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口入屋 謀次郎 (短編小説)③ 魑魅魍魎

第一節 暖簾の奥に棲むもの


阿波の城下で、
口入屋は道の真ん中に
立ってはいけない。

真ん中に立てば、
両側から引っ張られる。

武家からも、町人からも、
寺からも、遊女屋からも。

引っ張られるのは
袖だけならまだよいが、
商いの根が抜ける。


伊予屋の主人・謀次郎は、
朝、暖簾を掛けるとき、
必ず指先で布の端を撫でた。

ほつれがないか見るためだ。
ほつれは、隙を生む。
商売の大敵である。


「白湯、沸きました」

下女の海が言う。
声は明るいが、明るすぎない。

明るすぎる者は城下では損をする。
損をしない明るさだけを選び抜くのが、
頑張り屋というものだ。


謀次郎は湯呑を受け取り、
ひと口含んだ。
熱い。

熱いものは
熱いとしか言いようがない。

感想を添えれば、
余計な縁が増える。


店の奥では、
小僧の佐一が帳面を並べている。

几帳面な十代というのは、
大人よりも恐ろしい。

大人は嘘をつくが、
子どもは真実を磨いて刃物にする。


「旦那、昨日の口入れ帳、ここが合いません」

佐一は指先で金額の端を叩く。
銭の音がしない叩き方だ。

学問好きは、
物音を立てずに詰めてくる。


「合うようにしておけ」

謀次郎はそれだけ言った。

合わない理由を問えば、
合わない理由が増える。

商いでは、理由は利子のように膨らむ。


表では、
手代の幸吉が桶に水を張り、
打ち水をしていた。

冬の打ち水は、勤勉ではなく見栄だ。
見栄は寒さよりも人を動かす。


「旦那ぁ、今日は景気がいいですよ。
朝から三人、門口でうろついてます。
うちの評判、上がってますね」


幸吉は陽気に言うが、陽気は道具だ。

博打と女を好む男は、
笑いの下に針を隠す術を知っている。


「評判は上がると落ちる。
落ちないものは無いものか。」


謀次郎が言うと、
幸吉は「へいへい」と笑った。
笑えるうちは刺さっていない。


伊予屋の門口には、
客が座るための小さな腰掛けがある。

そこに座る者は、たいがい腰が軽い。

腰が軽い者は職が続かぬ。
続かぬから口入屋に来る。

口入屋は、
続かぬ人間の背中で飯を食う。


だから、謀次郎は客の顔を見るとき、
目ではなく肩を見る。

肩が上がっていれば、
嘘を隠している。

肩が落ちていれば、
嘘も隠す気力がない。

どちらも扱いづらい。


最初の客は、
髪をきちんと結った
若い武家奉公人だった。

武家の匂いがする。
墨と汗と、叱責の匂いだ。

刀ではなく
言葉で斬られている者の匂い。


「口入れを、お願いしたく」

声音は丁寧だが、
丁寧さが均一すぎる。

均一は怖い。
均一は教え込まれた丁寧さで、
教え込む者の影が必ず背後にいる。


謀次郎は茶を出し、
何も聞かずに帳面を開いた。

口入屋は事情を聞きすぎると、
事情の共犯になる。


「どちらの御家中で」

「蜂須賀様の…末の末で」


末の末、という言い方が
妙に正確だった。

末というものは、
本人が末であることを
誇るときだけ正確になる。

誇りがあるのに職を探す。
城下の魑魅魍魎は、
こういう矛盾を餌にする。

第二節 魑魅魍魎、名を与えられる


城下町で噂が立つとき、
立て札は立たない。

立て札が立つのは、
噂が終わるときだ。

噂が始まるときは、
茶屋の隅で、井戸端で、
湯屋の湯気の向こうで、
声を潜めて始まる。

「最近、改めがあるらしい」

最初にそう言ったのは、
幸吉だった。

博打帰りの顔で、
妙に目だけが冴えている。

「改め?」

謀次郎は帳面から
目を離さずに聞いた。

聞くが、乗らない。
口入屋の基本である。

「ええ。憑き物改め。
夜じゃなくて、昼間にやるそうで」

昼間にやる改めは、
たいてい質が悪い。

夜は闇があるが、昼は正義がある。

「奉行所か」

「さあ。役所とも言いますし、町年寄とも言いますし、寺が噛んでるとも。
でも、どこも“自分じゃない”って顔してます」

幸吉はそう言って笑った。
責任の所在が曖昧なとき、
人は一番よく働く。

佐一が帳面を抱えたまま、口を挟んだ。

「憑き物って、どんなものですか」

その問いに、
誰も即座には答えなかった。

答えに困る問いは、
たいてい核心を突いている。

「酒癖、とか」

幸吉が指を折る。

「女、とか」

もう一本折る。

「借金、口の軽さ、怠け、逆らい癖」

折った指を戻しながら、言い足す。

「まあ、要するに――扱いづらいってことさ」

扱いづらい。
それは人間の本質のほとんどを
含む便利な言葉だ。

佐一は真面目に頷いた。

「なるほど。基準があれば、揉めませんね」

謀次郎は、そこで初めて顔を上げた。

揉めない、という言葉は、
揉み消す、という言葉とよく似ている。

「誰が決める」

短く問う。

「決める人が、決めるんでしょう」

佐一は悪気なく答えた。
悪気がないから、質が悪い。

城下では、
すでにいくつかの家が噂に上がっていた。

「あの大工、憑き物があるそうだ」
「あそこの手代、改めに引っかかった」
「だから最近、仕事が回らない」

因果は誰も確かめない。
因果らしきものがあれば、
納得は成立する。

伊予屋にも、
その影響はじわじわと及んだ。

奉公人を探していた商家が、
条件を一つ付け加える。

「憑き物のない者で」

理由は言わない。
理由を言わないことで、
正しさが保たれる。

「改めは、いつから始まったんです」

海が、台所から言った。
湯呑を拭く手を止めずに。

「さあ。始まった、
というより、気づいたら始まってた、だな」

幸吉が答える。

「便利だろ?
雇わない理由を、相手のせいにできる」

海は何も言わなかった。
言わないが、
拭いていた湯呑を一つ割った。

誰も責めなかった。
割れた湯呑は、運が悪いだけだ。

数日後、
謀次郎は町年寄の使いに呼ばれた。

座敷は広く、畳は新しい。
新しい畳の匂いは、
いつも人を油断させる。

「伊予屋さんは、
人を見る目があると聞いておる」

町年寄は、そう切り出した。

「お褒めにあずかり」

謀次郎は、膝の上に手を置いた。
褒め言葉は、たいてい紐付きだ。

「憑き物改めだがな」

来た。

「伊予屋さんにも、
協力してもらえぬか」

協力、という言葉も便利だ。
断れば非協力になる。
町八分は確定だ。

「どのように」

「簡単なことだ。
口入れの際、怪しい者を、怪しいと」

怪しい。また一つ、
城下でよく使われる言葉が出た。

「基準は」

謀次郎は、
逃げ道を探るように問う。

町年寄は、にこりと笑った。

「常識だよ」

常識。
それは誰のものでもなく、
誰のものでもある顔をする。

「常識に従わぬ者が、憑き物持ちだ」

話は、それで終わった。

伊予屋に戻ると、
幸吉が興奮気味に言った。

「旦那、これ、うまくやれば儲かりますよ。
憑き物なし、ってお墨付きが出れば、仕事が回る」

佐一も続ける。

「帳面に印をつけるだけです。
丸か、三角か、×か。
分かりやすい」

分かりやすい。
その言葉が、
謀次郎の耳に重く残った。

分かりやすい世の中ほど、
人は簡単に捨てられる。

謀次郎は、暖簾の奥を見た。

人が行き来し、噂が入り、金が動く。
そのすべてが、今日もいつも通りだ。

だが、帳面の余白が、確実に減っている。

魑魅魍魎は、もともと人の心に棲む。

だが、名を与えられ、
印を付けられた瞬間から、
それは人の外に追い出される。

追い出されたものは、
戻る場所を探す。

そして、戻る場所を失ったとき、
それは本当の魑魅魍魎になる。

謀次郎は、筆を取らなかった。

帳面に印を付ける代わりに、
暖簾の端を、もう一度だけ撫でた。

ほつれは、まだ見えない。

だが、布の向こうで、
何かが息をひそめている気配だけは、
確かにあった。

第三節 人の皮を着た妖(あやかし)


伊予屋に、
その男が来たのは昼下がりだった。

昼下がりに来る客は、
追い詰められている。

朝ならまだ望みがあり、
夕なら諦めがある。
昼は、どちらもない。

男は年の頃四十前後、
背は低く、肩幅が狭い。

だが、歩き方に癖がない。
癖がないというのは、
長く一つの仕事を続けてきた証だ。

「口入れを、お願いしたく」

声音は低いが、濁っていない。
濁りは嘘の兆しだが、
この男にはなかった。

幸吉が例によって笑顔を向ける。

「どんなお仕事を?」

「木を扱っております。
細工、指物、建具、だいたいは」

腕のある者ほど、説明は短い。
長い説明は、腕の代わりになる。

謀次郎は男の手を見た。
指は太く、爪は短い。
だが、刃物の跡がない。

刃物を扱ってきた者の手は、
必ずどこか歪む。
この男の手は、丁寧すぎた。

「前の奉公先は」

謀次郎が問う。

男は一拍置いた。
その一拍で、城下の噂が立ち上がる。

「……長く、おりました」

それだけ言った。

長くいたのに、今はいない。
城下で一番嫌われる経歴だ。

幸吉は察したように、
声を落とす。

「憑き物、ですか」

男は否定しなかった。
沈黙は、
否定する術を失った者の態度だ。

「そう言われました」

その一言で、空気が変わる。

魑魅魍魎は、
名を呼ばれると姿を現す。

だが、この男の前にいるのは、
怪物ではない。

ただの仕事を失った人間だ。

海が茶を運んできた。
男の前に置くとき、
ほんの一瞬、目を見た。

男は慌てて目を逸らした。
見られることに慣れていない。

見られるという行為が、
すでに裁きになっている。

「何が起こったのですか」

海が、ぽつりと聞いた。
尋問ではない。
興味でもない。

ただ、知ろうとしただけだ。

男はしばらく黙った後、言った。

「何も」

その答えは、城下では通らない。

「何もしていない、は一番怪しい」

幸吉が、冗談めかして言う。

冗談は、
場を和ませるためにある。

だが、和ませた分だけ、
刃は深く入る。

男は続けた。

「仕事の段取りが悪い、と言われました。
無駄が多い、と」

無駄。
それもまた、便利な言葉だ。

「木目を揃えるのに、時間をかけすぎる、と。
見えないところに手を入れすぎる、と」

謀次郎は、そこでようやく分かった。

この男は、真面目すぎた。

「口を出しました。
このやり方では、後で歪む、と」

歪むのは、木ではない。
人間関係だ。

「若い衆に嫌われ、
親方には、睨まれました」

それだけで十分だった。

空気を乱す正しさは、
どの時代でも魑魅魍魎扱いされる。

「それで、憑き物だと」

佐一が、帳面を見つめたまま言った。

「はい。頑固の憑き物、理屈の憑き物
だそうです」

男は、自分で言って笑った。
その笑いが、一番痛々しい。

海は、男の持っていた包みを見た。

「それ、何ですか」

「端材です。
捨てると言われまして」

包みを開くと、
小さな木彫がいくつか入っていた。
波、鳥、草花。

どれも、売り物にはならない。
だが、どれも、手を抜いていない。

海の目が、僅かに光った。

「……綺麗」

その一言で、
男の肩が少しだけ下がった。

褒め言葉は、
久しぶりだったのだろう。

謀次郎は、
その様子を黙って見ていた。

この男を雇えば、
伊予屋に「情に流れる」の印が付く。

雇わなければ、
この男は本当に魑魅魍魎になる。

城下では、居場所を失った者から、
妖になる。

「仕事は、ある」

謀次郎は言った。

幸吉と佐一が同時に顔を上げた。

「ただし、表には出ない」

男は頷いた。
条件を飲む速さが、
覚悟の深さだった。

男が帰ったあと、幸吉が言った。

「旦那、ああいうの、危ないですよ。
改めに睨まれます」

佐一も続ける。

「帳面に、×が付きます」

謀次郎は答えなかった。

代わりに、
男の置いていった端材を手に取った。

軽い。
だが、中身は詰まっている。

魑魅魍魎とは、
人が恐れて名付けたものの総称だ。

だが、本当に恐ろしいのは、
名付ける側が、それを
人ならざるものにした瞬間である。

謀次郎は端材を戻し、
帳面を閉じた。

この城下で、
一番の妖は、
いつも人の顔をしている。
平然と町を闊歩している。

第四節 改めという名の祝祭


城下町に、騒ぎが生まれるときは、
必ず理由が後から付く。

最初は、ただの人だかりだった。

昼過ぎ、
米蔵通りの角に人が集まり、

誰かが転んだとか、喧嘩だとか、
そんな程度の顔をして立っていた。

だが、人だかりは育つ。

育った人だかりは、
必ず「見せ物」を欲しがる。

「改めだ」

誰かが言った。

その一言で、
人だかりは意味を得た。

改めは、城下では半ば祭りである。

罪人が出れば安心できる。
自分ではないと確認できるからだ。

幸吉が、
伊予屋の前を走り抜けて戻ってきた。

「旦那、やってます。
憑き物改め。
役人も町年寄も、勢揃いです」

「誰だ」

謀次郎は、
すでに答えを半分知っていた。

「……例の大工です」

海が息を飲んだ。
佐一の手が、帳面の端を強く掴む。

「伊予屋に出入りしていた、
という話になってます」

話は、いつも少しずつ盛られる。
盛られた分だけ、真実は削られる。

謀次郎は立ち上がった。

「見に行く」

それだけ言った。

改めの場は、
思ったより整っていた。

即席の高座が組まれ、
帳面が置かれ、
判を押す役人が座っている。

見物人は、距離を保って円を作る。
近づきすぎると、
次は自分が呼ばれるかもしれない。

大工の男は、
縄で縛られてはいなかった。

縛る必要がないほど、
すでに逃げ場がなかったからだ。

「この者は――」

町年寄が、よく通る声で言う。

「頑固の憑き物を持ち、
職場の和を乱し、
不穏な言動を重ねた疑いがある」

疑い、という言葉が使われた。
証は、いらない。

「証人はいるか」

証人は、すぐに出た。

元の奉公先の若い衆。
酒場で一度口論した相手。
仕事を断られた商人。

誰もが、
少しずつ恨みを持っている。

少しずつだから、
皆、正義の顔をしている。

「改め帳によれば」

役人が帳面を開く。

そこには、
丸、三角、×が並んでいた。

大工の男の名の横には、
三角が二つ、
そして小さな×が一つ。

「不適」

それだけで、結論は出た。

男は、何も言わなかった。

言えば、
“言い訳の憑き物”が追加される。

海が、
人垣の向こうで立ち尽くしていた。

謀次郎は、前に出た。

前に出ることは、
城下では宣言である。

「この男は、
伊予屋が仕事を回していた」

ざわめきが走る。

「腕はある。
手も口も、きれいだ」

町年寄が、困ったように笑った。

「伊予屋さん。
それは、あなたの情というものだ」

情。
また、便利な言葉が出た。

「情は、商いに毒だ」

誰かが言った。
誰が言ったかは、
もう重要ではない。

役人が、帳面を閉じた。

「伊予屋にも、
しばらく口入れを控えてもらおう」

控える。
それは、止める、という意味だ。

幸吉が、謀次郎の袖を引いた。

「旦那、引きましょう。
ここは」

引くのが賢い場面もある。

だが、
引いた先に道があるとは限らない。

謀次郎は、男を見た。

男は、謀次郎を見なかった。
見れば、
最後の拠り所が壊れるからだ。

「憑き物は、
人に移るのか」

謀次郎が、ぽつりと言った。

場が静まる。

「この男に憑いていたものが、
今、誰にも憑いていないとは、
どうして言える」

役人は眉をひそめた。

「何が言いたい」

「憑き物とは、
都合の悪さの別名だ」

その瞬間、
謀次郎の背に、
見えない印が押された。

町年寄が、静かに言った。

「伊予屋。
あなたも、改めの対象だ」

改めは、
一度始まると止まらない。

人だかりは、
次の見せ物を見つけた顔をしていた。

その夜、
伊予屋の暖簾は下ろされた。

下ろされた暖簾は、
風に揺れない。

だが、
揺れないものほど、
目立つ。

魑魅魍魎は、
もう帳面の中だけにはいなかった。

正義の顔をして、
往来の真ん中に立っていた。

第五節 魑魅魍魎、棲み処を得る


伊予屋の暖簾が下りたまま
三日が過ぎた。

三日というのは、城下で物事が
忘れられるには短く、

新しい理屈が出来上がるには、
ちょうどよい長さだ。

「伊予屋は怪しい」

そう言う者は、
「伊予屋は危ない」と言い換え、

やがて
「伊予屋は、
やはりそうだった」
と締めくくる。

結論は、いつも先にある。

店の中では、
四人が静かに暮らしていた。

幸吉は博打をやめた。
やめたというより、
「やっていると目立つ」
ことに気づいただけだ。

佐一は帳面を閉じ、
代わりに白紙を重ねるようになった。

白紙は、まだ何者でもない。
だが、何者にもなりうる。
それが、今の城下で一番危ない。

海は、
男が残していった端材を削っていた。
小さな彫り物が、いくつも増えた。

売り物にはならない。
だが、捨てる理由もない。

謀次郎は、何もしなかった。

何もしない、というのは、
城下では目立つ行為である。

四日目の朝、
町年寄の使いが来た。

「伊予屋に、改めの結果を」

結果、という言葉は、
それ以上の説明を許さない。

使いは紙を差し出した。

そこには、簡潔に書かれていた。

――伊予屋、憑き物あり
――情に流され、人を選別できず
――当面、口入れ停止

幸吉は、紙を覗き込み、
乾いた笑いを漏らした。

「旦那。
俺たち、妖になっちまいましたね」

佐一は、紙をじっと見て言った。

「でも、これで分かりやすくなりました」

分かりやすい、という言葉は、
この家でも、
すでに馴染んでしまっている。

海は、何も言わず、
彫りかけの木片を机に置いた。

そこには、人の顔とも、
鬼の顔ともつかぬ形があった。

謀次郎は、紙を畳み、
囲炉裏の灰の上に置いた。

火はつけない。
燃やすほどの価値もない。

その夜、
伊予屋の裏口を叩く音がした。

開けると、
一人、また一人と、
人が立っていた。

改めで弾かれた者。
噂で外された者。
理由も分からぬまま、
居場所を失った者。

誰もが、
「憑き物持ち」と呼ばれていた。

謀次郎は、彼らを中に入れなかった。

ただ、
仕事のある場所、
人を探している家、
名を出してはいけない筋道を、
一つずつ、静かに教えた。

それは口入れではない。
だが、誰かが
やらねばならない仕事だった。

数日後、
城下で奇妙な噂が立ち始めた。

「憑き物持ちばかり集まる裏の口入れがある」
「改めを通らない働き口があるらしい」

役所は動かなかった。
動けば、改めの網目の外が
存在すると認めることになる。

町年寄も、見て見ぬふりをした。
見ぬふりは、
城下で最も成熟した技術である。

やがて、
改めは形骸化した。

帳面は増え、印は乱れ、
誰が憑き物持ちか、
分からなくなった。

分からなくなった瞬間、
改めは役に立たなくなる。

役に立たない正義は、
自然と捨てられる。

ある朝、
伊予屋の前に、
新しい札が貼られた。

――憑き物改め、当分停止

理由は、書かれていない。

謀次郎は暖簾を掛けた。

布は、以前より少しだけ重い。
だが、ほつれはなかった。

幸吉が言った。

「旦那。
俺、思ったんですがね」

謀次郎は応えない。
続きがあるときの声だった。

「魑魅魍魎って、
退治されるもんじゃないんですね」

佐一が、ぽつりと続けた。

「棲み処を、与えられるんだ」

海は、彫り物を一つ、棚に置いた。

人でもなく、
鬼でもない顔。

謀次郎は、暖簾の奥を見て言った。

「魑魅魍魎は、
人を喰わない」

三人が、顔を上げる。

「人が、人であることを
やめたときにだけ、
静かに住み着く」

その日から、
伊予屋には奇妙な評判が立った。

――あそこは、妖が集まるが、
人が戻ってくる口入屋だ

謀次郎は、
その評判を訂正しなかった。

訂正しないということは、
受け入れるということだ。

城下町には、
今日も魑魅魍魎が棲んでいる。

だが、
それらが最も好む棲み処は、
人の心でも、
夜の闇でもない。

「正しくあろう」とする場所だ。

伊予屋は、
その少し外側に、
暖簾を掛け続けていた。

ABOUT ME
factory-workers
31歳 工場労働者 孤独と自由を設計し、 歴史と小説を通して 世界の“構造”を語る人。 半隠遁ライフ / 日本史講義 J-POP考察 / 小説はKindleで販売中。