冬は、正直者です。空気が冷たい。
指先が痛い。財布も静かに泣く。
人間の感情だけが、
なぜか一人前に熱を持ちます。
寒いほど、余計なことを考える。
暖房の効きが悪い部屋ほど、
人生の効率も悪化する。
公平ですね。公平という言葉が、
まだ恥ずかしくない程度には。
こんばんは、えげれすラジオです。
「礼儀正しく失礼なお悩み相談」を、
懲りずに続けています。
人類が悩むことをやめない限り、
私も仕事をやめられない。
双方の不幸が見事に噛み合っている。
運命というのは、
たいていこういう形で成立します。
この番組では、日々寄せられるお便りに、
えげれす人のパーソナリティが、
皮肉とユーモアと知性と、
時々どうでもいい慣用句を混ぜながら答えます。
的確に答える回もあります。たまに。
いい加減に答える回もあります。よく。
違いは、私の体調ではなく、
あなたの文章の長さです。
長いと、こちらの情緒が先に折れます。
これは構造の問題で、個人の努力で
どうにかなる話ではありません。
おそらく。
今夜は一月。日本の冬は、
英国の冬ほど湿っていない分だけ、
まだ希望があります。
英国の冬は
「雨」と呼ぶには礼儀がありすぎる、
何か別のものです。
水分と陰鬱の合成物。
人間のメンタルをスコッチのように
熟成させる装置。
ただし、熟成した結果が
「優れた知性」として出荷されるか、
「やたらと皮肉なだけの人」
として返品されるかは、
個体差があります。
私は後者寄りです。たぶん。
というか、そういう番組です。
さて、第一回です。初回というのは、
期待が混入しやすい。
期待はだいたい余計なものです。
今日の目標は、
あなたの悩みを“解決”しないこと。
代わりに、“整理”します。
人間の悩みは、解決されるより、
棚に並べられるほうが扱いやすい。
冷蔵庫の中身と同じです。
中身は腐っていくが、
配置を整えると少し安心する。
安心すると、腐っていることを忘れる。
便利です。健康かどうかは、別として。
番組のルールは簡単です。
相談者の人格は攻撃しません。
社会は、攻撃します。
正論を振り回しません。
正論は武器で、
だいたい扱い手が下手です。
最後に箴言を置きます。
役に立つとは言いません。
残るとは言います。
では、最初のお便りです。
……本当は「最初の犠牲者」と
言いたいところですが、
番組の品位が傷つくので、
控えめにしておきましょう。
控えめに言っても、
意味は伝わるはずです。
読者の知性を信頼しています。
信頼しているからこそ、
説明しません。少々、不親切ですが。
お便り
ラジオネーム:湯たんぽ難民
(32歳・男性・会社員)
えげれすラジオさん、こんばんは。
私は都内で働く会社員です。
独身で、一人暮らしです。
最近、会社の上司がとにかく
「前向き」を強要してきます。
「ネガティブなこと言うな」
「できない理由じゃなくて
できる方法を考えろ」
「君はもっとポジティブにいける」など。
もちろん、
前向きな姿勢が大事なのは分かります。
でも現実には、仕事は増えるし、
給料は増えないし、ミスしたら怒られるし、
こちらが無理をしても評価は「当たり前」。
正直、最近は朝起きるのがしんどいです。
でも「しんどい」と言うと、
また「前向きに」と返されます。
上司は悪い人ではないと思います。
ただ、上司の前向きが、
こっちの心を削ってきます。
こういう時、どう考えればいいでしょうか。
そして、どう返事をすればいいでしょうか。
追伸:家の暖房が弱く、
湯たんぽを探してますが、
なぜか見つかりません。
これも前向きに探すべきでしょうか。
なるほど。
まず、あなたが湯たんぽを
見つけられない件については、
前向きに言えば「発見の余地がある」。
控えめに言えば「部屋が寒い」。
さらに控えめに言えば「人生が寒い」。
ただ、湯たんぽは
努力すれば手に入ります。
人間関係の湯たんぽは、
だいたい売っていません。
売っていたとしても、
定期購入です。しかも解約が面倒。
ここが社会の巧妙なところです。
さて、本題。「前向き強要上司」。
英語圏で言うなら、
Toxic Positivity(有害な前向き)に
近い香りがします。
もちろん、
あなたの上司は善意でしょう。
善意で人を追い詰めるのは、
世界史でもっとも頻出する事故です。
事故という言葉が生き残る程度には。
まず問題を定義します。
あなたが苦しいのは
「仕事がしんどい」からではなく、
しんどさの言語化を禁止されているからです。
疲労がある。だが、
その存在を認める言葉が許されない。
それは心の中で火災が起きているのに、
「火」という単語を禁じられている状態です。
結果、あなたは煙だけを吸います。
煙は目に見えませんが、
確実に咳が出ます。
咳が出ると「前向きに」と
言われます。優雅な地獄ですね。
ここで一つ、
英国的な視点を差し込みます。
英国人がなぜ皮肉を使うのか。
怒っているからではありません。
怒りは疲れるからです。
皮肉は、感情を節約しながら、
現実を切り分けるための道具です。
あなたの上司が「ポジティブに」と言うとき、
それは真に“前向き”というより、
扱いづらい現実を目に入れたくない
という防衛反応の可能性があります。
つまり、上司が求めているのは、
あなたの成長ではなく、
上司自身の安心です。
上司も人間です。
人間は安心を買うために、
他人の心を分割払いにします。
無金利かどうかは、
確認したほうがいい。
では、あなたがどう考えるべきか。
①「前向き」は善ではなく、道具だと捉える
前向きは宗教ではありません。
宗教扱いすると揉めます。
前向きは、
状況によって有効な道具です。
ただし、万能工具ではない。
万能工具を信じる人は、
だいたい工具を使ったことがありません。
上司の「前向き」は、
あなたにとっての道具ではなく、
上司にとっての道具。
ならばあなたは、
自分の道具箱を持てばいい。
たとえば、あなたの道具は
「現実を正確に言語化すること」。
前向きの前に、事実が要ります。
事実のない前向きは、ただの方向音痴です。
②「しんどい」を“業務言語”に翻訳する
上司が嫌うのは感情表現であって、
必ずしも事実ではありません。
だから翻訳します。
「しんどい」を
「現状の工数と納期の整合性が取れていません」にする。
「朝起きるのがつらい」を
「睡眠の質が落ちており、集中力に影響が出ています」にする。
感情を消すのではなく、
形式を変える。
上司は「前向き」という
形式にしか反応しない。
なら、こちらも形式で戦う。
英国議会がそうするように。
ええ、優雅に。
③「相手を否定せず、現実だけを置く」
英国式の礼儀正しい不親切さは、
相手の顔を立てながら、
現実を机の上に置きます。
机の上に置かれた現実は、
消しづらい。捨てづらい。
だが見える。これが大事です。
上司に対して、こう言えます。
「おっしゃる通り前向きさは大事です。
その上で、現状のタスク量が物理的に厳しいです」
「できる方法を考えます。
その前に、優先順位を一緒に整理したいです」
「ポジティブに捉えたいです。
ただ、今の納期だと品質が落ちます。
どちらを優先しますか」
ポイントは、選択肢を相手に渡すこと。
相手は「前向き」という抽象で
殴ってきます。こちらは「AかBか」で返します。
抽象は強そうに見えますが、
具体で殴られると弱い。
これは世界のルールです。
恋愛でも同じです。たぶん。
さて、あなたが
求めているのは「返事」もですね。
上司の言葉を真正面から受けると、
あなたは毎回
“精神的な宿題”を背負うことになります。
そこで英国の伝統的技法——
understatementとdeadpanを使いましょう。
ただし、日本の職場仕様に調整します。
英国のまま投げると、
あなたの人事評価が冬より冷えます。
上司への返し(安全度順)
安全(角が立たない)
ありがとうございます。前向きに進めます。
今週は優先順位の確認だけお願いします」
「ポジティブに捉えます。そのために、
今抱えているタスクを一度棚卸しします」
中辛(皮肉がうっすら香る)
「前向きにいくために、
現実の情報がもう少し必要です」
「できる方法を考えます。
できない前提条件も合わせて整理します」
辛口(信頼残高が必要)
「前向きにいけます。
ただし体力が残っていれば」
「ネガティブは言いません。
ただ事実は言います」
最後の二つは、あなたが
“湯たんぽ”を先に確保してから使ってください。
冷えた状態で言うと、
ただの喧嘩になります。
喧嘩は温かい部屋でやるべきです。
倫理的かどうかは別として。
追伸の湯たんぽ問題に戻ります。
湯たんぽが見つからないのは、
あなたの前向き不足ではありません。
それは単に、湯たんぽが
あなたに興味を持っていないだけです。
物には意志がない。だからこそ、
私たちは物を愛します。
人間は意志がある。だから面倒です。
しかし、ここでcallbackをします。
あなたは「暖房が弱い」と書いた。
職場でも、同じです。
暖房(=支援)が弱いのに、
「心の温度を上げろ」と言われる。
それは、暖房器具の不具合を、
使用者のメンタルで補えと
言っているに等しい。
控えめに言って、
設計が美しくありません。
控えめに言わないと、
ただの悪口になるので控えめにしておきます。
では、最後に——
この番組の儀式として、箴言を置きます。
前向きとは、現実を見ないことではない。
現実を見たうえで、言い訳を減らすことである。
今夜のお悩みも、
きれいに解決はしませんでした。
ええ、分かっています。
あなたは解決を求めていた。
私も、そういう人生を送ってみたかった。
ただ、悩みというものは
——解決されるより先に、
言葉にされる必要があります。
言葉になった瞬間、
少しだけ扱いやすくなる。
完全には、なりません。人間ですから。
お便りは、引
き続きお待ちしています。
“待っている”というより、
どうせ届くのでしょう。
冬の寒さのように、安定して。
それでは、良い1日を。
暖房が弱いなら、せめて言葉は強めに。
