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【歴史小説】天文官:白起 軍門から天文へ【最終章】完

【1】終焉の足音

咸陽の使者は朝の薄い光とともにやって来た。馬の腹が乾いた息を吐き、土の匂いが城門の前で渦になった。封を重ねた箱を抱えた特別監察官は、礼を尽くすそぶりだけをして、あとは手続きを淡々と進めるつもりでいた。

劉茂が詰所の広間で箱を受け取ると、周囲の者たちの動きが一瞬だけ硬くなった。広間は冬の冷気を含み、身を切るような寒さを帯びていた。誰もが詔勅の内容を恐れており、同時に内容を予想していた。

文箱の紐を解くのは劉茂の仕事であり、解いたあとの読み上げは韓慎の役割だった。韓慎は書を広げ、文字を追う。声は平らに整い、感情の起伏を残さない。

「咸陽より。上邽天文官・白起に対し、以下の通達を下す。臨洮から幾許もなく、越権行為二度にわたる。軍門時代においても王命に服さず、軍務を放棄。今回で宮廷への反抗は三度となる。いかに寛容な王であろうとも看過は出来ず。宮廷への叛逆を理由とし、官位・職・封地を全て剥奪。巴蜀への流罪とする。以上。」

言葉は短く切れ、広間の空気に落ちた。誰かが息を詰め、誰かが軽く咳をする。書吏は筆を止めたまま下を向く。

劉茂は読み終わるまで黙しており、読み終えるとすぐに白起を見るために目線を上げた。

白起は、その場にいたが、目を伏せずにいた。額の皺は深く、声を出さないだけで、彼の身体に動揺は見えなかった。

「咸陽からの命、それに従えということか。」

劉茂の問いに、韓慎は詔を閉じ、紐をきつく締め直す。細い指先がほんの一瞬だけ震えたように見えたが、声は変わらない。

「通達の通りに従うほかありません。それが官の役目かと。即日、該当の手続を執ります。」

周囲の空気が、冷たく広がる。誰も声を上げられない。官吏は法を盾にするが、法もまた上から降る刃であることを皆が知っていた。

劉茂は文箱を元の位置に戻し、短く息をついた。

白起は立ち上がり、ゆっくりと部屋の中央に歩み出た。劉茂が厳しい表情で頷く。白起は頭を上げたままで、言葉は少しだけ、しかしはっきりと言った。

「王様の裁きは受け入れます。私も官吏の端くれ、法に従う所存です。」

その言葉は慰めでも弁解でもない。流布されることの少ない事実をひとつ、静かに置いたに過ぎなかった。

集まった官吏のうちの一人が肩を震わせる。誰も声を上げない。上げられなかった。臨洮で見た人々の顔が、白起の胸に一つ一つ浮かんでは消えた。

干し草の山の上で子を抱いた母の顔、堤に並んで苫を運んだ老人の皺、粥を薄めながらも列を崩さない若者たちの背。

彼らの声を、守りきれなかったことを後悔していた。白起は自分に問わなかった。問えば言い訳が出る。それは今、誰にも必要ではない。

劉茂が小さく言った。

「白起、公式手続に従い、まずは官符を返上してもらう。」

白起は書き付けられた官符を一枚一枚、手に取り、堅い感触を確かめる。指は汚れていても字は判読できる。

言葉は命令であり、慈しみであり、最後の整理のための手順だった。ただ、できることを選んだに過ぎない。

劉茂は書記を呼び、白起が自ら署名し、印を押す。その手順は淡々と進み、書記の筆の音だけが広間に残る。

外では民のが集まり、ただならぬ空気に動揺していた。後日、町の中央の広場に高札が置かれ詳細を知ることになる。民の呟きはすぐに別の声に掬われ、広間の壁を越えることはなかった。

門の閂が外される音がして、白起が戻った。夕刻はとうに過ぎ、庭は硬い冷気で満ちている。土間に雪はないが、夜の霜の気配が板の上に立った。凛が灯を持って出迎え、深く頭を下げた。言葉は少ない。

「お帰りなさいませ。」

白起は頷き、衣服の埃を払ってから上がった。広間はいつもより片付いている。卓は拭かれ、筆と硯が端に揃えられ、空の器が三つ伏せてある。

火壇の灰は薄く、炭は新しい。凛が湯を注ぎ、杜が土瓶を卓に置いた。蒋は座の端に膝をつき、背を伸ばしている。

白起は腰を下ろし、外を一度だけ見た。風はない。遠くで犬が吠える。

「今朝、咸陽の詔勅が届いた。」

それだけ言って、文箱を卓に置いた。朱の印が三つ。紐を解く動きに緩急はない。凛と杜と蒋は、言葉を挟まずに見守った。

「官位、職、封地、剥奪。流罪、巴蜀。」

凛が細い息を吐いた。杜は拳を膝の上で握り締めた。蒋は瞬きをし、目の焦点を外した。

「いつ、ですか。」

凛の問いは短く、声音が震えている。

「早ければ十日。遅れても月内にはここを去ることになるだろう。」

杜が低く言う。

「理が通らぬ理など、ありますまいに。このような仕打ちで何を成そうと言うのです。白様のこれまでの功績、恥ずべきところなど何もありません。」

白起は首を横に振った。

「政からは逃れられぬ。杜よ、どうやらこの辺りが潮時のようだ。私は最善とは言えずとも、善処したつもりだ。」

「白様、この度の反乱では北門で獅子奮迅の活躍でした。何をもっての処罰なのですか。」

蒋が堪えきれない様子で問う。

「臨洮と同じ。越権行為。天文官という文官が軍門に介入した結果だ。どうやら咸陽は私をどこまでも追い詰めるようだ。」

三人が悔しそうに俯く。白起は何かを言おうとしたが止めた。どのような言葉もこの三人の鬱屈を晴らせそうに無かったからである。

凛が卓の端に並べていた器を返し、菜を三つ置いた。塩の薄い菜と、干し肉と、粥。湯気がもうもうと出ている。

「最近は冷えてきておりますので、熱めに仕上げました。干し肉もご一緒にどうぞ。」

白起は箸を取り、粥を口に運ぶ。熱さが臓腑に染みてくる。ここ最近は、戦闘のため食事は後回しにしていた。

久しぶりに凛の食事にありつけた。白起は懐かしさを噛み締めながら粥を進める。

「おそらく、今回の流罪は家人の同行は許可されない。私と監視役の数人だけだろう。お前たちとは、ここで別れることになる。」

凛と杜が体を前に寄せる。蒋は動かない。

「つまり白家は取り潰しになると。」

蒋が落ち着いた様子で尋ねる。

「あくまで私個人の処罰だ。そなたたちに害はない。だが、巴蜀には共に行けぬ。今生の別れとなろう。」

沈黙が支配した。打開策はない。受け入れるしかないのだ。全員が分かっていた。

「そこで一計を案じる。蒋に白の姓を継がせる。」

三人が目を見開く。

「私でございますか。」

蒋が飛び上がらんばかりに問い返す。

「お前も20半ばだ。そろそろ一戸を構えなくてはなるまい。いい機会だ。白の姓を継ぎ、白蒋と名乗るがよい。」

「白様、荷が重すぎます。私のようなものに。」

「最初は重い。しかし、慣れを友とせよ。いずれは名と実が備わってくる。そして、妻を娶れ。子を作り、白家を繋いで欲しい。」

「白様…。」

蒋は驚きと緊張を織り交ぜた表情でいる。

「分かりました。白様に恥じぬ戸主となれるよう励みます。」

蒋が決意の眼差しを向ける。

「うむ、それでいい。そなたは聡い。万事うまくいく。案ずることはない。」

白起が太鼓判を押して励ます。

「杜と凛。汝らは蒋の養父母となってほしい。蒋はまだ若い。二人の経験と知恵が必要だ。」

「白様…。」

二人が涙ぐむ。

「このようなことを頼めるのは二人だけだ。頼まれてくれるか。」

「御意。」

二人が意を決し、白起に礼拝する。ここに新たな白家が誕生した。

「蒋。伯に預けてある資産は、其方に相続する。伯へは私から書を出す。読み書きは毎日欠かさないように。数は実物で確かめることを忘れないこと。」

蒋は即座に返事をしなかった。唇がわずかに動き、やがて小さな声になった。

「……わかりました。」

その声の揺れは、凛が布巾を握る仕草で覆い隠された。杜は何か言いかけたが、白起の視線に気づいて飲み込んだ。

白起は手短な文をしたためる。一通は家の名義変更、一通は伯あての委任状、言葉は簡潔で、余計な形容はない。印は家の古い印を使い、新しい印は翌日、彫りを頼む。

「これは明日、県府に出す。劉茂殿は理解が早い。手続は問題ない。」

書き終えると、白起は筆を置き、三人の顔を順に見た。凛はわずかに目の縁が赤い。杜は背筋を伸ばす。蒋は拳を握り、膝の上で固めている。

白起は文箱から小さな木箱を取り出した。蓋を開けると、記録の束が見えた。

「これは、お前が読むためのものだ。天の見方、風の数え方、圭表の影の取り方。難しいところは天文部に聞け。天文部の官吏には私から言っておく。」

蒋は両手で受け取り、胸に当てた。視線は落ち、また上がる。

「白様は……戻られることは。」

白起は答えた。

「おそらくないだろう。巴蜀は遠い。だが生きられる。」

白起は少しだけ間を置いた。

「戻る約束はしない。戻れるなら戻る。戻れねば、其方が白家を続ける。」

蒋はうなずいた。うなずいたあと、もう一度うなずいた。

凛が湯を注ぎ直し、白起の器に近づけた。

「もう少し、温かいものを。」

白起は一口飲んだ。喉を過ぎる感覚は薄いが、内側に温かさが残る。白起は器を置き、凛と杜に向き直った。

「二人は、父母となる。外の声に動かされてはいけない。家の中の順を守るように。蒋の前で弱い言葉は使わないこと。」

凛が目を伏せ、静かに言った。

「はい。」

杜も短く応じた。

「御意。」

白起は卓の脇に立てかけてあった古い家印を手に取り、布で拭いた。角に欠けがあり、線は浅い。使える。白起は印を布に包み直し、凛に渡した。

「これは凛が保管してくれ。」

凛は両手で受け取り、帯の内側にしまった。

しばらく沈黙が続いた。外は静かで、遠くの井戸から桶のこすれる音が微かに響いた。火壇の炭が小さくはぜる。

白起が口を開いた。

「最後に、名のこと。」

三人が姿勢を正した。白起は蒋を見つめ、はっきりと言った。

「白蒋。名は音ではない。働きでもある。名に合うように動け。合わぬときは、合うまで黙って学ぶこと。人の前で急ぐことのないように。」

蒋は大きくうなずいた。幼さの残る顔に、固い線が一本入った。

凛が、控えめに口を開いた。

「名を与えられるのは、嬉しくもあり、寂しくもあります。これは……別れの印でもありますから。」

白起は凛を見た。肯いた。

「別れは印で足りる。言葉は少なくていい。」

杜が、膝をついたまま深く頭を下げた。

「白様。家は守ります。理も忘れません。」

白起は杜の肩に手を置き、短く押した。それが頷きの代わりになった。

その後は、短い食となった。粥はさらに冷め、肉は固くなっている。誰も味について言わなかった。白起は半ばまで食べ、箸を置いた。凛と杜と蒋も、同じ頃合いで器を引いた。器は拭かれ、重ねられた。

白起は立ち上がり、梁の陰にかけてある衣に手を伸ばした。重さを肩で確かめ、紐を結ぶ。凛が近づき、襟を整えた。指は震えていない。

「寒い折です。風の強い夜は、早めにお帰りください。」

白起はうなずいた。戸の方へ歩む。敷居の手前で立ち止まり、振り返る。

「少し外を歩いてくる。」

いつもの言葉だった。三人は深く頭を下げた。白起は戸を開け、外へ出た。夜は静かで、空気は硬い。空は澄み、星は細かく散っている。庭の石に白い薄氷が出ていた。

白起は一度だけ空を見上げ、目を閉じた。何も言わず、歩き出した。

広間には、整えられた卓と、三人の呼吸だけが残った。翌朝の手順は決めた。あとは、決めた通りに動くことだ。

翌日の夕刻、庭の土を踏む音が三つ響いた。

凛が戸口を見に行くと、外から程慶・李温・燕和の三人が立っていた。皆、同時に頭を下げた。

「白起様にお目通りを。」

凛が静かに頷き、三人を広間に通した。火壇にはまだ昼の炭が残っており、湯の入った壺が静かに音を立てていた。白起は座にいたまま顔を上げ、三人を見る。

「噂を聞いたのだろう。」

声は低く、穏やかだった。三人が頷く。

程慶が最初に口を開いた。

「白起様……我々は聞きました。処遇のことを。まことに……」

言葉が途切れ、李温が代わって言う。

「臨洮での功、そして今回の反乱鎮圧の功績は誰もが知っております。それを、どうして……」

白起は手を軽く上げ、遮った。

「言わずともよい。咸陽の理は、私の理ではなかった。それだけだ。」

沈黙が落ちた。火の音が一度はぜ、外の風が戸を叩いた。

燕和が、ためらいながら口を開いた。

「白起様。臨洮で白起様が作った天文記録、まだ残っております。あれをどうなさるおつもりですか。」

白起は視線を落とした。

「それは後任の臨洮天文官のものだ。理を記した記録は、持ち主の意で生きる。」

李温が前に出て、包みを差し出した。

「臨洮の最後の観測記録です。天文官がいなくなってからも、保管を続けていたようです。お納めください。」

白起は受け取り、しばらく掌で包んだ。

「星は、見る者が変わっても、道を変えぬ。お前たちが続けたなら、それで足りる。」

程慶は頭を下げ、声を震わせた。

「白起様がいなければ、私たちは何を基に観測すればいいのですか。」

白起は少し笑った。

「星と理を見ればいい。天は一人では動かぬ。だが、一人で見てもいい。今一度、自分たちの責務を思い出すことだ。何のために星を見ているのか。自分を失ってはいけない。」

凛が湯を注ぎ、四つの器を並べた。白起が手を伸ばすと、湯気が静かに揺れた。

「飲もう。寒い日だ。」

三人が器を取る。程慶の手が震えているのを、白起は見ていたが、何も言わなかった。

「白起様。咸陽は……」李温が言いかけてやめた。白起は器を置き、淡々と言った。

「咸陽は遠い。だが、理の果てはもっと遠い。」

燕和がうつむきながら言った。

「私たちは、白起様の教えを忘れません。宿度の記録も、漏刻の補正も。この先もずっと。」

白起は頷いた。

「覚えることより、書き続けることだ。書は人より長く残る。この時代の記録も後世に受け継がれる。」

程慶が、涙をこらえるように笑った。

「白起様らしいお言葉です。」

白起は微かに口角を上げた。

「それでいい。お前たちは、まだ昇る星を見られる。この町の天文は続く。消えるのは私だけだ。これからは程慶、汝が天文部を率いることになろう。」

「ありがたきお言葉です。」

程慶が深く辞儀をした。

李温が深く頭を下げ、声を絞るように言った。

「白起様の名を、我々は記録に残します。星と同じように。後世の者が知れるように。」

白起は手を軽く振った。

「名は要らぬ。名を残すと、理が濁る。星の記録に、人の名は混ぜることはない。私は軍門にも天文にもなりきれなかった者だ。忘れられるべき存在だ。」

三人は黙った。沈黙の中で、火の音がかすかに響いた。

凛が膳を運び、簡素な酒と乾いた魚を並べた。白起が盃を取り、三人の前に置いた。

「今宵だけは、記録を離れよ。理を語らず、酒を飲もう。」

程慶が盃を掲げた。

「白起様のご健勝を――いや、ご無事を。」

白起も盃を上げた。

「天に届かずとも、地を歩けばよい。」

四つの盃が静かに干された。音は小さく、すぐに夜の空気に溶けた。しばらくして三人が帰る頃、白起は門まで見送った。

空には雲が薄くかかり、星が少し滲んでいる。程慶が深く頭を下げ、李温と燕和もそれに倣った。

「白起様、いつの日か、また星を共に――」

白起は答えなかった。ただ、掌を軽く上げ、風の向きに目をやった。

三人が去ると、白起は一人、庭に立った。雲間に一つ、白い星が見えた。それが何宿の星か、考えようとしたが、すぐにやめた。いまはただ、光の方角を見ておくことだけでよい。

【2】上邽を去る

数日の猶予が与えられることになった。咸陽の使者はそれを形式的な手続とし、白起が旅立つ日を待つという態度をとった。

だがその猶予の裏で、劉茂が動いた。劉茂は白起に近い存在であり、白起の行動を知り尽くしていた男だ。

劉茂は静かに動いた。彼の表情は常に計算された冷たさを帯びているが、他の官吏が彼を見るとき、そこにわずかな安心を見出すことができた。

劉茂は小さく息を吐き、白起の側に来る。ふたりは言葉を交わさずに、ただ視線で合図をやり取りした。

「尋問の体を取り、数日を稼ぐ」——それが彼らの密かな合意だった。

咸陽の使者にとっては形式通りの処置に見えるだろう。だが白起を慮る者たちの間には、別の計画が生まれていた。

家の再編は既に公文に記され、杜と凛は役所での手続きび始める。蒋は官吏登用への訓練が始まる。白起はその準備を淡々と見守った。

広間では人々が集まり、言葉少なに頭を垂れる。誰もが自分の無力を知っている。法は声高に振るわれたが、法の重みはぎりぎりのところで人心を縛るだけで、心の中の怒りを消すことはできない。

民は壁の後ろで顔をひそめ、役人は書類の隅で筆を噛む。周季は白起に一度だけ、低い声で言った。

「白起、民の目はあなたを忘れない。咸陽の言葉は冷たいが、臨洮の中でのあなたの足跡は消えぬ。無論、この町での功績もだ。」

白起はそれを聞いて、わずかに笑った。周季は初めてこの男の笑顔を見た気がした。

白起は自分の行為が誰かの命を救った記録と引き換えに、自らの名を差し出すことを躊躇しなかった。

だが躊躇は一瞬もなかったわけではない。内側で、何度かの計算と確かめがあった。官吏の身分という安泰した地位が。

広間の空気は、冬の冷気がゆっくりと流れていた。咸陽の命はやがて、書記たちの筆に書き記され、印が押され、公式の記録に変わる。

だが白起の目に映るものは、行ではなく、堤の上の人影であり、小さな市場の列であり、粥所の鍋である。

彼はそれらを胸に収め、静かに礼をして、詰所の扉を出た。冬の風が襟を押し返し、門の外では民が小さく頭を下げる。

声はない。だがその静けさの中に、町の怒りと悲しみが密やかに燃えているのを、彼は確かに感じていた。

数日後、白起は投獄された。犯罪人の逃亡を防ぐための手段であった。上邽の官衙は不自然なほど静かだった。

白起命に従わず、暴行、投獄──その報告は既に「臨時の急報」として咸陽の使者へ届けられている。

使者の耳に到達する情報は、すべて劉茂が管理できる形に整えられていた。

劉茂は朝刻に官舎の帳館へ入ると、待ち受けていた書吏に告げた。

「全記録は閲覧制限。白起の件は臨時軍法審議と記し、詳細の記録は省け。理由は、緊急拘束と尋問継続のため、と書け。」

書吏は眉を上げる。

「調書が空白でよろしいのですか。」

「空白であることが、すでに説明になる。」

劉茂の返答は短かった。

書吏は迷ったが逆らえなかった。相手は臨時の兵権と軍紀執行の権限を持ち、かつ軍民の支持も厚い。書吏は筆を執り、白起の項目をこう書いた。

軍法処置中。取り扱い、上級裁断待ち。

これで十分だった。咸陽の役人は「書かれていない空白」にこそ恐れを抱く。それが官場の作法である。

昼刻、咸陽の使者が到着した。使者は三度目の訪問である。白起の処分終了を確認する任を帯びていた。

だが到着早々、思わぬ報告を受ける。

「白起、尋問中に暴行。監吏二名を負傷させ、牢内で再拘束。」

使者は眉を吊り上げた。

「まさか、あの白起が正気を失ったと?」

劉茂は重苦しい顔のまま答える。

「極めて激昂。己の処罰を受け入れぬどころか、天命がどうの、国家がどうのと譫言を。制止した監吏を殴打しました。」

「死刑にせよ、との密命もすでに通達されているはずだな?」

「その通りです。ただし……我ら自身の名で処刑執行するには、尋問記録の整備が必要です。暴挙の詳細をもう数日まとめねばなりません。」

使者は苛立ちつつも官場の論理に従い、うなずいた。

「よかろう。三日の猶予を与える。ただし結果は確実に記せ。」

これで三日間、咸陽の干渉は入らない。劉茂は背中で小さく息を吐いた。

牢に使者の一行が入れられた。白起は立っていた。

劉茂が言う。

「貴様の所業を言え。白起。」

白起は冷淡に目を上げる。

「私の所業は星の下にある。人の言葉では量れぬ。」

使者が呆れた顔をし、墨役の書吏が困惑した筆を止める。

劉茂はさっと白起の襟を掴み、壁へ押しつけた。刑の演出である。

「ふざけるな。お前は官を辱め、獄を乱し、裁定を冒涜した。それだけの罪で十分だ。」

白起は低く笑った。

「ならば書け。私は理を問うた。それだけだ。」

使者は白起の異様さに顔を歪める。

「狂ったな……。もはや裁くに値せぬ。処断の報告だけで十分だ。」

その瞬間、尋問は終わった。証拠も論も問われない。白起が狂ったことになれば、それだけで官場は納得する。すべて計画通りだった。

同時刻、伯は城外の兵站倉へ入っていた。帳簿を管理していた古い役人が伯を見る。

「お主、白起殿の?」

伯は懐から短冊を見せる。

「臨時配給の総替えを行います。印はこれです。」

役人は印影を確認し、渋々うなずく。伯は倉から荷を出す形式で動いた。

羌道へ抜ける裏街道用の馬二頭。七日分の乾糧。目印を外した軍用の外套。兵用の履物(特定の軍紋を削ったもの)

それらが軍用の物資損耗として記録される。誰も疑わぬ処理である。伯は荷を荷車に載せ、門番に告げた。

「水害復興で失われた兵站の補填だ。届け先は郊外集落。」

門番は疲労の顔で通した。城下はまだ混乱の後の処理に追われている。誰も荷車一台に注意を払う余裕などない。

伯が外套を被り直す。

「三日。三日で全部終わらせる。白起様。」

そう呟いた。

夜、牢は再び静かになる。見張りはすでに下げられていた。扉の鍵は開いている。だが脱出はまだしない。やるべき芝居が残っている。

劉茂は牢内へ入り、白起の前に座した。

「白起。三日の猶予を得た。」

白起はうなずく。

「感謝いたします。」

「処刑報告は私の名で出す。遺体確認は拒否。火葬の灰を証拠とする。使者は疑うであろうが、立ち会いは強制できない。」

「はい。」

「そして三日後、そなたは——死ぬ。」

白起は微かに笑った。

「私はもう二度死んでいます。一度は長平。二度目は臨洮。三度目の死は軽いです。」

劉茂は一瞬、言葉を失った。だがすぐに戻る。

「その後の生者の名は?」

「しばらくは無名でよいかと。星さえあれば十分です。」

劉茂は眉を寄せた。

「……おぬしはいつも先を見ている。しかし、今は目の前の道を辿ることだ。それだけで十分。」

白起は立ち上がった。

「ご配慮かたじけない。私はまだ歩けそうです。」

その夜、白起は牢の床には座らず、柱にもたれず、ただ立って夜を過ごした。

外では伯の荷車が闇の中を走り、劉茂の筆は「白起暴発、會審中」と書き、誰も知らぬところで一人の天文官が死に、一人の無名が生まれようとしていた。

宵の口、城の周囲に薄い霧が立ち始めるころ、劉茂は臨時の報告書を作成させていた。文面の要点は短かった。

白起の尋問中の暴発、監吏に対する殺傷、即刻の処断。使者は眉を寄せたが、書付は整っていた。

劉茂は冷静に裁断の体を取り、咸陽への返答を整えている。文は形式に忠実であったが、その裏には火が一つ置かれていた。

「遺体は火に投じられた」——劉茂の文面はそう締めくくられていた。使者は報告を読み、ため息をつき、やむなく受け取るだろう。

官場の判断は迅速である。検視の要求を出すことはできるが、時間と労力を要する。咸陽の都は今日も多忙であり、誰もこの地の小さな騒動に長く留まることは望まないはずである。

白起の処分は、すでに事実として刻まれている。だが刻は記録の上だけで、土の上では別の動きが進んでいた。

劉茂は朝早く伯と面会し、最後の働きを命じる。

「白起の遺体は仮火で処理した。使者には灰の一端を渡した。だが、聞く者が多ければ疑いは生ずる。今は事を急げ。荷を整え、路を覆え。三日が限度だ。」

伯は静かにうなずき、動いた。彼は先刻の荷車と同じ経路を辿り、目立たぬ小道へと荷を運び直す。荷の中には白起の着替え、外套、旅具のほか、小さな箱が一つあった。

箱の中には、伯に管理させるべき金と、哀願の如く小さな片が入っている。片には白起の短い筆跡があった。「家を守れ、理を忘れるな」とだけある。

白起はその夜、牢の中で家人を想った。見張りはわずかに離れたところに座らされ、視線は通っている。

白起は座り、凛、杜、蒋に別れを告げた。家人の顔は、夜の光の中でひそやかに見えた気がした。

その夜半、劉茂は牢の扉を静かに開け、白起を外に連れ出した。見張りは先ほどよりさらに疎らに見える兵を残し、他は詰所へ戻された。

白起は手錠も縄もなく、ただ外套を肩にかけられていた。劉茂は小声で言った。

「今夜は公的な処断を装い、翌朝に“火に投じた”と報告する。使者は朝に灰を見る。灰は見せた。だが、誰も深くは確かめない。都の物事は迅速である。灰を見れば、事は終わる。」

白起は黙ってうなずき、暗がりの中を進んだ。城外の空気は冷たく、夜の音は低かった。伯が馬上に居て、荷車の傍らに立っていた。

伯の目は真剣で、白起はそこで初めて伯の顔をまじまじと見た。伯は年若いが、行動にはためらいがない。これが頼みであり、白起は深く感謝した。

「先導を頼む。」白起は短く言った。

伯は頭を下げ、馬の手綱を取った。二人は静かに城の脇から出た。人の目を避けるように小道を選び、荷は別の方向へと流された。

城内では朝の行事が始まり、太鼓が小さく合図を揚げる。だが太鼓は、白起たちを指すものではない。夜の間に用意された偽りの風景は、朝の光に助けられてその形を保った。

白起は伯と共にずいぶん前に門を抜け、城外の湿った土の匂いを胸に入れていた。

道は狭く、先は不確かだった。伯は馬を低く走らせ、白起はその後ろでゆっくりと歩を合わせた。二人は言葉を交わさない。長い沈黙が続いた。やがて伯が口を開いた。

「白様、この道を進めば、郡の領を外れます。羌の取り分になる場所もあります。そこを経てさらに西へ。道は厳しいです。私が先導します。」

白起はわずかにうなずいた。

「命は複雑だ。だが歩くことは単純だ。歩けば次が来る。」

伯は視線を前に戻し、馬の先端を押した。二人は籠城の跡を後にし、遠ざかっていった。城の輪郭が薄れていく。

振り返ると、白起はふと自分の胸の中にある片を取り出して見た。そこには家の名前と、伯への短い指示が記されている。彼はそれをもう一度折り畳み、胸の内にしまった。

夜が深くなる頃、彼らは国境に至る一つ手前の谷間で馬を停めた。伯はそこで荷を降ろし、焚き火を小さく起こした。

火は低く、煙は上をすぐに切って流れる。白起は馬を脇に降り、肩を伸ばして一度だけ大きく息を吐いた。

「白様、ここまでくれば大丈夫です。私の手のものが官と通じていますので。」伯は言った。

「さすが杜の息子よ。誇らしく思うぞ。ここから先は我が手を離れる。お前は自分の道を行くが良い。お主がいなければ、私の命運は尽きていただろう。感謝する。」

白起は伯の顔を見た。伯は短くうなずき、深く辞儀をした。白起はその手を取り、固く握った。二人は力を合わせるように目を合わせ、それで言葉の代わりとした。

「白様、ご武運を。」伯は最後に言った。

「道は冷たくとも、星はあります。」

白起は微かに笑ったように見えたが、言葉は返さなかった。彼は馬にまたがり、伯と別れるとき、ふたたび振り返らなかった。

伯は荷をまとめて谷を下り、城へと戻るための足取りを整えた。白起は西へ向けて馬を進めた。夜風が衣を膨らませ、彼の姿は次第に遠ざかる。

国境を越えた先は法の網から外れる場所だった。そこには新しい名を許す余白がある。白起はその余白へと馬を進め、名を離し、ただ歩き出した。

城は後ろに小さく残り、家は戸口で凛と杜と蒋が朝を待っている。白起はその光景を胸に入れて、西へ向かった。星は変わらず輝いていた。彼はそれだけを確かめながら歩いた。

【3】西の彼方へ

冬へ向かう風は、はじめ孤独を煽るだけの冷気だった。国境を越えて数日を経る頃には、それはもはや白起の歩速を決める呼吸となっていた。

風の方向で道を補い、風の強さで野営の位置を選び、風の匂いで翌日の天候を読む。失ったのは官名と地位であり、星と風の理ではなかった。

白起はもはや名を持たなかった。官職なき者。戸籍なき人。朝廷が記録する存在から切り離された者。

道中、彼は自らを狛(ハク)と名乗った。姓でも、家でも、出自でもない。ただの一音。

人が誰かと問えば、答えるための音。しかし誰とも繋がらぬ音。

その名を口にしたとき、白起の胸の奥で何かが一度だけ静かに落ちた。重みも音もない。ただ落ちたと自分だけが知った。

西へ向かう街道には、秦の治世の外縁へ溶けていく者たちの痕跡があった。荷が折れた荷車、刻字の削れた木札、河原に放置された渡し靴、無人の食いさし皿。

手を差し伸べる者と、差し伸べる手を失った者、その両方が無音で道に溶けていた。

羌の領域に近づくにつれ、農地は薄まり、生活は血縁や共同体よりも「互いに死なない距離」を保つ規律で支えられていた。

小さな隊商が焚き火を囲んでいても、互いの物語を訊くことはない。役割を問わず、名前を問わず、ただ夜を越えるための炎だけが共有される。

白起はその輪に入らなかった。近くの岩陰に坐し、火の照り返しと星の位置を照合して今夜の刻を計る。

戦場で鍛えた姿勢は忘れられておらず、天文官であった眼も褪せなかった。変わったのは、観測がもはや誰にも提出されないことだけだった。

ある晩、白起は風向きを読んで予定より早く谷間を横断した。夜になる前に抜けなければ、風が反転し、雪の吹き込みが谷に蓋をする。彼は一頭の馬に最低限の荷だけを載せ、歩速を落とさず進んだ。

暮れ頃、粗末な野屋に辿り着いた。中には先客が三人いたが、一人も口をひらかない。火種を分け合うだけで、やり取りは成立した。

ひとりが食を差し出した。硬い粟餅。礼として白起も塩嚢を差し出した。ただそれだけの交換で互いの名は不要だった。

その夜、白起は狛として初めて眠った。浅く、しかし澱みのない眠りだった。

冬の入り口、遠くの山に初雪が白線を引いた夜、白起——狛は砂礫の高台に馬を止め、月を見た。満ちてはいない。欠けてもいない。これから満ちる途中の月。

彼は独り言のように、しかし確実な声量で言った。

「范雎は勝った。秦王も勝った。星も。負けたのは——」

そこで言葉を切り、言い直した。

「いや、誰も勝ってはいない。負けもない。」

勝敗は人の制度が作る。星の運行には勝敗が存在しない。天は秤を持たず、義を数えず、怒りも裁きもしない。

ならば——

「人の秩序もまた、いつか剥がれる。」

官爵、名誉、法、罪、賞罰。剥がれないと思われているものほど、人の手でできている。

だが星だけは——誰の策によっても順路を変えぬ。

その自明さが、この夜の白起を支えていた。

白起は胸の中で、自分の人生を分類した。

・戦の白起
・星の白起
・官の白起
・名の白起

その四つはすべて過ぎ去った。残ったものはひとつだけ。

・歩く者、狛

歩く者は証明を必要としない。歩くとは、すでに答えである。

それでも、彼は自分の中で再度並べ直した。

「暴から理を生み」

「理を記し」

「理が用を終えたら去る」

兵も、星も、そして己の立場も——それが用であり、それだけのことだった。

それで良い、と初めて言えた。誰に言うでもなく、ただ胸内で。

数日後、彼は秦の刻柱が並ぶ最後の台地を過ぎた。ここを越えれば、もう秦の境内でも、羌の境内でもない。行政の空白。律の無名地。記録されぬ余白。

振り返れば、山脈の狭間に町の影がかすかにある。もはや城壁すら見えない。ただ谷が、人の営みの痕をわずかに結んでいるだけ。

白起は手綱を止め、そこで初めて振り返った。風は冷え、冬を完了形で告げる匂いを運んでいた。戻る選択肢は、すでに選択の外にある。

その地平に、蒋、凛、杜、伯、官吏たちの顔が過ぎる。誰の名も呼ばなかったが、全員を忘れなかった。それで十分だった。

その夜、狛は再び星座を読む。冬の大三角はまだ低い。天狼はまもなく昇る。それは霜と試練と孤独の季節の到来を告げる。

だが——星の配列は、かつて白起が観測し記したものと寸分違わない。秦の宮殿が変わろうと、人の名前が失われようと、軍が消えようと、記録が焼かれようと。

星は変わらなかった。

「これで良い。」

狛は呟き、馬の腹を軽く叩いた。馬は西へ向かって歩き出す。

地の名はここで尽き、物語もここで尽きる。しかし星は続き、天は続き、人の歩みも続く。

ただ名だけが変わった。歴史は白起を追い、星は狛を照らし、そして誰にも知られぬ個の歩みだけが、新たな軌跡として地の上に一本加わる。

それは記録されぬ線であり、同時に、最も確かな線だった。

名は地のもの。星は天のもの。
地は焼け、書は失せ、人は裁かれ、歩は途絶えても、
天は移らず、理は死なず。

白起は消えた。だが星は消えなかった。

【天文官 白起 完結】

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半隠遁生活を営む工場労働者