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口入屋 謀次郎 (短編小説)② 漁夫の利

第一節 暖簾は布だが、意地は重い


阿波の城下町では、
朝の挨拶が商いの半分を占める。

残りの半分は、
挨拶をどう返すかで決まる。

「おはようございます」

紙問屋「越前屋」の主人・宗助は、
米問屋「近江屋」の前を通るたび、
必ず声をかけた。

声はよく通り、姿勢もよい。
これで相手が返事をしなければ、
町内に「何かあった」と伝わる。

「おはよう」

返事は短いが、返事は返す。
近江屋の主人・弥兵衛は、
そういう男だった。

返すが、余計な言葉は足さない。
足すと、負けた気がする。

二人の店は、
通りを挟んで向かい合っている。

越前屋は紙、帳面、筆、硯。

近江屋は米、味噌、塩、日用の穀類。

扱う品は違う。
だが、同じものがある。

暖簾だ。

どちらの店も、
軒先に同じ文言を掲げていた。

――「元祖 城下御用達」。

布の色も似ている。
文字の形も似ている。

似ているというより、
「どちらが先か分からない程度」
に違う。

城下の人間は、
こういう違いを見逃さない。

見逃さないが、指摘はしない。
指摘した瞬間に、
面倒に巻き込まれるからだ。

最初に噂が立ったのは、
八百屋の裏口だった。

「なあ、あれ、どっちが元祖なんだ」

「さあな。昔から、
両方あった気がする」

「いや、去年までは、
近江屋だけだったような」

「そう言われれば、
越前屋のは新しいか」

「だが、字が古風だぞ」

「古風なのは、わざとだろ」

噂は、こうして形を
持たないまま転がる。

誰も責任を取らない噂ほど、
足が速い。


越前屋の宗助が
最初に気づいたのは、
帳面の減りだった。

紙は売れる。

だが、
「御用達」の帳面が、
妙に売れない。

「おかしいな」

奉公人に言うと、
奉公人は困った顔をした。

「近江屋さんで、
帳面を付けてる人が増えたようで……」

「米屋で帳面?」

「ええ。『御用達』だから、
信用があるって」

宗助は、笑った。

「御用達は、米屋の御用ではないぞ」

奉公人は笑わない。
笑うと、余計なことを言った気になる。

宗助は、暖簾を見上げた。
布は風に揺れている。
揺れているだけで、何も言わない。

だが、布は黙っていても、
売上げは雄弁だ。


一方、近江屋の弥兵衛も、
異変を感じていた。

「紙屋のくせに、米の話をされる」

客が言ったという。

「帳面を買うなら、
どっちが元祖か分からないと」

弥兵衛は、湯呑みを置いた。

「元祖かどうかで、腹は膨れぬ」

「でも、腹が膨れたあとに、
気にする人はいます」

奉公人は、
商いをよく分かっている。
商いは腹より後に効く。

弥兵衛は、暖簾を見た。

越前屋の暖簾が、
風に揺れている。

こちらを見ているようで、
見ていない。

「……あれは、うちの言葉だ」

弥兵衛は、ぽつりと言った。

奉公人が聞き返す。

「何です?」

「御用達、だ。
 あれは、先代の代から使っている」

「証文は?」

「ない」

「証人は?」

「死んだ」

奉公人は、何も言わなかった。
言わないのが、奉公人の仕事だ。


最初に直接ぶつかったのは、
寺の帰りだった。

宗助と弥兵衛が、同時に門を出た。

「……おや」

「これは」

互いに会釈をする。
会釈は礼だが、
距離を測る道具でもある。

宗助が先に言った。

「近頃、御用達の話をよく聞きます」

弥兵衛は、間を置いた。

「聞かれるのは、
長くやっている証拠です」

「長く、というのは便利な言葉ですね」

「元祖、よりは」

宗助は笑った。
弥兵衛は笑わない。

「越前屋さん」

「はい」

「暖簾は、布です」

「ええ」

「布は、風でなびく」

「風向き次第ですな」

二人は、そこで別れた。
争いは、たいてい礼儀正しく始まる。


翌日から、城下に瓦版が出回った。

内容は大したことがない。

「城下御用達 紙・米
いずれも老舗あり
元祖の文字 混乱あり」

名指しはない。
だが、誰もが分かる。

瓦版を刷ったのは、
文具屋「文泉堂」だった。

帳面、紙、瓦版。
どちらの店にも品を卸している。

文泉堂の主人は、笑顔で言う。

「うちは、事実を書いただけで」

事実ほど、争いを煽るものはない。


宗助は、瓦版を手に取った。

「混乱あり、だと」

奉公人が言う。

「混乱してるのは、読む側です」

「読む側が混乱すれば、
 選ばなくてはならなくなる」

宗助は、帳場で指を組んだ。

弥兵衛も、同じ瓦版を読んでいた。

「混乱、か」

奉公人が言う。

「選ばせる気ですね」

「選ばせるというより、
 比べさせる気だ」

比べられると、
負けた方は、黙っていられない。


文泉堂では、瓦版がよく売れた。

「次はどう書くんです?」

小僧が聞くと、主人は言った。

「次は、もっと曖昧に書く」

「曖昧に?」

「断定すると、争いが終わる。
 終わると、売れない」

小僧は感心した。

「では、どちらが元祖かは」

主人は肩をすくめた。

「どちらでもいい。
 争ってくれれば」


城下町は、
静かに騒がしくなった。

「どっちが本当だ」
「昔から知っている」
「いや、あれは最近だ」

誰も証拠は持たない。
だが、皆、記憶を持っている。

記憶ほど、
都合よく形を変えるものはない。

暖簾は、今日も揺れている。

布は軽い。だが、
そこに染み込んだ意地は、重い。

そして誰もまだ気づいていない。

――この争いで、
最初に儲かっている者がいる
ということに。

第二節 正しさは、帳面の中で腐る


城下の争いは、
三日目から「理屈」を帯び始めた。

理屈が出てくると、
人は自分が争っていることを忘れる。

代わりに「証明している」
と思い込む。

越前屋の宗助は、
蔵の奥から古い帳面を
引きずり出した。

紙は黄ばんでいる。
字は崩れている。

だが、そこに書かれた数字だけは、
妙に生き生きしていた。

「先代の帳面だ」

宗助は、帳面を広げながら言った。

「ここにある。
 御用の紙を納めた記録が」

奉公人が覗き込む。

「……年号が読みにくいですね」

「昔の字だ。
 昔の字は、今より重い」

重いのは字ではなく、
「昔」という言葉そのものだ。

宗助は、筆を取り、写しを作らせた。

写しは、証拠になる。
証拠は、争いを長引かせる。


同じ頃、近江屋の弥兵衛も、
奥座敷で箱を開けていた。

箱の中には、
古文書とも呼べぬ紙切れが
入っている。

汚れ、折れ、虫食い。
だが、判だけは、
しっかり残っている。

「これは、先々代の頃だ」

弥兵衛は、低い声で言った。

「藩の御用を任されたときの、
覚え書きだ」

奉公人は慎重に聞く。

「……紙屋ではなく、米屋が?」

「御用は、紙だけではない。
 物を動かすのも、御用だ」

言葉にすると、筋が通っている。
筋が通っている言葉ほど、危うい。


争いは、店の外に出た。

宗助は、
知り合いの町年寄に帳面を見せた。

「これは、確かに古い」

年寄は言った。

「だが、御用達の“元祖”
とまでは言えん」

「なぜです」

「元祖は、名乗った者勝ちだからだ」

宗助は、納得したような、
していないような顔をした。

一方、弥兵衛は、
別の年寄に文書を見せていた。

「これは、御用を請け負った証だ」

年寄は言う。

「だが、“城下御用達”という言葉は、
 後からできた」

「後から?」

「言葉は、だいたい後から正しくなる」


城下では、噂が形を変えていた。

「越前屋は、紙の御用だ」
「近江屋は、物の御用だ」
「御用の元は、どこだ」
「元祖って、何だ」

問いが増えると、
答えは減る。

その隙を縫って、瓦版が増えた。

「元祖をめぐる諸説あり」
「古帳面・覚え書き、双方あり」
「決着は、時代が知る」

文泉堂の主人は、
刷り上がった瓦版を眺めて、
満足そうに頷いた。

「これで、しばらく持つ」

小僧が聞く。

「決着は?」

「まだまだ、決着すると、売れない」


宗助と弥兵衛は、
次第に顔を合わせなくなった。

顔を合わせると、
余計なことを言うからだ。

だが、町は狭い。

祭りの準備で、再び鉢合わせた。

「……お宅の瓦版、よく出てますな」

弥兵衛が言った。

「うちが刷っているわけではない」

「だが、紙は御宅のだろう」

宗助は、少しだけ声を強めた。

「紙は売る。
 書くかどうかは、別だ」

弥兵衛は鼻で笑った。

「責任の切り分けが、
 紙屋らしい」

宗助も負けじと返す。

「小さなことにこだわる所は、
 米屋らしい」

二人は、そこで黙った。
黙ると、周囲が聞き耳を立てる。

争いは、
当人たちより、
周囲の方が熱心になる。


奉行所の小者が、
店に顔を出すようになった。

「苦情が出ている」

どちらの店にも、同じ言葉を言う。

「城下の混乱は、好ましくない」

混乱という言葉は、
責任を誰にも負わせない。

宗助は言った。

「混乱しているのは、
 選ぶ側です」

弥兵衛も言った。

「選ばせているのは、噂です」

小者は、頷いた。

「噂は、取り締まれん」


争いは、
ついに「証人」を求め始めた。

「あの頃を知っている者はいないか」

「先代の奉公人は?」

「もう死んだ」

「その前は?」

「記憶が怪しい」

記憶は、証拠にならない。
だが、証拠より強い。

証人探しは、
過去を掘り返す行為だ。

掘り返すと、
余計なものが出てくる。

「あの頃、
 どちらも御用を請け負っていた」

「いや、どちらも、
御用と名乗っていただけだ」

「御用という言葉自体が、
 曖昧だった」

誰かが、言った。

「なら、元祖は存在しないのでは」

その言葉は、
誰にも歓迎されなかった。

存在しないものを争うのは、
滑稽だ。

だが、滑稽な争いほど、
長く続く。


文泉堂では、帳面がよく売れた。

「御用帳」
「家計帳」
「由緒書き用紙」

争いは、紙を食う。

主人は、帳面を数えながら言った。

「いい争いだ」

小僧が言う。

「誰も得してないように見えますが」

「見えるだけだ」

主人は、帳面を閉じた。

「得している者は、
 声を上げない」


夜、宗助は、帳場で一人考えた。

「もし、うちが引いたら」

引く、という言葉が、
頭の中で重く響く。

引けば、負けになる。
負ければ、元祖ではなくなる。

だが、勝っても、
何も残らぬのではないか。

弥兵衛も、同じ夜、
同じことを考えていた。

引けば、
商いが楽になる。

だが、
暖簾は、戻らない。


争いは、
すでに当人たちの手を離れていた。

暖簾は布だが、
名跡は、人の中に残る。

そして、その名跡を
誰がどう使うかを、
静かに見ている者がいる。

城下の片隅で、
瓦版の墨が、
今日も乾いていく。


第三節 暖簾は残り、名は売られる


城下の争いが、
七日を越えた頃から、
奇妙な変化が起きた。

誰も、
どちらが元祖かを言わなくなった。

代わりに、
こう言うようになった。

「あの二軒、まだやってるのか」

関心は、
正しさから「継続」に移る。

争いは、結論よりも
「続いていること」
自体が話題になる。

宗助は、朝の帳場で、
売上げを見て眉をひそめた。

帳面も紙も、確かに売れている。
だが、売れているのは
「御用達」を名乗らない品
ばかりだった。

「……名を付けない方が、売れるとは」

奉公人が答える。

「名があると、選ばされるからです」

宗助は、黙った。

選ばされる、という言葉は、
商いの世界では、半分呪いである。

一方、近江屋の弥兵衛も、
同じ壁に当たっていた。

米は動く。
味噌も塩も、普段通りだ。

だが、客は言う。

「今日は、普通のでいい」

「御用達じゃなくて?」

「今日は、いい」

「いい」と言われるほど、
怖い言葉はない。

それは、関心を失った合図だ。


二人は、
互いに相手を意識しながら、
次第に「暖簾」そのものを
見なくなっていった。

見れば、腹が立つ。
見なければ、忘れた気になる。

だが、町は忘れない。

町は、争いを保存する。

保存することで、
次に使えるからだ。


文泉堂では、
瓦版の内容が変わっていた。

最初は、事実。
次に、諸説。

その次は、
「昔語り」になった。

「昔、城下に二軒の御用達あり」
「どちらが元祖か、今も分からず」
「それもまた、城下の風情なり」

風情、という言葉は便利だ。
責任を持たずに、すべてを肯定する。

小僧が言った。

「だんだん、
争いじゃなくなってきましたね」

主人は、瓦版を折りながら答えた。

「争いは、役目を終えた」

「終えた?」

「十分に話題になった。それだけだ」

「決着は?」

主人は、首を振った。

「決着は、売れない」


宗助は、
ある晩、口入屋・謀次郎を訪ねた。

理由は一つだ。
争いの出口が、見えなくなった。

「……このままでは、どちらも損です」

謀次郎は、帳面を閉じもせずに言った。

「損はしていません」

「ですが、得もしていない」

「得は、静かに溜まるものです」

宗助は、少し苛立った。

「では、どうすれば」

謀次郎は、宗助を見た。

「暖簾を、外せますか」

宗助は、息を呑んだ。

「それは……」

「外す、というより、別の言葉にする」

「負けになる」

「勝ち負けは、もう終わっています」

宗助は、初めて、
謀次郎の目を見た。

そこには、同情も悪意もなかった。

ただ、計算があった。


同じ夜、弥兵衛も、
謀次郎を訪ねていた。

言うことは、同じだった。

「……このままでは、商いが鈍る」

謀次郎は、同じことを言った。

「暖簾を、変えませんか」

弥兵衛は、苦く笑った。

「外すと負けだ」

「いいえ。名を売るのです」

「名を?」

「元祖、という名を」

弥兵衛は、眉を寄せた。

「売るとは」

「使わせる、と言った方がいいです」


数日後、城下に新しい瓦版が出た。

「城下御用達の名、両協議により共有」
「元祖の名は、町のものと決まる」
「使用には、文書と認めが必要」

文泉堂は、
過去一番の売れ行きを見せた。

「共有、だってよ」
「なるほど、そう来たか」
「じゃあ、どこが本当だ?」

人々は、また話し始めた。

争いは、形を変えただけだった。


越前屋の暖簾から、
「元祖」の文字が消えた。

代わりに、
「城下用紙商」と書かれた。

近江屋の暖簾も、変わった。

「城下穀類商」。

どちらも、穏やかな言葉だ。
穏やかだが、特徴がない。

だが、その奥で、
新しい帳面が回り始めた。

「御用達名使用帳」。

その管理をしているのが、
口入屋・謀次郎だった。

名を使うには、話を通す。
話を通すには、礼をする。

礼は、金になる。


宗助と弥兵衛は、
久しぶりに顔を合わせた。

「……静かになりましたな」

宗助が言う。

「ええ。静かすぎる」

弥兵衛が答える。

二人は、同時に暖簾を見た。

揺れている。
だが、もう争う言葉はない。

「結局、誰が勝ったのでしょう」

宗助が言った。

弥兵衛は、少し考えた。

「……負けたのは、
元祖という言葉でしょう」

宗助は、頷いた。


その頃、文泉堂では、
主人が帳面を閉じていた。

「しばらくは、保つ」

小僧が聞く。

「次は、何を刷るんです」

主人は、少し考えて言った。

「次の争い」

「もう?」

「町は、生き物だ。争いが餌だ」


夜。

謀次郎は、一人、
帳面に書き付けていた。

「名跡使用料 一件」
「調停礼 一件」
「紹介料 一件」

帳面は、静かに増えていく。

幸吉が言った。

「旦那。結局、
誰も元祖じゃなくなりましたね」

謀次郎は、筆を置いた。

「いいや」

「え?」

「元祖は、今もいる」

「誰です?」

謀次郎は、帳面を閉じた。

「争いそのものだ」

幸吉は、首をかしげた。

「争いが?」

「争いは、名を変えて生き延びる。
 人がいる限り、必ず」


暖簾は、
今日も揺れている。

布は軽い。
意地は重い。

だが、その意地を量り、値を付け、
売っている者がいる。

城下町は、今日も静かだ。

静かだからこそ、
噂は、よく響く。

第四節 争いが終わった町は、よく似ている


争いが収まったあとの城下町は、
よく整って見えた。

越前屋の店先には、
新しい暖簾が掛かっている。

近江屋も同じだ。
文字は穏やかで、主張がない。

どちらも、よく似ている。

よく似ている、
というのは安心を生む。
だが同時に、区別を奪う。

宗助は、朝の挨拶を続けていた。

「おはようございます」

声は以前と変わらず、よく通る。
姿勢も、変わらない。

「おはよう」

弥兵衛の返事も、変わらない。

だが、二人とも、
互いの暖簾を見なくなった。

見る必要が
なくなったからではない。

見ても、
何も分からなくなったからだ。

違いが消えると、人は視線を外す。


客の動きも、
落ち着いていた。

争いの最中に
集まっていた“見物”は、もう来ない。

残ったのは、必要な者だけだ。

必要な者は、
面白い話をしない。

面白い話をしない者は、
噂を運ばない。

町は、静かになった。

静かになりすぎた。


文泉堂では、
瓦版の刷り数が減っていた。

主人は、帳面を睨みながら言った。

「少し、静かすぎるな」

小僧が答える。

「争いが終わったからです」

主人は、首を横に振った。

「終わったんじゃない。
 見えなくなっただけだ」

「では、次は何を書きます」

主人は、しばらく黙った。

「……人の話だ」

「人?」

「人は、争わなくても、不安になる」

不安は、争いよりも長持ちする。


宗助は、
店の奥で帳面を閉じた。

売上は、悪くない。
だが、良くもない。

「落ち着いた商いですね」

奉公人が言う。

「落ち着きすぎだ」

宗助は答えた。

争っていた頃は、疲れた。
だが、今は、手応えがない。

勝っていたのか、負けていたのか。
それすら、曖昧だ。

暖簾から「元祖」が消えたことで、
何かが軽くなったはずだった。

だが、軽くなったのは、店ではなく、
自分の中の“張り”だった。


弥兵衛も、
同じ感覚を抱いていた。

帳場に座り、
米の出入りを確認する。

数字は、正しい。
だが、誇らしくない。

「御用達の話は、もう出ませんね」

奉公人が言う。

「出なくていい」

弥兵衛は答えたが、
声に、少し力がなかった。

元祖を名乗らなくなって、
責任は減った。

だが、同時に、
言い訳も減った。


町内では、
新しい噂が生まれつつあった。

「最近、どの店も似てきた」
「違いが分からん」
「どこで買っても、同じだな」

同じ、という言葉は、
褒め言葉ではない。

だが、誰も抗議しない。
抗議する理由がないからだ。


謀次郎は、
その様子を、静かに見ていた。

帳面は、以前ほど増えない。
だが、減りもしない。

名跡使用の話も、
月に数件ある。

争いの火種は、
完全には消えていない。

消えると、困る。

謀次郎は、
火種を消さない程度に、
湿らせている。

燃えすぎると、危ない。
燃えなければ、寒い。

商いとは、
火加減だ。


ある日、幸吉が言った。

「旦那。最近、町が退屈です」

謀次郎は、帳面を閉じた。

「退屈は、贅沢だ」

「争いがあった方が、
生きてる感じがします」

謀次郎は、少し考えた。

「生きてる感じ、というのはな」

「はい」

「不安の別名だ」


夜、町を歩くと、
暖簾が静かに揺れている。

以前よりも、
風は弱い。

だが、完全に止まってはいない。

どこかで、
次の言葉が、
次の名が、
次の正しさが、
生まれつつある。

それを、町は待っている。


文泉堂の主人は、
新しい版木を彫り始めていた。

文字は、まだ決めていない。

決めてしまうと、
書けなくなるからだ。


宗助と弥兵衛は、
ある日、また同じ寺の門前で会った。

「……最近は、どうです」

宗助が聞く。

「まあ、静かです」

弥兵衛が答える。

二人は、同時に笑った。

静かであることが、
少しだけ怖かった。


暖簾は、布だ。

名は、言葉だ。

だが、その裏で、
人は、争いの形を変えながら、
同じ重さを抱え続ける。

城下町は、今日も平穏だ。

平穏は、
次の騒ぎの、
準備期間でもある。

第五節 名を扱う者の帳面


争いが町の話題から消えて、
しばらく経った。

季節が一つ変わり、
暖簾の布も、少し色を失った。

越前屋も近江屋も、
相変わらず商いをしている。

潰れたわけでも、
急に繁盛したわけでもない。

「普通」になった。

普通になるというのは、
誰にも褒められず、
誰にも責められないということだ。

町は、それを「落ち着いた」と呼ぶ。


謀次郎は、夜、帳面を付けていた。

灯りは、蝋燭一本。
火が強すぎると、字が滲む。
弱すぎると、読めなくなる。

どちらも、商いには向かない。

帳面には、こう書かれている。

「名跡使用 一件」
「調停礼 一件」
「紹介料 一件」

数は、以前より少ない。
だが、ゼロではない。

ゼロにならない、
というのが肝心だ。


幸吉は、隣で
算盤をはじきながら言った。

「旦那。最近は、楽ですね」

謀次郎は、筆を止めなかった。

「楽になると、油断する」

「争いもないし」

「ないように見えるだけだ」

「また、始まりますか」

「始まらせる者がいればな」

幸吉は、少し考えた。

「……旦那が?」

謀次郎は、初めて筆を止めた。

「俺は、始めない」

「じゃあ、誰が」

「町だ」


謀次郎は、帳面を閉じた。

帳面は、
名を記すためのものではない。

名が動いた「跡」を
記すためのものだ。

名は、人が持つ。
だが、動かすのは、別の力だ。

「元祖」という言葉が消えたあとも、
人は、別の言葉を探し始める。

「本流」
「正統」
「老舗」
「信用」

どれも、同じ匂いがする。


「旦那」

幸吉が言う。

「宗助さんや弥兵衛さんは、
今、何を考えてるんでしょう」

謀次郎は、少し間を置いた。

「考えていると思うか」

「……考えてない?」

「慣れている」

慣れは、考えるよりも強い。

争いがあったことにも、
争いが終わったことにも、
人は、すぐ慣れる。


謀次郎は、
独り言のように言った。

「名というのはな、
 守るものじゃない」

幸吉が聞き返す。

「では?」

「使われるものだ」

「誰に」

「欲しい者に」

欲しい者は、必ずいる。
欲しがる理由は、いつも同じだ。

安心したい。
選ばれたい。
負けたくない。

そのためなら、
人は、争う。


「じゃあ、旦那は」

幸吉が、少し躊躇して言った。

「悪いことをしているんですか」

謀次郎は、笑わなかった。

「悪いかどうかは、
 売れ行きが決める」

「売れなければ」

「善人だ」

幸吉は、納得したような、
していないような顔をした。


外では、夜風が吹いている。

暖簾が、静かに揺れる。

今は、争う言葉が書いていない。
だが、布は、何も覚えていない。

覚えているのは、人だ。

そして、人は、
同じことを、
少し違う名前で、
何度でも繰り返す。


謀次郎は、帳面を棚にしまった。

最後に、こう書き足した。

「争い、沈静。
 ただし、終了せず」

幸吉が笑った。

「役人みたいですね」

「役人は、もっと正直だ」

「正直?」

「終わったとは、書かない」


灯りを消す前、
謀次郎は、ぽつりと言った。

「争いは、魚じゃない」

幸吉が聞く。

「では、何です」

「川だ」

「川?」

「人が流れ込む限り、
 干上がらない」


城下町は、今日も静かだ。

静かであることを、
誰も疑わない。

疑わないということが、
次の争いの、
一番の養分だ。


元祖は消えた。
争いも、消えた。
だが――
それらを生む“川”だけは、
誰にも塞がれなかった。

ABOUT ME
factory-workers
31歳 工場労働者 孤独と自由を設計し、 歴史と小説を通して 世界の“構造”を語る人。 半隠遁ライフ / 日本史講義 J-POP考察 / 小説はKindleで販売中。