序章 藍の匂い
◇
残暑というには少し遅い、
九月の昼下がりだった。
阿波の城下は、
この季節になると
独特の匂いが漂う。
藍の発酵臭だ。甘くもなく、
腐ってもいない、
それでいて確かに
生き物の息のような、
あの鈍い重さ。
町人町の路地に入ると、
それはさらに濃くなる。
どこかの蔵で、
すくも作りの仕上げを
やっているのだろう。
刈り取った藍草を積み上げ、
水をかけ、踏み固め、
何十日もかけて発酵させる。
その間ずっと、男たちが
交代で踏み続ける。
朝も夜も。雨の日も。
藍師の仕事というのは、
要するに踏み続けることだと、
謀次郎は思っている。
口入屋「伊予屋」は、
城下の町人町の
ほぼ真ん中に位置する、
間口の狭い店だ。
看板は出ているが、地味だ。
意図的に地味にしてある。
派手な口入屋は、
派手な揉め事を引き寄せる。
謀次郎がそう決めた。
帳場の奥、謀次郎は
算盤を置いて、
豆大福を一つ、口に入れた。
この男、齢三十一。長身で、
どこか猫背気味に座っている。
色白というほどでも
色黒というほどでもない、
日に焼けているような、
くすんでいるような、
判断のつかない肌。
目は細く、どこを
見ているのかわかりにくい。
愛想がいいわけでも
悪いわけでもない。
ただ静かだ。
帳面を開いたまま、
算盤には触らず、
豆大福を咀嚼している。
どこかの絵師が
「何もしていない男」を
描くとしたら、
こういう絵になる、
と幸吉はよく言う。
「旦那、また大福ですか」
幸吉が帳場の入り口から
顔を出した。二十代前半、
小柄で目端が利く。
着物の着こなしが
どこか崩れていて、
それが似合っているのだから
始末が悪い。
「昨日も大福でしたよ。一昨日は葛餅。その前は――」
「用があるのか」
「いや、ないです」
「ならここに来るな」
「冷たいなぁ」
幸吉は言いながら、
勝手に帳場の隅に腰を下ろした。
謀次郎は追い払いもせず、
帳面に視線を戻した。
これがいつものことで、
二人ともそれを知っている。
「今日、新規の相談が三件来ましたよ」
と幸吉は言った。
今度は声に仕事の色が混じる。
「一件は渡り藍師。田畑を手放して、他所の藍畑を渡り歩いてる。もう一件は鍛冶屋の倅で、奉公先を探してる。三件目は――」
「三件目は聞いた」
「え、いつです」
「お前が来る前に、本人が来た」
幸吉は少し考えてから
「ああ、木綿問屋の女将ですか」
と言った。
「あの話、面倒ですよ。向こうの旦那が――」
「わかってる」
「旦那が首を突っ込むと面倒になる話ってわかってますよね」
「わかってる」
幸吉はため息をついた。
この会話も、いつものことだ。
謀次郎は面倒な話ほど
静かに頷く。
それが幸吉には時々、
恐ろしいような気がする。
裏の井戸のほうから、
水を汲む音がした。
海だ。下女の海は、
日に何度も水を使う。
掃除と洗い物と、
それから
謀次郎は知らないが
――よく井戸端で
空を見上げている。
何を考えているのかは
訊いたことがない。
しばらくして、
海が縁側から顔を出した。
「お茶、いれ直しましょうか」
「頼む」と謀次郎。
「あ、俺も」と幸吉。
「幸吉さんの分は、ご自分でどうぞ」
「なんで差別するんだ」
「差別ではありません。分別です」
海はそれだけ言って、
台所へ戻った。
幸吉はしばらく
「分別ってなんだよ」
と言っていたが、
やがて諦めた顔で立ち上がった。
佐一は、朝から
帳場の隅で筆を動かしていた。
十代半ば、細い、おとなしい。
謀次郎が引き取ったのは
去年の夏で、
それ以前の素性は
聞いていない。
聞かなくていい、
と謀次郎は思っている。
人には、話したいときに
話す権利がある。
佐一の仕事は
帳面の清書と文書の整理だが、
それ以上のことをよくやる。
何か引っかかることがあると、
小さな紙切れに
書き留めておく癖がある。
その紙切れが、
後になって謀次郎の
役に立つことが、
何度かあった。
今日も佐一は何かを書いていた。
謀次郎は訊かない。
訊く必要がある時が来たら、
佐一のほうから出してくる。
そういう子だ、
と謀次郎は知っている。
町は、秋の入り口にあった。
藍の刈り入れは八月に終わる。
今はすくも作りの季節。
発酵の臭いはあと
一月ほど続く。
それが終われば、
藍玉師の仕事が始まる。
すくもを練り固めて玉にし、
俵に詰めて大坂へ出荷する。
阿波の藍は、
日本中の染物屋が待っている。
それがこの城下の誇りだ、
と人は言う。
謀次郎も、
そう思っていないわけではない。
ただ誇りというものは、
近くで見ると別の顔を
していることが多い、
とも知っている。
三十一年、
この町で生きてきた。
藍師が田畑を手放す理由も、
藍玉師の指が何故
あのように歪むのかも、
知らないわけではない。
だからといって、
何かを言う気もない。
伊予屋の仕事は、
人と仕事を結ぶことだ。
それ以上でも以下でもない。
謀次郎はそう決めている。
縁側に、秋の日差しが
薄く差し込んでいた。
遠くから、子供の声がした。
路地で何か遊んでいる。
幸吉が台所から戻ってきて、
湯飲みを持ちながら
縁側に腰を下ろした。
藍の匂いを嗅いで、
少し顔をしかめた。
「この匂い、何年嗅いでも慣れませんね」
謀次郎は帳面を見たまま、
答えなかった。
慣れる、慣れない、
という話ではないと
思っている。
この匂いは、
毎年少しずつ変わる。
今年の匂いは、何か重い。
そんな気がするだけかもしれない。
海が茶を持ってきた。
佐一が筆を止めた。
伊予屋の午後は、
こうして静かに過ぎていく。
ただ――。
謀次郎が後になって
思い返すのは、
あの午後のことだ。
何もなかった。
本当に何もなかった。
幸吉が縁側で欠伸をして、
佐一が筆を動かして、
海が茶碗を洗う音がして、
自分が大福を食って
帳面を眺めていた、
それだけの午後。
それでも何かが、
あの藍の匂いと一緒に、
すでに町の中に
漂っていたのだと、
謀次郎は後になって思う。
腐ってはいない。
甘くもない。ただ重い。
誰かが、どこかで、
踏み続けていた。
夕暮れ前、幸吉が出かけた。
どこへ行くとも言わない。
どこへ行くか聞かない。
謀次郎はそういう男で、
幸吉もそれを知っているから、
着物の袖を直しながら
「ちょっと」とだけ
言って出ていった。
博打か女か、
どちらかだろう。
どちらでも構わない。
翌朝、きちんと
戻ってくればいい。
幸吉はいつもそうする。
佐一が筆を置いたのは、
それからしばらくしてからだった。
「謀次郎さん」
謀次郎は帳面から
目を上げた。
佐一が何かを言うとき、
たいてい用件は短い。
短いが、軽くない。
「今日の渡り藍師の方、名前は藤七さんといいましたが」
「ああ」
「三年前まで自分の田畑を持っていたそうです。それを手放して、去年から渡りに出た、と」
「そう聞いたな」
「田畑を手放した理由は言いましたか」
謀次郎は少し考えた。
藤七は言った。
借金がかさんだ、と。
藍の出来が二年続けて
悪かったと。
ただそれだけを、
静かな顔で言った。
「言ったな」
「藍の出来が悪かったのに、藍座の売上は上がっているそうです」
謀次郎は、帳面を閉じた。
「どこで聞いた」
「書き物で読みました。藩の御触書の写しが、寺子屋の師匠のところに回ってきたものを、少し前に見せてもらいました。今年の藍方の収益が、例年より一割ほど増えたと書いてありました」
佐一は淡々と言う。
感情がないのではなく、
感情を乗せる場所を
知っている子だ、
と謀次郎は思っている。
「それで」と謀次郎は言った。
「おかしいな、と思っただけです」
それだけ言って、
佐一は筆を持ち直した。
謀次郎はしばらく
閉じた帳面を見つめてから、
また開いた。
おかしい。
確かに、おかしい。
藍師の出来が悪ければ、
売上も落ちる。
それが順当な道筋だ。
逆になるとすれば
――謀次郎はそこで考えを止めた。
今は、止めておく。
台所から、包丁の音がした。
海が夕飯の支度をしている。
今夜は何だろう、
と謀次郎は思った。
秋の入り口だから、芋か、
あるいは豆腐の鍋か。
どちらでもいい。海の飯は、
どれも過不足がない。
足りなくもなく、
多くもない。
それが謀次郎には心地いい。
しばらくして、
海が帳場の入り口に顔を出した。
「謀次郎さん、今日の夕飯は少し遅くなります。豆腐を買いに行ってきます」
「一人で行くか」
「はい。すぐそこです」
「暗くなる前に戻れ」
「はい」
海は短く答えて、
下駄を履く音がした。
謀次郎は縁側から、
海の後ろ姿が
路地の角を曲がるのを、
なんとなく見た。
小走りで、足が速い。
一人になると、
町の音がよく聞こえる。
遠くで誰かが笑っている。
子供の声はもうしない。
犬が一度吠えて、やんだ。
路地の向こうから、
荷車の軋む音が近づいて、
遠ざかった。
藍の匂いは、夕方になると
少し薄くなる。
昼間の熱が落ちるからだ。
それでもまだ、
空気の底に沈んでいる。
謀次郎は縁側に出て、空を見た。
赤みが抜けかけた空に、
薄く雲がかかっている。
明日は雨かもしれない。
雨になれば、
藍の発酵が少し遅れる。
すくも作りをしている
蔵の連中は焦るだろう。
焦っても、天気は
どうにもならない。
どうにもならないことと、
どうにかなることの
区別をつけること。
それが、謀次郎が
この三十一年で覚えた、
ほぼ唯一のことだ。
佐一が茶を持ってきた。
「すみません、海さんがいないので、私が」
「ありがとう」
謀次郎は茶を受け取った。
少し薄い。佐一は
茶を入れるのがまだ上手くない。
ただそれを言う気はなかった。
上手くなりたければ、
そのうち自分で気づく。
佐一は縁側の端に、
少し離れて座った。
二人でしばらく、
黙って空を見た。
「謀次郎さん」
「うん」
「藍師の仕事というのは、きついんですか」
「きついな」
「それでも渡りに出るというのは」
「きつくても食わなければならない、ということだ」
佐一は少し黙ってから
「そうですね」と言った。
それ以上は聞かなかった。
謀次郎も、
それ以上は言わなかった。
藤七は今夜、どこに
泊まっているだろう。
口入れの結果は
明日伝える手はずになっている。
渡り藍師の仕事口は、
今の時季なら二、三あるはずだ。
遠くはない。
ちゃんと繋いでやれる。
それが謀次郎にできることで、
それだけが謀次郎にできることだ。
海が豆腐を抱えて戻ってきたのは、
すっかり暗くなってからだった。
「遅くなりました。豆腐屋のおかみさんに引き止められてしまって」
「何の話だった」
「藍仲仕の人が一人、仕事を辞めたそうで。おかみさんのところに出入りしていた人らしくて、急にいなくなったと心配していました」
謀次郎は、特に表情を変えなかった。
「辞めた、というのか」
「辞めた、なのか、消えた、なのか、よくわからないとおっしゃっていました。急に長屋を引き払って、荷物もなくなっていたと」
「そうか」
「……心配ですね」と海は言った。
言葉は短かったが、
その短さに、海が感じている
ことがちゃんと詰まっていた。
「そうだな」
謀次郎はそれだけ言って、
縁側から帳場へ戻った。
帳面を開いて、
今日の仕事の続きをした。
その夜、幸吉は戻らなかった。
翌朝、少し目の下に
隈を作って帰ってきた幸吉に、
謀次郎は何も言わなかった。
幸吉は少し
拍子抜けしたような顔をして、
それから
「昨日、面白い話を聞きましたよ」
と言い始めた。
「藍仲仕の集まりで、最近仲間が一人いなくなったって話が出てたらしいんですよ。急に荷物まとめて夜逃げした、みたいな。でも夜逃げにしては金の話が出てないし――」
「名前は」
「え」
「その仲仕の名前は聞いたか」
幸吉は少し考えてから、
「聞かなかったです」と言った。
「そうか」
「……旦那、気になってますか」
「いや」
謀次郎は算盤に手を伸ばした。
今日も仕事がある。
藤七への口入れの
結果を伝えること、
木綿問屋の件の返事をすること、
それから月末の帳面の確認。
やることは並んでいる。
ただ――佐一が昨日
書き留めた紙切れが、
帳場の隅に小さく置いてあった。
謀次郎はそれを、一度だけ見た。
手に取らなかった。
まだ、その時ではない、と思った。
藍の匂いは、その日も続いていた。
町はいつも通りに動いている。
荷車が走り、子供が走り、
女房たちが井戸端で話し、
旦那たちが店先で帳面を広げている。
奉行所の下役が巡回して、
寺の鐘が昼を告げる。
何も変わっていない。
ただ謀次郎は、変わっていないように
見える町の底に、
何かが積み重なっているような
気がしていた。
発酵の臭いと同じで、
目には見えない。
手には触れない。
ただ確かに、そこにある。
何かが、静かに、
重くなっている。
謀次郎は算盤を弾いた。
今日の仕事を、
今日片付ける。それだけだ。
第一章 奉公口の老人
老驥伏櫪(ろうきふくれき)
老いた名馬が、
厩の中に伏していても、
千里を駆けようとする
志は失わない。
曹操の詩に由来する。
才と志を持つ者が、
老いを理由に
諦めぬことを言う。
ただし――厩の外が、
その馬を
歓迎しているとは限らない。
◇
その朝は、雨だった。
九月も末になると、
阿波の雨は冷たさを帯びてくる。
夏の間の湿り気とは違う。
骨の中に
入り込んでくるような、
静かで執念深い冷たさだ。
謀次郎は帳場で
算盤を弾きながら、
雨の音を聞いていた。
大きくもなく、小さくもない。
しとしと、という言葉が似合う雨。
こういう雨の日は、人が来る。
何かを決めかねていた者が、
降り込められたついでに
足を向けてくる。
口入屋の商いというのは、
天気に左右されるところが、
少なからずある。
幸吉が茶を持ってきた。
珍しく黙って置いて、
珍しく黙って帳場の隅に座った。
「どうした」と謀次郎は訊いた。
「いや」と幸吉は言った。
「なんか、今日は人が来そうな気がして」
謀次郎は算盤から
手を離さずに
「そうだな」と言った。
「旦那も思います?」
「雨だからな」
「ああ」と幸吉は少し笑った。
「確かに」
それから二人はしばらく、
雨の音を聞いていた。
老人が来たのは、
四半刻ほどしてからだった。
番頭格の幸吉が応対に出て、
謀次郎を呼びに来た。
いつもより声が低い。
それだけで、
謀次郎は少し状況を察した。
厄介な話か、あるいは
――普通ではない客か。
帳場の外、板の間に
通した客を見て、
謀次郎は内心で
「ああ」と思った。
五十代の後半か、
あるいは六十に
差し掛かっているか。
背筋が伸びている。
きちんと折り目を
整えた木綿の着物。
草履はやや古いが、
泥を落としてある。
雨の中を歩いてきたはずなのに、
どこか端然としていた。
着慣れた、
という言葉が似合う。
長年の習慣が、そのまま
姿になっているような老人だった。
ただ目だけが、少し違う。
静かだ。静かすぎる。
老いた犬の目でも、
疲れた商人の目でもない。
何かを、長い間、
ずっと見続けてきた人間の目だ。
「伊予屋の謀次郎さんで」
老人は問いの形で言ったが、
確認というより確認の作法、
という感じだった。
すでに知っている、
ということが声に透けていた。
「そうです」
と謀次郎は商いの顔で答えた。
「お初にお目にかかります。どちらさまで」
「斗久(とく)と申します。たいした名でもございません」
斗久――謀次郎は
頭の中で字を当てた。
特に聞いたことのある名ではない。
「どのようなご用向きで」
「はずかしながら」と斗久は言った。
少しも恥ずかしそうではない声で。
「奉公口を探しております。どこかに、この老いぼれを置いてもらえるところがあればと思いまして」
幸吉が茶を出した。
謀次郎は斗久と
向かい合って座り、
いつもの手順を踏んだ。
年齢、住まい、これまでの仕事。
家族構成、体の具合、
求める仕事の種類と
給金の目安。
これは謀次郎が
自分で決めた型だ。
型通りに進めることで、
客が話しやすくなる。
それを知っている。
「これまでのお仕事は」
「藍方役所に三十二年、勤めておりました」
謀次郎は手を止めなかった。
ただ、わずかに聞き方を変えた。
「どのようなお仕事を」
「検品でございます。藍玉の品質を見て、等級をつける。それと、帳面の管理を少し」
「三十二年」
「はい」
「それは長い」
「長うございました」と斗久は言った。
「今年の春に、役目が終わりましたので」
定年退役、ということだろう。
藩の役所勤めであれば、
年齢によって退く決まりがある。
謀次郎は「そうでしたか」
とだけ言って、
次の問いに移った。
「体の具合はいかがですか」
「達者でございます。目も耳も、まだ若い者には負けないつもりで」
「重いものを運ぶ仕事などは」
「できます。ただ、やはり若い頃よりは」
斗久は少し間を置いた。
「そういった仕事は、若い者に任せるのが筋でしょう」
謙遜ではなく、
事実の確認として言っている。
謀次郎はそれを聞いて、
少し好感を持った。
老人が自分の限界を正確に言える、
というのは、
思いのほか稀なことだ。
「お望みの仕事の種類は」
「帳面に関わる仕事ができれば、と思っております。計算、清書、台帳の管理など。三十二年、そういう仕事をしてきましたので」
「給金は」
「多くは要りません。長屋の家賃と、飯が食えるだけで」
謀次郎はしばらく考えた。
帳面仕事、経験豊富、
体は達者。給金は少額でよい。
条件だけ見れば、
引く手があっても
おかしくない。
ただ――
何かが、引っかかった。
何が引っかかっているのか、
謀次郎はすぐには言語化できなかった。
「少し伺いますが」と謀次郎は言った。
「藍方役所のお仕事を、三十二年されていた。その後、こちらへいらっしゃるまでの間、どこかでお仕事を」
「しておりませんでした」
と斗久は答えた。
「半年ほど、長屋でのんびりしておりました」
「半年」
「ええ。長年働き続けましたので、少し休もうと思いまして。ただ」
斗久は少し笑った。
しわの多い、
しかし不思議と
若い感じのする笑い方だった。
「休み方を知らない人間というのは、休んでいても落ち着かないものでして」
「なるほど」
「仕事をしていたいのです。帳面でも何でも。頭と手を動かしていないと、どうも」
謀次郎は頷いた。
それは理解できる。
自分も、何もしていない
時間が長くなると、
妙に腹が立ってくる性質だ。
「わかりました」
と謀次郎は言った。
「当方でお引き受けします。ただ、すぐに口入れができるかどうかはわかりません。斗久さんのご希望に合う仕事口を探すのに、少し時間をいただけますか」
「もちろんでございます」
と斗久は丁寧に頭を下げた。
「お手間をおかけします」
斗久が腰を上げたのは、
それからしばらくしてからだった。
幸吉が見送りのために
立ち上がった。
謀次郎も立ちかけた。
その時、斗久が振り返った。
特に改まった様子はなかった。
ただ、去り際に
思い出したように言う、
という体裁をとっていた。
「謀次郎さん」
「はい」
「帳面というものは」
と斗久は言った。静かな声で。
「正しければ正しいほど、ひとを殺しますな」
謀次郎は、答えなかった。
答える前に、斗久は続けた。
「三十二年、帳面を見てきました。正しい帳面ほど、怖いものはない。そう思うようになりました。どうでもよいことかもしれませんが」
「いいえ」と謀次郎は言った。
「聞かせていただきました」
斗久は静かに笑って、
頭を下げた。
雨の中に出ていった。
下駄の音が、遠ざかった。
幸吉が戻ってきて、
湯飲みを片付けながら言った。
「変わった爺さんでしたね。悪い人じゃなさそうだけど」
「そうだな」
「帳面が人を殺す、って、何の話ですかね。最後、意味わかりました?」
「さあ」
「さあって」
幸吉は謀次郎の顔を見た。
「旦那、気になってるじゃないですか」
「仕事口を探すだけだ」
謀次郎は帳場に戻った。
算盤を手にとって、
今日の残りの仕事に戻った。
ただ、雨の音が、
少し変わった気がした。
同じ雨だ。同じ静かな、
九月の雨。
それでも、
何かが変わった気がした。
帳場の隅で、
佐一が小さく筆を動かした。
誰も見ていなかった。
謀次郎も、幸吉も。
佐一は、
斗久の最後の言葉を、
ゆっくりと紙に書き写した。
帳面というものは、
正しければ正しいほど、
ひとを殺す。
書いてから、少し考えて、
その紙を折りたたんで、
自分の袖の中にしまった。
昼過ぎに、もう一人客が来た。
渡り藍師の藤七だ。
前日に相談に来た男で、
今日は謀次郎からの
返事を聞きに来た。
三十代半ば、
日焼けした太い首、
手の甲に藍の染みが残っている。
どれだけ洗っても
落ちない染みだ。
藍師の証のようなものだ、
と謀次郎は思っている。
「口入れの件、進みましたか」
と藤七は言った。遠慮がちだが、
目の奥に切迫したものがある。
「一件、あります」
と謀次郎は言った。
「城下から少し北、板野郡の藍師の家です。今年の刈り入れは終わっていますが、すくも作りと来年の畑の整備で、冬の間も人手が要るそうで」
「泊まり込みですか」
「先方はそれを望んでいます。長屋の一室を用意するとのことで、飯つき。給金は月に」
と謀次郎は帳面を見た。
「一分と二朱。冬の間ですから、春になれば改めて話し合い、ということになります」
藤七はしばらく黙っていた。
口の中で何かを計算している顔だ。
一分二朱。多くはない。
ただ、泊まり込みで飯がつくなら、
実入りとしては悪くない。
「……お願いできますか」
と藤七は言った。
「行かせてもらいます」
「わかりました。明後日の朝、伊予屋に来てください。先方への文を用意しておきます」
「ありがとうございます」
藤七は深く頭を下げた。
「本当に、助かります」
謀次郎は頷いた。
「一つ聞かせてもらえますか。田畑を手放された時のことを」
藤七の顔が、わずかに曇った。
「……二年、藍の出来が悪くて。借金がかさんで、それで」
「藍の出来が悪かった理由は、わかりますか」
「天気が悪かったと言われました。藍座の検品で、等級を落とされまして。品質が足りないと」
「藍座に」
「はい。うちだけじゃなく、近隣の藍師が軒並みそうで。その年は仕方ない、という話で」
謀次郎は帳面に何かを書いた。
「わかりました。明後日、待っています」
藤七が去った後、
謀次郎はしばらく
帳面を見つめた。
藍の出来が悪かった年。
藍座の検品で等級を落とされた年。
佐一が言っていた。
藍師の出来が悪かったのに、
藍座の売上は上がっていた、と。
謀次郎はそこで考えを閉じた。
まだ、点が二つあるだけだ。
点が二つあるだけでは、
線にならない。
夕方、海が煮物を作った。
里芋と油揚げの煮付けで、
醤油の匂いが帳場まで漂ってきた。
謀次郎の腹が、
静かに鳴った。
幸吉が台所の方を向いて
「いい匂いですね」と言った。
海が「もう少しかかります」
と答えた。
佐一は夕方になっても
帳場の隅にいた。
筆仕事をしているようで、
時々手が止まっている。
何か考えている、という様子だ。
謀次郎は声をかけなかった。
ところが佐一のほうから来た。
袖から、折りたたんだ
紙を一枚出した。
「謀次郎さん、少しよろしいですか」
「ああ」
「斗久さんのことを、少し調べてみました」
謀次郎は算盤を置いた。
「調べた、というのは」
「近所の寺子屋の師匠に聞きに行きました。師匠は藩の御用にも少し関わっている方なので、藍方役所のことをご存知かもしれないと思いまして」
「それで」
「斗久さん、本名は竹村斗久と言うそうです。藍方役所で検品の頭を長年勤めていた。三十二年、というのは本当で、今年の春に退役した。ただ――」
佐一は少し間を置いた。
「退役の経緯が、少し変わっているそうです」
「変わっている、というのは」
「本来ならもう二年、役目が続くはずだったそうです。年齢からすれば、まだ退役の時期ではない。それが今年の春に、急に退役になったと。師匠も詳しいことはご存知なかったのですが、何か揉めたような話が、藍方の周りでは出ていたらしくて」
謀次郎は黙って聞いた。
「それと」と佐一は続けた。
「退役の少し前に、斗久さんが藍方役所の台帳について、上の役人に何か申し立てをした、という話も出ていたそうです。内容はわかりません。師匠も、噂の端しか知らないと言っていましたので」
「そうか」
「気になりまして」
「よく調べた」と謀次郎は言った。
佐一は少し驚いた顔をした。
謀次郎はめったに褒めない。
「その紙、預かっていいか」
「はい」と佐一は紙を差し出した。
「ただ、謀次郎さん」
「うん」
「斗久さんは、今日、何かを伝えたくて来たんじゃないでしょうか」
謀次郎は答えなかった。
「奉公口を探しに来た、というのは本当だと思います。でも、あの最後の一言は――」
佐一は少し言い淀んだ。
「準備してきた言葉のように聞こえました」
謀次郎は佐一の顔を見た。
十代半ばの、細い、
おとなしい顔だ。
ただその目は、
今日見た斗久の目に、
どこか似た静けさを持っていた。
「そうかもしれない」
と謀次郎は言った。
夕飯の膳を囲んで、
幸吉が箸を動かしながら言った。
「旦那、今日の爺さんの話、引っかかってるんですか」
「仕事口を探すだけだ」
と謀次郎は二度目の
同じ言葉を言った。
「また同じこと言う」
幸吉は里芋を口に入れた。
「うまい、これ。海、うまいぞ」
「ありがとうございます」
と海は静かに言った。
「でも」と幸吉は続けた。
「帳面が人を殺す、か。物騒な話ですよね。爺さん、何か知ってるんじゃないですか」
「さあ」
「さあって。旦那が二回さあって言ったら、気になってるってことですよ、俺には」
謀次郎は答えなかった。
豆腐を一つ、箸でとった。
海の豆腐の鍋は、
出汁が利いていて温まる。
こういう夜には、
これがいい。
「仮に」と謀次郎は言った。
「帳面に関わる仕事口を探すとして、藍方の周りで何かないか。来月あたり、幸吉が少し動いてみてくれ」
「藍方の周り」幸吉は少し目を細めた。
「旦那、やっぱり気になってるじゃないですか」
「仕事口の話だ」
「同じじゃないですか」
「同じじゃない」
幸吉は鍋を一口すすって、
「まあ、いいですけど」と言った。
「探してみます」
海が黙って、謀次郎の椀に
汁を足した。
謀次郎は頷いた。
夜、雨は止んでいた。
謀次郎は帳場に一人残って、
今日の帳面を閉じた。
算盤を片付けた。
行灯の火が、
ゆらゆらと揺れていた。
佐一から受け取った紙を、
もう一度広げた。
竹村斗久。藍方役所、
三十二年。退役の経緯、
不明。申し立て、内容不明。
それから、斗久自身の言葉。
帳面というものは、
正しければ正しいほど、
ひとを殺す。
謀次郎は紙を折りたたんで、
帳場の引き出しの奥にしまった。
何かが動いている気配がある。
ただ、まだ何も見えていない。
見えていないうちに動くのは、
謀次郎の流儀ではない。
見えてから、動く。
それまでは、
今日の仕事を
今日片付けることだ。
行灯を消した。
暗くなった帳場に、
雨上がりの夜気が入ってきた。
冷たかった。静かだった。
どこかで、虫が一声鳴いた。
第二章 転落
一葉知秋(いちようちしゅう)
一枚の葉が落ちるのを見て、
秋の到来を知る。
小さな兆候の中に、
大きな変化の予兆を読む。
ただし――
落ちた葉に気づく者は、
木が倒れる前に
何かできるわけでもない。
◇
斗久が死んだのは、
それから十日後のことだった。
知らせを持ってきたのは、
幸吉だ。
朝の買い出しから
戻ってきた幸吉が、
いつもより少し早い足で
帳場に入ってきて、
謀次郎の顔を見るなり
「旦那、竹村の爺さんが死にました」
と言った。声から、
軽口の色が抜けていた。
謀次郎は算盤を置いた。
「いつ」
「昨夜か、一昨日の夜か。今朝、長屋の隣の者が気づいたそうです。豆腐屋の親父から聞きました。あの辺は口が早いから、もう町中に広まってますよ」
「どうして死んだ」
「梁から落ちた、ということで」
幸吉は少し言いにくそうに言った。
「長屋の梁に上って、何かしていて、足を踏み外したんじゃないかと。奉行所の検分も、事故と見ているそうです」
謀次郎は何も言わなかった。
「……旦那」
「わかった」と謀次郎は言った。
「葬儀はいつだ」
「明後日、と聞きました。菩提寺は城下の慶善寺だそうで」
「そうか」
幸吉はしばらく
謀次郎の顔を見ていた。
何か言いたそうだったが、
言わなかった。
謀次郎が算盤を
再び手にとったのを見て、
静かに帳場を出た。
葬儀の朝は、晴れていた。
謀次郎は一人で
慶善寺に出向いた。
幸吉は留守番を言いつけた。
参列者は少ない。
長屋の隣人が二人、
それから近所の
顔見知りらしい初老の夫婦。
藍方役所の関係者は、
一人も来ていなかった。
三十二年勤めた役所から、
誰も来ない。
謀次郎はそれを、特に驚かず、
ただ静かに確認した。
読経の間、謀次郎は
棺の前に座って、
斗久の最後の言葉を
思い返していた。
帳面というものは、
正しければ正しいほど、
ひとを殺す。
あの言葉は、
準備されていた言葉だ、
と佐一は言った。
謀次郎もそう思っていた。
伊予屋を訪ねたのは、
奉公口を探すため
だけではなかった。
何かを、誰かに
――伝えようとしていた。
ただ、肝心なことは
何も言わなかった。
言う前に、死んだ。
住職の惟道は、
謀次郎の旧知だ。
慶善寺の住職を
三十年近く務めている、
六十がらみの男で、
飄々として、
しかし抜け目がない。
城下の町人町で
生まれ死ぬ者の
大半の葬儀を引き受けてきた、
という意味では、
この町で最も多くの死を
見てきた人間だとも言える。
葬儀が終わり、
参列者が引けてから、
謀次郎は庫裡に惟道を訪ねた。
「来ると思っておりましたよ」
と惟道は言った。
縁側に茶を二つ置いて、
隣に座った。
「竹村さんと、お知り合いでしたか」
「少し。仕事の相談に来られた」
「そうでしたか」
「惟道さんは、斗久さんのことをご存知でしたか」
「ええ。この辺の長屋の方は大抵ね」
惟道は茶を一口すすった。
「真面目な方でしたよ。物静かで、几帳面で。長屋の掃除当番を、退役後もずっと一人でやっていたそうです」
「藍方役所を退役してから、何か変わった様子はありましたか」
惟道はしばらく黙っていた。
長い間ではない。
ただ、考えてから答える、
という種類の間だ。
「少し、塞いでいるようには見えました。最初の頃は。ただ最近は、むしろ吹っ切れたような――どこか軽くなったような気がしていたんですけれどね」
「最近、というのは」
「そうですね。ひと月ほど前から、でしょうか。外出が増えたと、長屋の隣の方が言っていました。どこへ行くかはわからないけれど、朝から出かけることが多くなったと」
謀次郎は、茶を一口飲んだ。
ひと月前から外出が増えた。
伊予屋に来たのが十日前。
その前から、どこかへ動いていた。
「事故、と聞きました」
と謀次郎は言った。
「梁から落ちた、と」
「奉行所はそう見ているようですね」
「惟道さんは」
惟道は答えなかった。
縁側から、寺の庭を見ていた。
松の木が一本、
秋の光の中に立っていた。
「私は坊主でございますから」
と惟道はやがて言った。
「人の死に、あれこれ申すことは」
「そうですね」
と謀次郎は言った。
それ以上は訊かなかった。
訊かなくていい。
惟道が答えなかった、
ということが、すでに答えだ。
帰り道、謀次郎は
少し遠回りをした。
斗久が住んでいた長屋は、
慶善寺から南へ五町ほどの路地にある。
謀次郎は長屋の前を、
何気ない様子で通り過ぎながら、
建物の造りを見た。
古い長屋だ。天井が低い。
梁は、背の高い者が
少し背伸びをすれば
届く高さにある。
謀次郎は5尺近い長身だ。
自分の背丈と
長屋の梁の位置を、
頭の中で比べた。
あの高さから落ちて、
死ぬか。
落ちどころが悪ければ、
死ぬ。床は板張りだ。
頭から落ちれば、
あるいは。ただ――。
「何かご用ですか」
路地の端から声がした。
長屋の住人だろう、
五十がらみの女が、
怪訝そうな顔で
こちらを見ていた。
謀次郎は商いの顔を作った。
「失礼しました。竹村さんのご葬儀に参りまして、帰りがけに通りかかりました。お気の毒なことで」
女の顔が、少し緩んだ。
「ああ、竹村さんの。お知り合いで」
「少し仕事の相談をしたことがあって。急なことで驚きました」
「本当にねえ」と女は言った。
「夜中に大きな音がしたんですよ。私、目が覚めて。でも、まあ、夜中のことだから猫でも暴れたかと思って、そのまま寝てしまって。朝になって、竹村さんが出てこないから、見に行ったら」
「大きな音、というのは」
「ドン、という感じの。何か重いものが落ちたような」
「それは夜中の何刻ごろで」
「丑の刻を少し過ぎたくらいかねえ。はっきりとは」
謀次郎は
「そうでしたか、それは驚かれましたね」
と言って、丁寧に頭を下げた。
女は「ええ、もう」
と言いながら、
何か話し足りなそうな顔を
していたが、
謀次郎はそのまま歩きだした。
その夜、謀次郎は
帳場で一人、考えた。
引っかかっていることが、
一つある。斗久の手だ。
葬儀の間、棺の前に座って、
謀次郎は斗久の顔と手を見た。
顔は安らかなものだった。
それは人がよく言う通り。
ただ手が――
あの手が、妙だった。
三十二年間、
帳面をつけ続けた手だ。
毎日筆を持ち、算盤を弾き、
書き物をしてきた手のはずだ。
帳面仕事をする者の手は、
独特の形になる。
指の関節が固くなって、
右手の中指に筆だこができる。
謀次郎自身もそうだし、
佐一もそうなりかけている。
ところが斗久の手は、
きれいだった。
傷一つない、ではない。
老いた手の皺と染みはある。
ただ、筆だこがない。
関節の固さが、ない。
長年帳面仕事をしてきた
者の手ではなく
――どちらかといえば、
外で体を動かしてきた者の手に近い。
謀次郎は行灯の火を見つめた。
三十二年、帳面を
つけていた男の手が、
なぜ帳面仕事を
していない手をしているのか。
それとも、
退役してから半年の間に、
そうなったのか。
半年で、三十二年分の
筆だこが消えるものか。
謀次郎は自分の右手の
中指を見た。硬い。
三十一年分ではないが、
それなりに硬い。
これが半年で消えるとは、
思えない。
翌朝、謀次郎は幸吉を呼んだ。
幸吉は朝飯を
食い終わったばかりで、
楊枝を使いながら帳場に来た。
謀次郎の顔を見て、
楊枝を口から外した。
この顔の時は、仕事の話だ、
と幸吉は知っている。
「竹村斗久について、もう少し調べてほしい」
「どんなことを」
「藍方役所を退役してから、どこへ出入りしていたか。誰と会っていたか。この一月の間で、わかることがあれば」
「探りを入れる、ということですよね」
幸吉は少し考えた。
「あの辺の長屋は顔見知りがいますから、それとなく聞いてみます。ただ、あまり深く嗅ぎ回ると、向こうも警戒しますよ」
「深くやらなくていい。表から拾えるものだけで」
「わかりました」
幸吉は楊枝を袖に仕舞った。
「あと旦那、一つ聞いていいですか」
「ああ」
「爺さんの死、事故じゃないと思ってますか」
謀次郎はすぐに答えなかった。
窓の外を、一度見た。
秋晴れの、風のない朝だった。
「わからない」と謀次郎は言った。
「わからないから、調べる」
「それ、気になってるってことですよ」
「仕事口の調査だ。依頼者が死んだ。経緯を確認するのは当然のことだ」
幸吉はしばらく謀次郎の顔を見てから、
「まあ、そういうことにしときましょうか」
と言って立ち上がった。
幸吉が出ていくと、
佐一が帳場に顔を出した。
手に何枚か紙を持っている。
昨夜書いたものだろう、
墨の乾ききった紙だ。
「謀次郎さん、少し調べたことがあって」
「ふむ」
佐一は帳場の隅に座って、
紙を広げた。
細かい字が、
整然と並んでいる。
几帳面な子だ、
と謀次郎は改めて思った。
「斗久さんが藍方役所を退役した経緯について、もう少し詳しく聞けました。昨日、葬儀の帰りに寺子屋の師匠のところに寄りまして」
「葬儀の帰りに」
「はい。謀次郎さんが少し遠回りをされていた間に」
謀次郎は何も言わなかった。
佐一は続けた。
「斗久さんが退役になった理由は、帳面の不備を指摘した、ということらしいです。藍方役所の内部の台帳に、数字の食い違いがあると上の役人に申し立てをした。ただ上の役人は、斗久さんの見方が間違っている、台帳は正しい、と突っぱねた。その後しばらくして、斗久さんに退役の話が出た」
「申し立てをして、退役させられた」
「そのように聞こえる話でした。ただ表向きは、年齢による退役ということになっているそうです」
謀次郎は腕を組んだ。
台帳の数字の食い違い。
三十二年間帳面を見てきた
検品の頭が指摘した食い違いを、
上の役人が否定した。
そして退役になった。
「師匠は、食い違いの中身まではご存知でなかったんですが」
と佐一は言った。
「一つだけ、耳に入ったことがあると言っていました」
「何だ」
「藍玉の等級と、実際の品質が合っていない、という話が、斗久さんの申し立ての中にあったそうです」
謀次郎の頭の中で、
何かが繋がりかけた。
藍玉の等級と
品質が合っていない。
藍師の出来が悪かった年に、
藍座の売上が上がっていた。
藤七が言っていた
――うちだけじゃなく、
近隣の藍師が軒並み
等級を落とされた、と。
点が、三つになった。
まだ線にはならない。
ただ、三つの点が
同じ方向を向き始めている。
「よくやった」と謀次郎は言った。
「その紙、少し借りるぞ」
佐一は紙を帳場の隅に置いて、
立ち上がりかけた。
それから少し
迷うような顔をして、
また座った。
「謀次郎さん」
「どうした」
「斗久さんは、伊予屋に来た時に、わざとあの言葉を言いましたよね」
「そう思っている」
「誰かに伝えたかった。でも、直接は言えなかった」
佐一は少し考えながら言った。
「直接言えない理由があった。怖かったから、でしょうか」
「怖かったか、あるいは」
「あるいは」
「言える相手が、いなかった」
佐一はしばらく黙っていた。
「それは――寂しいですね」
と、やがて静かに言った。
感想ではなく、
確認するように言った。
「そうだな」と謀次郎は言った。
昼を過ぎてから、
幸吉が戻ってきた。
いつもなら軽口の一つも
言いながら入ってくるのに、
今日は黙って帳場に来た。
座り方も、少し重かった。
「何かあったか」
「ありました」と幸吉は言った。
「竹村の爺さんの長屋の近くに、俺の博打仲間が住んでいて、そいつから聞いたんですが」
「ああ」
「爺さん、死ぬ前の三日間、ほとんど長屋から出なかったそうです。それまでは毎日のように出かけていたのに、急に引きこもった。飯も食っていたかどうか、怪しい。隣の女房が心配して声をかけたら、大丈夫だ、少し疲れた、とだけ言って、顔を出さなかったと」
「三日間」
「それで四日目の夜に、死んだ」
謀次郎は黙って聞いた。
「それだけじゃなくて」と幸吉は続けた。
今度は声が、
わずかに低くなった。
「死ぬ五日前に、爺さんのところに誰かが来たそうです。昼間に。二人連れで、きちんとした身なりをしていた。あまり長くいなかった。半刻もいなかったかもしれない、という話で」
「その二人連れに、心当たりは」
「それが、見た者がいなくて。女房が話を聞いたのは隣の長屋からで、顔は見ていない。ただ、きちんとした身なりだったというのは確かだと」
「きちんとした身なり」
「武家か、あるいは商家の者か、という感じだったそうです」
謀次郎は、
しばらく窓の外を見た。
風が出てきていた。
秋の風で、乾いた埃が
路地を転がっていく。
「それから、もう一つ」
と幸吉は言いにくそうに言った。
「爺さんの部屋の中なんですが、死体が見つかった時に、帳面の類が一切なかったそうです」
「帳面が」
「退役してから、ずっと何か書き物をしていた、と隣の者が言っていたんです。机の上にいつも帳面や紙が積んであった。それが、部屋の中からきれいになくなっていた。奉行所の検分が終わって、隣の女房が片付けを手伝いに入ったら、書き物の類が一切なかった、と」
謀次郎は何も言わなかった。
部屋から、帳面が消えている。
死ぬ五日前に、
きちんとした身なりの
二人連れが来た。
その三日後から、
斗久は長屋に引きこもった。
そして死んだ。
奉行所は事故と見ている。
「……旦那」と幸吉は言った。
軽口を完全に消した声で。
「これ、俺が思っている通りのことだと思いますか」
「お前が何を思っているかは知らない」
「じゃあ言います。殺された、と思っています」
謀次郎は幸吉の顔を見た。
普段は飄々として、
深刻な顔をあまりしない男だ。
「それが正しいかどうかは、まだわからない」
と謀次郎は言った。
「ただ」
「ただ」
「お前の調べたことを、今日のうちにまとめて佐一に渡せ。文字にして残しておく」
「……関わるつもりですか」
「仕事口の調査だ」
と謀次郎は
三度目の同じ言葉を言った。
今度は幸吉も笑わなかった。
「わかりました」とだけ言った。
その夜、海が鍋を作った。
豆腐と葱と、それから鶏を少し。
四人で囲炉裏の周りに座った。
幸吉はいつもより静かで、
佐一はいつも通り静かで、
海はその二人の様子を読みながら、
黙って鍋の世話をしていた。
しばらくして、海が言った。
「竹村さんとおっしゃる方のこと、幸吉さんから少し聞きました」
「ああ」と謀次郎は言った。
「お気の毒でした」
「そうだな」
「謀次郎さん」と海は言った。
鍋から目を上げて、
謀次郎を見た。
「あの方は、助けを求めて来られたんでしょうか」
謀次郎は答えなかった。
「間に合わなかった、ということでしょうか」
幸吉が鍋の中を見つめた。
佐一が箸を置いた。
「わからない」と謀次郎はやがて言った。
「ただ」
「ただ」と海は繰り返した。
謀次郎が「ただ」と言う時、
その後に大事なことが来ると、
海は知っていた。
「間に合わなかったかどうかは、これから決まる」
誰も何も言わなかった。
鍋が、静かに煮えていた。
謀次郎は豆腐を一つ、
口に入れた。熱かった。
夜が深くなってから、
謀次郎は一人で帳場に残った。
行灯の前に座って、
佐一がまとめた紙と、
幸吉から聞いたことを
頭の中で並べた。
斗久は何かを知っていた。
藍方役所の台帳に、
数字の食い違いがあることを。
そしてその食い違いを
指摘したことで、
退役させられた。
退役後も動き続けて、
何かをまとめていた。
帳面に書き残していた。
そして死んだ。帳面は消えた。
謀次郎は、
自分の右手を見た。
中指の筆だこを、
もう一度確かめた。
斗久の手に、これがなかった。
三十二年間、帳面を
つけてきたはずの男の手に。
一つの可能性が、
頭の中に浮かんだ。
まだ確かめていない。
確かめるすべも、今はない。
ただ、浮かんだ。
斗久が本当に三十二年間、
帳面の仕事をしてきたなら
――あの手はあり得ない。
ならば斗久は、
帳面の仕事をしていたのではなく、
帳面を見る仕事をしていた。
書くのではなく、読む。
作るのではなく、検める。
検品の頭、と佐一の紙にはあった。
藍玉の品質を見て、等級をつける。
それと、帳面の管理を少し
――斗久自身がそう言っていた。
「少し」と言っていた。
謀次郎は
帳場の引き出しを開けた。
最初にしまっておいた
紙を出した。
帳面というものは、
正しければ正しいほど、
ひとを殺す。
正しい帳面。
正しい等級。
正しい数字。
何かが、正しく動いている。
その正しさの中に、
何かが埋まっている。
謀次郎は紙を折りたたんで、
また引き出しにしまった。
行灯を消した。
暗闇の中で、一つだけ決めた。
明日、藤七に会いに行く。
