9月の中旬。工場労働者に連休がやってきた。普段は単休なのだ。祝日が重なったとき、私に旅行の機会が与えられる。まさに恩寵だ。天よりの紀行。じっくりと味わわせてもらおう。
勇気が、常に勇気が、さらに勇気が必要なのだ
今回も、もちろん独り旅になる。反対に集団で旅行に行ったのはいつになるだろうか。もう思い出せない。いや、思い出す必要もない。そうだろう?諸君。孤独厨は一種の快楽かもしれない。うむ、快楽に違いない。この快感が、これこそが私の生命力を持続させる。
姫路・神戸は日帰り旅行に決めた。早朝に出発し、日付が変わる前に帰宅する。宿泊代も節約することができる。食事も簡素なものになるだろう。貴様は何のために旅行しているのだ?もう一人の私の悪口が轟く。うむ、なかなかに痛いところを突いてくる。確かに、何のために旅行しているのだろう。豪華なホテルでもない。煌びやかな飲食でもない。徒刑囚のような旅行だ!まさに徒刑囚だ!島流しになった罪人といったところだ!強いて言えるのは、観光地の見物であろうか。私はここに行った、このようなものを見たという【経験】を得るためなのだろう。人生の思い出を作るために。「死んでしまえば思い出も何もないだろうに」と水を差されてしまった。時々、人生のあるものを諦めるのことも悪くない。と、信じたいものだ。
どちらにせよこの連休は私のものだ。誰にも奪うことはできない。当日は朝の4時に起床。すでにここから戦いは始まっている。一瞬も気を休めることはできない。移動手段は車。都会に車を持っていくのは、少々不便なところがある。人口が増えれば、その分、交通の量も変化する。一方で、行き先を自由に変更できる点は旨味がある。今回は旨味を取る。さあ、徒刑囚の旅の始まりである。
車で1時間ほどで淡路サービスエリアに到着。もう神戸は目と鼻の先だ。晴天と雲が混じり合っている。旅には、幸も不幸もあるという暗示か。だが、この孤独厨にはエナジーを与える一方になるぞ。連休ということもあり、家族やカップル、団体も多い。都会に近づくにつれ、人が増えていく。これは旅の実感を与えてくれる。私のように地方暮らしだと、この感覚が新鮮になる。都会に住んでいると、これが逆転するのだろうか。体をほぐし、トイレを済ませる。申し訳程度の写真をおさめ、サービスエリアを後にする。何度も訪れている場所のため、特に感嘆はない。しかし、見晴らしは非常に良い。心も穏やかになってくる。気持ち良いな。徒刑囚は安堵した。前日に買い込んだ食料を少し補給する。ハニーコーヒーを味わう。最近はこの味にご執心だ。一服後、早速、姫路に向かうとする。
【難攻不落の姫路城が私を呼んでいる】
姫路までは合計で二時間ほどの行程であった。今回の目当ては、世界遺産の【姫路城】。数年前から、訪問したいと考えていたが、実現させずにズルズルとここまで来てしまった。だが、ついに夢をかなえることができたのだ。
【白鷺城】と言われるだけあって、その白さが際立つ。今日は青空にも恵まれたため、その白さが映えている。遠巻きからだと分かりにくいが、敷地内は広大で、近づくほどに城の雄大さを感じる。これだから城巡りは辞められないのだ。私の中に残っている武士の血が騒ぐ(?)早くその全貌を肌で感じたい。衝動が体を駆け巡る。おお、何という迫力だろうか。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A7%AB%E8%B7%AF%E5%9F%8E
(Wikipedia 姫路城)
世界遺産+連休ということもあり、長蛇の列。しかし、背に腹は代えられない。じっくりと忍耐の時を味わおうではないか。この間に、姫路城、姫路市についての情報収集も可能だ。30分は待ったであろう。会計を済ませ、いざ場内へと進軍する。やはり、海外勢にも人気の観光地らしい。外国人が目立つ。これも都会に来たという実感を与えてくれる。特に欧米と思われる人々が多い。まだ残暑の中、皆さまお疲れ様である。そういえば、現在は円安が進行しているため、日本に攻め込むのも容易になっているということか。羨まし限りだ。日本はこれからどんどん安くなるのだろうか。社会人になってからは、円安続きのため、円高を経験していない。海外旅行が高くつく。まあ、経験と考えれば、これだけのお金で海外に行けること自体、凄いことなのだろうが。昔の王侯貴族並みの生活を送れていると自負している。現代の間隔では、庶民だろうが、昔は食べることすら難しい時代でもあった。どんどん欲しいものが増えていく。欲望に限りがないとはよく言ったものだ。
場内でも大渋滞が起こっている。なかなか観覧の列が進まない。人員整理を行いながらの見学になる。かなり窮屈な見物だが、これも人気ゆえの状況だ。グダグダと文句を言うことはできない。場内は風が吹き抜け、非常に心地の良い空間となっていた。見晴らしも良い。非日常を味わうにはうってつけの場所になっている。この景色は、パリの凱旋門からの風景に似ている。パリ程、放射状ではないが、一目見た時にパリを思い出した。またヨーロッパに行きたいものだ。しかし、時間も金も今は無い。焦ることはない。じっくりと時間をかけていく。欧州についての知識を蓄え、その後でたっぷりと旅行を楽しむというのも悪くないのではないか。姫路城に関するものがかなりの脱線をしてしまった。姫路城の観覧だけで3時間ほど使ってしまった。すでに正午を過ぎている。切り上げて昼食の時間にしよう。
【俺たちのびっくりドンキーへ】
姫路の産物を食していきたいところだったが、事前に調べ物をしていなかった。加えて、旅先での食事にあまり関心を払わないらしい。これは私の悪い癖だ。その地域の食を堪能することで、文化理解にもつながる。食は人類が絶えることなく続けてきた代物。そこには人類の軌跡を理解する手掛かりが潜んでいるはずなのだ。だが、ここは俺たちのびっくりドンキーで済ませる。許せ、姫路。また今度だ。姫路ィ!カチューシャの音色が聞こえてきそうだ。ノーマルのハンバーグを平らげ、いよいよ神戸の攻略へと乗り出そう!
【悠久の港町:神戸へ】
いよいよ旅の本番が、真打の登場である。この港町を陥落させることこそ旅の本懐。姫路より高速道路を用いて向かう。しかし、連休の余波が私を襲う。【渋滞】。これは日本の交通事情の悩ましい所だ。連休ともなると多くの日本国民が旅行に出かける。車社会の今日、もはや渋滞は避けられない。日本人の人工的人口減少を行うか?そんなことはできない。神戸に近づくにつれ、車の数が増え、私の車は減速する。都会の闇ともいうべきだろうか。果して平日の都会高速道路は混みあっているのだろうか。魅力もあれば憂鬱もある。なんとも面白おかしい都会である。だからこそ私を含めた人々は都会に惹かれるのかもしれない。
一時間ほどで神戸に到着した。神戸ハーバーランド、神戸ポートタウン周辺を散策することにした。港町でありながら、近くには山岳もあり、海と山が混然一体となった町だ。高速を降りてから、駐車場までにかなりの労力があった。交通量が多く、田舎の道しか経験していない私にとっては苦難の道のりであった。なんとか駐車場を確保し、散策を開始する。さすがにかの有名な神戸。人々の往来が激しい。観光客も多く存在するだろう。そんな中、独りの工場労働者が神戸を徘徊する。何をするか。ひたすら歩き続けることだ。雑踏をかいくぐり、私は進んでいく。まさに軍隊が荒野を行進するように。何物も私を止めることはできない。さすがは大都会:神戸といったところか。人も店もふんだんにある。この勢いがすさまじい。田舎者の私は圧倒されている。コンクリートの巣窟に人類が蠢いている。森の中に暮らす田舎もいい、そして、時折、都会に遊びに行くのが最強の暮らしではないだろうか。生活のコストを下げ、人生の思い出にお金をかけていく。まさに、これが、ダントンよ!1時間程の行進を終えた。小休憩のため、抹茶館という店に突入する。文字通り抹茶のアイスを頂くことにする。高ぶった体を癒すにはもってこいの代物である。戦士にも時には休息が必要になってくる。これは森羅万象のことなのだ。美味、まさに美味である。抹茶は私の好物の一つでもある。この甘さと渋みが人生の酸いも甘いもを思い出させてくれる。そんな教訓めいた食べ物なのだ。甘い思いばかりではないこの世界を、いかに私は生きていくのだろうか。明日にもこの灯は消えてしまうかもしれないが、とにもかくにも人生を進めるしかない。その過程で、様々な答えも見えてくるだろう。
時間も夕暮れを迎え、町も夕日に照らされてきた。しかし、私の行進はまだまだ続いていく。この程度では私を満足させることはできない。数時間の散歩も苦にはならない。行きかう人々も夜になるにつれて、気分も高揚するのだろうか。これから夜の街に出かけていく多くの人々。酒を飲もうよ!ウマルハイヤームのように!夕食は持参したカシューナッツをポリポリとやることにする。旅行まで来て質素な食事に度肝を抜かれるかもしれない。地元の食事を体内に入れることで、その土地の文化を理解することもできる。しかし、今回はどうも気分が乗らない。これはもうどうしようもないことだ。遅くに来た夏バテなのかもしれない。神戸牛など魅力も沢山だ。しかし、残念だ。行進を続けることにしよう。
近くにあったモール街に入ってみる。なんとも若年層が多い。活気にあふれている。実にいいことだ。この活気から私の生命力も生まれてくるものだ。ありがとう若者たち。このモール街は、飲食、雑貨、ファッションなど、とにかく種類が多い。キラキラしたものが多すぎる。これは財布の紐も緩みそうだ。しかし、私のような工場労働者には支出の宛先はない。眺めるだけである。ファッショの店【ZARA】に侵入する。服の店は私の専門外になるのだが、衣食住というように、服は人間にとって大事なものだ。犯罪者にならないためにも必須のアイテムになる。ZARAの評価は存じ上げていないが、割といい値段の服もあった。しかし、万単位はいかないため、若者にも手を出しやすいのかもしれない。私にも優しい値段設定になっていた。だが、今回は服を買うための訪問ではないため早々に店を後にする。モール街の中をスタスタと歩いていく。人々が行きかう。私も歩いていく。しかし、そこには何の交流もない。ただ、無関心があるだけだった。これが一人旅の醍醐味なのだ。誰とも交流することもなく、ひたすらに己の目的地に向かって突進する。これこそが!私はこれからも旅を続けるだろう。この安寧のために。夏も終わり、秋が来る。そして、待ちわびた冬。身の凍るような冬の到来だ。待ち望んでいるぞ。
公園の近くにあった観覧車に乗車してみる。神戸の街を見渡すことができる。これを一人で乗る時の心境やいかに。さらに夕焼けが私の心を感傷的にする。寂しさがこみ上げてくる。しかし、この気持ちは私にとっての快楽なのだ。孤独が私をさらに強くする。思索の海に沈んでいく。この孤独の境地こそ、私が求めていたもの。ゆったりと上昇していく観覧車のように、私の人生も上向きにならないだろうか。棚から牡丹餅は降ってこないだろうか。否。降ってくるのは孤独のみ。その孤独をしっかりと平らげてやれ。腹一杯になるのだ。その先に見えてくる景色、誰とも共有することのない情景、記憶に焼き付けるのだ。忘れないように。思い出の一ページとして。人生の幕が下りるとき、ふいに思い出すがよい。君が孤独の海に遊んでいたことを。快楽の沼にはまり込んでいたことを。少しばかりの後悔を。もう少し人々と交流していればという懺悔を。君はいかに鎮魂歌を奏でるのか。その音響はどのようなものになるのだろうか。今から非常に楽しみにしておこう。メフィストフェレスも待ち焦がれていることだろう。しかし、ボードレールのような詩も書けない、モーパッサンのような小説も。だが、私はこれからもしぶとく、ダラダラと生きていくだろう。それこそが私に与えられた義務のはずだから。
観覧車からの夕日が非常に美しい。じわじわと上昇する感覚。しかし、高所恐怖症の私にはなかなかの難関である。経験値を積めばある程度のことはなれるものだが、こればかりはなかなか慣れない。高層タワー、ビル、絶叫マシン。全てにおいて、私を恐怖に駆り立てる。なぜ私は高所に恐怖を抱くのだろうか。高さが恐怖に繋がる所以はいかなるものなのか。人は猿と似たような存在ではなかったか?現在もできるだけ高い建物を建造し、高い所に登ろうとするではないか!私はサルだ。今日も観覧車を見た途端に乗り込もうとするくらいだから。しかし、だれがこのサルを止められるだろうか。この猿人を。いずれは死神が止めに来るのだろうが、そんなことは今考えても仕方がない。自由に生きさせてもらうさ。誰かが言っていたが、人間は自由の刑に処されていると。自由に生きなければならないという罰。面白い視点だなと思う。労働、趣味、これでもう人生が満たされてくるのだ。最近では、ここに恋愛が入り込もうとしている。結婚、子育てがしたいというわけではない。自分の肉体、精神を満足させたいという欲求が湧き上がってくる。自分の欲望に素直になるということは大切だ。自己犠牲という言葉もあるが、そこに見返りを求めてはいけないという暗黙がある。それならば、可能な限り自分の自己中心主義を買う題するべきだと思う。少なくとも、自分はそう思っている。最も他者の承認など必要ないのだが。自分をどこまで貫くことができるか。生涯をかけての挑戦になってくるだろう。数々の難関が待ち受ける。誰も成し遂げられなかったことをしてみたいだろうか。創造的な発明、画期的な芸術。ふむ、悪くないだろう。誰しもが偉業を叶えたい。歴史に名を残したいと思うのだろうか。名も知られずに死を迎えた人々が無数にいる。無名の歴史。しかし、だからと言って、その人々が不幸であっただろうか。みなが幸福を望む?幸福に、おお、幸福こそが。まさに人生の全てであるかのように。上下の区別、無数の呪縛、怒れる人々、無関心の人々。なぜ不満が、怒りが生まれてくる。何に対しての感情なのか。感情の生き物:人間。理性は端から存在などしていなかった。全ては言葉遊びなのだろうか。そんな悲しいことがあっていいのか。私の感情が湧き上がる。何の感情かは分からない。ただ湧き水のように。
夕日が終わってしまう。神戸の夕日なるものを始めてみることができて幸福を感じている。感傷的な気分になる。そして、ここで【新米刑事モース】のテーマソングを聴く。なんとも、おお、なんとも言えぬ。感情が体の中を駆け巡る。とどまる所を知らない。まだ夏は終わらない。年月的には秋なのだが、今年は残暑が長い。長い夏になりそうな予感。そして、秋、冬へ。待ち焦がれていた、待望の冬が来る。あの寂莫の冬。今や今やと待ち受ける。四季の中で突出して好いている。木々が枯れ、曇天が空を覆う。身を切るかのような冷たい風、冷え切った体。まさに孤独者のための季節である。誰もいない家に帰り、電気をつける。誰も私に声をかけるものはいない。ヒトリノ部屋。ロンリーである。酒を飲む習慣もないため、酒に酔うこともできない。だが、最近は自室を改造し、孤独者のための独居房に改築してもいいのではないかと思う。一人用のソファと小机。小さな暖色ランプ。そして好みのジュースを傾けつつ、思索に耽り、思いついた諸々を書き連ねていく。これこそ至高ではないか?この旅行が終わった暁には、自室の構築に取り掛かるとしよう。自分の幸福はいとも簡単に作り出すことができる。ただ空想し続けることだ。時たま行動すればいい。追い立てられるような生活は少々、息苦しい。走らない日があるのも退屈だ。結局は中庸になってくるのだろうか。さすがは古代の哲学者だ。多くのことは昔の人々が考えてくれている。ひたすらに先人の知恵を、歴史に学ぶことで多くのことは解決するのだろう。非常に簡単な話だ。頭の中では。
暗闇が支配する時間が来た。暗黒が王となった。人々は闇を照らす光を掲げ、厳かな抵抗を始める。明るすぎるこの現代で、完全な暗闇を見つけることは難しい。暗闇の中で月を眺めた時、なぜ過去の人々が月を愛でたのかが理解できる。あの夜に燦燦と輝く月を見れば、心もたいそう踊ることだろう。月と酒、地域の産物、宴会、舟遊び。魅力的なものばかりだ。私も平安時代などに飛んで、和歌などを嗜みたい。しかし、あの時代の生存の難しさを知れば、和歌などと言っている時間はないだろう。とにかく生きなければならないのだから。食料を確保するだけで精一杯の時代。現代の私は、昔の王侯貴族を凌ぐ生活を謳歌している。しかし、欲望とは根深いものでさらなる所有を求めてしまう。現代の闇といったところだろうか。悲しいがこれが現実だ。港には人々が声を上げて楽しんでいる。テラスで食事をするもの、海を眺めて恍惚とするもの。船に乗ってクルーズするもの、往来は絶え間なく続く。その中に、ひたすら歩き続け神戸の街を徘徊する者がいる。当てどもなくどこまでも。足の動く限りに歩き続ける。それが自分に与えられた使命であるかのように。夕食をどこかで取らなければならない。海辺にスターバックスがある。コーヒーとドーナツでもやろうかと思ったが、連休だけに異様に混雑している。これでは心も体も疲弊してしまう。近くの芝生に腰を下ろし、持参したカシューナッツをポリポリとやる。旅行に来てまで何という食事であろうか。しかし、神戸に来たからといって豪勢な食事をとる必要もないかもしれない。全ては己の意のまま、自己満足が支配する世界なのだから。波の音がかすかに聞こえてくる。人々の喧騒も。またこうして一日が過ぎていく。戻らない一日。ありがたいことにまだ生きることを許されている。誰に?命の灯は微かに燃えている。しぶとく消えることもなく。しかし、いつ消えるということは誰も教えてくれない。消えることが分かっているにもかかわらず。これはなかなかに心を蝕んでいく。何かをしなければ、何者かにならなければと。焦燥感が積もりに積もる。心だけが焦り、体が付いてこない。この旅行を終盤に差し掛かっている。いずれは終わりが来るもの。覚悟はしておかなければならない。
有終の美を飾るのは六甲山となった。夜景がきれいだという噂を耳にした。念のためにも調査をしておく必要がある。残暑が厳しいとはいえ、夜は少し涼しくなった。さらに標高の高さが加わるとかなり冷えてくる。半袖では少々苦しい所だ。六甲までの道をひたすらに上り続ける。ペンションや飲食店、山岳ならではのレジャースポットも目白押しだ。だが、今は時間がない。一刻も早く夜景とやらを見なければ。人々の営みの光。冷える山頂には多くの観光客が集っていた。皆、夜景を背景に写真を撮っている。私も参戦しよう。そして、心の中に記憶しておかなければ。おそらくもう来ることはないだろう。旅行とはそのような一抹の悲しさが供をする。一期一会というものだ。次から次へと際限なく。旅行も一種の欲望というものだ。満たされることはない。実際に地球に飽きた人々は宇宙へと乗り出していった。これからは銀河を渡る旅が続くのだろうか。地球、宇宙、銀河、次は?自ら別次元の宇宙を作り出すとでもいうのだろうか。人工的な宇宙。人々は地球の重力に耐えられなくなり、宇宙に行く。その拡大がどこまで続くのかは分からない。その前に私はこの世から消えているだろう。どこまで人類の発展を見ることができるのか、それとも人類の滅亡をこの目で見ることになるのだろうか。まだまだ好奇心が満たされることはない。これからも私は旅を続けるだろう。
【完】