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【お遍路】 死装束で挑む旅!

【半隠遁者のお遍路小説刊行!】

お遍路とは何か

四国をめぐる旅であり、祈りであり、ときに人生の避難所でもある 

「お遍路」という言葉は、
聞いたことがある。

けれど、実際には何をするものなのか、
うまく説明できる人は
案外少ないかもしれない。

白い装束を着た人が、
杖をついて歩いている。

山道を越え、寺をめぐり、
何かを祈っている。

その姿には、
どこか厳しさがある。

しかし同時に、
不思議な静けさもある。

お遍路とは、乱暴に言えば、
四国にある八十八か所の札所を
めぐる巡礼
である。

ただし、
それだけでは少し足りない。

なぜならお遍路は、
単なる「寺めぐり」ではなく、

であり、信仰であり、
修行であり、そして人によっては、
自分を立て直す時間でもあるからだ。


お遍路とは、四国八十八か所をめぐる巡礼のこと

一般に「お遍路」と言うと、
四国に点在する
八十八の札所寺院
順番にめぐる旅を指す。

この八十八か所は、
四国四県にまたがっている。

  • 徳島県
  • 高知県
  • 愛媛県
  • 香川県

巡礼者は、
これらの寺を一つひとつ訪れ、

本堂や大師堂で手を合わせ、
納経をいただきながら進んでいく。

全行程は、
歩けばかなり長い。

道の取り方にもよるが、
おおむね千数百キロに及ぶとも言われる。

つまり、お遍路とは、
少し思いつきで始めるには、
なかなか骨の折れる旅である。

しかし、
その骨の折れ具合こそが、

お遍路をただの観光と
違うものにしている。


弘法大師とともに歩く旅

四国遍路を語るとき、
欠かせない存在がいる。
それが弘法大師空海である。

お遍路は、空海ゆかりの霊場を
めぐる巡礼として広く知られている。

巡礼者は、単に
自分一人で歩くのではなく、

弘法大師とともに歩いている
と考える。

その象徴的な言葉が、
同行二人(どうぎょうににん)
である。

これは「二人で同行する」
という意味で、

巡礼者一人に見えても、
実は弘法大師とともに旅をしている、
という信仰を表している。

だから、お遍路さんが持つ杖は、
ただの杖ではない。

あれはしばしば、
弘法大師の分身のようにも考えられる。

旅のあいだ、
ひとりで山道を歩いていても、
完全にひとりではない。

この感覚は、
現代人にとっても案外大きい。

社会では孤独が流行しているが、
お遍路の孤独は、
もう少し古風で、もう少し人情がある。


何のためにお遍路をするのか

これには、実のところ、
ひとつの正解はない。

昔であれば、
家族の供養、病気平癒、
罪障消滅、現世利益など、

かなり切実な願いを持って
遍路に出る人が多かった。

今でももちろん、
祈願や供養のために巡る人は多い。

けれど現代では、それに加えて、

  • 人生の節目だから
  • 仕事を辞めたあとに区切りをつけたいから
  • 自分を見つめ直したいから
  • ただ歩いてみたかったから
  • 四国の風土に触れたかったから

という理由で始める人もいる。

ここが、お遍路の面白いところである。

入口はかなり自由なのだ。

最初は
「なんとなく行ってみようか」
でも構わない。

けれど、実際に歩き始めると、
坂道はきついし、
足は痛いし、雨は降るし、荷物は重い。

そうなると、
人はだんだん取り繕えなくなる。

旅の後半で問われるのは、
立派な志ではない。

むしろ、
「それでも今日は次の札所まで行くのか」
という、地味で静かな意志である。

お遍路とは、
そういう旅でもある。


観光と何が違うのか

これもまた、
はっきり線を引くのは難しい。

四国をめぐり、寺を訪ね、
土地の食べ物を楽しみ、景色を味わう。

それだけ見れば、
観光のようでもある。

実際、現代のお遍路には
観光的な要素もある。

車でまわる人もいれば、
バスツアーに参加する人もいる。
宿で郷土料理を楽しむこともある。

だから、「観光か、信仰か」と
きっぱり二つに分ける必要はない。

ただ、お遍路には
観光地めぐりとは少し違う空気がある。

寺に着けば、手を洗い、
鐘をつき、線香を供え、
ろうそくを灯し、納札を納め、
経を唱える。

そうした一つひとつの
所作には、がある。

型があると、
人は不思議と落ち着く。

現代社会では、
何をするにも「自由」が先に来る。

それはそれで結構なことだが、
自由は時に人を疲れさせる。

お遍路には、
ある程度の決まりがある。
だからこそ、かえって心が静まる。

少なくとも、
スマホを見ながらせわしなく
店をはしごする旅とは、
だいぶ様子が違う。


歩くことに意味があるのか

これはよく問われる。

「車で回ってもいいのか」
「全部歩かないと意味がないのか」
という話である。

結論から言えば、
歩き遍路だけが正しく、
車遍路は駄目だ、ということではない。

実際、年齢や体力、時間、
仕事の都合などによって、
巡り方はさまざまである。

数回に分けて巡る人もいるし、
車を使う人も、
公共交通機関を使う人もいる。

ただし、歩くことには、
やはり独特の意味がある。

歩くと、風景の速度が遅くなる。
町のにおい、川の音、
坂道の角度、地元の人の声、
野良犬の気配まで、
妙にはっきりしてくる。

車では通りすぎてしまうものが、
歩くと、なかなか通りすぎてくれない。

そして、それが案外よい。

人は、速く移動していると
賢くなった気がするが、

本当に考えが深まるのは、
たいてい遅い移動の中である。

お遍路は、その「遅さ」を、
堂々と正当化してくれる。

現代では少し珍しい、
ありがたい制度である。


お接待という四国らしい文化

お遍路を語るうえで外せないのが、
お接待である。

これは、地域の人が
巡礼者に対して、

飲み物や食べ物、あるいは
ちょっとした親切を
無償で施す風習をいう。

たとえば、お茶をどうぞ、
みかんを持って行きなさい、
今日は暑いから休んでいきなさい、
といった具合である。

もちろん、いつでもどこでも
必ずあるわけではない。

けれど、この文化は四国遍路の
大きな魅力のひとつである。

ここには、単なるサービスとは違う、
人と人との距離感がある。

巡礼者は、
弘法大師のお連れである。

だから、その人をもてなすことは、
弘法大師への功徳にもつながる。
そう考える信仰的背景もある。

しかし理屈を超えて、
長い道を歩いてきた人に
「お疲れさま」と

声をかける文化が残っている、
というのは、
なかなか捨てたものではない。

世の中には、
ポイント還元よりも
沁みる親切が、たまにある。
お接待は、その代表格かもしれない。


お遍路は、厳しいが、どこかやさしい

お遍路には、
たしかに厳しさがある。

山道は険しい。
夏は暑く、冬は寒い。
雨の日もある。
思ったより孤独な日もある。

しかも八十八か所である。
数字だけ見ても、
すこぶる親切設計とは言いがたい。

だが、それでも
多くの人が惹かれるのは、

この旅に、厳しさだけでは
ないものがあるからだろう。

道ばたの花。
寺の石段。
宿の夕食。
地元の人の一言。
読経の声。
朝の空気。

そういう小さなものが、
妙に心に残る。

お遍路は、
人生を劇的に変える魔法ではない。

一周したからといって、
急に人格者になるわけでもない。
煩悩はたいてい、普通に付いてくる。

けれど、少なくとも、
自分の足で進むこと、
祈ること、
人に助けられること、
また誰かに少し親切にしたくなること。

そういう感覚を、
静かに取り戻させてくれる。

それだけでも、
かなり立派な旅である。


おわりに

お遍路とは、答えを急がない旅である

お遍路とは何か。

ひとことで言えば、
四国八十八か所を
めぐる巡礼の旅
である。

しかし、もう少し
やわらかく言うなら、

それは人がゆっくり自分に
戻っていくための道
でもある。

祈りのために歩く人もいる。
供養のために歩く人もいる。

人生の整理のために歩く人もいる。
ただ何となく歩き始める人もいる。

どれでもよいのだと思う。

遍路道は、案外、間口が広い。

そしてその広さこそが、
千年以上にわたって
多くの人を受け入れてきた
理由なのかもしれない。

忙しい時代に、
急がず、比べず、
一つずつ寺をめぐっていく。

それは少々古風ではある。
だが、古風なものは、
ときに妙に強い。

お遍路とは、
古びた風習ではなく、

現代人にもまだ十分効き目のある、
静かな旅の形式なのである。

ABOUT ME
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31歳 工場労働者 孤独と自由を設計し、 歴史と小説を通して 世界の“構造”を語る人。 半隠遁ライフ / 日本史講義 J-POP考察 / 小説はKindleで販売中。