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半隠遁生活者の手記 【エッセイ】

半隠遁生活者の手記

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手記公開について

この手記を公開することに、私は長く迷い続けた。
それは、かつてソクラテスが語ったように「語られぬ知恵こそ、真の知恵である」とする慎みの哲学に背く行為のように思えたからだ。

歴史を振り返れば、多くの賢者が“記録”という行為に慎重だった。
老子は、西へ去る前にわずか五千語の道徳経を残したのみで、後世にすべてを託した。
モンテーニュは、自らの塔の書斎に籠もり、人生の断章を綴った。
そのほとんどが、他人に見せるためのものではなかったと伝えられている。

だが、時に“書かれるべきもの”は、書き手の意図を超えて存在する。
この手記もまた、そうした運命にあると感じたのだ。

故人の遺書にはこう記されていた。
「私物は処分してかまわない。ただし、それが誰かの生活の利益となるのであれば、公開しても差し支えない」

この言葉に従い、多くの私物は火にくべられ、あるいは風に散った。
だが、この手記だけは、知人である捜査関係者の手により密かに保管されていた。
慎重な検討の末、私はその人物の許可を得て、この書を世に出すことに決めた。

書き手は“半隠遁者”とだけ呼ばれる人物。
社会の片隅で、静かに思索を続けていたその人物が、何を感じ、何を手放し、何を残したのか。
この記録には、その断章が綴られている。

誰かにとっては奇妙な呟きにすぎないかもしれない。
しかし、孤独のただ中にいる誰かにとって、この手記は一筋の光となるだろう。

歴史がそうであったように、無名の断片が、時に人の生き方を変えることがあるのだから。

――フリージャーナリスト 蒲生

半隠遁者生活者の手記

半隠遁生活とは

半隠遁生活とは何か。

それは、世間的な付き合いを減らし、自分の時間を確保し、自らの活動に没頭することである。世間的な付き合いとは、主に仕事、人間関係のことを指す。そして、自分の時間とはすなわち自由時間であり、その自由を何に使うか――この「自らの活動」は、人によって千差万別である。

趣味、学問、創作、家族との時間、あるいは孤独の中での思索。それは他人が定義できるものではなく、自身の内面から導き出す以外にない。ここは主観で判断されるべき領域であり、半隠遁生活を営みながら、試行錯誤と修正を繰り返していくことが望ましい。

完全な隠遁生活を目指した時期もあった。だがそれは、社会的な人間関係をほぼ断ち切ることになり、私には継続が困難であった。そこで見つけたのが、中途半端であっても効果のある「半隠遁生活」である。仙人になれなくても、半分だけ世間との関わりを減らすことで、驚くほど自由な時間が増える。

人付き合いを半減させると、逆説的にその残された人付き合いの時間は、より意味あるものへと変化する。質が上がるのだ。これは、自己の内面に耳を澄ませる時間が増えるからである。

私たちは、自分の理想とする半隠遁生活を夢想し、実践していくべきである。まさにそれは、自身の「楽園」を作り上げる行為に他ならない。

フランツ・カフカの『城』が描く不条理な権力の迷宮、カール・マルクスの遺稿に滲む孤独な探究心、そしてドストエフスキーの『地下室の手記』に宿る屈折した内省の叫び――それらに共通するのは、「社会から距離を取った人間の視点」である。

半隠遁生活とは、まさにこのような視座に近い。社会の中にいながら、その重力に巻き込まれずに観察するという姿勢。静かな抵抗であり、孤独な自由の実験でもある。

価値観を見直すという第一歩

人生を解剖していくと、多くの時間を費やしている要素が見つかる。仕事、趣味、人間関係(家族、友人、恋人、パートナー)、健康、お金、結婚、子育て、夢。人間の悩みが発生しやすい事柄。
──それらを見つけたところで、私はどうすればよかったのだろうか。

半隠遁生活では、これらを深掘りし、自分にとって、どのくらい重要で、どれを縮小するのかを考える必要がある。
しかし、私はその“重要”の基準すら、もうよくわからなくなっていた。誰の価値観を生きていたのか。どこまでが私で、どこからが“世間”なのか。

内省の時間。半隠遁生活では、内省の時間が多くなる。
それは言い換えれば、逃げ場のない対話のことだ。

孤独時間が増えると、どうしても思索に費やすことになる。何も考えずにいられるほど、私は器用ではなかった。
そして思索は、必ず私を不安と倦怠に連れていく。

孤独のご利益。一に内省、二に内省、三四内省、五に内省。
──笑ってしまう。内省に始まり内省に終わるのが、孤独というものならば、果たしてそれは祝福か、それとも呪いか。

独自の半隠遁生活を構築する。楽園を作り上げる。
そう言葉にすれば、どこか崇高な試みのようにも聞こえるが、実際のところ、それは社会からこぼれ落ちた人間が、自分に言い聞かせるための方便なのかもしれない。

いや、楽園なんてものは初めからなかったのだ。誰かに提示された幸福の形に、無理に自分を押し込んできただけだった。その不一致が、ただ静かに、けれど着実に、私を疲弊させていった。

──それでも私は、半隠遁を選んだ。
選んだというより、そうするしかなかった。

完全な隠遁生活だと、人間関係が完全に切れてしまうため、私は継続できなかった。
私はそれほど強くもなく、またそれほど狂ってもいなかったのだろう。

中途半端な隠遁生活で、半隠遁生活だ。仙人になれなくとも、半分で意外と自由な時間は増える。
その“自由”すら、当初は得体の知れない空白だった。自由とは、孤独の言い換えにすぎないことを、そのとき私はまだ知らなかった。

人付き合いを半減させると、人付き合いの時間が面白くなる。
それは皮肉だった。距離を取って初めて、人の表情がよく見える。笑い声の裏にある疲労。励ましの言葉に混じる虚無。自分もそうだったのだ。

それぞれ理想の半隠遁生活を夢想し、実践していくのがいいだろう。
それが“理想”という言葉で語れるならば、の話だが。

自身の楽園を作り上げる生活でもある。
私は今でも、それが楽園だったのか、ただの隔離部屋だったのか、わからずにいる。

自らの死 終幕の自覚

私はいつか死んでしまう。これは真理。不動の運命だ。となると、時間は有限。人生でできることは限られる。時間を大切に。そんなことは知っている。しかし、できない。なぜだろうか。どうしても、必要のないものに時間を費やしてしまう。

私は死ぬということを、毎日考える。常に有限性を意識する。それでも浪費する。これは何かの病なのか。あるいは、あらゆる人間に共通する欠陥なのか。

自分が人生で成したいことは何か。もう30年ほど生きてきた。30年――なかなかに長い時間だ。私はいつ消えるか分からない。あとどれくらい残されているのか、それもわからない。ただ、自分の価値観を明確にし、欲に従って生きることが、唯一納得できる道のように思える。

大きな欲望に、時間、お金、思考力を使う。それが危険でも、不確かでも、ただなんとなく流れて生きるよりは幾分マシだ。振り返れば、私は多くの夢を捨て、諦め、選択を重ねてきた。無数の岐路の上で、何かを拾い、何かを捨ててきた。

今の人生に満足しているか?どうだろう。まだ、やりたいことは残されている。死は確定している。その認識を持って、時間を使うべきだ。自分の趣味、人間関係、学問に、自分の資源を振り分ける。そして自分を分析し、行動計画を立て、時には修正する。

私は、自分の欲に従った活動で、人生を面白がりたい。もう少しだけ、この世界を楽しんでみたい。たとえそれが滑稽でも、不完全でも。私は私のまま、終わりへと歩いていく。

自らの死を意識しつつ、私は今日も静かに、自分の歩幅で歩くのだ。

半隠遁者の労働

半隠遁者の労働──空想と自活の技法

私は働いている。誰にでもできるような工場労働である。
そこにやりがいは……ない。だが、苦痛もない。いや、苦痛がないことを“やりがい”と呼ぶべきかもしれない。

私の労働は、空想で成り立っている。
単調な作業のなかで、私は別の人間になる。最前線に送る弾薬を製造する戦時体制下の工員。祖国を影から支える匿名の兵士。そんなふうに思い込むと、目の前の単純な工程にも意味が宿る。

やりがいは、あくまで空想の産物だ。現実には存在しない。
私は幻想にすがっている。いや、幻想を創造している。

空想は私を救う。私は、昨日読んだ書物の余韻を反芻しながら、次の休日の計画を立てる。新しい翻訳文献を読むか。近所の公園で詩を書いてみるか。あるいは、あの哲学者の言葉の解釈を練り直すか。工場の騒音の中で、私は密かに思索する。

「何をしても、結局死ぬ。それなら、少し面白がってやろうじゃないか」——これは、ムルソーの呟きに似ているかもしれない。

やがて定時になる。私はわずかな給金を得て帰宅する。
誰もいない部屋。何の気配もない。だが、それがいい。
疲れ果てている私に、誰かの配慮をする余力などない。他人に傷つけられることも、私が誰かを傷つけることもない。沈黙は、私の守護神である。

かつてSNSという娯楽を持っていた。だが、今は全て削除した。十分楽しんだ。
今は、静寂が情報だ。

この生活は単調である。だが、単調のなかに“ひと匙”の変化を加える。それが私の知的遊戯である。作業の効率化を追求し、工程に工夫を加える。わずかな変化が、退屈という名の毒に抗う抗体となる。

給金は、私の趣味生活と知的生活の資金源。
私は旅に出ることも、贅沢なものを買うこともない。しかし、本を買い、静かなカフェで思索する費用は惜しまない。貯金もする。万一に備えて。経済的安定は、半隠遁の自由を確保するための要だ。

職業は、決して「夢」ではない。けれど、私はこの仕事を“好き”になりかけている。
いや、好きになったというより、“好きになれるよう工夫している”と言うべきか。
ここに、労働の本質があるのかもしれない。

「労働は人生の大半を占める」
これは、皮肉でも何でもない、冷厳たる事実だ。ならば、いっそその中に微細な喜びを見出す努力を惜しんではいけない。
空想、工夫、改善。それがなければ、私はとっくに労働という怪物に呑み込まれていただろう。

私は、今日も働く。生きるために。学ぶために。沈黙のなかに小さな歓びを拾うために。
これは、半隠遁者としての私の労働論である。静かながら、確かな生への意志だ。

半隠遁者のキャリア──出世なき人生設計

私は、キャリアという言葉に馴染みがない。
まるで他人の人生を写した映像作品のようだ。世間で言われるキャリア形成とは、終着駅の見えない路線図のようなものだ。乗り続けても、どこへ辿り着くかは不明瞭で、しかも途中下車は許されない。

私は違う。私は降りる。あるいは、そもそも乗らない。

私は、半隠遁者である。
だから、キャリア形成という観念もまた、静かに問い直されねばならない。

私は労働者だ。工場に勤務している。
コンベアが動き続け、機械の音が空気を埋める。誰の顔も見えない、誰の名前も思い出せない。私はそこで、名もなきひとりの「手」として働いている。

そこに希望はあるのか?いや、希望は最初から期待していない。

私がこの労働に求めるものは、金銭であり、一定の信用であり、なにより「自分の時間」である。
社会的地位などいらない。誰も私のことを覚えていなくていい。
私は静かに、生き延びる手段を確保する。

職業を通じて得たいもの、それは選ばねばならない。
そのリストは意外と多い。金。信用。経験。スキル。人間関係。
だが、すべてを得ようとすれば、時間はすり減り、心は摩耗する。

私は、選ぶ。私は、捨てる。私は、削る。

出世は望まない。昇進試験の勉強も、マネジメント研修も、無縁だ。
私は平社員でいい。有能な平社員で。
必要な報告書は提出する。決められた工程は守る。給料分の働きはする。
だが、それ以上は求めない。

“煙たがられる存在”であることは、私にとって褒め言葉だ。
組織の歯車としては回るが、グリスにはならない。
犠牲にならずに貢献する。これは高等技術である。

労働は嫌いではない。
私が嫌うのは、労働を自己犠牲の美徳とする空気だ。
“滅私奉公”という言葉に、私は底知れぬ寒気を覚える。

労働後の私の時間。それが本当の「私」の時間だ。
部屋に戻り、誰にも邪魔されず、好きな本を開く。文庫の背表紙を指でなぞり、冷めかけたコーヒーを啜る。
その時間のために、私は今日もコンベアの前に立つ。

私は副業もしている。創作的なものだ。
詩文を書き、雑誌に投稿し、まれに読まれる。これは金銭目的ではない。
これは、私にとっての“抵抗”である。
誰にも期待されていない、誰の役にも立たない創作を、私はあえてやる。

工場でスキルは身につかない。昇進もない。だが、それを補うのは私の知性だ。
いや、“知性ごっこ”でもいい。私は空想し、構築し、壊し、また空想する。
この無意味の繰り返しこそ、私の“意味”である。

仕事は手を抜かない。
それは、私が誠実だからではない。そうしないと“見えない監視者”の怒りに触れる気がするからだ。
その監視者の名前は……わからない。たぶん、カフカの登場人物が言うだろう。「上の者だ」と。

“上”とは何か?私は知らない。知りたくもない。

私の生活は、収入、生活費、趣味費、貯蓄費。必要なものをきっちり計上する。
私はぜいたくをしない。だが、貧乏でもない。計画的な貧乏は、貴族である。

働いて、稼いで、引く。そして、沈黙する。
これは私のキャリアだ。履歴書には書けない人生設計だ。
だが、これでよい。これこそ、私が“選んだ”人生だ。

出世という幻影を追わず、犠牲を拒絶し、静かに役割を果たし、静かに姿を消す。
これは一種の戦術であり、また芸術でもある。

半隠遁者のキャリア。それは、沈黙の中で立ち上がるもう一つの“生”の選択である。

副業という名の地下遊戯──創造こそ隠者の贅沢

本業では、安定的な収入を得る。
もちろん、やりがいもあればいい。楽しさ、愉快な人間関係。
本業でも多くを望めるかもしれない。社会的地位、信用、職業的スキル、人間関係。奮起すれば、全て叶うかもしれない。

しかし、私はそこそこを求める。

まずは、最低限である安定収入を得る。
それを達成して、他が手に入れば尚良し。
できなければ、まあそれまでと諦める。
潔さも、時には人生に必要である。
欲深ければ、災いも多い。
(これは古代ギリシア人も大好きな格言だ)

もちろん、自らが望んでいるのに、それを偽る場合は別だ。
職業における自分のを自覚すること。
欲は恥ずべきものではない。ただし、自覚されない欲は、人生を壊す。

多くを望む人生もいいが、手に入らないときには心が疲れる。
無論、「多くを望まないから、多くを手に入れられない」という批判もあるだろう。
だが、ここはもう主観である。
主観に従って行こう。
(「汝自身を知れ」――ここでデルポイの神託が再登場する)

では、半隠遁者の副業では何を求めるか。

私は「創造性」をテーマにしている。
何か自分で作品を生み出す。
コンテンツの種類はなんでもいい。
自分の内側から生じたものを、外界に投影してみたいのだ。

形はその都度考える。
芸術系を好む。音楽、美術、文学。
クリエイターというのか。あまり名乗るのは気恥ずかしい。

小さい頃、ミュージシャンや画家に憧れていた。
しかし、憧れのまま終わってしまった。
いや、まだ終わっていないかもしれない。

最近は、空いた時間で作品を生み出している。
さらにAIの力を借りれば、非常に効率的だ。
自分の手で為すのも面白い。
最新のAIに触れるのも一興。
技術を使い倒す、これもまた半隠遁者の知的遊戯。

とにかく、面白おかしいものに手を出す。
手を動かし、試作する。
理論を学び、応用する。
試行錯誤の毎日。
毎日、少しばかりの活動。
これらが活力を生み出す。
充実した時間を提供してくれる。

本業で苦痛が生じたときも救ってくれる。
次の本業の意欲を掻き立ててくれる。

もちろん副収入があれば、嬉しい。
それよりも創造的活動の利益が大きすぎる。
精神的な浄化が、最大の利点だ。
お金を稼ぐことができれば満点だろう。

これからも副業の探検は続く。
他の分野に手を伸ばすこともできる。
副業の良いところは、簡単に投げ出せるところだ。
次の副業への壁が低い。
時間も費用も、ほどほどで済む。
自分の工夫次第でどうにでもなる。

この創意工夫が、本業にも活きる。
相乗効果を生み出す。
自分の人生を、じわじわと面白がらせてくれる。

副業という地下活動。
それは、社会という舞台の裏側で、小さく輝く“私だけの劇場”かもしれない。
誰が観ていようが、いまいが関係ない。
私はここで、小さな創造主になる。
拍手も報酬もない。それでも、この幕は毎晩、私ひとりのために上がる。

生涯労働と時間の政治──隠遁者はいつまで働くのか

半隠遁とは、自分の時間を確保することにほかならない。
つまり、労働時間をできるだけ短縮するという一点に収斂する。
すると、こう見られる。
「半隠遁者は、労働を毛嫌いしているのではないか?」と。

しかし、そう単純ではない。
確かに私は、労働時間の縮小に努めている。
だが案外、私は労働そのものを苦痛と思っていない。
労働環境、待遇、人間関係。
どれも特別に良いとは言えないが、嫌悪はない。

労働から得られるものも、決して少なくはない。
安定した生活は、定額の収入に支えられている。
その規則的な現金の流入は、精神を穏やかにする。
余裕を生み、空想を支える。
つまり、幻想を支える最低限の現実というわけだ。

では、この労働を私はいつまで続けるのか。
長年働くのも、悪くない。
ときに私はこう思う。
生涯労働も、よさそうだと。

だが問題は、私が従事する工場労働が、時代の変化に耐えられるかどうかだ。
技術革新、産業構造の変化、社会そのものの摩耗。
職業が“消えていく”未来など、いくらでもありうる。

職を選ばなければ、何かしらの労働はできると考えている。
とはいえ、老年の肉体労働となると、やはり難しい。
適度な重労働なら、大丈夫かもしれない。
いや、頭脳労働なら、もう少し持つか。
体が許すまでは肉体労働、それ以降は、細く小銭を稼ぐ頭脳労働へ。
まるで体が崩れていく順に職種を乗り換えていくようだ。
それでも働く。半隠遁者なりの納税。

私は今、31歳。
あと50年、生きるとして、80歳まで。
そのあいだに、社会はどう変わるのだろうか。
この労働という制度は、今の形で残っているだろうか。
AIがどこまで発展し、
そしてAIの“次”が登場するのかどうか。
既に労働は、観念的な亡霊になりつつある。

ちまちまと稼ぎ、日々の趣味生活を送る。
それは理想ではあるが、果たしてどこまで実現可能か。
早死にしてしまえば、それまでだ。
今のところは、生涯労働の方針でいく。
社会の変化に応じて、計画の修正は常にしておきたい。
長生きできるといいがね。
冗談のように言いながら、それが生存戦略となる。

独身生活には、自活の力が求められる。
仮に、死ぬまで独身であるとしよう。
そうなれば、生活のすべてを自分で賄う必要がある。
もちろん、途中でパートナーができる可能性もある。
だが、そのときになってみなければわからない。

基本的には、孤独な生活を基礎に置く。

他者の支援を前提にせず、自らの労働で、生を維持する。
自分の価値観に沿った生活、
自分の哲学に即した労働。
それが半隠遁者のキャリア形成なのだ。

あまりにも地味で、派手さも成長性もないかもしれない。
けれど、これが**“私の自由”を守るための最低ライン**なのである。

転職と現代──隠遁者は「変化」をどう捉えるか

半隠遁者として、転職をどう考えるか。
今日、年功序列や定年雇用の制度が、音もなく揺らぎつつあるという。
かつては一本の線を淡々と歩き切る人生こそが「誠実」とされた。
だが今は違う。むしろ、分岐点をいくつも渡ってこそ「柔軟」とされる。

転職を経て、経歴を昇華させる。
スキルを身につけ、常に学び続ける。
情報収集を怠らず、自己成長を目指す。
この営みは、どこかRPGに似ている。
経験値を上げ、レベルアップする。
人生という名のゲームにおいて、より良い武器を手にするための“クエスト”である。

その方法の一つとして、転職という選択がある。
スキルや年収の向上が見込める。
人間関係の改善にもつながる。
うまくいけば、人生が大きく展開するだろう。
運が良ければ、だが。

では、半隠遁者はどうするか。
転職するつもりは、ない。
もちろん、今のところ、ではあるが。

面白そうだとは思う。
新しい仕事、新しい人間関係、新しい景色。
だが、今の環境に安住しようと思う。
そこそこの年収、そこそこの人間関係、多めの残業。
総合的に見れば、悪くない。

それに、自分の趣味時間も作れている。
休日出勤も多いが、特に心身に圧迫感はない。
淡々とこなしている感じだ。
それは、会社の歯車に“なっている”のではなく、“歯車としての律動”を、ある種の舞踏のように受け入れているという意味である。

今の会社が今後どうなるか分からない。
しかし、現状は転職しないつもりでいる。
とはいえ、いずれその時は来るかもしれない。
避けられぬ風が吹くこともある。

環境を変えることで、人生が変わることもあるそうだ。
冒険心の強い半隠遁者は試されると良いだろう。
ただし、地図のない世界に出ることは、それなりにリスクがある。
背中に担ぐべきは“希望”ではなく、“準備”である。

今後、仕事の概念自体が変化しそうな雰囲気はある。
会社も変化する。
働き方も、あのコロナ騒動を境に、劇的に改革された。
個人で仕事をする人も多い。
技術革新で消える仕事もあれば、新しい仕事も生まれてくる。

それならば、できることは何か。
好奇心を持ち続け、変化に対応していくこと。
そして、変化そのものを面白がれる心の余裕を持ち合わせておくこと。

すべての予想は、滑稽に裏切られる可能性を孕んでいる。
だからこそ、転職もまた「余技」の一つとして携えておけばいい。
人生に起きるどんな展開も、**面白がれる自分であれば、それが一番の“職能”**かもしれないのだから。

仕事も、趣味も、
そしてこの不確かな世界そのものも、
私は面白がって行こうと思う。

閑話休題──働くこと、そして“働かない時間”へ

これまで、労働について随分と考えた。
金銭、キャリア、組織、転職、そして生涯にわたる働き方。
半隠遁者であっても、労働を忌避しているわけではない。
むしろ、淡々と受け入れている。ただし、決して呑まれないように注意深く。

働くとは、生きることにほかならない。
だが、生きるとは、働くだけではない。
この当たり前のようで見失いやすい真理を、私は何度も何度も反芻した。

確かに労働は、私の生活を支える。
その果実で私は飯を食い、部屋を借り、ノートと万年筆を買い、AIに向かって好き勝手な独白を綴っている。
だが、私を生かしているのは、労働の外側にある時間だ。

自室に戻り、カーテンを引き、電灯の下で手帳を開く。
休日の午後に、静かにコーヒーを淹れる。
耳を澄ませば、時計の音が聞こえる。
その音を聞きながら、「私は何をしたいのか」と考える時間こそが、私にとっての“生”なのだ。

労働は、いわば燃料。
そして、燃やすに値する「何か」を、私は趣味と呼んでいる。
「趣味」という言葉が軽く聞こえるならば、こう言い換えてもいいだろう。

——個人的世界への投資。

この時間を持てるかどうかで、人生の密度は決まる。

労働を否定しない。だが、それだけでは私は干からびる。
ゆえに私は、自分の時間、自分の遊び、自分の創造、自分の営みに没頭する必要がある。

半隠遁とは、“逃避”ではない。“帰還”である。
外の世界から切り離された後、ようやく戻ってくる、自分という宇宙への回帰である。

そうして、私は趣味という名の小宇宙に潜る。
ひととき、貨幣も評価も時間割も忘れて。
そこには、他人の目が届かない世界がある。
心の奥底で密やかに笑う、私だけの楽しみがある。

次章では、その趣味という秘密の園について、静かに語ってみたいと思う。
おそらくそれは、読む者によっては退屈かもしれないし、読む者によっては深い共感を呼ぶかもしれない。

しかし、それがどうであれ、私にとっては、この生を少しばかり愛おしくさせてくれるものであることに変わりはないのだ。

半隠遁者の趣味

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