社奴(しゃど)の責任を全うする
高級会員制クラブ「快活クラブ」で朝を迎える。体が悲鳴を上げていることをとことんまで実感する。しかし、諸君、歯車として、社会の奴隷「社奴(しゃど)」として動き始めなければならない。
現在地は岡山県「倉敷市」。ここから、岡山市にとんぼ返りし、実地調査を行う。今日は「岡山市」を駆けまわる一日になりそうだ。天候は良好、視界も悪くない。
まずは、腹を満たし、力を蓄えなくてはいけない。飯をかき込むことが先決だ。
私が選択したのは、早朝から炊事の煙を上げている「マクドナルド」だ。ここで、たらふく食わせてもらうぞ。一にも二にも飯が肝要だ、諸君。
ガツガツと飯を食らいつつ、本日の作戦を練り上げる。脳みそを酷使すれば、太ることはないとデスノートのLも言っている。つまり、ハンバーガーをかき込んでも、問題はないということだ。
吉備津神社 岡山の神道を知る
最初の攻撃拠点は「吉備津神社」
吉備津神社 (kibitujinja.com) (公式HP)
岡山の神道を牛耳る神社に赴く。隅々まで実地調査を敢行する。倉敷からはさほどの距離もない。車で数十分だ。
駐車場に到着し、さっそく調査を始めようとすると、一つの銅像が私を見下ろしている。詳しく調べてみると、かの有名な「犬養毅」氏だということが判明。
日本の民主主義の中心にいた大人物。こんなところで相まみえることになるとは驚いた。岡山の歴史はまだまだ底が深い。私も自分の無知を自覚することができた。犬養先生に感謝しなければね。
周囲に堀を巡らし、防衛にも力を入れているようだ。神社とはいえ、周囲との軋轢もあるかもしれない。他宗教との共存や近隣住民との関係にも気を配らなければならない。
見るからに荘厳な入口が私を迎える。強者は無駄な動きがなく、泰然としているため、全くスキがないように見える。しかし、こちらも退くことはできない。社奴(しゃど)として実地調査を行わせてもらう!
岡山随一の神社!
不足なき相手!
しかし私も退けぬ!
大いなる戦の時!
長大な参拝道をずんずんと進んでいく。この静けさが魂を浄化するのだ。これぞ神道の神髄。岡山を代表する吉備津神社の力なのか。真夏日にもかかわらず、涼しさすら感じてしまう神秘さよ!
そして、本殿に到着。ぐうの音も出ないほど、素晴らしいお姿である。この静かにたたずむ姿が霊性をさらに強めているように思う。何も発さず、相手を屈服させる神秘と霊験。
神社を支援する人々の名が提灯に刻まれている。この強大な力の下に、尊敬も財力もかき集めてしまう存在感。岡山の力も底が知れない。神道を通じて、人々に何を伝えていくか。神社の役割は、この令和になっても変わることがないのだろうか。
・岡山の神道の底力
・神社に潜む霊性の存在
・神社支援者の剛力
・神道が生み出す人の和とつながり
未知の支配者 造山古墳
吉備津神社のご近所に、いにしえの支配者を埋葬したお墓が存在する。
それが「造山古墳(つくりやま こふん)」
造山古墳 – 岡山県ホームページ (pref.okayama.jp)
(岡山県古代吉備文化財センターHP)
かつて、岡山を支配下に置いた強者。顔、姿は未知ゆえに、ますます、その存在が気になってくる。実地調査の意義も増すというものだ。
駐車場に到着し、古墳センターで知識を増幅させる。事前知識があると、現場での観察もはかどり、思索も深まるというものだ。実地調査には欠かせない事前準備だ。形は「前方後円墳」。古墳の形で一番有名なものではないだろうか。
岡山県では最大、全国でも第4位の大きさを誇るだけあり、その存在感は大きい。5世紀あたりの築造と考えられているそうだが、まだまだ確定はしていないそうだ。これこそ、古墳のロマンではないだろうか?誰でも古墳の推理に参加できる民主的な時代。
造山古墳に沿うように住宅地が広がっている。古代にもこのような形態を取っていたのだろうか。王の墳墓を守る墓守のように。死後の冒涜から王を守る人々の姿が思い浮かぶ。
現在でも、古墳に立ち入ることができるので、実地調査にはうってつけだ。実際に登ってみると、古墳の上にいるという感覚はあまりない。しかし、遊歩道が整備されているので、非常に歩きやすい状態になっている。
後円墳のほうにまわってみると、高低差が明らかになり、古墳の上にいることを実感できる。木々も整備されており、防風林の役割を想起させる。それにしても千年以上経っても、古墳の姿が保存されているということは驚くべきことだろう。
周囲の住宅地を古墳上から眺めてみる。見晴らしもよく、平野部がはっきりと確認できる。これは、戦国時代の偵察にも使えそうだ。高台から敵を探索することも防衛上、大切なことだろう。物は使い様、古代の王もまさか自分の墓が偵察櫓に使われるとは思いもしまい。
周囲では、稲作が盛んにおこなわれていた。秋にここから平野を眺めると、さぞ美しい田園風景が広がっているだろう。夏では、緑が大いに勢力を拡大しているが、これはこれで美しい風景だ。
造山古墳を離れる際に、遠目から写真に収めてみた。遠隔からだと古墳の全景もよく分かる。短時間ではあったが、岡山の古墳ロマンに触れることができた。非常に貴重な時間であった。
水をもって制す 備中高松城
造山古墳を離れ、次に向かうのは戦国期の「備中高松城」
備中高松城跡 – 岡山県ホームページ (pref.okayama.jp)
(岡山県古代吉備文化財センターHP)
古墳時代からいきなり時代を飛び越えた感じがあるが、実地調査では有無をいっていられない。とにもかくにも歴史を味わい尽くすしかないのだ。
備中高松城は造山古墳からも眺めることができるほどの近距離にある。車で数分ほど。
戦国時代、織田信長が天下に覇を唱えようとしていたころ、ここで、豊臣秀吉と毛利輝元の軍勢がぶつかった。毛利VS織田の大勢力が覇権を争った。
備中高松城は平地かつ沼地に築城された城。この立地を活かし、秀吉は城のまわりに堤防を築造。そこに川の水を誘導し、城を湖に浮かぶ島のごとく孤立させた。「水攻め」戦法である。これで、毛利方の清水宗治は外部と連絡が絶たれ、孤立することに。
周囲を調べると、確かに平地に湿地帯、近くに川が流れている。実際に現地を歩いてみると水攻めのイメージが分かりやすい。堤防の工事が、数キロ続いたということに驚く。城攻めの得意な秀吉だからこその偉業だろうか。
戦国武将が各自の正義を掲げて剣を交えた戦場。令和の時代でも、各時代の歴史に思いを馳せることは、自分にとって有意義な時間だ。
近くには蓮が茂っており、多くの人々が鑑賞、撮影に訪れていた。蓮の花の花言葉は「清らかな心」。戦国時代の武士道と清らかな心。果たして、この二つは交わるものだろうか。正々堂々と言いつつも、下剋上の弱肉強食、権謀術数もあまた存在した。
清水宗治公の首塚。城兵の命と引き換えに、切腹し、備中高松に散った男。戦国期は、とかく命が薄すぎるのではないか。命が軽いというか。多くの命が散りすぎた。しかし、多くの人々が散っていった人々の菩提を弔う。しかし、打ち捨てられ、朽ち果てた人々も。歴史の明暗というところだろうか。
ひとまずは、備中高松城を退散し、昼食の飯屋を探す。早朝の実地調査ということもあり、まだ正午も過ぎていない。まだまだ、調査は続く。岡山の歴史を知り尽くすのだ。