「善良な人間が、善良なまま人を壊す話」を書きました──『正義の獣』
小説を一本、書き上げました。
タイトルは『正義の獣』。大正から昭和にかけて、特高警察の一員として生きた架空の男・真鍋恒一の生涯を描いた長編歴史小説です。全十四章、Kindleで配信しています。
主人公は悪人ではありません。徳島の山奥で生まれ、貧しい家の弁当を隠しながら勉強し、成績だけで世の中を登っていった男です。母に「ええことしなさいよ」と言われて育ち、本人もそのつもりで生きていました。
ただ、母の「ええこと」を、恒一は「正しいこと」と訳してしまった。人に親切にすること、困っている者を見捨てないこと。母が伝えたかったのはそういう素朴な善意だったはずです。でも恒一はそれを、秩序を守ること、誤った人間を正すことだと読み替えた。その瞬間に何かが抜け落ちた。
書きたかったのは、善意と加害の境界線です。
恒一は殴りません。怒鳴りません。茶を出し、丁寧に話し、言葉だけで人を追い詰めます。暴力を使わないから、本人は自分を野蛮だとは思わない。むしろ救ってやっていると信じている。その信念がいちばん怖い。
「正しさ」は誰のためのものなのか。国のため、秩序のため、と主語を大きくした瞬間に、目の前の一人の人間が見えなくなる。見えなくなった人間は案件になり、ファイルの中の名前になる。恒一の仕事の精度が上がるほど、人が記号に変わっていく。
でも帰省するたびに母の目は遠くなり、父は「人が黙る場所はおかしい」とだけ言い、村人たちは声を落とすようになる。恒一の周りから柔らかいものが消えていく。消えていることに本人だけが気づかない。
派手な事件は起きません。ただ一人の人間が、善良さを手放さないまま、その形を少しずつ歪めていく。歪みの記録を、できるだけ丁寧に書きました。
読んでいただけたら嬉しいです。
