苦難を乗り越えた時、ベトナムという極楽が待っているのだ。それを信じてハンドルを握るしかない。援軍は見込めそうにない。孤軍奮闘の籠城戦だ。間断なく敵の攻撃は続行される。緻密に計算され尽くした、人間の身体、精神に一撃を加える敵陣営。お互いに退くに引けないのだ。明確な目標がある以上、外交での交渉もご破算となった。残された道は拳を合わせることだけだ。悪魔の歌が戦場を駆け抜ける。恐怖の大阪道は続く。ナビを注視していなければ、全く別のルートに迷い込んでしまう。迷い込んだ先に待つのは伏兵だろう。私の消耗を手ぐすねを引いて待っているに違いない。夜ということもあり、視界も悪い。加えて、私は目が悪い。これほどまでに悪条件が重なるとは。泣きっ面に蜂ということだろうか。八百万の神々は、敵陣に味方したのだろうか。ここまでくると、そう疑いたくなるのも仕方がない。深夜の大阪を駆ける。駆ける。諸君、命あっての物種だ。ここは、戦略的撤退を行おう。サービスエリアという名のオアシスに撤退するのだ。そこで、少しばかりの英気を養い、この先の攻防戦に備えるのだ。大阪のサービスエリアは何気に、初めてではないのか?記憶に残っていないだけだろうか。大都会のサービスエリアだ。何事も、初めてというものは新鮮な気持ちになる。この新鮮さをいつまでも継続したいものだ。しかし、食べ物がそうはいかないように、人間の感情も完璧ではない。徐々に、初心は忘れられ、無関心、無感情の世界へと誘われる。私も、この感情に苦労させられている。何とか新鮮さを保つことはできないだろうか。良い方法を思いつかない。このままでは、年齢を重ねるたびに、面白さがなくなっていく。面白さを欠いた人生はどのような末路を辿るのだろうか。死を待つだけの人生?はてさてどうなるのだろうか。死が確実ということは分かる。では、それまでに人生で何を成すか。重要なことは、世間ではなく、自分が心から求めているものを明確にすること。自らの欲望に忠実になる。欲望の奴隷ということか。自由人は自由人ゆえの苦しみが存在する。もちろん、奴隷も同じことだろう。サービスエリアに寄り道する。食料や飲み物は、十分に備蓄がある。トイレ休憩と柔軟体操に時間を費やす。一刻も早く、ホテルに到着したいところではあるが、焦ってはいけない。急いては事を仕損じる。じっくりと、大いにやってやろうじゃないか。大都会のサービスエリアも悪くない。深夜の大阪であっても、街の明かりは絶えない。煌々と輝くビルの明かりが私を見つめている。大学時代は、京都に住んでいたが、大阪、東京のようなビル街ではなかった。京都の街並みは、建物の標高が低い。空が広いのだ。空が広いと、自然と気持ちがよくなる。早朝、昼、夕刻、夜。晴れ、曇り、雨。多くの顔を見せるのが空だ。大都会だと、常にコンクリートに囲まれているという圧迫感がある。もちろん、生活の便利さは群を抜いている。特に、交通機関の充実さは目を見張るものがある。車を持つ必要がない。かといって、生活費が安いわけでもない。家賃、物価、悩みの種が多い。自分にとって生活に必要なものを考える。何を求めているのか。私は、田舎生活が性に合っている。生活費の安い田舎に暮らし、文明の利器を用いて、豊かな生活を送る。億万長者ではないが、貧困でもない。貧乏ではあるが、豊かさを感じることができる。昔の貴族をはるかに凌駕した生活。しかし、数年くらいは、大阪もしくは東京生活を送ってみたい。海外の生活も気になる。生活レベルを下げてしまえば、いくらでも気楽な生活ができるだろう。後は自分の欲望と、よく対話することだ。サービスエリアに到着後、トイレ休憩を済ませる。都会のビル群を眺めながら、コーヒーをグイとやる。カフェインが体に充満していく。目がグググと開かれる。開眼の時である。フレンチトーストも忘れない。むしゃぶりつく。ガツガツと小麦を嚙みちぎる。鼻息荒く、勢いは止まらない。嚙みちぎり、咀嚼し、飲み込む。コーヒーを勢いよく流し込み、快楽を堪能した後のゲップを放つ。この定型。快楽食事。諸君、この程度の食事で快楽を感じることができる。なんともおめでたい精神ではないか。だが、令和の現代、生活費が上がり続ける昨今では、この快楽手法が重要になってくると思う。小さな行動で、最大の快楽・幸福を感じる。この鋭敏な感覚を、さらに磨き続けていきたい。