【1】晩秋の帰還
上邽の平地に降り立つころ、風は冬そのものになっていた。丘陵の肩を越えた先に広がる畑は、茅が寝て、溝は既に凍り、土は踏むと乾いた短い音を返す。白起は馬を進めながら、遠くの城郭を見た。
灰色の輪郭は薄い霞の向こうに眠っているようで、その眠りは深く、乱されず、揺るぎがなかった。臨洮の堤の夜とは、まるで別の国の気配だった。
城内までは、ほとんど言葉は要らなかった。番兵は白起の姿を見るとすぐに道を空け、礼を深くした。白起が手綱を引いて止まると、兵のうちの年かさの者が控えめに声をかけた。
「白起様……お戻りで。」
それ以上の語はなかった。言葉を継げば、風に混じって何かが濁るのを互いに知っていた。おそらく臨洮での出来事も伝わっているのだろう。
門を抜けると、城中の空気は冬の乾きと土の静けさでできていた。臨洮のあの濁りの匂いはなく、焚き木と皮をなめした匂いが薄く漂っている。
人々はそれぞれの道を歩きながら、白起を見て、少しだけ歩みを緩め、また歩いた。挨拶も深い礼もない。だが、視線だけは確かにあった。
(上邽。もう何年も帰っていないような感覚だな。)
まずは郡府へ向かう。隴西郡を統べる郡守は劉茂という。年は五十を少し過ぎ、体は細いが声は通る人物である。白起が郡府の門に入ると、門番はすぐに道を空けた。
白起が臨洮にいた間に、ここでも季節は進んでいたのだろう。敷地の柳は葉をすっかり落としていた。
通された応接の間で、劉茂は既に座していた。机の上には文が二巻。封の色は、臨洮で見た咸陽の封と同じ色だった。
「白起、大義にて帰府と聞く。」
劉茂の声は静かだった。歓迎とも、叱責ともつかないさざ波のない声。
「臨洮の復旧は、お主の手によるところが大きいと聞いた。その報せは、既に届いておる。」
白起は深く礼をした。
「堤と橋、井戸と粥、すべて民と官が保ちました。私は刻を合わせただけです。」
「刻を合わせる者が要である。」
劉茂はそう言ったが、その顔には影がひとつ落ちていた。
「それゆえに、こうして報告も届いた。」
机の上の封が、光を受けて黒く見えた。
「越権措置、便宜の行き過ぎあり、と。」
白起はうなずいた。
「承知しています。」
「いや、承知しているかどうかのことではない。問題は、誰が“そう見るか”だ。」
劉茂は巻物に手を置いたまま、動かさなかった。
「この封は、韓慎の報告が先んじておる。」
部屋の空気が、白起の背に薄い寒さを添えた。
「韓慎は、事実を曲げてはおらぬ。ただ、書くところを選んで書いた。」
「書くところを選ぶのは、筆の常です。」
「うむ。問題は、“誰に読まれるか”だ。」
劉茂は一息置き、目を細めた。
「白起。この郡には、お前を良しとする者が多い。だが、“良し”という感情は記録には残らぬ。残るのは、印のある文と、監の報告だ。」
「わかっています。」
「ならば、今後、どのように振る舞うかは分かっているはず。」
劉茂は言葉をそこで止めた。白起は、それ以上を問わなかった。
「……帰府の報はこれにて。あとは県に下れ。周季が待っておる。」
「承知しました。」
白起が立ち上がると、劉茂はふと目を細めた。
「白起よ。人の功は、時に土の下に埋まる。だが、埋まったものは根となる。根があるなら、また幹は伸びる。しかし、お前は軍門時代の件がある。宰相のことを忘れるな。」
白起はその言葉に礼を返し、部屋を出た。
郡府を出ると、風が強くなっていた。冬の風は理由を言わない。吹くときに吹く。白起は衣の紐を締め、歩いて県府へ向かった。
上邽の県令は周季という。年は四十に満たないが、事務に聡く、帳と印を正確に扱う人物だった。白起が臨洮に出る前から、互いに言葉は少ないが、仕事は正確に交わしていた。
県府に着くと、周季はすぐに白起を迎えた。
「白起殿、お帰りなさいませ。」
声は丁寧だが、距離があった。その距離の微妙さに、白起はすぐに悟った。
(韓慎の報が、既にここにも届いている。)
「臨洮の帳は、すべて確認されました。」
「はい。」
「賑給の印が遅れた件、掲示札の無印の件、割堤における刻の先行の件。」
「必要でした。」
「必要だったのでしょう。」
周季は淡々と、書を開きながら言った。
「……ただし、必要は“証”にはならぬものです。」
白起はその言葉に頷いた。
「証になるものは何かというと。」
「印です。印と、上の文です。」
「文は止まっていました。」
「止まっておりましたね。あの状況で咸陽の報を待つのは下の下。」
二人はそこで言葉を切った。切ったその沈黙は、敵意ではなく、現実の形だった。
「白起殿。私はあなたを咎めませぬ。ただ、行動は注視していますよ。」
「それで十分です。」
「いえ。十分ではありません。」
周季の声が少しだけ低くなった。
「あなたは“必要を感じれば先に動く者”。その者は、時に政に噛まれます。軍門の時にしかと感じられたはず。」
「噛まれたと感じてはいません。」
「では、傷は感じておられますか。」
白起は答えなかった。答えは、言葉より先に体にあった。
周季は書を閉じた。
「白起殿。あなたには再び天文を司っていただきます。『記す役』は、あなたほど適う者は他におりませぬ。」
「承知しました。」
「ただし、筆は——」
「太くも細くもせず。必要な太さで。」
周季は短く笑った。その笑いは、肩に乗った雪の重みを少しだけ落とすような笑いだった。
「はい。しかし、それが最も難しいものです。」
その後、白起は県府を辞し、帰路についた。
道の上、冬の陽は低く、影は長かった。影は、自身の形を細く伸ばしながら、地に落ちていた。
(臨洮で救った地は、いまはここには無い。——だが、経験は体に残っている。)
白起は歩を乱さず、真っ直ぐ家へ向かった。風は冷たいが、足は止まらない。止まることが、最も危ういと知っていた。
白家に近づくころ、屋敷の前に一人の影が立っていた。裾を冬の帯で締め、肩に薄い羽織を重ね、両の手を袖の中に収めている。杜であった。
杜は白起を見るなり、小さく息を吸い、そのまま動かなかった。走り寄りもしない。言葉を選んでから口を開く。
「白様、お戻りになられましたか。」
白起は頷いた。ただ、それだけだった。それで全てが通じた。
杜の目は少し赤いようにも見えたが、泣いているわけではなかった。泣けるほど余白が残っていないと、白起は思った。臨洮の夜もそうだった。人は泣くより先に、体を動かさねばならない時がある。
「お体は……。」
「うむ、大丈夫だ。」
白起の答えは短かった。杜はそれ以上を問わず、門を開き、白起を迎え入れる。軽く息を整えた後、言った。
「凛は奥にて鍋を温めています。蒋は薪を割っております。」
家に入ると、凛が膝を折って深く頭を下げた。
「白様。……お帰りなさいませ。」
その声は臨洮の雨期の後に見えた、あの一瞬の晴れ間のように静かだった。白起は短く答えた。
「随分と家を任せきりにしてしまったな。」
蒋が薪割りの手を止め、束を肩に抱えたまま勢いなく頭を下げた。
「白様、臨洮での活躍、私たちの耳にも入っていますよ。」
「そうか、良い耳を持っているな。」白起が微笑する。
蒋はうなずき、何も言わなかった。
荷を下ろすと、杜がすぐに紐をほどき、衣を干し場に運んだ。臨洮で吸った土の匂いが、家の空気とぶつかって、しばらく溶け合わなかった。
蒋が湯桶を持ってきた。白起はそれで道中の冷えを和らげる。
凛は鍋の蓋を開け、湯気を確かめると、白起の前に椀を置いた。椀の中には粥があり、ほのかに生姜の香りがあった。
「お戻りになってすぐですが、粥を用意しました。口に合うとよいのですが。」
「生姜か。これからの季節に良いな。」
白起は静かに匙を取った。臨洮の粥と違い、米は崩れず、湯気は澄んでいた。味も整っている。良い薄さだった。薄さが白起の中で音を立てずに沈んでいく。
杜は火の側に座り、言葉少なに白起の旅路の塵を見ていた。やがて、ゆっくり口を開いた。
「……臨洮は、過ぎましたか。」
「過ぎた。諸々、な。」
そこで白起は椀を置き、ほんの少しだけ言葉を探した。杜はそれを急がないまま、ただ待った。
「水は上がり、地は落ち着いた。堤は保てる。しかし、収穫がほとんど流された。冬は越せぬかもしれない。咸陽からの援助があるはずだが、今は軍事にも兵糧を割いている。果たしてどうなるか。」
「白様が無事で何よりです。今後の臨洮は政に任せるしかありませぬな。」
杜は深く息をついた。微笑ではなかった。ただ、体のどこかに入っていた緊張が、ようやく置けたという息だった。
「白様は……また、天文に戻られるのですね。」
「戻る。しかし、臨洮での一件で上が騒がしくなりそうだ。監視の目も強くなるだろう。」
杜は首を縦に一度だけ動かし、言葉を重ねた。
「白様は、どこにあっても白様です。上がどう言おうと、私どもは支え続けます。」
「そうです。白様、若輩の私もできることは何でもします。今は学問だけですが。」
蒋が杜に続けて白起に投げかける。
白起はその言葉に返さなかった。返してはいけないと、どこかで知っていた。
粥を食べ終えたところで、凛が布を差し出した。
「手をお清めくださいませ。」
白起は掌を洗い、指を拭い、膝を正した。家の空気が、臨洮の夜とは異なる形で、白起の背を支えた。
窓の外に風が吹いた。冬が降りてくる気配は、臨洮の夜よりも静かだった。静かであることは、時に救いだった。その静かさが平穏であり、時には孤独でもあった。
今夜、白起は見上げなかった。見上げなくても、空はそこにあった。
【2】上邽天文部との再会
翌朝、白起はまだ薄暗い刻に起きた。昨夜は、旅の疲れで早々に寝所に入った。自分が思っているよりも体は疲れていたようだ。
凛が湯を温め、蒋が庭に落ちた葉を払う音が聞こえる。杜は畑の様子を見ている。白起は防寒具を羽織り、帯を締め、筆と小さな板を袖に入れた。臨洮と変わらない手順だった。
午前は旅の荷を整理し、記録の確認を行なった。今日から天文台の勤務に復帰する。天文部の三人との再会。随分と久しぶりだ。
庭の空気は乾いており、土は凍りかけで固い。踏むたびに浅い音がする。
昼過ぎに食事を終え、白起は家を出た。まっすぐ天文小屋へ向かった。上邽の天文台は、臨洮よりも一段高く、城郭の東端に築かれている。観測台の石段には霜が薄く降り、手摺の欄干は冷たい。
天文小屋の中には、すでに三人が集まっていた。
書記の李温が先に白起に気づき、姿勢を正した。
「白起様、お戻りでございますか。無事で何よりです。」
李温の声は落ち着いていたが、どこかにためらいがあった。それは遠慮ではなく、距離の測り直しだった。おそらく、官吏の部署に関係なく、今回の件は連絡されているのだろう。
続いて、副天文官の程慶が深く頭を下げる。
「白起様、本日より、再び——」
「いつもどおりでよい。」
白起の声は短かった。その短さに、天文部の者たちはほっとしたように息を吸った。白起は、変わらない。変わったのは、周囲の空気の方だ。
観測台の奥には、もうひとり新しい顔がいた。若いが背筋が伸び、衣の襟が正しく整えられている。
新人の雑務役、燕和である。燕和は深く平伏した。
「白起様。燕和と申します。今後、帳の補記と器の手入れ、務めさせていただきます。史狗の後任役と思っていただければよろしいかと。」
白起は頷いた。
「器の手入れは、朝の霜が落ちる前に済ませろ。落ちてからでは、湿りが残る。」
「心得ました。」
燕和は声を張らず、素直に答えた。
その素直さが、臨洮で見た荀潁の最初の立ち姿に似ていた。
「史狗はどうした。」白起が問う。
「史狗は、家族のために出稼ぎに行くと申しておりました。しばらくは帰ってこないそうです。」李温が答える。
「そうか。残念だな。」白起が消え入りそうな声で言った。
観測台に上がると、太陽はまだ傾き始めたばかりだった。白起は圭表の影を見て、まず一つだけ言った。
「表、半分だけ右に傾いている。脚石の下、土を詰め直せ。」
李温がすぐに動き、程慶が補助に回る。燕和はまだ動かない。動かないのではなく、観察していた。白起はその姿を見て、短く言った。
「動きながら学べ。天は待たない。」
「承知いたしました。」
燕和が屈み、石を持ち上げ、土を寄せる。その手際は拙いが、癖がない。癖のない者は直しやすい。白起はそう思った。
昼の挨拶を済ませ、県府の書記室に顔を出した。不在期間の記録を確認するためだった。その後は家で食事を済ませ、夜、再び天文台に向かった。
影が整い、白起は板の端に一行だけ記した。
「初更末、影、直。冬、深まる。」
筆致は変わらない。だが、その一行の裏には、臨洮で体に刻まれた無数の判断の刻があった。帳場に戻ると、棚に新しい書が置かれていた。封の色は地味だが、墨の線は鋭い。
(韓慎の報告書の写しか。)
白起は触れず、ただ棚のどこに置かれたかを見た。棚の中央。端ではなく、上でも下でもない。中央は、「常に視界に入るが、手を伸ばしにくい位置」である。
誰が置いたのか、白起は問わなかった。問いは、必要を生まない。ここにいるのは皆官吏なのだ。上からの指示に従うのが仕事。何も責めるところはない。
ただ、李温がその棚に視線を向ける速さと、すぐに目をそらす速さを、白起は見た。
(上邽は、臨洮のことを知っている。だが、“どう扱うか”はまだ決めていない。)
「白起様、本日の観測の段取りは……」
程慶が遠慮がちに言う。白起は机の上に手を置き、短く答えた。
「冬の星を記す。夜の帳は、五更まで通す。」
「五更……深更まで、すべて、ですか。」
「臨洮では、それで保っていた。ここよりも拙い設備で。」
程慶は息を呑んだ。
「……承知いたしました。」
燕和は顔を上げ、李温は筆の先を整え、空気は静かに引き締まった。
臨洮での日々は、ここではまだ“語り”ではなく“重み”だった。重みは言わずとも伝わる。
観測台に戻ると、空は淡く、風は冷たかった。白起は西に薄く浮かぶ月を見た。
(この空は、臨洮とも、咸陽とも違わない。違うのは、人の置く影の向きだ。)
白起は筆を取った。筆は細く、だが迷いはなかった。
「初更、参・觜、薄。影、真。冬、深し。」
その筆致は、まっすぐだった。まっすぐであるほど、狙われる。だが、まっすぐでなければ、星は記せない。そのことを、白起はよく知っていた。
翌日も観測の職に向かった。夜が早い。昼の短さが極まるころ、丘上の天文台は、空よりも先に静かになる。白起が石段を上がったのは、まだ初更の前であった。
東の低い空はすでに暗く、北風が城郭の外壁をなでて抜けていく。風は鳴らない。乾いている。臨洮の雨期に聞いた水音とはまったく異なる音のない風だった。音がないということは、空気が凍りはじめているということだった。
李温と程慶、それに燕和がすでに器を整えていた。白起は言葉を交わすより先に、圭表に歩み寄る。
「影、短い。昼の端がまだ上にある。」
「冬至が近い、と見てよろしいでしょうか。」
程慶が声を落とし気味に言う。
「まだだ。参宿がこの高さに来てからだ。」
「承知しました。」
白起は星を見る。
冬の星は強い。湿った夜には深く沈むが、乾いた夜には鋭く立つ。東の空に、参・觜・昴・畢がすでに揃っていた。
参は三つの星がまっすぐに並び、觜はその上に小さく光り、昴は細かい粒がひとまとまりになって瞬いていた。臨洮で見た星と同じだ。空が違っても、星は巡る。
「李温、帳を。」
「はい。」
白起は筆を置かず、声だけで続ける。
「初更一刻。風、東北。湿りなし。星、澄む。」
燕和が横目で白起の筆致を見ていた。白起はそれを意識しなかった。ただ筆を進めた。
やがて、影を測り終え、星の位置を記録し、北斗の柄の向きを確かめた。冬は、北斗が西に沈んでいく速さでわかる。柄が地に寝ていくごとに、夜が長くなる。
「呼吸が落ち着きますね。澄んだ空を見ていると。」
燕和がぽつりと言った。白起は目だけを向けた。
「星を見ていると、呼吸が細くなります。気付かぬうちに没頭している自分がいます。」
「この星空を見ていると、自分の大きさを教えられる。私個人など、この空の下では取るに足らない存在だ。」
燕和は少し考え、それからうなずいた。
「はい。……わかる気がします。人間の小ささと言いますか。」
そこで程慶が口を開いた。
「白起様。臨洮でも、今と同じように観測を……?」
「同じではない。」
白起の声は静かだった。
「臨洮では、星と同時に“地”を見ていた。山、川、森、人々。あれは星だけを見るのではなく、星の“輩”を見ていた。眷属とでもいうのか。」
李温が筆先を止める。
「ここは違うのですね。」
「ここでは、“天”そのものを見る。」
沈黙が短く落ちた。
「では、白起様にとっては……どちらが本来なのでしょう。」
それは燕和の問いだった。
白起はすぐには答えなかった。
「本来か。軍門から来た人間には難しい問いだな。」
苦笑し、それだけ言った。
答えは短いが、断たれてはいない。冬の空は、答えを長く必要としない。その厳しい寒さが妨げていると言っても良い。
「帳を閉じる。三更までは休め。」
「承知しました。」
李温と程慶は器を片づけ、燕和は残った墨の濃さを確かめた。白起は筆を袖に戻し、天文台を降りた。
冬の夜は音が少ない。白起の足音だけが、石段に短い響きを落とした。
家の灯は、小さかった。大きな光は必要なかった。冬は夜が長い。光を無駄にしない方が良い。
凛が火を落とさぬように囲炉裏を見ている。蒋は戸口の隙間に布を詰めて風を防いでいた。杜は机の前に座り、書き置きをしていた。
「白様、お帰りなさいませ。」
凛が立ち上がり、湯を注ぐ。言葉はそれだけだった。白起は湯を受け取り、手を温めた。湯はちょうど良い温度だった。
「白様、天は澄んでおりましたか。」
杜が尋ねた。
「澄んでいた。いよいよ冬という感じだ。」
それ以上の説明はいらなかった。しばらく、囲炉裏の火が小さく鳴っていた。
「……臨洮のことは、もう語られますまいか。」
蒋が静かに言った。
「語らなくてよい。私の越権行為も確かにあった。法を基盤にするこの国にとっては致命的だ。むしろ、罰されなかっただけ感謝しなければ。」
「では、忘れられるのでしょうか。」
「忘れることはできまい。これからもずっと。」
白起は湯の表面を一度だけ揺らした。
「軍門にいようと、天文に居ようとな。」
杜が目を伏せ、凛は火を見つめ続けた。誰も泣かなかった。泣く場所ではなかった。泣くことは、余白がある者の特権であった。
だが沈黙は、暖かかった。家人たちは皆、白起の胸の内を知っている。
「白様、俸給と封地は変わらずでしょうか。」
蒋がおずおずと尋ねる。
「ああ、そのままだそうだ。さらに減給されることもないそうだ。」
「伯の投資の件ですが、冬の半ばごろから、少量ながら仕送りを再開できるとのことです。」
杜が暗い雰囲気を打ち消すように言った。
「さすが杜さんの息子さんですね。私も家計を助けたいです。」
蒋がおどけて言う。
「蒋さんは畑などの力仕事をこなしているでしょう。」
凛が擁護する。明るい会話が戻ってきている。白起はそう感じた。今はぎこちないが、いつかは何ものも気にすることなく笑える日が来る。少しばかり雨の日が続いているだけだ。何度も自分に言い聞かせる。
「白様、臨洮の状況は伝わってきているのですか。」
杜が話を変えて尋ねる。
「いや、県府には入ってきていない。しかし、あの被害だ。今年の収穫がほとんど残っていない。咸陽の助力を請うしかないだろう。」
「私たちも安心はできませんね。」
蒋が引き取って言う。凛も頷いている。
家には風が入らなかった。囲炉裏の火は部屋に温もりを与え続けている。白起は湯を置き、静かに言った。
「まだまだ備えるべきことは多い。明日も少し話そう。」
「はい。」
三人が答えた。その「はい。」は、まるで「ここに帰る場所はある」という印のようだった。
白起は目を閉じた。眠りではなく、呼吸を整えるために。冬は深まっていく。だが、家はまだ灯っていた。
【3】不穏な噂
昼の報告会は、郡府と県府の役人が合同で詰所の長机を囲む形だった。冬に入り、陽は低い。格子窓から入る光は鈍く、影は濃い。
白起は末席に近い位置に座していた。天文官は政の中枢に座らない。政の近くにはいるが、政ではない——星と暦は権力より遠く、しかし民より近い。
上座には郡守・劉茂。その右に県令・周季。その横に監察官・韓慎。空気は乾いているのに湿っていた。言葉は少ないのに重かった。
帳簿と備報の読み上げが一通り終わったあと、周季が筆を置いた。
「……次に、臨洮・狄道方面の民情について。」
室内が僅かに硬くなった。
臨洮。それは今や白起の名と切り離せない地だ。誰も白起に視線を向けない。視線を向けること自体が政治になるからだ。
周季は淡々と、しかし語尾を切らずに告げた。
「臨洮の秋の洪水による穀物損失は、当初の見通しの倍。加えて狄道も、霜害と早雪により収穫の七割を喪失した。」
竹簡に目を落としながら進める。
「二県は咸陽に救援物資を請うた。だが——」
一拍。
「——咸陽は、大部分の輸送の停止を決定。」
口調は変わらない。だが意味が変わった。
「理由は軍需。北と東、いずれも戦の準備を急ぐため、兵糧・財・輓馬を優先。民需は後に回すとの通達。」
誰も言葉を挟まない。郡守の劉茂も承知の内容のようだ。韓慎は無表情で前を向いている。
周季は続けた。
「そのうえで、臨洮・狄道へ例年通りの賦課と徴を通達。」
劉茂が低く言う。
「兵糧、兵士、軍税。いつものように取れ、ということだ。秦の方に例外はない。臨洮、狄道には気の毒だが、明日は我が身だ。我々にも平等に災害は来る。」
誰も問い返さない。問い返す価値がない。命令とはそういうものだ。
「しかし——」
周季の声に、初めて棘がたった。
「臨洮と狄道は、いま冬を越す糧すら不足している。それを差し出してなお、戦の備えに加われということだ。」
沈黙。周季は、自分の声がわずかに苛立っていたことを悟り、すぐ抑えた。
白起はまだ口を開かない。すると、ここで初めて韓慎が声を出した。
「ゆえに反乱の噂が生まれている。」
室内がざわつく。予想はしていたが、噂の広がる速さに皆、驚いている。
「民の恐れ、怒りは常に噂となる。それらが共有されれば、計画に変わる。」
韓慎は手元の薄い報告木簡を軽く叩いた。
「すでに私の配下が流動を確認した。集落と集落の使いが冬の市に紛れ、密に往来している。村の寄り合いも頻繁に開催されており、村の主力人物たちの往来も増加している。」
白起の耳が動いた。
「臨洮・狄道・そして羌族の三方が連携の兆し。——まだ形にはなっていない。だが点はある。これを線で結ばれる前に防ぐ必要がある。」
周季が目を細める。
「羌族は交易以外には交わらぬ。その羌族と民が通じる理由があるとすれば、ただ一つ。」
「生きるためだ。」
劉茂が短く言った。
「今年の彼らは税にも徴にも耐えられぬ。耐える前に火を上げるだろう。」
室内の誰も否定しなかった。当然の未来だ。人智の及ばぬ災害に見舞われ、首都からの援助もない。そして、法令違反になれば罰が待っている。そうなればやることは一つ。
白起はそこで初めて口を開いた。
「反乱はおそらくまもなくでしょう。」
一同が白起へ目を向けた。白起は続けた。
「冬の乱は続かない。火を上げるなら、秋のうちに。今は晩秋にあたります。寒さが厳しくなる前に決起するでしょう。兵と民と羌が“生き延びる理由”を一つにできる時だと思われます。」
韓慎が細く笑う。
「では、白起殿の見立てでは?」
「準備は今。蜂起は秋の収穫が完了したと同時に始まるでしょう。各地の収穫物を吸収しながら反乱を続けるはずかと。」
劉茂が指を重ねる。
「……噂は噂で終わるとは限らぬ、と。」
「終わらせるには糧が必要です。しかし、糧は咸陽に吸われます。」
白起の言葉はそこで止まる。止めねばならない。政治は言い過ぎた者から摘まれる。しかし、すでに言うべき最低限は言っていた。
周季が声を低くした。
「白起。お前は臨洮の民を見た。羌の気性も天の怒りも見た。その上で問う。」
「この火種——抑えられるか。」
白起は息をひとつ吸い、短く言った。
「咸陽の慈悲がない限りは難しいかと思われます。」
不穏はざわめきではなく、冷えとして部屋に広がった。
周季は目を閉じた。
「ならば、どうする。」
白起は答えない。策を言う場ではない。政の場で策を言う者は常に埋められる。よって答えは別の形になる。
「この状況を咸陽に報告し、改めて都の意見を求めるべきかと。」
治める言葉ではない。測る言葉だ。測る言葉は罰せられにくい。
劉茂は深く息を吐いた。
「……やはり最善は咸陽の慈悲か。」
「十中八九却下されるでしょうな。」
韓慎が両断するように述べた。
「反乱になれば、最初の標的はこの城になるでしょう。」
周季が劉茂に確認するように言う。
「ふむ、万が一に備え、今日から防衛措置を練る。郡県合同の会議も増やす。各々、職務に励みつつ、頭の片隅に反乱への対策を思い浮かべておくように。」
劉茂が短く言う。
会議はそこで閉じられた。結論はない。報告だけがあった。政とはそういうものだ。咸陽の命を待ち、反乱に備える。
白起は立ち、官房を出た。誰とも目を合わせない。外の冬気は冷たいが、室内より澄んでいた。
帰路を進みながら、白起は心中で短い刻を刻んだ。
——臨洮は噂ではない。東からの太陽だ。
——咸陽は命で冬を越せる。民は命では越せない。
——ゆえに乱は近い。
風は止み、空は静かだった。そして静かであるほど次の音は大きい。白起は歩みを止めず、丘上の天文台へ向かった。
冬の空を測るために。乱れ始めた地の刻を、見逃さぬために。
夜は思いのほか早く来た。郡県会議の重さが肩に残っているのを、白起は何度か確かめた。城外の道は冷え、息は白く地面に落ちる。
丘上に登ると、上邽の城壁の影が夜の輪郭を作り、遠くに低い集落の灯が点々と見えるだけだった。天文台へ続く石段には霜が薄く降り、踏むと音が凍てついた。
台の扉を開けると、李温はすでに器を並べ、程慶は圭表の脚の固さを確かめていた。燕和はまだ墨を擦っている。
三人は白起の出自を知っているが、今夜は言葉少なに作業を続けた。室内の灯は低く、外の冷たさを防ぐだけの役目しか果たさない。
「今夜は、空が澄んでいる。」白起は扉を閉めながら小さく言った。
李温が筆を止め、東の空を見上げる。風が弱く、星が早く立つ夜だった。昴(すばる)は低く、粒が揃って固まっている。
参(みなみの三つ星に相当する配置)は帯のように伸び、觜(し)はその上に鋭く光った。畢(ひつ)は西にかすみ、北斗は柄を低くして西へ傾き始めている。
晩秋の空は、湿りが少なく、星の輪郭が乾いて見える。街の匂いも、木の燃え残りの匂いも、すべて一度に薄くなり、星だけが硬く目に残った。
「こういう夜は、気象が安定しているのですか。」燕和が静かに問うた。
「そうだ。風の筋が安定すれば、夜の降りは少ない。だが、空気の乾きは人の心を乾かす。」
白起は答えた。言葉は短い。短さが言葉に深みを与える。
三人はそれから黙って観測を始めた。白起はまず圭表の影を取り、風向を測り、漏刻の滴を確かめる。
李温が気温の読みを声に出し、程慶が星の位置を板に刻む。燕和は白起の所作を見つめ、筆記を追った。筆の音だけが、台に静かに落ちる。
「臨洮の噂が、上邽に流れているようです。」と李温が言ったとき、筆は一度止まった。言葉は業務の外側にある。
「韓慎の報告が先に回ったのでしょうか。」程慶の声は低い。
「そうだろう。郡では、咸陽からの供給が無いと知れ渡り、徴発の話と兵糧の割当が来た。民の不満、羌族の動き……噂が線になりかけている。」白起は圭表を撫でながら答えた。
燕和は顔を伏せた。若者は噂の重みをまだ完全には理解していない。だが李温は、先に臨洮での白起の働きを聞いていた。民が政府の無策に直面していることを想像し、目を細めた。
「もし反乱が本当に起きるのなら——」程慶が言葉を継いだ。
白起はしばらく黙り、星を見た。参の三つ星の並びが冷たく胸に落ちる。
「反乱は、街を焼くための手段ではない。生きるための選択だ。餓えが先に来れば、人は秩序を捨て火を取る。攻める者が刃を取るとき、守る者は盾で応える。だが、盾だけでは秩序は守れぬ。我々も矛を取らなければ。先に守るべきは、民の避難路と蓄えの移し先だ。」
李温はうなずいた。
「軍は行政ではない。だが、民の動きに対応するには、軍の通達を待たずに場所を確保する必要があると言うわけですか。」
白起は首を振らなかった。策を口にすると、それが記憶に残り、また別の手で刃に変わることを知っている。いつ越権行為で告発されるか分からない。白起の背後を撃ちたいものはたくさんいるはずだ。だが、観測者としてできることは明確だった。
「まず橋と渡し場を確保する。浅瀬をあらかじめ小舟で塞ぎ、主要な橋は二重に守る。民は容易に渡らぬよう動線を作るが、非戦闘民のための仮渡しを一つ設ける。堤を固め、割堤の口を改めて監視し、流路を把握する。井戸は封印せず、燃料は配り場を作る。疫の予防も忘れてはいけない。飢餓と疫病が同時に来れば、秩序は一晩で崩れる。」
「それは、まるで臨洮のときの手順と同じではありませんか。」燕和が問うた。
「同じだ。臨洮でやったことを、ここでもやる。ただし、ここでは役割が違う。上邽は郡の中心だ。ここを守れなければ、支配は途切れる。だからこそ、印と帳が固められる。帳が遅れれば、現場が動くしかない。当然ながら各都市、距離がある。情報の伝達は必ず遅れる。現場が臨機応変に対応するしかないのだ。」
李温は筆をとり、短く要点を書き記す。黒い字が板の上に並ぶ。三人の間に、緊張と同時に確かな秩序が生まれる。観測の手順が、すぐに実務の盤上に変わる。星と堤が一本の線で結ばれるように。
「問題は我々の義務はどこまでか、という線引きです。」程慶がさらに踏み込む。
「援軍は来るのか、来ないのか。」
白起は星を見つめ、次いで程慶に目を向けた。
「軍は咸陽の決を受ける。咸陽が兵糧を優先している以上、兵の提供もあるだろう。されど兵は、助ける者でもある。兵が来れば、秩序は守りやすいが、同時に徴は増す。徴が増せば、民の負担は重くなる。重さが暴動を生む。だから両方の端を同時に用意するしかない。兵に合わせて民の食を確保する。橋を軍が守るなら、民の避難経路は別に作る。軍の手は刃にもなるし、匙にもなる。」
燕和は静かに呼吸を整えた。「それは、私たちの仕事ですか。」
「我々の責務の範囲を超えている。天文官は星を見て政に助言することだ。軍の指揮もしなければ、指揮権もない。だが観測は、先を告げる。風が変われば、気象も変わる。雨が降り、増水が来れば動線は変わる。寒波が来れば民の生活、進軍に影響が出る。観測したことを行政に短く伝え、次の刻を示す。それが私たちに課せられた役だ。」
「では、私たちは——」燕和の声が細くなる。
「記録し、知らせ、必要な時には現地で刻を取る。手を動かすのは民だが、動かす理由を示すのは我らだ。」
そのとき、ふっと屋外の空気が動いた。薄い雲が参の列を少し隠し、夜風が窓を撫でる。台の中の小さな灯が揺れ、三人の影が一瞬ずれる。
李温が最後に言った。「白起様、もし反乱軍が押し寄せてきたらどうしますか。」
問いは直接的だ。会議場でならば、言葉は政治の餌になる。しかしここは観測台の夜。答えは白起の内部から、ゆっくりと出てきた。
「まず、可能であれば民を出す。隣県に避難させる。できなければ籠城だろう。城内の食糧や穀は封を切り、本当に必要な者に渡す。橋は燃やさぬ。橋は保存すべきだ。橋を壊して守るのは短慮だ。そして、防衛線の構築。援軍の要請。次に、医を動かす。疫が来るとき、碗の中の粥と傷の手当てが最優先だ。そして、記録を残す。誰がどこへ行き、何を運んだか。後で問われるとき、記録がなければ私情で裁かれる。もっとも、これは郡長や県令が指揮をとってくれるだろう。」
「記録、ですか」程慶が繰り返す。
「記録は、後の盾だ。咸陽は文で支配しようとする。文に負けぬ文をこちらが先に出す。だが文は時に、人を裁く刃にもなる。だから記録は、中立であること。そのためには短く正確に、刻を示せ。」
燕和は筆を握りしめ、手がわずかに震えたように見えた。若さと責任の重みが、夜の冷気の中で固くなる。
「白起様——つまり、私たちは戦士ではないが、戦の前の灯であるのですね。」李温が静かに言った。
「そうだ。灯は見張りであり案内者だ。灯は消えれば見えぬ。灯があれば、人は道を選べる。ただし、灯は燃料を食う。燃料を誰が配るか。そこが次の問題だ。」
三人はそのまま黙って観測を続けた。参は少し西へ傾き、觜の鋭さが夜に増す。星の動きは確実で、刻は進んでいく。世の動きがどうであれ、空は約束を守るかのように巡る。
白起は墨を少し濃くし、次の新月までの予測を短く板に記した。そこに、避難路の目印と主要橋の監視刻を小さく併記した。文字は簡潔で硬い。読み取れる者にはすぐにわかるが、余白が多い文書だった。
勤務を終え、外に出ると夜風が一段と冷たかった。城下の灯は低く、遠くで犬が一声鳴く。白起は深く息を吸い、星をもう一度見上げた。
空は美しい。だが、その美しさは、人の足が向かう先を変えない。人は空の美しさで腹は満たされない。白起はその事実を、冷たい風に押し付けられるようにして胸に収めた。
家に入ると、炉の火が小さく揺れていた。外の冷気が戸の隙間から細く忍び込み、凛がそっと出迎えに来る。
蒋はいつもの位置に座り、手先で薪の端を割っていた。杜は机の前で記録を見ていた。白起が入る気配を見て、二人が顔を上げた。
「白様、お帰りなさいませ。今日も冷えていますね。」蒋が労う。
「凛が生姜湯を作っております。まずは、それでお身体を温めてください。」
杜が作業を終えて座に加わる。
「皆も遅くまでご苦労だな。」
白起は短く言い、上着を脱いで火の側に寄った。湯気の立つ器が一つ。
「白様、食事はどうなさいますか。」凛が尋ねる。
「今日は飲み物だけで良い。小屋で軽食を摂ったのでな。」
「かしこまりました。」
すぐに凛が生姜湯を持ってきた。白起は掌を差し出し、湯呑みで指先を温めた。臨洮での泥の匂いが衣の縫い目に残っているのを、凛は無言で嗅ぎ取った。
気づかないふりをして鍋蓋を閉め、また少しだけ火を足す。火は家を回すためのものだと、凛は知っている。
「郡と県で、会議があったのですね。」杜が静かに切り出した。
「ああ。臨洮と狄道のことで。咸陽は援助を絞り、徴発を増やすという。噂が出ている。」
白起は素直に言った。言葉は簡潔で、余計な説明はつけない。
「徴発、とは……」蒋が唇を噛んだ。
彼は言葉に弱いが、手は早い。机の上にあった小さな包を取り、紐を確かめるように撫でる。家の仕事を確かめることで、心の乱れを抑えているのだろう。
凛は箸を差し出し、鍋から粥を碗によそう。湯気の中で小さな香が立ち、室の空気が一瞬だけ柔らいだ。杜がその香りを深く吸い込み、ゆっくりと目を閉じる。
「噂が真実なら、民は飢えに追われる。羌の者が動けば、戦の話にもなる。上邽に戻ると、話が遠く広がるのが早いのですね。」杜は言葉を選んで言った。彼の言葉はいつも、事実を織って優しく放つ針である。
白起は湯呑みを持ち上げ、湯気に顔を近づけてから、静かに口をつけた。温かさが胸に入る。やっと戻った場所で、また遠い地のことを噛む。彼は自分の胸の内を言葉で開かない。だが、家人たちはその奥にある疲れを知っている。
「韓慎の報告が先に上がったそうだ。郡守の劉茂、県令の周季もそれを受けている。」
白起は短く付け加えた。名前は口に出すと空気が重くなるが、ここでは隠しはしない。
凛が手を休め、白起の顔を確かめるように見た。
「白様は臨洮で最善を尽くされました。そして、よく戻られました。臨洮での事は……ここではよく思われていないのですか。」
白起は湯気の向こうでゆっくりと目を閉じた。
「皆、咸陽の権威がちらつくのだろう。触らぬ神に祟りなし。私と話すことが、事を良くするとは限らぬ。官吏の出世と私との交流を天秤にかけてみるが良い。一官僚なら言うまでもないだろう。」
杜が箸を止め、短い句を吐き出すように言った。
「言葉は、時に人を動かすが、時に人を縛る。今はどちらを選ぶべきか、と言うことですね。」
蒋が低く笑う。笑いは気の抜けた音になり、すぐに消えた。
「私達ができるのは、飯を炊き、薪を割り、家を守ることだけです。しかし、そういうことが一番大事になる時がくるのでは。」
白起はそれを聞き、湯呑みを置いた。家の小さな円が、生き延びるための最小単位だと彼は知っている。
城の外の大きな計略がどうであれ、この小さな円が先に崩れれば、後の取り返しはつかない。民あっての王国。それが分からねば王家に先は無い。
「もし、臨洮の者が上邽へ逃れてくるようなことがあれば、どうするのですか。」
杜が尋ねる。問いは直接であるが、目は逃げない。言葉は詰所で言うような計略ではなく、家の中の現実的な案を求める響きを含む。
白起は考える。頭の中で、堤の割れた口、濁流に流された家、粥所の列を一つずつ繰り返す。それが答えを形づくる。
「避難所を三箇所用意する。家の空き蔵、城の北側の倉、寺の堂。水は汲み出させる。井戸は封じず、汚れたら煮沸を指示する。病が出れば、隔離の小区画を作る。餓えが来れば、粥を薄くしても皆に回す。だが、これはここだけのことではない。他の郡と連絡を取り、船と馬車の手配を促すように県へ言わねばならぬ。さらに臨洮から来るのは、避難民だけとは限らない。」
蒋は手を止め、凛がゆっくりと湯を注ぎ、神経質に鍋の縁を拭った。杜も厳しい表情を崩さない。
「つまり、反乱軍がここに攻め寄せてくると言うことですか。」
蒋が沈黙を破って聞く。
「そうなる可能性もある。どちらの道を行くかは咸陽の心次第。我々はどの状況になっても最善を尽くすだけだ。たとえ、同胞を手にかけようとも。」
「白様、それは、あなたの仕事ですか。」凛が訊く。問いは責務の所在を確かめる。
「いや、私の仕事は、刻を読むことだ。刻を示せば、動く者がいる。動くのは民であり、官だ。時には兵でもある。誰が何をすべきかは、刻に示せば分かる。だが、刻を示すだけでは足りぬ。行動を促すための器をつくるのは、ここにいる人々の仕事でもある。お前たちのような——家の者の、日常の仕事が、最も直接的に人を救う。籠城戦ともなれば場内全ての民が戦闘要員となる。つまりは総力戦だ。」
凛は下を向いたまま、食器を片す。白起の湯呑みに二杯目の生姜湯を注ぐ。差し出す行為が、今は最も雄弁な援助である。
「杜。記録を持って来てくれ。簡単な札をいくつか作る。誰が来たか、何を渡したかを書いて蓄えよう。蒋、明日の朝一で在野の情報網を構築する計画を始めてくれ。近隣の情報をいち早く知るための。凛、家具は運び出せるように整頓しておこう。」
命令は小さく、家事の形をしていた。杜は黙って筆を取り、短い札を折って書き始める。蒋は黙って木を割り、凛は鍋の火を見つめる。家の中での動きが、行政の言葉よりも早く進む。
白起は短く息を吐き、湯気に顔を沈める。外の世界で起きていることは重大だ。だが、ここで整えた小さな手順が、遠い日には大きな差を作る。彼は自分の体がまだ動くことを確かめた。動くなら、役目はある。
杜がふと顔を上げ、一行を呟いた。
「詩では、こう書けるかもしれません。『冬の前の戸の中、手を動かす者は殆ど詩を知らぬ。だがその掌は世界を救う』」
蒋は少し笑った。笑いは短く、火の側に柔らかく落ちた。
白起は笑わなかったが、微かに目を細めた。笑いは不要だと彼は思ったが、家のなかに笑いがあることは、それだけで救いになる。夜は深まり、外の冷えは一層強くなった。だが家の中の灯は小さくとも確かに燃え続けていた。
【4】臨洮の変
晩秋の朝は冷たく、町の肌を引き締める。市場の布は早々に畳まれ、屋台の者は手早く荷を点検していた。だが、物の並びはいつもと違っている。
乾物の列に混じって、鋤や鍛冶の小さな鉄片が目立ち、薬草棚には消毒用の樟が増えていた。人の足取りが早く、喉の奥で言葉を噛んだまま街角で立ち止まる者が多い。噂はこうして、姿を得る。
白起は昼の報告会の余勢で市に出たのではない。天文の仕事の合間に、民の顔を確かめるためだった。観測台から下りる道を選び、裏通りを抜けて市場へ入る。
人の顔は皆、同じく硬い。だが硬さの理由は違う。ある者は冬の寒さに耐えるために。別の者は腹の空きに耐えるため。白起はその違いを、すぐに見分けた。
露店のそばで、若い駄馬車の者が小声で話しているのが聞こえた。
「臨洮のための援助が少ないらしい。兵糧が先だってよ。他国を攻めても俺たちの腹は満たされないよな。もちろん臨洮の奴らの腹もな。」
「よせよ、どこに耳があるのか分からないんだぞ。」
その声は驚きを含まず、知らせとして冷たく渡る。
隣の老人がわずかに顔を顰めて、「ならば税を上げるしかあるまい。」と呟く。
駄馬車の者は首をすくめた。税を上げれば、客は消える。客が消えれば、兵糧より先に店が潰れる。
白起は立ち止まり、声の主を見た。若者は白起を一瞥し、すぐに視線をそらす。見られることを嫌う。見られると、噂は加速する。噂が加速すると、計画が固まる前に手が出る。
手が出れば、城の控えの者は動かざるを得ない。白起は言葉を発しなかった。ただ、筆のように短い間で地形を測り、どの道が混雑し、どの道が空くかを頭の中に記していった。
市場の奥で、女が果物をさばく小さな屋台に寄った。売り物は少なく、果物の皮が数切れ残っているだけだ。女は客の顔を一つずつ見て、黙って小銭を受け取る。
白起を見て、短く頭を下げた。その一礼の奥に、頼みが含まれているかもしれない。だが白起は答えず、代わりに周囲を見回した。
人々の目は避け合い、会話は断片で終わる。噂は全体として確かめられる術に乏しく、だからこそ増幅しやすい。
「あの、お役人様。これから臨洮で戦が起こるという噂が広がっています。真でしょうか。」
「いや、噂に過ぎないだろう。しかし、臨洮の被害は甚大だ。」
「さようですか。飢えは何にも勝る武器になりますから。」
消え入るように女は呟く。
「もっともだな。」白起が短く答える。
夕刻が近づくと、噂の実体が動き出した。まずは小さな事柄からだ。郊外の一集落で薪が奪われ、若者数人が山へ戻らぬという話。
次に、臨洮方面の奴隷市で、商人が袋詰めの穀を抱えて逃げたとされる。噂は順繰りに次の噂を呼び、幾つかの事象が繋がると、線が生まれる。線はやがて流れになり、流れは人の足を動かす。
郡府の詰所では、役人が日暮れ前に集まり、近隣同士で報をやり取りしていた。白起は招かれたわけではないが、用件があると見てそこへ入っていった。
周季と劉茂が書類を積み上げ、韓慎がいつものように一枚の写しを手にして座している。表情は政治の輪郭を映して無表情に近い。ここで声高に議論する者は居らず、皆、何を言っても記録に残ることを知っている。
「噂が実体化しつつある。」と周季が短く述べた。
「臨洮、狄道、羌の近隣で、食糧の欠乏と納税および雑役の拒否が確認された。韓慎の報告がそれを後押ししている。」
韓慎が巻物を押し出す。目は冷たく、文言を追う。声は説明で済ませるように低い。
「集落の使者が夜に往来し、密談が増えた。羌の部落は牛馬の移動を加速している。臨洮の村々では、既に食糧を隠す兆候がある。正確な動員は未だ確認されぬ。だが——連携の線はある。」
劉茂は手元の記録を指で押しながら考えた。彼の口は抑制を帯びる。
「咸陽の答えは硬い。戦の備えが最優先だ。民需は後だ。だが、臨洮方面の民が先に動けば、我らは咸陽の報を待てない。彼の地の民衆、正規軍、羌族が連携すれば数万の動員になる。物事の良し悪しではなく、反乱の現実がすぐそこある。」
周季が竹簡を畳みながら、白起へ顧みる。
「白起。臨洮で動いたあなたの目で見たことを教えて欲しい。噂を判断したいのだ。」
白起は静かに頭を振り、言葉を置いた。
「噂は、既に事実の一部です。民は怒り、羌は動く。民は餓えで秩序を取る前に、まず武器を取るでしょう。やがて進軍先はここになり、反乱軍が押し寄せてくるでしょう。」
彼の言葉は簡潔で、主旨は明確だった。だが会議室の誰もが、その簡潔さに耐えられるほど余裕は持ち合わせていない。政治は言い逃れが効く言葉を好む。白起の言葉は言い逃れが効かない。
部屋の空気は次第に冷たさを増した。誰も楽観しないが、誰もすぐに大規模な動きを命ずるほどの権限は持たない。劉茂は長く息をつき、指で額を擦った。
「軍を呼ぶにしても、兵糧と荷馬車がいる。軍を動かせば税は更に重くなる。税を重くすれば、民は消耗する。針の上を歩いているようだ。」
「しかし、反乱軍に首を取られるより良いでしょう。」
韓慎が冷えた声で言った。誰も反論しない。
「上邽の近隣で盗賊と思われる一団の略奪が報告されています。しかし、聞くところによると、統率の取れた動きで、各地の手口も一貫しているようです。統率された組織の仕業と思われます。」
周季が淡々と報告する。
「さらに略奪の内容はどれも食糧品と武器類のみ。死者は出ておらず、抵抗したものも負傷に留まっています。目的は物資の獲得と見ることができます。」
「それを臨洮方面に集結させているわけか。」劉茂が引き取る。
「はい。だが、それでは冬は越せない。限界が来るまでは物資を確保する。それまで咸陽の方向転換を待つつもりでしょう。」
「堰が切れるのも時間の問題か。咸陽は動かないだろう。」
会議は何の結論も出なかった。
その夜、白起は天文台へ戻ると、星の動きをいつもより念入りに追った。空は澄み、星は鋭く見える。だが空の確実さは地上の確実さに繋がらない。
人の行動は星の巡りに合わせられず、むしろ星の巡りを無視して動く。白起は影を測り、漏刻の滴を数えながら、心の中でいくつかの線を引いた。
どの橋を封ずるか、どの倉を開けるか、どの道を避難路とするか。線は実務の言葉になる。実務の言葉を残すことで、後に誰かが何かを問うときに、答えを用意できる。
「白起様、昼の会議はどうでしたか。」程慶が問う。
「何も決まらなかった。ただ事態を静観するのみだ。我らのようにな。」
自嘲混じりに白起が答える。
「なぜ咸陽は臨洮を見捨てるのでしょうか。領土拡大が優先されると言っても、自国の民無しでは国の運営はできません。」
李温が批判を込めて言う。
「臨洮以上に重要な作戦が実行中ということなのだろう。臨洮よりも大きい益。果たしていくつの邑を取るのか。奴隷を連行するのか。捕虜を働かせるのか。しかし、それは消耗の上に築かれるもの。恨みの混じった功績だ。」
「もし反乱が起きたとして、最初の標的はどこになるのでしょうか。」
燕和が恐る恐る聞く。
「ここだな。」白起が即答する。皆、沈黙した。
翌日の朝、市場の噂はさらに具体的になっていた。村長の息子が武器の準備をした、という話から、村の名が挙がり、とうとう臨洮郊外の砦で小競り合いがあったという断片に至る。
噂が連鎖していく様子は、火が枯れ草を渡るように早い。どの時点で草を刈れば良いのかを判断するのは難しい。
草を刈りすぎれば、民の不満は増し、刈らなければ火は燃え広がる。どちらに転んでも損害が出る。
白起はその朝、郡府へ向かった。詰所の門の前には、既に数名の逃げてきた者が列をつくっており、役人に何かを懇願している。彼らの顔は泥と眠気で汚れており、着物は擦り切れていた。
白起は行列を見て、静かに歩を進めた。列の端で年老いた男が白起に気づき、手を挙げる。男は短い言葉で息を切らしながら言った。
「助けてくだされ。臨洮郊外の者です。武装した人間が村に押し寄せてきました。村は火の海。子が泣き、家も燃えました。」
白起は男を見て、沈黙のまま一度だけ頷いた。
頷きが慰めや解決にはならないことは承知している。だが頷きは、願いを受け取った証だ。受け取られた願いがある以上、何らかの計測が必要になる。計測こそが白起の道具である。
郡府の大広間で、劉茂が強い語気で言った。
「臨洮で反乱が勃発した。早馬が飛んできた。県は反乱軍によって占拠された。同時に狄道県も加担しているという情報も来ている。羌族の影も。おそらく臨洮近隣を制圧し、そこからここに迫るだろう。救援を請う使者を咸陽に出す。しかし即時の援軍は望めぬ。そこで我らは緊急の措置を取る。まずは、郡県の防備を固める。郊外の民を南に移動させ、備蓄を城内に移す。備蓄の一部を開け、民に回す。だが、それは長続きせぬ。」
周季が引き取る。
「また、橋や渡し場の監視を強化する。動線を分け、非戦闘民の避難路を明確にする。軍はまだ動かせぬが、近隣の節度のある指揮者には援助を要請する。まずは民の動揺を抑え、総力戦の体制を構築する。おそらく反乱軍は数万を超えるでしょう。ここの兵力では長くは持たない。不幸中の幸いで上邽は天然の要害。自然の防御線をうまく用います。」
その決定は冷静だが脆い。誰もがわかっているのは、言葉と物が乖離しやすいという現実である。物は手で動かせるが、言葉は遅い。物の手配は急務だが、車馬は限られ、道は泥でふさがりやすい。実務の計画は、言葉より先に土の上で壊れる。
午後になって、小さな火の手が臨洮郊外に上がったという報が入る。最初は倉の不始末のように思われた。次に、近隣の村で役人と民が衝突したとの連絡。
人の群れが街道を走ったという。噂が現実を追い越した。白起は天文台の板に、いつもより濃い墨で刻を書き入れた。どの時刻にどの方向の風が強かったか、どの刻にどの橋の監視が薄かったか。刻は未来の責任のための盾となる。
夜になり、城の周囲には人影が増えた。だが人影は、武器を持つ者と持たぬ者の混在である。武器を持つ者は泥を含んだ手で素早く動き、持たぬ者は子を抱え、目を泳がせている。上邽の街はその日、噂が現実になりつつあることを静かに受け止めた。
白起は窓の外に立ち、北の低い空を見上げた。冬の星は変わらず鋭く、参の列はまっすぐに伸びていた。空は約束を守る。地は約束を守らない。
風聞が姿を持った。風聞は既に名を持ちつつある。名を持った事柄は、やがて動く。白起は墨を拭い、筆をしまい、明日の刻をまた一度だけ内で並べた。明日は、動かねばならぬ日になるだろう。
臨洮反乱から幾許かの日が過ぎた。午前の始業の鈴がまだ響き残る頃、城外の高所に最初の煙が立った。最初は訓練の狼煙かと誰もが思った。
冬の寒さを言い訳に、藁や杉を焼く者は多い。だが、二本、三本とたて続けに上がると、そこに訓練の気配は薄れ、別の名が生まれた。烽火は合図だ。合図は、夜の帳だけではなく、日の中でも人を動かす。
最初の烽煙は対岸の小さな砦からだった。報はすぐに城門の番所へ入り、伝令が駆ける。門番の顔に瞬間的な緊張が走り、太鼓の打刻は変わらぬままに少しだけ速くなった。
郡府は即座に動くべきだと判断したが、兵は城外に張り出せぬ。理由は明白であった——兵糧と馬が不足している。咸陽の答は冷たく、軍事作戦が優先である以上、即応は望めなかった。しかし、援軍の要請には即決した。
だが、動かなければ火は広がる。城門内での議論と、城外での事態は時間差で進む。城外の現実は、火が小さくとも、民の足をすでに震わせていた。
最初の夜、白起は家を出て、城外の道へ向かった。呼吸は白く、足は静かに土を踏んだ。彼は天文の眼でなく、地の目で見るためにそこへ出たのだ。
砦のそばでは小競り合いが起きていた。農夫に混じった若者たちが木槍を振るい、砦の側兵が矢を放ったという。矢は人を正確に貫くものではないが、恐怖を正確に伝える。
恐怖が伝播すると、群衆は自分の品物を縄で縛り、家族をまとめ、走り出す。走る者の後ろから来るのは、乱暴な略奪者である。
最初の夜の乱は局所的で、人の血が混じる前に鎮まるかもしれぬ事案だったが、火種は既に土の中に深く埋まっていた。
翌日、第二の烽火が遠方で立つ。臨洮方面だという。報せは一度だけではなく、複数の街道を経てくる。噂が情報に変わり、情報が確証を得る。
郡府の詰所は急遽、会合を開いた。劉茂は冷静に書類をまとめ、周季は地図を広げ、韓慎はそれを見て作戦を練る。誰もが自分の役割を知っているが、どの役割も相互に利くまでに時間がいる。
「反乱軍は徐々に迫ってきている。」と韓慎は報告した。
「狄道の北側、いくつかの集落で、役人の取り立てを拒否した。羌の部落は牛馬を移動させ、通商路を封じようとしている。これが本格化すれば、物流は大きく途絶する。」
「本格化すれば、という段階はもう過ぎたのではないか。白起、どう見る。」と周季が言った。
周季の顔には疲労が滲む。役人の言葉は時間の重みに耐えるほど鈍い。白起が横に立ち、静かに口を挟む。
「本格化しているかと。しかし“全体”ではないと思われます。反乱軍と言っても、正規軍のような統率はありません。点が増え、まだ線になり切っていない。ですが線になれば速度が変わります。咸陽が兵を出すには時間がかかります。対処は、今すぐに現場で始めるべきかと。」
現場で始める。言葉は簡潔だが、そこに含まれる負荷は重い。城外では小さな自警団が自然発生的に生まれ始めた。農夫の中には、日頃の鋤を槍代わりに結束する者もいた。
家門を守るために太鼓を抱え、夜警の数を増やす。だが、武術と訓練は別の話だ。集まった群は熱と怒りで燃えるが、統制と補給がなければ長くは持たない。
白起は郡府からの帰路で、臨洮の県令である田陵に短い書簡を打たせることを思った。直接の命令でなくとも、現地との情報の流れを太くする。
だが、県令が殺されている可能性もある。真っ先に狙われるのが県府だ。もしかすると、県の官僚も蜂起に加担しているかもしれない。官吏の中には羌族との繋がりがある者も多い。
ここから先は二種類の動因ある。逃走し生存を優先する行為。もう一つは、生存のために他者の生存を奪う行為だ。
三本目の烽火は、朝方に近隣の山間部で上がった。これが合図になり、山の道を伝わって人々が動き出した。郡府はついに兵の小隊を出す判断を迫られる。
兵は出る。だが、兵は護るためか、奪うためか、あるいは二つを兼ねるのか。咸陽の軍は“戦のための兵糧”を確保している。だがそれは、必ずしも民のために使われるとは限らない。現地で兵を運用しなければ、動く者が別の理由で手を出す。
城の外、夜は短く、人々の疲労は日毎に濃くなる。最初の衝突があった村では、貧しい家が燃やされ、逃げ惑う者が多く出た。
燃える煙の匂いは人の記憶に深く残る。燃えたものの横で、子供の泣き声が小さく溶ける。これを見て、他の村の者は決定を早める。安全よりも行動を選ぶことが、雪崩を作る。
白起は天文台から夜ごとに報を上げた。星の観測と同時に、彼の板には「人の動き」も記された。どの集落がどの道を使ったか、どの橋がどの時刻に渡られたか。観測の技術を使って、人の群れを計測する。
報告は冷たいが、冷たさゆえに説得力を持つ。白起はその報告を持って郡府へ走る。役人は帳面で判断を組み立てるが、帳面の材料は白起の刻である。
市井では、大規模な混乱はまだ起きていない。だが物々交換が増え、金銭価値は下がり、物の価値が先に変わる。糧や油、塩、薬草が店の奥に引っ込められ、卸元は口を噤む。
運び屋は価格をつり上げる。経済の歪みが現れ、歪みはまた人の怒りを育てる。怒りは理性を曇らせる。人は空腹の時、議論より刃を選ぶことがある。
郡府は応急処置として、蓄えの一部を開けて民に分配することを決めた。これが火に油を注ぐのではないかという懸念もあったが、目の前の人間の腹を満たさねば混乱はすぐに暴動に変わる。
臨洮方面、近隣から逃げてきた民を養う必要もある。幸運にも今年の収穫は多い。多少の人口増加でも問題はない。
周季は幅を持たせた対応を志向し、白起はそれを実務として設計した。倉の鍵を外し、配給所を三箇所に設け、記録員を立てる。記録は後で誰かに突かれるときを考えた最低限の盾であった。
反乱の火は徐々に臨洮から城壁へと近づいてくる。ある日の夕方、城の北側の郊外で小競り合いがあり、村民が負傷した。負傷の知らせは民心を揺らし、敵意の輪郭をはっきりと見せた。
村人達は怒り、兵は警戒する。双方の境目は、いつの間にか薄い水のように透き通り、すぐに破れるような近さになっていた。
反乱軍が迫っている事を知らせても、村に残る人間がほとんどである。なかなか全てを捨てて移動はできない。村人にもこれまでの歴史がある。
白起はその夜、城外の監視部隊の再編を提案した。彼は防御の具体を指示する。重要なのは城内外の流動を区別すること、非戦闘民の避難路を確保すること、そして橋を破壊せぬことだった。
橋を破壊すれば短期的には侵入を遅らせるかもしれないが、長期的には物流の回復を難しくし、民の生存をさらに困難にする。白起の論理は単純だが、政治的には危険である。守るための行為が、越権の糸口となるのを彼は承知していた。
夜間、城壁の上から見下ろすと、下方の畑に赤々とした火が何ヶ所か点在している。火は小さくとも、風に乗って種を撒くように周囲に熱を与える。
夜は活動を促す。暗がりで人は楽に罪を犯す。城の守りは堅いが、堅さは人の腹を満たさぬ。民の怒りは、時として門番の袖口を通り抜ける。
翌日、臨洮の一隊が上邽に接近したという偵察が入る。人数は数百と見積もられ、武器は鋤・槍・弓矢・古い鎧の寄せ集めだ。正規の軍とは形が違う。おそらく斥候。
数の圧力は無視できない。後方には反乱軍の本体が控えている。圧は物理であり、精神であり、時間の進み方を二重に変える。
劉茂は短く指示を出す。倉の分配を倍増し、避難所の軸を増やす。病人の優先順位を決め、夜間の見張りを細かく割る。これらの指示は単純だが、実行は複雑だ。物資の分配は現場の判断に委ねられ、現場は混乱する。
当夜、城の外では小さな衝突が続いた。槍の先が光り、火が揺れる。悲鳴と命を守る叫びが交互に重なる。城内では、子供の泣き声が止まらない。誰もが疲れている。誰もが次の朝を待っているが、その朝が安泰を約束するかはわからない。
白起は天文台へ上がり、石段に腰を下ろした。空は澄んでいる。星は冷たく、明らかに美しかった。だが空の美しさは平和をもたらさない。
烽火は試しにすぎないか、それとも本格の序曲か。白起は墨を濃くし、板に短く記した。
「烽火三。人数推定、数百。武器混成。民の流動、増大。橋は保持。避難路三。記録を絶やさず——」
記した言葉は短い盾であり、次の波を受けるための位置取りでもあった。だが彼が知っているのは、盾がどれほど厚くとも、風と火の両方を完全に止めることはできないという現実であった。
そして、次に来るのは春ではない。来るのは恨みの混じった日々かもしれない。
【5】上邽攻防戦
城内の朝は、ざわめきから始まった。太鼓はまだ日課の刻を叩いていない。にもかかわらず人が動いている。
門をくぐる役人たちは往時の慎重な足運びをしていなかった。早い。衣の裾が揺れ、誰もが小脇に文木簡か布袋か、そして焦りを抱えていた。
郡府の大堂にはすでに人が揃っていた。
郡守・劉茂。県令・周季。監察官・韓慎。軍吏筆頭・曹遠。それらに従う幹部官吏。そして白起。
卓を囲まず、地図を置いた大板を挟んで立つ形式——それだけで会議の性質が分かる。机は秩序、立席は緊急。
劉茂が口火を切った。
「今朝、臨洮、狄道の全域が落ちたと言う早馬が来た。昨日から反乱軍の斥候と小競り合いが発生している。おそらく本隊が来るまでの繋ぎだろう。偵察の情報では、徐々に兵数を増やしており、数千の規模に膨らんでいるらしい。臨洮、狄道、羌族が連合すれば数万となる。全軍がここに来なくとも戦闘は免れまい。」
周季が食い気味に続ける。
「上邽の山川が天然の要害となっております。時間は稼ぐことはできますが、長くは保ちません。」
曹遠が腕を組み「それで」と睨むように言った。
「武装勢力は何を掲げている。旗か、主張か、それともただの飢えか。」
韓慎が薄く口角を上げる。悪意ではなく、官僚的な冷笑だ。
「旗などまだ掲げておりません。ですが声は揃っている——
“税も兵も出せと言い、米も助けも出さぬ咸陽に従う義はどこにある”と。」
曹遠は吐き捨てるように言った。
「反徒の常套句だ。腹が減った民ほど声が大きい。幸いにも防衛戦の構築は済んでいる。援軍の到着までは耐えられるはずだ。」
周季が睨み返す。
「腹が減った民を作ったのは誰だ。咸陽か、我々か、天か。答え次第では、この部屋の全員が反乱軍の矛先に立つぞ。」
空気が一瞬止まった。
白起はその間、誰も見ず、ただ地図に引かれた街道線を見ていた。それに気付いた劉茂が促す。
「白起、軍事経験のあるそなたはどう見る。」
白起は声を抑えたまま言った。
「反乱軍の形が整ってきております。民が連なる速度が速い。あと三日ほどで万に達するでしょう。十日もすれば総攻撃が始まるかと。」
曹遠が眉を跳ね上げる。
「十日だと。」
「最速で十日。反乱軍が北と東に軍を分散していれば話は変わってきます。」
曹遠は思わず前に出た。
「兵を出せと言いたいのか。」
白起は視線を上げない。
「集結する前に一撃を加えることも策の一つと申したまで。」
その返答は冷たくない。事実そのものだった。
韓慎がゆっくりと言う。
「では守るだけか。城に籠もり、正規軍を待つだけと。」
白起は初めてまっすぐ韓慎を見た。
「守るだけでは奪われましょう。動くだけでも壊れる。守りながら、動くことです。天然の要害を用いつつ、地の利も活かす。敵に脅威を与えることで身構えさせる。こちらは動く姿勢を見せつつも、一番の目的は持久戦に持ち込むことです。」
曹遠の苛立ちが爆ぜた。
「言葉は美しいが答えになっていない。結局は籠城戦であろうが。どっちつかずの策だ。」
「策は無数にあります。どれを選択するかです。」
白起は淡々と繰り返す。
「線になる前に断つ。帯になる前に削ぐ。同時に城への攻撃を防ぐ。」
周季が小さく息を吐いた。
「だがどう受け止める。こちらは兵も蓄えも足りぬ。反乱軍は飢えと羌の馬で動いている。生への執着が違う。」
白起は一拍置き、言った。
「まずは民の腹を掴むことです。」
全員が一瞬止まった。周季が眉を寄せる。
「……民に食わせるのか。今この状況で。」
「城内の民に十分な分配をする。それだけで秩序の安定に繋がります。秩序は防衛の要となるでしょう。」
曹遠は鼻で笑う。
「理屈遊びだな。一度、攻撃が始まれば混乱は必至。」
「古今東西、城内からの内通で城が陥落する例は多いです。」
白起は視線を板から離さずに言う。
「道です。逃げ道、行き道、帰る道。その三つを設ければ人は選ぶ。
行き場の無い者だけが槍を取ります。逃げたい者はそのままに。」
重い沈黙。
劉茂が静かに頷いた。
「……避難民の誘導路、三路設置。救援倉の臨時解放は。」
周季が乗る。
「東西の門、北の河に通ずる門となります。配給の際は、人の流れを絞らねば押し潰されるでしょう。」
監察官・韓慎が一歩前に出た。
「動員の記録は残すように。配給、移動、死者、脱落、全て。後で必ず数を問われる。」
曹遠が吐息混じりに笑った。
「兵の前に記録か。」
韓慎は冷ややかに返す。
「この国では記録が兵を裁く。」
その時、外から伝令が駆けこんだ。
「北の集落、狼煙五!」
曹遠の顔色が変わる。
「五だと。嫌に多いな。」
周季が椅子も座布も蹴るように立ち上がった。
「もう猶予はない。決めねば民を裏切ることになる。」
劉茂は一瞬だけ目を閉じ、告げた。
「配置を通達する。北門は白起。東門に韓慎。南門は周季。西門は曹遠。平時の部署とは異なるが、緊急事態だ。各々、援軍の到着まで門を死守せよ。」
「はっ。」
城の鐘は以前より早く鳴った。朝の鐘というよりは緊急の触れに近く、低く、短い。鐘が鳴ると、城内の営みは瞬時に輪郭を変えた。
行商の呼び声は消え、門前の市場は人影を消す。焚き火の煙はいつもより高く立ち、店先の品は軒下に引き寄せられた。風は冷たいが、空気の冷たさの奥には熱があった。人々の血は既に局所で熱を帯びている。
城門前の広場には木箱や袋が積まれ、兵士がそれを睨むように見守っている。白起がそこに立つと、人数の差は目に見えないが、動きの差が明確になった。
動く者は決められた動線を守り、動かぬ者は自分の家の戸を固く閉ざす。どちらにも感情がある。だが感情は行動へ変換されない限り、歴史にならない。
「城門を閉ざす。だが橋は落とすな。民の逃げ道は残しておく。」
白起は短く言ってから、周季の方へ歩み寄った。周季は地図を膝に抱え、寒さで赤くなった指で幾つかの点を指した。周季の表情は固いが、顔の筋肉はまだ余裕を保っている。
劉茂は広場の端で兵の動きを見ている。曹遠は馬上で顎を擦り、韓慎は報告書を胸に抱いている。全員の目が短い会話のあいだに交わされた。
「橋を破らぬのはなぜだ。」
曹遠が詰問するように問うた。声は風に溶けにくく、切り立つ。
「橋は、民の脱出路であり、戦の後の通商路、そして救援軍の通路だからです。壊せば回復は遅れます。」
白起は答えた。答えは冷たいがそこには実務の根拠があった。曹遠は歯を食いしばる。
「しかし封鎖が甘ければ、敵はそこから城へ接近しやすくなる。城内の秩序が崩れれば、お主の『救援』も空論になる。」
「秩序を守るために我々がいるのです。」
白起は手を軽く掲げた。
「人の流れを橋と街道に集中させます。橋は落とさずに使わせる。橋を守る兵も城内に引き上げて構いません。戦力の集中は管理を容易にします。」
曹遠の唇が細く結ばれた。
「見せかけか……それで無事に籠城を戦えるのか。」
「見せかけは、時に現実を作る。」周季が間に入る。
「士気も、恐怖も、秩序も、見せ方で増減する。白起の理は見せるための理だ。だが見せる者もそれを運用できねばならぬ。城内が一致してこそ作戦は活きてくる。」
城の百姓や行商は、城門の下に集められて小さな行列を作っている。子が泣き、老婆が何かを口にする。白起は行列の端に歩み寄り、低い声で一人ずつ顔を見た。
顔には泥が混じり、着物の裾は擦り切れている。誰も彼に大声で愚痴を吐く者はいない。愚痴は腹を満たすわけではないと知っているからだ。ただ視線は訴え、目は何かを求めている。
「隣県へ避難する者が優先だ。まだ時間はある。落ち着いて動くのだ。」
白起は小さな声で指示を出す。指示は短く、しかし動線と数の管理を直ちに可能にした。
詰所の役人が走り出し、城内に避難してきた人々のために小屋が確保される。人々の動きはそこからゆっくりと秩序を取り戻す。秩序は必ずしも安らぎではない。
午後にかけて、城内は準備と調整の時間となった。井戸の前には桶が並び、井戸番が水の汲み方を説明する。
食糧の倉にはすでに鍵がかけられ、配給員が決められる。老若男女が集められ、別々の区に振り分けられる。
ある者は仮設の寝床へ、ある者は城の東の医局へ、ある者は糧秣の管理所へ。役割が決まるたびに人は動き、次第に具体的な秩序になった。
「夜の監視は二つに分ける。外周と内周。外周は外部からの侵入を探知し、内周は秩序の維持を担う。」
白起は詰所の帳場で、木札に短い項目を書き連ねた。字に倦怠がない。ここに記された言葉は、暗闇で惑う民の答えになる。
曹遠が食い下がるように言った。
「内周といっても、ここは民で溢れる。民の中に紛れた武装勢力がいるかもしれぬ。どうやって見分ける。」
「武装は粗放です。武装がいるなら、動き方が違います。目つき、外見、荷。——経験は数字より当てになります。」
白起は静かに答えた。曹遠は不承不承に肩をすくめた。
翌日、反乱軍の本隊が上邽の北から西にかけて集結した。城の北壁は風をまともに受けた。晩秋の末、夜に霜が降り、昼は乾く。臨洮に迫る反乱軍は、臨洮・狄道・羌の兵農混成。
見えるだけでも幟の列は遠くまで続き、隊列は絶えない。数は二万。城側は兵と民夫を合わせて五千。城の四門に将が立ち、北は白起、西は曹遠、東は韓慎、南は周季が総指揮を兼ねる。激しい圧は北と西に来ると見た。白起の北門は二千の兵が割り当てられていた。
初日、城中の配りは短かった。周季が詰所で言う。
「太鼓二打は“入替”、三打は“総出”。角笛、短一“敵襲来”、短二“敵撤退”、長二“消火動員”。——弩はできるだけ温存せよ、石は胸壁の背にできるだけ多く集める、目の良いものは門楼に登れ。」
白起は頷き、北門の胸壁に立った。弩手の列を二つに割り、投石と交互に回す。梯子払いの鉤竿は胸壁の穴から出す。火矢の火災は砂で殺す。
上邽は城の南側に川があり、その水を濠に引いている。そのため南門は天然の要害になっている。
北側も少し離れたところに川がある。敵の進軍を鈍らせる効果が期待できる。東門付近は大街道が整備されているが、付近は湿地になっており、進軍には不向きである。
問題は西門である。こちらも大街道が整備されている。しかし、開けた平地が広がっており、攻める側に利がある。
劉茂はそれを見込んで軍吏筆頭の曹遠を当てた。同時に軍事経験のある白起を隣の北門に置いた。救援に時がかからないからである。
反乱軍の配置から見るに激戦となるのは北と西。まずは劉茂の采配が光った。
敵の鬨が北と西で重なった。反乱軍が寄せてきた。北門の白起は敵の状況を見極める。
「ふむ、まずは先遣隊か。数は多くない!弩兵一陣放て!その後は城壁に張り付かせてから投石!」
白起の力強い語気に兵の身が締まる。これが天文官の姿とは思えない。
寄せてきた反乱軍が矢に射られて怯む。矢の雨を切り抜けた敵兵が取り付いてくる。そこに農兵の投石が襲う。
「敵兵を登らせるな!梯子を叩き落とせ!」
北門の正規兵は精鋭を当てられていた。心身ともに屈強で経験も深い。さらに農兵も若者を中心に配備されていた。動きが違う。
「敵の数は少ない。攻撃は直に止むだろう。」
白起が淡々と述べる。近くに矢が飛んできても微動だにしない。
「白起様は鬼神だ…。」
近くにいる農兵が畏怖する。普段は天文官の姿しか知らない。しかし、白起にとってはこれが本来の姿なのだ。
矢の無駄を抑える。白起はもう一度だけ矢を放たせる。それだけでいい。夜は長い。先遣隊は北門から引きあげていった
初更、東南に焚き火が増え、鬨が厚くなる。伝令が北の楼に駆け上がる。
「白起様、南は牽制のみ。東、おそらく羌族の遠距離騎射。——西は最も苛烈な攻めです!」
白起は楼の上で短く返す。
「北は梯子で寄せてきている。太鼓は二打のまま。——西は油と火をうまく使うようにと。」
伝令が去る。風が変わり、北の闇が揺れた。梯子の頭がいくつも胸壁に噛み、腕が同じ高さで現れる。白起は手を上げる。
「石、前へ!。落とせ!柄の長い武器を取り距離の利を確保しろ!」
籠石が外で短く跳ね、梯子の桁を叩く。弩手は右列だけ打ち、左列は弦を外して節約。角笛、短一。鉤竿が前に出る。
竹の鉤が桁に掛かり、二人が同じ方向へ捻る。梯子がきしみ、根から倒れる。叫びは上げない。目印になる。
「槍、頭を狙え!——距離を詰めるな!」
槍の穂先が胸壁ぎりぎりで出て、すぐ引かれる。続けざまに石が落ちる。弩の右列が入替わり、左が打つ。循環は崩れない。
二更、北の焙(ほう)りが増えた。火束が飛び、藁が焼ける匂いが立つ。白起は声を張らない。空気が冷えてきた。しかし、敵の攻めは続く。
「砂が先だ。濡れた筵を被せろ!」
濡れた筵を上から落とし、砂をその上で滑らせる。火は短く息をし、窒息する。灰を袋のまま梯子の上へ落とすと、足が滑る。白起は小門の番に目で合図した。
「小門より火。梯子を焼け。投擲した後はすぐに戻れ。」
脇の小口から十人が滑り出る。梯子の根に焙りを投げ、火を走らせる。油は使わない。戻りは早い。
その間に伝令が戻る。息が荒い。
「西門の敵、衝木を用いてきました。」
「破られぬように気をつけよ。砂袋を門前に積み上げ耐久力を上げるといい。」
「承知!」
伝令は走り去る。北の梯子が四つ同時に掛かった。白起は払いを二列に割り、槍を横一線に揃えさせた。
「弩は待機だ。槍兵で叩き落とせ。」
敵の矢が低く飛び、梯子の中段に刺さる。刃は肩で押し、払いが桁を捲る。火束が再び来る。砂の壺をもう一段上げさせ、濡れ筵を下段にも回す。煙で視界が白む。太鼓は二打。間を守る。
二更尽き、北は敵が退いた。楼下から新たな報。
「東、牽制射撃あり。南、異状なし。——西、衝木二本目。曹遠殿、太鼓長二を請い消火活動を展開。」
「うむ、苦しいようなら周季殿に兵を請うように。南は手薄でも破られることはない。」
伝令が消える。敵は再び押してきた。梯子の列が増え、盾の板が胸壁下で揺れる。白起は投石の列に手で数を知らせる。
三、五、七。落ちる間を変えると、上がる足が乱れる。角笛、短一。払い再開。鉤の先を桁の内へ滑らせ、捻って外へ倒す。
梯子が二つ、三つ、重なって転がった。槍の穂先が一度深く入り、すぐに引かれる。叫びは短い。
先ほどの攻撃よりも矢が多い。加えて正確。羌族の一隊が攻撃に加わっているのかもしれない。
「矢の精度が上がっている。盾を多く用いよ。登ってくる敵のみ応戦せよ、後は矢を防ぐだけ良い。」
三更半、北の焙りが集中した。胸壁の外に火が重なり、煙が流れ込む。白起は濡れ筵をさらに増やし、灰袋を一つ空けた。
砂の壺は背に引いて補給。弩の列は動かさない。火を消す間は矢で間を埋めない。石と槍で保つ。支えきれない箇所にだけ、片側の列に短く撃たせる。
西門はさらに苛烈さを増しているだろう。この城で最も攻めやすい。しかし、曹遠は軍吏の筆頭。そう易々と破られはしないだろう。
東門からの伝令が来た。
「東、初めて敵が攻め寄せてきました。射は間に合わせの様子です。火矢を増やしています。しかし、間に合わせの防柵と濠が機能しています。」
「北の苦戦を考慮し、東に回るかもしれぬ。南の周季殿とも連携しておくように。」
「はっ。」伝令が走る。
四更、北の押しが重から軽に変わった。焔は続くが、梯子の数が目に見えて減る。白起は初めて太鼓に目で三打を示した。
全城一斉の短い投石と射。押し返した一拍で、すぐに二打に戻す。追撃はしない。小門の掟は守る。
「まだ打って出る必要はない。籠城は続く。消耗は最小に。今のうちに補給を急げ!」
五更、吹く息が白く、空の底が明るむ。北の闇が崩れ、残された梯子と、焦げた藁束と、転げ落ちた丸盾だけが地に残る。伝令が駆け上がる。
「西の敵、一時退きました。門の格子は何とか保ちました。——南、異状なし。東も引きあげています。」
白起は短く頷く。
「負傷者は医局へ集めるように。補充、睡眠、警戒を分担して行うように。」
朝、胸壁に火の痕が並ぶ。灰を払う音が一定に続き、砂袋の角が直される。弩の弦を張り直す音が重なる。鼠色の雲が低い。城下の外には、反乱軍の陣が整ったまま。退かない。籠城は続く。
日が変わる。夜が変わる。戦は同じことの繰り返しではなく、同じ順の変形だった。北は梯子と焙り、西は衝木と火。東は鬨と射、南は静かに粥と担架と指示。
三日目、反乱軍は北に木製の高台を押し、胸壁の高さを狙った。白起は弩を下げ、投石を増やす。
台は軽い。足が細く、横木が弱い。石は足を狙う。足が折れれば台は傾く。弩は温存。焙りが来たら砂と筵。夜半、台は二つ残して引いた。
風向きが変わって西から湿りが来る。焙りの火が強く、煙が胸壁の下に溜まる。白起は「灰を上へ」とだけ言い、袋を二つ余分に上げさせた。
灰は目を刺すが、敵も同じだ。滑りで梯子が捌ける。弩は“手”を狙い続け、槍は“頭”。声は上げない。太鼓の間は変えない。
十日目、城内の水は煮沸が常になった。井戸の封は解けない。粥は薄く、塩は控えめ。夜番の交代は刻で決まり、負傷はすぐ下へ。
医は火の側を離れない。周季は太鼓を乱さず、札を短く、担架の順を先に置く。白起は北門の上でただ数を数え、間を整え、無駄を減らす。語は増えない。
敵は夜に梯子を掛けず、昼に焙りだけを当ててきた。風が強い日を選ぶ。白起は濡れ筵を薄く広く使わせ、砂を節約。弩と石を逆に使う。昼は弩の出番が多い。夜は石と槍。循環の入れ替えで持つ。
十八日目、伝令が階を駆け上がる。息の中で言う。
「西、衝木、二重。——曹遠殿、“横木落とし”でいったん止めるも、背の斜材、一本割れ。」
「“鎖、二重。楔、根へ”。——“弩、低く、抱え手”。伝えろ。」
この日は北も重い。梯子の数が多く、焙りが先行。白起は小門の出を三度許した。戻りはすべて三十呼吸。遅れはない。遅れがあれば次が崩れる。
東が騒がしい。韓慎が牽制を引き受け、無駄撃ちを抑えて堅く持った。記録吏が刻ごとに札を持ち、詰所の板に並べる。
「東、牽制」「南、粥二」「西、衝木小」「北、梯子・焙り」。板は濡れず、字は小さく、まっすぐだ。城はそれを見て足を合わせる。
城外の陣に少し変化が出た。北の遠い丘の端に、薄い煙が増える。烽燧かどうか、判断しない。
しないほうが動きが乱れない。夜は同じ順で守る。朝は同じ順で補う。昼に弦を張り替え、砂袋の口を上向きに揃え、筵の水を替える。
伝令が南から走ってきた。息を詰めて短く言う。
「南より光、遠見。——煙、細く、間。周季殿、“過信するな”と。」
「“変えず”。と伝えろ。」
白起は胸壁の上で弩手の肩に手を置き、間を一定に戻した。敵は北で再び数を増やす。焙りを厚くし、梯子を密に掛ける。
白起は砂の壺を上げ、筵を足し、石の列を前に寄せた。角笛、短一。払いが捌く。槍が刺し、弩が低く飛ぶ。太鼓は二打のまま。
昼下がり、北の遠い丘の上に細い塵が二筋立った。日が傾くにつれ、筋は増えた。周季は太鼓を打たない。打てば城が崩れる。
札が一枚、北門に届く。「南・西・東、同じものを見る」。白起は頷き、矢の温存を続けた。敵は気づかないふりで押す。城は崩れないふりで受ける。ふりではなく、実際に受ける。
籠城も三十日目。未明、烽火が西南の尾根に立った。合図は城からは上げない。上げれば敵の足が速くなる。初更、北の梯子がまた掛かる。
白起はいつも通り石を前に、弩を半分、槍と払いの循環を守る。焙りが厚い。砂が薄くなる。壺を下から上へ連ねて渡す。動きは乱れない。
二更の半ば、城の背で低い太鼓が遠く連なった。城の太鼓ではない。間が違う。敵の背で土煙が立ち、幟が斜めを向く。
周季はここで初めて三打を短く一度だけ許し、全城の投石と射を入れて敵の顔を上げさせた。すぐに二打に戻す。
白起は角笛、短一。払いで梯子を落とし、小門を一度だけ開けて根を焼く。戻りは三十呼吸。遅れない。
三更、敵陣の奥から別の太鼓が混ざり、幟が乱れた。南と西の外手で角笛が重なる。援軍の旗が遠くに立ち、城と合図はしないまま、側面にかかる。
反乱軍の列がほどけ、北の前を押していた梯子の下に空白が生まれた。白起は太鼓を変えない。変えれば足が崩れる。
石が落ち、槍が届き、払いが捌く。弩は低く、手を外す。火は砂で殺し、筵は上から被さる。
四更、敵はついに北の焙りを捨て、梯子を投げ、盾を置いたまま下がり始める。白起は追撃を禁じた。追えば崩れる。小門は開けない。
胸壁の上でただ数を数え、列が切れたことを確かめ、太鼓を二打のままに保った。伝令が駆け上がる。
「西、攻撃止む。——衝木、路に捨てられる。南・東、敵、退き」
「“北、変えず。負傷下へ。火、点検”。伝えろ」
五更、白みの底で、遠くの塵が新しい筋を描いた。城の前は空になる。胸壁には焦げ跡、割れた桁、落ちた鉤、折れた槍。
城の内では、水が煮立ち、粥が薄く湯気を上げ、担架が往き来する。周季は太鼓を止めず、札を短く掛け続けた。
白起は北の胸壁で、最後の梯子の根を見送った。焙りの焦げが黒く残る。砂の薄い光が胸壁の縁で乾く。弩の弦を一つずつ張り直し、石の列を背へ戻す。
濡れ筵を干し、灰袋を縛り直す。城は動かない。動かないまま整える。整えて、次を待つ。
書吏が細い字で板に「北、梯子、六十七。焙り、三十六。火、消」と並べた。城の朝は遅い。冬の空は平らだ。息は白い。
日が傾く頃、城の守りは形になっていた。門は重い木で二重に閉じられ、櫓には数名の弓手が上がり、下には槍奴と呼ばれる民兵が列を作る。
門の内側には小さな柵が出来、荷車の流入を制御する装置が組まれていた。門番は寒さで赤い頬をしているが、目は鋭い。見張りの太鼓は変則的に叩かれ、通報の規則が新しく決まった。
夕暮れ、城の南側で最初の大きな衝突が起こるとの報が入る。火の手と群衆の叫び。曹遠は兵を率いて出たいというが、郡府は出兵を慎重に止める。
咸陽の支援は遅延し、兵糧も十分でない。出れば帰る足が危うい。出ぬなら城門で死ぬ者が出るかもしれぬ。いずれの選択も死角がある。
「今、出撃し城はまだまだ士気が高いことを示さねば。」曹遠が短く言った。
「出ぬ。」劉茂の声が返る。言葉は冷たく、決断が含まれている。
「出れば、兵は暴発する。資源は分散する。城が空洞化する。出ぬことで守るべきは、民であって城ではない。」劉茂ははっきり言った。
曹遠は怒りを隠せぬまま、馬の首を引いた。「民を放置するか城を放すか、二択ではないか。」
「受け止める道を作る。橋を中心に管理し、避難所を運営し、倉を開け、疫と食の管理を同時に行う。兵は出ぬ。しかし兵の見せ方と配備で怯ませる。出なくても、出たいと見せることができる。」
劉茂が反駁した。
夜が深くなるにつれ、城内の動きは忙しくなった。鐘の響きはなくとも、人の足は絶えず、板戸は開閉され、火が移され、木箱が運ばれる。
空気には煤と乾いた穀の匂い、そして焦燥の匂いが混じる。外では遠くで火が揺れ、焚き火の映りが町の輪郭を赤く染める。
城の中は、ある種の軍隊のようだったが、軍隊とは違い、一般の人と兵が混じっている。混じることはしばしば軋轢を生む。
夜半、詰所にて小さな会議が開かれた。明日の早朝、主要な避難路を変更すること、倉の鍵の管理を二重にすること、病人の優先度を定めること。
各項目に短く誰が責任を取るかが割り振られた。韓慎は記録員を配置し、後で誰かに問われたときのための証跡を整えろと命じた。周季は避難所の細かな運用について、村役人たちに明確な命を下した。
その会議の終盤、曹遠が低く訊いた。
「白起、もし城が火に包まれ、内外が混沌になった場合、民か兵かどちらを優先する。」
白起は墨壺を撫でる手を止めずに言った。
「優先を決めるのは悲しみです。私は“残せるもの”を残す。残るものは糧と命と記録だ。すべては後のために残す。残せぬなら、動く意味はないでしょう。」
曹遠は黙り、会議は終わった。
その夜、白起は少しだけ外へ出た。城壁の上から下を見下ろすと、焚き火の列が遠くの闇で小さく揺れていた。
星は冷たく、参ははっきりと見える。白起は風に顎を押されるようにして立ち、小さく息を吐いた。息は白く、指先は凍てついた。彼は内側で何度か刻を繰り返し、次の動線を確かめた。
城門は二重の木でさらに丈夫になり、夜間の見張りは増えた。だが増える見張りは必ずしも安心を生むわけではない。
安心は、腹が満たされる時にしか本当に来ない。白起はそれを知っていた。だからこそ、彼の指示は常に“物”に向いていた。物は人を繋ぐ。物を如何にして届けるかが、城の運命を左右する。
夜が更け、焚き火の光は次第に散っていった。だが城内の灯りは確かに残っている。人々は寝所に入るが眠れぬ者が多い。
怯えは呼吸を乱し、眠りは浅い。白起は詰所の一隅で、薄い布で手を拭い、墨のついた指を温めて物資の帳を閉じた。帳は重く、しかしそれが次の朝の行動を支える。
外では風がまた吹き、遠くで何かが燃える匂いが新たに混じった。城の舌打ちのような空気は、やがて朝が来ることでしか変わらない。
朝が来ればまた人は動く。人が動けば、白起の刻が意味を持つ。彼は短く板に書き付けた。
「門閉二重。橋監視強化。避難路二(東・南)。物資移送経路確定。記録員六。夜間見張り四交代。病人隔離。」
書き終えると、彼は筆をしまい、腰を伸ばした。寒気が深く、骨にしみる。だが動かなければならぬ。城は閉ざされた。
閉ざすことは守ることであり、同時に何かを断絶することでもある。白起はその二面を抱え、夜の冷えに耐えながら、明日を待った。
【6】籠城の苦
朝の光は薄く、城の石壁は灰色の帯を幾重にも重ねているように見えた。夜半に吹いた風が焚き火の灰を吹き散らし、道端には濡れた布の塊がいくつか転がっている。
城内は見かけ上の秩序を保っているが、その秩序は晩秋に凍った氷のように薄く、指で触れれば破れることを誰もが知っている。
最初の仕事は配給の列から始まる。朝早くから人々が並び、配給員の札を確かめる。白起は朝の巡察に出た。
倉の前には既に小さな争いが起きていて、一人の若い男が声高に文句を言っている。彼の手には古い袋が握られており、目は赤い。
配給員の女が腕を差し伸べ、冷静に帳簿を開いて住所と名を確認する。
「名前を言ってください。」配給員が短く言う。
「名など、今は腹に入るものがいるかどうかだ。」若者は舌打ちをして答える。
「帳にない者は、順に北の仮屋へ向かってください。そちらでも配給があります。」
配給員は淡々と告げる。彼女の声は疲れているが確実である。順序は官が決めた秩序であり、無視すれば混乱は必至。
若者はしばらく睨み、渋々北側に向かった。白起はそれを見て、配給の担当者に一言だけ言った。
「辛い仕事を任せてすまないな。今の判断は間違っていない。」
「白起様、ありがたいお言葉でございます。助けは来るのでしょうか。」
「来る。正規軍が反乱軍を超える数で向かっている。もう少しだ。」
配給員はうなずき、素早く指示を受け流す。命令は短く、実務は即座に動く。だが短い命令を実行するためには人手が必要だ。
人手は疲弊し、疲弊は手違いを生む。手違いを生むと帳簿は狂い、帳簿の狂いは後で誰かを処罰にさらす。誰も処罰を望まないが、秩序を守らねば死者が増える。
午前中、城医の詰所は忙しかった。小さな部屋に火鉢が置かれ、布にくるまれた傷病人が幾つか横たわる。看護者らしいのは二人だけで、薬も限られている。
医師の張間と呼ばれる男が、白い布を指に巻き、捌くように傷を縫った。呻き声と筵の擦れる音だけが室内にある。
「傷が浅ければ縫合で十分だ。深い傷は清浄して塞ぐ。薬は煎じて使う。消毒は醋と熱湯を併用せよ。」
張間は助手に短く指示する。助手は険しい顔で頷き、煎じ薬の鍋をかき混ぜる。
「病はどうなる。」白起が問う。
張間は少し目を細め、答えた。
「疫はまだです。だが栄養失調と疲労が続けば、すぐに病が来ます。隔離は必要でしょう。しかし、隔離区を如何に運営するかが問題です。」
「隔離区は完成している。人手と食はどうだ。」白起は帳場に即した数字を求めた。
張間は苦笑する。
「食は薄くなっています。隔離区の者には少し濃い粥を回していますが、数が増えれば足りません。人手は医師一人、助手二人では限界です。医学に心得のない者でも助けになっていますが、防衛戦に駆り出されているので、慢性的な人手不足です。」
白起は黙って帳を一瞥し、短く指示した。
「誰か世話係を割こう。老若男女の中から看護に当たる者を十人選ぶ。食の優先は若い戦闘員となる。そこは譲ることができない。医局はお主に一任することになっている。頼む。治療で使った物資も記録しておくように。」
張間は深く一礼した。記録は後で役に立つ。記録は責任を分散させる盾であり、ある意味で人を救う手段だった。
午後、城壁の周囲では兵と民がともに動いていた。外からの攻勢は断続的であるが、疲弊が進むほど勢いが増す。
城の内外では、小さな補給線が夜ごとに生まれたり消えたりする。白起は橋の監視所を回り、監視員たちに声をかける。
「反乱軍に橋は落とされていないか。」白起の声は平的だが堅い。
「はい。今のところは破壊も封鎖もされていません。」
「そうか。避難路、援軍の進行路になる場所だ。引き続き監視を頼む。」
「はっ。」
白起が去ろうとすると、監視員のひとりが白起に詰め寄った。
「白起様、橋を封鎖すれば反乱軍の足も鈍くなるのではないですか。どうして上層部は戦の前に橋を破壊しなかったのですか。」
白起は短く答えた。
「橋を守ることが、結局は多くを救う。乱れて橋が壊れれば、逃げる通路が無くなる。」
監視員は唇を噛んだが、すぐに頭を下げて監視に戻った。守りはしばしば冷酷であり、冷酷さは損得の計算のうちだった。
夕刻、城内では小さな軋轢が表面化した。配給所で二人の女性が言い争いを始め、巷でも不満が小さく噴き出す。
理由は配給の優先順位だ。ある家は家族の分を多く渡せと主張し、別の家は「昨夜助けに来た者を優先すべき」と反論する。争いはすぐに群衆の耳に入り、騒ぎが増す。
白起は言葉少なにその場へ赴き、近くの役人に低く命じた。
「争いになった者は、一旦北の仮屋へ。そこで冷ます。双方の名を帳に残せ。傍観者を一人置き、暴力が出れば即刻拘束せよ。」
命令は短く実行的で、争いは強制的に分割されて収まる。収まるが、収まった場所に溜まる疲労と不信は消えない。人々の顔には、わずかに灰色の影が増していく。
その夜、攻撃は激しくなった。城の東門付近で、火を使った乱入が試みられ、槍の集団が城壁へ押し寄せる。
下方では火と煙が渦を巻き、兵は弓で応じる。破片と悲鳴が夜の空気を切り裂く。城壁の上で、瓦礫が転がり、兵の足音が重く響く。
白起は北門で次々と状況を聞き、冷静に指示を出す。医局へ応援を送り、橋の監視員を一部差し向けるよう命じ、避難区の扉を開けて持たせる食糧を増やす。
声は短い。命令は速い。だが速さは疲労を加速する。夜が深まるほど、人的資源は細くなる。一目で越権行為とも取れる指示であった。しかし、陥落よりも重要な組織維持などない。
深夜、城の北側で小さな波が押し寄せ、仮屋の一つで暴動が起きた。疲れた人々が我慢の限界を超え、食糧を奪おうとしたのだ。
兵が出動し、鎮圧に当たる。押し問答の末、数名が拘束され、数人が負傷する。血は簡単に回り、夜の暗さに吸い込まれて消えていく。血の跡は翌朝にまで残り、人々の心に長く刻まれる。
朝が来ると、誰もが疲れていた。目が吊り上がり、肩が落ちている。食は薄く、医局は対応に追われ、記録は増える。
白起は詰所で帳を読み、物資の残量を経理担当と再計算する。数は少ない。だが数を数えている限り、何らかの手立てを講じられる。
午後、郡府からの連絡があり、近隣の治安隊が一群到着するとの情報があった。正規の大軍ではないが、補強は補強だ。
人々はほのかな希望を持った。希望は燃え上がるが、燃料は限られている。だからこそ、希望は慎重であるべきだ。
その夕刻、白起は家に戻った。家人は疲れを隠さず、凛は遣り繰りで新たな鍋を用意していた。杜は家屋の修繕を行っていた。蒋は手の傷を気にしながら薪を割っていた。
家の内では、小さな灯りの周りに人々が集まり、言葉は少ないが、存在が互いに支え合っている。
白起は短い時間、家人と過ごし、寝床に入る前に詩のような言葉は一切口にしなかった。ただ一つだけ、杜に向かって言った。
「近頃の窮状は酷いものになってきている。民衆の間で略奪が起こるかもしれぬ。戸締りには気をつけておくように。」
杜は黙って頷いた。その言葉の意味を、すでに知っている。
夜更け、城内はまた静かに見えた。だが静けさは緊張の一形であり、安らぎのそれではない。眠りは浅く、夢は破片となる。
白起は天文台に上り、星を見た。冬の星は冷たく、明晰で、参は夜空で鋭く並んでいる。白起は墨を取り、今日の刻を淡々と記した。
「配給記録、配布量、隔離人数、負傷者数、拘束者数」——板に並ぶ字は短く、しかし重い。字が記録されるごとに、責任が形になる。
責任は白起を押し潰すほどの重みだが、同時にそれは彼に行動の根拠を与える。根拠があるからこそ人は裁かれることもあれば、守られることもある。
籠城の日は続く。日々の小さな決断と、それに伴う疲労が積み上がる。攻勢が収まることはなく、だが確定的な崩壊もまだ来ていない。
白起は刻を取り続け、物を配り、記録を残す。人々は眠れぬ夜を越え、翌朝の列へ並ぶ。生は続く。
【7】鎮圧戦
朝霧が城壁の溝にたまっていた。霧は火の跡を淡く包み、昨夜の焦げた匂いと、まだ乾かぬ泥の匂いを混ぜて立ち昇らせる。
人々の顔には眠りの残滓と疲労の陰が濃く、列は少しずつだが途切れず続いていた。城の外では、昨日までと異なる一種の金属音が遠くから聞こえてきた。
馬の蹄、車輪の軋み、甲冑の軽い触れ合い。正規の軍が来る、という情報がついに確かさを帯びて届き始めたのだ。
郡府には朝早くから高官たちが集まった。劉茂は書類の山の前で、疲れたが決意のある顔をしている。周季は短い息を一つついてから地図に指を落とし、白起を見た。
「援軍は、三隊。第一は隣郡、第二は南路の義勇軍。第三は咸陽からの隊だ。だが到着は段階的だ。」
言葉は事務的であるが、部屋の空気は重い。
「数は?」曹遠がすぐに問うた。
「合わせて五万程だ。速さの差がある。」劉茂は指で線をなぞる。
「だが援軍が到着すれば巻き返せる。正規の装備、訓練、指揮系統。全てが違う。」
韓慎が文書を一枚差し出した。咸陽の使者が出した到着見込の写しだ。字は冷たく整い、余白には無慈悲な余白がある。周季はそれを受け取ると、眉根を寄せた。
「我々に求められることは、到着までの時間稼ぎと、到着後の統率だ。統率ができぬと、到着は混乱を生むだけだ。」
白起は黙っていた。彼の目は遠くの野道に注がれる風景を思い浮かべているようだった。鎮圧を望む者もいれば、鎮圧を恐れる者もいる。
どちらも事実だ。白起の役割は、鎮圧によって失われる命と、鎮圧によって終わる暴力のどちらを少なくするかを測ることに移っていた。
午前中、隣郡からの軍と南からの義勇軍が合流し、東の囲みを突破し城に入った。旗に揚げられた布は整っており、行列は秩序立って歩を進める。槍の先端は揃い、兵の足並みはきっちりとしていた。
民衆はその姿を見て一瞬息を呑む。秩序は光る。だが光はまた影を作る。影は人の目に、どのような感情を生むかは場所によって違う。
曹遠は先遣隊の指揮官と短い会話を交わし、城内の配備と後方支援の計画を確認した。兵は城内に整列し、武器を点検し、弓矢、槍、備城の器具を台に並べた。
訓練された手つきは見ていて安心感を与えるが、同時に圧迫感を生む。圧は、民の中に潜む不安を呼び覚ます。
午後、咸陽からの隊が到着した。東の囲みを粉砕し、東門付近に陣を構築した。これで防衛に力を注ぐ場所は、西と北に限定された。
これまで防衛戦を展開してきた上邽の兵は援軍と交代し、一時の休息を約束された。
咸陽からの部隊は重装で、連絡官の顔には宮廷の冷淡さが映っていた。使者はすぐに郡府の詰所へ入った。そこには短い報が交わされ、咸陽の署名がある文言が読み上げられた。
文言は端的であった。
「治安維持のための軍出動。法に従って対処せよ。反乱軍は全て斬首。報償は後日を以て定む」
褒賞の匂いは薄く、保身と秩序のための通達であることが明らかだった。反乱軍への慈悲など微塵も感じられなかった。
民の間に方々でさざめきが生まれる。支援が来るのだという希望はあるが、それが「助け」か「刈り取り」かは着目する点次第だ。
反乱軍側もまた、これを聞けば判断を迫られる。彼らの側にとって正規軍の到来は選択の瞬間だ。攻めるか撤くか、連携するか崩壊するか。どの決断でも、一夜のうちに人を殺す可能性をはらんでいた。
夜が来る前、白起は軍と郡府の数名を連ねて、外縁に出た。そこには昨日の小競り合いの残骸が散っており、仮設の焚き火が残り火を吐いている。
人は互いに目を合わせ、早口で情報を交わしていた。ある者は荷を背負い、ある者は祈る。祈りは武器にならず、祈りは防御を作らない。しかし祈りは人を落ち着かせる。
曹遠が苦い顔で言った。
「咸陽の兵は規律が厳しい。無差別には動かぬ。だが規律があるからこそ、命令一つで大勢を斬ることもできる。誰が命令を下すのか。それが問題だ。」
周季が顔をしかめる。
「郡の判断と咸陽の判断が合致しなければ、現場は混乱する。指揮は明瞭なければ。」
韓慎が淡々と付け加えた。
「咸陽は文句を言う者を好まぬ。記録は残る。残れば、処断が入る。だから記録を慎重に扱うことです。」
白起は黙ってそれらを聞いた。彼の黙考は、やがて声になった。
「咸陽の兵は信用できます。東門と南門は防衛が整っています。正規軍の到着は反乱軍にも伝わっていましょう。動揺が広がっているはずです。兵力も逆転しています。準備が整い次第、反攻作戦に転ずるべきです。」
曹遠が顔を少し和らげる。
「それができれば、兵は効果的に使える。」
曹遠は短い命令を述べる。倉の一部を分け、非武装民のための屋内区画を追加すること。民の中で導きを示す者を各区に二名ずつ置き、彼らが出入りの管理を担当すること。
夜間の灯火を最小限にしつつ通路を確保し、外から見て民が居ないように見せること。これらは小さな手順だが、民の安全に直結する。
正規軍は到着から三日目の朝、実際の作戦に入った。彼らは整然と動き、城の北と西を覆うような陣形を敷いた。陣は見事だった。
だがその見事さは、反乱軍にとっては絶望の輪郭である。城内では、徐々に活気が満ち始めている。ひと月の籠城から解放されるという希望を見出したのだろう。
指揮官の一人が詰所に入り、短い声で告げた。
「われらは反乱鎮圧を主目的とする。反乱軍の降伏は望まぬ。多少の犠牲を払っても反乱軍は全滅させる。」
その「法の裁」は冷たい言葉で、数行の文言で済まされるが、現場で行われる行為は血である。
形だけの降伏勧告が行われた。反乱側は応じなかった。彼らの一部は武器を取って城へ迫り、もう一部は山に隠れ、夜の林に消えていった。
もちろん降伏勧告を受け入れても待っているのは極刑である。
正規軍の側は冷静に弾道を合わせ、弓矢や騎馬の陣列を組んで応戦した。やがて、反乱軍の陣形は裂け、煙が厚く立ち上る。
死はあっという間にそこにあった。肉の叫び、馬の嘶き、鉄の交差音が混じり合い、冬の空気を切り裂いた。
北門の楼で、白起はしばらく立ち尽くした。兵と民とが一つの摩擦となって激しく擦り合わされる様を見て、彼は何を思うかを言葉にしなかった。
ただ板に小さく記した。
「鎮圧開始。死傷不明。民の流出有り。法民裁」
書きながら、彼の手は震えなかった。震えは後に来るかもしれないが、今は刻が最優先だった。これまでの籠城戦が嘘のように溶解していく。
戦いは数時間続き、正規軍の優位は明らかだった。装備、訓練、統率の差は血の量として現れる。反乱軍は散発的な抵抗を続けたが、次第に押し戻され、山間へ逃れ、あるいは捕らえられて磔にされる者もいた。
鎮圧の方法は地域によって違うが、どこに共通するかといえば、その冷たさである。冷たさは命令の性質そのものだ。命令は飲み込まれ、実行は機械的になっていく。
城内の人々は、初めは正規軍に期待していた者もいたが、次第にその態度を変えていく。軍の行為が武器の操作だけでなく、戦利品の没収や容赦なき拘束にまで及ぶと、人の顔には恐れと猜疑が混じる。
白起はこれを見て、民を守るための次の段取りに取り掛かった。彼は医局へと人員を追加し、捕虜の取り扱いと非戦闘民の隔離について規定を練り直した。文は冷たいが、そこに人を守るための条項を入れ込もうとした。
「白起殿、捕虜の管理はどこで行われていますか。」
中年の軍吏が訪ねてきた。理由は明らかだ。
「南の一画です。」
「承知いたしました。」
軍吏はそれだけ聞くと去っていった。目的を見つけた獣のような後ろ姿だった。
鎮圧は一週間ほどで一定の形を取り、反乱の「主要な流れ」は鎮まった。だが「鎮まる」とは、地面に刺さった矢が抜かれるようなことではない。
矢の残骸は地に残り、そこから腐敗と怨念が生まれる。村は燃え、田は荒れ、家畜は失われ、多くの人が亡くなった。
復旧は遠くに見える仕事で、希望は薄い。正規軍は勝利の形式を整え、勲章と記録をまとめ始める。だが民の側には深い穴が残った。
【8】戦後処理
郡の空気が、また別の鉛色を帯びたのは、戦の煙が完全に消えぬうちだった。封が切れた書類が咸陽へ回り、監察の目が上邽へ注がれ、やがて矛先は臨洮へ向かった。
噂は初めに噂らしく、次に文書になり、最後に人を縛る縄となる。白起がそれを知ったのは、朝の巡察の直前だった。詰所の扉が叩かれ、伝令が一枚の札を差し出す。その上に記された文字で、白起の胸は凍る。
「臨洮県令・田陵ほか、起訴――」
伝令の声は抑えられていたが、書面の力は抑えられない。文は咸陽の公印を携え、監察官の署名が添えられている。白起は札を受け取り、指の腹で端を確かめる。
「白起様……田陵殿が捕らえられました。夜半に、咸陽の使者と軍監により。梁宛と荀潁、馬渓もです。…理由は“反乱扇動と連携”の疑い、です。」
白起の視線は揺れない。声も、体の動きも変わらない。だが内側では、数えなければならぬことが増えていった。
誰がいつどこで何をしたか。数字と刻は白起の武器である。だが数は、人の首が消える速度を遅らせはしない。
捕縛は安直に行われなかった。咸陽の使者は手順を踏んだ。夜半に現れて村の門を開くのは見苦しく、政治的にも不利だ。
だから彼らは昼を選んだ。城下に人が多く、目撃者がいて、公開性が高い。その方が“公正”であるように見える。
臨洮の県府では、田陵は静かに連行された。彼は腕を取られても動揺の色を見せず、同行の者に一瞥を投げただけだった。そこには、驚きも哀しみも入り混じるが、台詞を捻じ曲げる余力はない。
梁宛は書を抱えていた。荀潁は手に小さな帳を握りしめ、馬渓は腕に包帯を巻いたまま、ややよろめきつつも同行した。
捕縛の手は冷たく、護送の道は長かった。民衆は戸の隙間から覗き、目を伏せる者、唇を震わせる者、無言で石を握る者がいた。誰も、助けを差し伸べられない。
彼らは拘束された後、上邽まで護送された。到着後、即日、裁判が始まった。
白起はその日、役所で見守ることを禁じられた。咸陽の使者は厳格に、白起の立ち位置を明確にした——彼は「証人」か「同席者」になり得る一方で、「共犯」の匂いを消すために物理的距離を置かれた。
白起はそれを受け入れ、黙って距離を保った。だが心中は乾いた冬の土のようにひび割れていた。
尋問は公的な場で行われた。郡の大堂に柵が組まれ、外縁に群衆が詰めかける。咸陽の役人が裁きを演出するために選ぶ場所はいつも同じだ——見せるための舞台である。
田陵らは柵の中に一列に座らされ、監察吏と書記が問いを投げる。問いは短く、法文の体裁でまとまっている。公平の仮面を被った言葉が、確実に人を裁く。
「田陵、お前は臨洮において反乱扇動を助長したか。答えよ。」
田陵は落ち着いた声で答えた。
「我が務めは民の安寧を守ることのみ。私がしたのは倉を開き、避難を整え、民を救うことだ。反乱の主張を煽ったことはない。」
「では梁宛、お前は民を煽動する言動をしたか。」
梁宛は震える声で首を振った。
「天を見るのが我らの職で、民の事を語るのは官の本分。しかし扇動は私の管轄ではない。私がしたのは、観測と記録のみです。」
荀潁は汗を拭いながら証言を続ける。馬渓は唸り声を上げては黙る。尋問は時に穏やかで、時に皮肉で、人を崩す術を変える。
咸陽の使者は細かく言葉を差し挟む。証拠と称する札が並べられ、反乱軍で交わされた密書、村人の「告発」に相当する供述。
だがほとんどは断片で、断片は繋がらなければ意味を成さない。繋がらない断片を、官は意図的に並べて一本の線に見せる。
白起は端席で、そのやり取りを見ていた。彼は自分が残した記録と、咸陽が提示する書状や供述を照らし合わせる。矛盾はあった。
だが矛盾は政治の前では小さく見える。書面上の整合性は、現場の事実より重く扱われるのだ。劉茂も周季も、咸陽に従うしかなかった。従わぬことの危険が、彼らの身に及ぶのは明白だった。
尋問は長引き、被告たちは疲労と寒さに顔色を失っていった。田陵は問答の途中で一度だけ顎を上げ、群衆を見た。
そこに彼を支持する視線は少なかった。支持は残らぬ。支持は現場の飢えと引き換えに軽くなったのだ。処刑の論理は、常に飢えを前提に働く。
判決は速やかに下された。咸陽の意向は明快。見せしめが必要である。公正な裁判か否かは、もはや問いにはならない。
政治は「秩序」を回復しようとするとき、人を割り当てる。田陵らは、その割り当てのうちの代表に選ばれた。
「首謀者として極刑をもって処す。」
告知は冷たく、刀を告げる音のように鋭い。群衆の間に小さな波紋が走る。叫び声は少なく、呆然とした空気が広がるだけだった。生の悲鳴は場外で消え、場内の言葉はただの手続きになった。
白起は判決を見て、拳を固く握った。筆跡は震えないが、胸の奥に渦が巻いた。救えなかった命、助けた命、そしてこれから消える命の輪郭が、数のように迫ってくる。
彼は自らの記録を見返し、どの一行が致命傷になったかを探した。見つからない。見つからぬからこそ苦しい。彼は問いを立てた。
「私の行為は、彼らを守るためであったのか。もし守ったのなら、なぜ彼らが穴に落とされるのか。」と。
一度だけ、彼は郡守の劉茂と短い会話を交わした。扉の陰で、二人だけが低く言葉を交わす。
「我らは如何にすべきでしたか。」白起は問う。
劉茂は疲れた顔で答えた。
「私に選択があればよいが、ない。咸陽は秩序のために見せしめを求める。拒めば我らも置かれる。君のしたことは正しかった。だが正しさは政治の前では塵となる。」
その言葉は白起の胸に、冷たい石を投げ入れた。石は波紋を広げるが、水面は再び元の色に戻るだけだった。
処刑の日は日の出前に定められた。朝の薄暗さが、朝の優しさを奪う。処刑場は城外の川辺で、群衆は強制的に集められた。見せしめのための人数は、予定より多くしたのだろう。
咸陽の使者はそれを容認する顔色を見せる。白起は厳しく止める言葉を探したが、咽喉までしか届かない。
政は言葉よりも旗を掲げる。正義という錦旗を。
捕縛された者たちは、最後の朝に短い言葉を交わした。田陵は穏やかに、仲間に目をやった。
「我らが務めは尽きた。村の者を思え。最後まで凛としていよう。」
と、彼は荀潁に諭した。荀潁は頷き、涙を見せなかった。馬渓はややがさつに笑って、冗談を口にしたが、笑いはすぐに細くなる。
白起は最後に田陵に近づける許しを得た。柵の越しに二人は向き合う。田陵の手は冷たかったが、握られたとき、白起はうっすらと震えを感じた。
「白起殿、正義とはどこにあるのだろうな。」田陵がふと笑った。
「呪いは不要です。あなたの意志は私が。」白起は静かに言った。
「忘れぬことだ。忘れぬことが、次に生きる人の礎となる。」
白起は深く頷いた。視線は遠くの山々に行き、やがて穏やかにこちらを見た。
「ならば頼む。君の手で、我らの記録を留めてくれ。良し悪し全てを。」
白起は答えを返す代わりに、帳を取り出し、短く幾つかの数字と時刻、そして田陵の名を記した。字は震えなかった。だが、その一行はいままでに見たどの行よりも重かった。
処刑は簡潔で、公的な儀式として行われた。刃は冷たく、手順は整然と進んだ。群衆の目は宙を彷徨い、誰もが自分を守ることに懸命で、見ることを避ける者も多かった。
処刑が終わると、砂利に落ちた衣の端が風に舞い、すぐに掃き集められる。肉体はなくなり、記録だけが残る——それが制度のやり方だ。
白起はその場に座り込み、呆然と文字を板に並べ続けた。言葉は少しずつ形を変え、やがて一篇の報告書になった。報告書は冷たいが、そこに真実を少しでも残すことが、彼に残された行為だった。劉茂がやってきて、そっと肩に手を置いた。
「これで終わるわけではない。記録は次の裁きを防ぐかもしれぬ。」
白起は呟いた。「記録が、彼らを返すことはないです。」
劉茂は何も言えなかった。言葉は足りず、風だけが答えを運んだ。
その夜、白起は天文台の階段に腰を下ろし、夜空を見上げた。星は冷たく光り、あの夜と変わらぬ列を作っている。
参は静かに並び、北斗はいつもどおりに傾く。白起は臨洮の生活を思い出した。しかし今では、心中で冬の空気よりも冷たい思い出となっていた。
白起の胸には怒りがあった。怒りは生々しく、燃えやすい。しかし怒りを政治の前で燃やせば、また別の人の首を差し出すことになる。
白起は分かっていた——怒りは実務を害し、理は血に染まる。だから怒りを数え、刻に変え、記録に詰め込む。
記録は冷たいが、少なくともそこに嘘は書ける余地が少ない。白起はそう信じ、ただ一晩中、数字と時刻と名前を書き連ねた。
夜が深まり、町は静かになる。だが静寂は嘘の衣のようで、下には怨念と問いと、次に起こることへの伏線が眠っている。
白起は深く息を吐き、板を閉じた。彼の背の中には、田陵の一言がまだ温かく残っている——「忘れぬことだ」。
忘れぬことは仕事であり、義務でもある。翌朝、意志を携えて詰所へ向かった。記録は続く。人はまた動く。歴史はまた別の名を選ぶだろう。
数日間、泥と血と炭の匂いにまみれて行動した。行為は多くの命を救い、また多くの命を損なわせた。どの行為も賛否はある。時の裁きがどちらを向くかは、今はまだ誰にも分からない。
城の外には静けさが戻ったように見えたが、それは表面だけのことだった。人々は傷を負い、心は裂け、田畑は荒れ果てた。
復旧のための物資と人手が慢性的に不足している。白起は詰所で帳を紐解き、死者、負傷者、行方不明者の数を数えた。
数は言葉にならず、しかしその数字は後で誰かが裁く材料になる。白起はそこで初めて、自分が行ったことと言葉で書かれた秩序との乖離を感じた。
行為はその場で必要だった。しかし制度は行為を許容するかどうかを別に決める。
夕暮れ、城の詰所にて、劉茂が静かに言った。
「君は多くの人を救った。だが咸陽は記録に敏い。準備をせよ。」
その言葉は慈愛でも賞賛でもなく、単なる実務の指示だった。白起は黙って頷いた。頷きの中に、疲労と覚悟が混じる。天はまた巡る。人の裁きはそのあとに来る。
夜、白起は天文台へ上がった。空は鋭く澄み、星は冷たく光る。参は静かに並び、北斗はいつもどおり柄を西に傾ける。
彼は墨を取り、今日の章を短く記した。
「鎮圧完了。死傷多。民の怨念予想。記録・保管必須。」
短い行が終わると、彼は長く息を吐いた。息は白く、空へ消えた。乱破れ、兵来たる。
天は破れない。兵は来た。人は傷ついた。次に来るのは詰問と文の時だ。白起は知っていた。それは、この章の最後に控えた、冷たい別れの序曲であった。
翌日、上邽が震撼した。咸陽から特別監察官が到着した。
【第4章 完結】
