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口入屋 謀次郎シリーズ 長編小説 勧化の鐘 序章 1章

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口入屋 謀次郎シリーズ 長編小説 勧化の鐘

序章 広徳寺の鐘

 春の朝に鐘が鳴った。

 低く、太く、地面を這うようにして広がる音だった。城下の空気が一度止まって、ゆっくりと揺れ始めるのが、謀次郎には聞こえる気がした。広徳寺の梵鐘だ。毎朝鳴る。毎朝聞く。それでも今朝の鐘は、いつもより長く尾を引いた。

 伊予屋の帳場は、通りに面した土間の奥にある。算盤と帳面と筆が並んだ低い台。その前に座って、伊予屋謀次郎は朝の帳面をつけていた。

 口入屋の朝は早い。

 奉公人を探す者は夜明けとともに来る。今朝も一人、表の格子戸の前に立っている。四十がらみの男で、足袋が汚れていた。左の肩が下がっている。荷を担ぐ仕事をしてきた体だ。

「おはようございます。仕事を——」

「どうぞお座りください」

 謀次郎は帳面から目を上げずに言った。男が上がり框に腰を下ろす。

「お名前は」

「喜平と申します」

「歳は」

「四十二です」

「前はどこにいましたか」

「川向こうの米屋で、蔵番を八年」

「なぜ出ましたか」

 喜平は少し黙った。謀次郎は算盤の珠に指を置いたまま待った。

「——主人が代替わりしまして。新しい旦那とは合いませんで」

「合わなかったのはどちらで。あなたか、旦那か」

 喜平はまた黙った。謀次郎はここで初めて男の顔を見た。唇の端が少し下がっている。怒りではなく、疲れの下がり方だ。

「旦那のほうです。蔵の鍵を若い者に渡せと言われました。八年預かってきた鍵を」

「若い者はどのような人間です」

「旦那の甥です」

 謀次郎は帳面に筆を走らせた。喜平、四十二、蔵番八年、米屋。代替わりで出た。腰と肩に年季あり。

「三日お待ちください。見つかれば使いを出します。見つからなければ、五日目にもう一度来てください」

 喜平は頭を下げて出ていった。足音が通りに消える。格子戸の隙間から朝の光が帳場に差した。

 口入屋は人を見る商売だ。顔を見て、手を見て、立ち方を見て、黙り方を見る。喜平の肩の下がり方は、長い年月をかけて同じ荷を同じ方向に担いだ者の下がり方だった。辞めさせられたのではなく追い出されたのでもなく、居場所がなくなった——そういう男だ。蔵番を八年やれる男は信用がきく。どこかの蔵が空くのを待って、送ればいい。

 算盤を弾く。昨日送り出した人足の日当を計算し、紹介先からの預かり金を帳面に合わせる。今月、伊予屋から城下の各所に送り出した人間は二十七人。そのうち四人がすでに戻ってきた。合わなかった。三人は先方の都合で、一人は本人の都合で。戻ってきた四人のうち二人は、すでに別の先に送った。残りの二人は待っている。

 口入屋の帳面には、人の名前が並ぶ。名前の横に、行き先と日付と金額がある。人が動くたびに金が動く。金が動くたびに帳面が埋まる。謀次郎はその帳面を毎朝開いて、数字を合わせる。合えば今日も商売が回っている。合わなければ、どこかで人が正しい場所にいないことになる。

 帳面を閉じかけたとき、奥から足音がした。

「謀次郎さん、朝ごはんです」

 海だった。

 盆に飯と味噌汁と漬物を載せて、帳場の端に置く。海は伊予屋の女中だ。二十歳。背はあまり高くない。髪をきっちり結っていて、手が細い。その手が盆を置くとき、指先がほんの少しだけ震えるような動きをする。震えているのではない。置く場所を測っている。帳面にかからないように、筆にぶつからないように、算盤の横のちょうどいい場所を指先で探している。

「ありがとう」

 謀次郎は飯を食い始めた。海は帳場の片隅で、自分の膝の上に小さな紙を開いていた。何か描いている。朝の仕事の合間に描く。これは海の癖だ。台所の鍋の形、裏庭の井戸の石、通りを歩く猫。目に入ったものを、指が覚えているうちに描く。

「何を描いている」

「表の格子戸です。光の入り方が変わったので」

 謀次郎はそれ以上聞かなかった。海が絵を描くことについて、謀次郎は口を挟まない。海の父は城下の絵師だった。寺社建築の記録画を描く仕事で、藩の依頼を受けることもあったと聞いている。父が死んだのは海が十二の時だ。母はその前に亡くなっていた。親類の世話で数年を過ごし、十六で伊予屋に来た。

 口入屋に女中が必要なのは、奉公先の下見に女がいるからだ。女中の奉公先には女が見に行く。台所の広さ、部屋の清潔さ、奥方の人柄。海はその下見で、一度見た部屋の間取りを帰ってから正確に描いた。それを見た謀次郎は何も言わなかったが、それ以来、少し込み入った下見は海に頼むようになった。

 飯を食い終えた頃、幸吉が裏口から入ってきた。

「おはようございます。——あ、飯の匂い。俺のは」

「台所にあります」と海が言った。

「先に報告だな」と謀次郎が言った。

 幸吉は二十三になった。伊予屋の手代だ。奉公先の下見と事後確認が主な仕事で、人を送った先がどうなっているかを歩いて確かめる。足が速くて記憶がよく、人に話しかけるのが上手い。ただし、帰ってきて報告する順序がいつも逆だ。些末なことから話し始めて、肝心なことが最後に来る。

「昨日、堺町の呉服屋に送った女中ですが、奥方との折り合いが——」

「それは後でいい。広徳寺の人足はどうだ」

 幸吉は少し間を置いた。

「三人とも元気に働いてます。ただ——」

「ただ」

「現場の空気があんまりよくないです。人足の一人——忠蔵ですが——が、材木の質が前と変わったと言ってました。前はもっといい木を使ってたと」

「前というのは、いつと比べてだ」

「ひと月前と比べて、です。忠蔵は半年前から入ってますから」

 謀次郎は箸を置いた。

 広徳寺の本堂改修工事。大きな普請だ。伊予屋はその工事に人足を三人送っている。棟梁として入ったのは弥助。弥助も伊予屋の紹介だ。城下でも指折りの腕を持つ棟梁で、伊予屋が自信を持って送った。

「弥助さんのことは聞いたか」

「忠蔵に聞きました。棟梁は先月末で現場を外されたそうです」

 謀次郎は幸吉を見た。

「先月末と」

「はい。もう二十日ほど前です。俺が前に確認に行ったのが——」

「その前だ。まだ弥助さんがいた頃だ」

「はい」

 幸吉は頭を掻いた。

「すみません、もっと早く行くべきでした」

 謀次郎は何も言わなかった。帳面を開いて、弥助の名前を探した。

 弥助、五十二歳、棟梁。広徳寺本堂改修、請け。紹介日は昨年の秋。

 紹介した時、工事の内容を確認した。柱の太さ、屋根の勾配、基礎の深さ——仕様書を弥助と一緒に読んだ。弥助は「これは骨のある仕事だ」と言った。謀次郎は「弥助さんほどの腕なら問題ない」と答えた。弥助は頷いて、現場に入った。それが秋のことだ。

 その弥助が追われた。

「外された理由は聞いたか」

「仕事が遅い、融通が利かない、と忠蔵は聞いたそうです」

「弥助さんの仕事が遅いわけがない」

「俺もそう思います」

 謀次郎は帳面を閉じた。帳場の外を見た。朝の光が通りを白く照らしている。

 口入屋が紹介した棟梁が現場を追われた。それは伊予屋の信用の問題だ。弥助の腕を見て、弥助を推して、弥助を送った。送った先で弥助が「融通が利かない」と言われて追い出された。それは伊予屋の見る目がなかったということになる。あるいは——送り先が変わったということだ。送った時と、追い出された時とで、現場が別のものになっている。

「材木の質が落ちたというのは、忠蔵の感覚か。それとも目に見える違いか」

「目に見える、と言ってました。木目が粗くなったと。等級が一つか二つ落ちてるんじゃないかと」

 謀次郎は黙った。

 広徳寺の普請は勧化で賄われている。城下の商人や檀家から寄付を集めて、その金で本堂を直す。伊予屋も寄付した。小銭だが、帳面に記録してある。

 勧化で集まる金は、城下の規模と檀家の数からだいたい見当がつく。口入屋はそういう計算をする。工事に必要な人間の数と日当を知っている。材木の相場も、おおよそは知っている。勧化の金と工事の金が、合うか合わないか。

 ——合わなければ、どこかで数字が曲がっている。

「幸吉。広徳寺の事後確認をやり直せ。人足の働き具合と、現場の進み具合を、もう一度見てこい。口入屋の仕事として行け。不自然にならないように気をつけてな」

「はい」

「佐一」

 帳場の奥の小部屋から返事があった。

「はい」

「広徳寺への紹介記録を出してくれ。弥助さんの分と、人足の分と、全部だ」

「わかりました」

 佐一は十八の帳面係見習いだ。伊予屋の帳面を毎日つけている。口入屋の帳面は複雑だ。人の出入り、紹介料、奉公先からの預かり金、給金の中継。佐一はその数字を一つも間違えない。ただし、数字の意味を読むことはまだできない。帳面に書かれた数字が何を言っているかではなく、帳面に書かれていない数字が何を意味しているかを読む——それはまだ先の話だ。

 鐘の音がまだ耳の奥に残っていた。広徳寺の鐘は古い。寺の記録では百年以上前に鋳られたものだという。今度の普請で新しい鐘も鋳るという話を聞いた。勧化の案内にそう書いてあった。本堂の改修と、新梵鐘の鋳造。

 梵鐘一つ鋳るのに、いくらかかるか。謀次郎は算盤の珠を弾いた。鋳物師の手間、銅の値段、型の制作。松兵衛なら知っている。松兵衛は城下の鋳物師で、謀次郎の父の代から伊予屋と付き合いがある。鋳物師の弟子を紹介したこともある。

 算盤を置いた。

 通りが少し騒がしくなった。海が台所の窓から外を見ている。

「謀次郎さん、広徳寺のお坊さんが来ています」

 格子戸の向こうに、白い衣が見えた。

 勧化使いだ。

 僧たちが二人、通りを歩いている。一人は勧化帳を抱え、もう一人は小さな鉦を持っている。鉦は鳴らさない。持っているだけだ。衣は洗い立てで、足元は草鞋が新しい。丁寧に歩いている。町人の邪魔にならないように、軒先を避けて、道の端を歩いている。

 海が「きれいですね」と言った。朝の光の中で、僧の衣が白く映えている。

「そうだな」と謀次郎は答えた。

 幸吉が帳場に戻ってきて、通りを覗いた。

「伊予屋にも来ますよ、絶対」

「来るだろうな」

「断ります?」

「断る理由がない」

 勧化は断れない。断る理由がないから断れないのではない。断ることのできない空気がある。寺が城下に使いを出す。僧は丁寧で、押しつけがましくない。「御縁があれば」と言うだけだ。御縁があれば——その言い方は断る余地を与えているように見えて、与えていない。断れば「御縁がなかった」ことになる。寺との御縁がない商人は、城下で肩身が狭い。

 口入屋はなおさらだ。伊予屋は寺にも人を送る。広徳寺にも人足を送っている。その口入屋が勧化を断れば、話が面倒になる。

 勧化使いが伊予屋の前で止まった。

「失礼いたします。広徳寺でございます。このたびの本堂改修と新梵鐘鋳造の普請にあたり、城下の皆さまに御勧化をお願いしております」

 年嵩のほうの僧が、頭を下げて言った。声は低く、抑えてある。慣れた口上だが、機械的ではない。一軒一軒に対して、初めて言うような間合いがある。

「ありがとうございます」と謀次郎は答えた。立ち上がって土間に出た。

「少しですが」

 小銭を出した。多くも少なくもない額。口入屋としての付き合いの相場だ。

 僧は受け取り、勧化帳を開いた。帳面だ。名前と金額を記す。謀次郎は自分の名前が書かれるのを見た。

「伊予屋、謀次郎さま」

 墨が紙に染みる。名前が帳面に残る。

「御芳名、確かにいただきました」

 僧が頭を下げた。

 謀次郎は頭を下げる僧の顔を見た。口入屋の目で。

 この僧は四十前後だ。頬が少しこけている。日に焼けている。城下を歩き回っている焼け方だ。目は穏やかだが、まぶたの下に疲れがある。勧化使いはこの時期、毎日城下を歩く。足袋の裏が薄くなっているのが見えた。

 この僧は、自分が集めた金がどう使われるか知っているのだろうか。

 勧化帳に名前が並んでいる。伊予屋の名前の上に、何十もの名前が並んでいる。墨の色が微妙に違う。日をまたいで書かれている。帳面は七割ほど埋まっていた。あと三割。城下の勧化はまだ続く。

「住職さまにはお元気ですか」と謀次郎は聞いた。世間話の口調で。

「はい、お蔭さまで。住職は普請のことで毎日お忙しくしておりますが」

「大きな普請ですからね。ご苦労が多いでしょう」

「ありがたいことです。皆さまの御心で寺が生き返ります」

 僧は微笑んで頭を下げた。二人は次の家に向かった。通りを歩く白い衣が、朝の光の中で遠ざかっていく。

 謀次郎は帳場に戻った。

「幸吉」

「はい」

「あの帳面を見たか」

「勧化帳ですか。ちらっと」

「名前が何人分あった」

 幸吉は首をかしげた。

「……わかりません。見てませんでした」

「七割は埋まっていた。城下の商人は三百軒あまりだ。そのうちの七割なら二百軒。一軒あたりの平均が——」

 謀次郎は算盤を弾いた。

「——けっこうな額になるな」

 幸吉は黙った。何が言いたいかは分かっている。分かっているが、まだ形になっていない。

 帳場の奥で佐一が帳面を探している気配がした。海は台所に戻っている。格子戸の向こうで、朝の通りが動き始めていた。

 鐘の音は、もう聞こえなかった。消えたのではなく、城下の音に紛れただけかもしれない。

 謀次郎は帳面を開いた。今日の仕事が始まる。人が来る。仕事を探す人、人を探す人。顔を見て、手を見て、話を聞いて、帳面に書く。合う場所を探して、送り出す。送った先で何が起きるかを、できる限り見届ける。

 それが伊予屋の仕事だ。

 ——ただ、今朝は少し引っかかるものがあった。

 弥助が追われた。材木の質が落ちた。勧化帳は七割埋まっている。工事は進んでいるはずなのに、人足の言い方では現場の空気がよくない。

 数字が合わない予感がする。帳面の数字ではなく、もっと大きな帳面の——城下と寺と金が作る帳面の、どこかの行が合わない。

 格子戸が開いた。次の人が来た。五十がらみの女で、割烹着を着ている。

「すみません、女中の口を探しているんですが——」

「お座りなさい」

 謀次郎は筆を取った。名前を聞く。歳を聞く。前の奉公先を聞く。なぜ出たかを聞く。人を見る。口入屋の目で。

 通りの向こうで、広徳寺の勧化使いがまだ歩いている。白い衣が、次の家の前で止まった。頭が下がる。金が出る。帳面に名前が書かれる。御芳名、確かにいただきました——。

 施しを受ける者は頭を下げる。施す者は頭を上げる。あの僧たちは、どちらだ。頭を下げて歩いているのは勧化使いのほうだ。しかし金を集めているのも勧化使いのほうだ。頭を下げて集める。頭を下げさせて出させる。順序が、どこかでねじれている。

 ——考えすぎだ。

 謀次郎は目の前の女の顔に意識を戻した。

「前の奉公先は、お武家ですか、町家ですか」

「町家です。乾物屋で三年——」

 話が続く。帳面に書く。人が来て、人が出ていく。口入屋の朝が続いていく。

 昼前に、佐一が帳面を持ってきた。広徳寺関連の紹介記録がすべて揃っている。弥助の紹介記録。人足三人の紹介記録。日付、紹介先の担当者名、工事の内容、日当の取り決め。

「謀次郎さん、一つ気になることがあって」

「何だ」

「人足の日当なんですが——送り出した時に決めた額と、先月の支払いの額が、微妙に違います。減ってます」

「いくら」

「一人あたり、一日二文ずつ」

「二文か」

「三人で六文、ひと月で百八十文。大した額じゃないですけど——」

「大した額じゃないから、誰も気にしない。そういう減らし方だな」

 佐一は帳面を謀次郎の前に置いた。謀次郎は数字を見た。佐一の言うとおりだ。微妙な、気づかなければそのまま流れる程度の差額。しかし帳面には残る。

「よく気づいた」

 佐一は少し照れた顔をした。

「帳面を毎日見てますから」

「それが仕事だからな、大したものだ」

 謀次郎は帳面を閉じた。窓の外で、春の日差しが傾き始めていた。広徳寺の方角を見た。寺の屋根は見えない。その向こうに、工事の足場が組まれているはずだ。弥助が追われた現場が。

 海が帳場の脇を通りかかった。手に雑巾を持っている。奥の部屋を拭いていたらしい。

「海」

「はい」

「広徳寺には行ったことがあるか」

「お参りに、何度か」

「境内の様子を覚えているか」

 海は少し考えた。

「本堂の前の石畳と、左手の蓮池と——いえ、あまり覚えていません。お参りの時は別のことを考えていたので」

「別のこと」

「父の描いた絵が、広徳寺の庫裏にあると聞いたことがあって。それを見たいなと思いながら歩いていたので、外をあまり見ていませんでした」

「見たのか。絵を」

「いいえ。庫裏には入れませんでしたから」 

 海はそれだけ言って、奥へ戻った。雑巾を絞る音が聞こえた。

 謀次郎は帳場に座ったまま、少し考えた。広徳寺。勧化。工事。弥助。材木。勧化帳。人足の日当。

 まだ何も起きていない。起きているのかもしれないが、まだ見えない。帳面の数字がわずかに合わないだけだ。それだけのことだ。

 しかし口入屋の勘が言っている。合わない数字は、放っておくと大きくなる。合わない人の配置は、放っておくと壊れる。弥助ほどの棟梁が追われた現場は、何かが歪んでいる。

 夕方になった。

 幸吉が戻ってこない。事後確認に時間がかかっているのだろう。帳場に来る人の波が途切れた。佐一が帳面を棚にしまっている。海が夕飯の支度を始めた。台所から、出汁の匂いがする。

 謀次郎は帳場の算盤を片づけた。今日の収支を合わせた。ひと段落すると、帳面を閉じた。

 格子戸を閉める前に、通りをもう一度見た。夕暮れの通りを、勧化使いの僧が一人、寺のほうへ帰っていくのが見えた。朝とは別の僧だ。こちらは若い。二十半ばか。背が高く、歩き方に迷いがない。勧化帳を胸に抱えている。帳面が朝より膨らんでいる。一日で名前が増えた。

 その僧の後ろ姿を、謀次郎はしばらく見ていた。若い僧の足取りはまっすぐだった。振り向かなかった。帳面を大事に抱えて、夕暮れの道を寺へ戻っていった。

 ——集めた金がどこへ行くか、この僧は知っているのか。

 同じことを二度考えた。格子戸を閉め、店仕舞いをする。

 台所から海の声がした。

「夕飯ができます」

「ああ、今行く」

 帳場の灯りを消す前に、帳面の背表紙を指でなぞった。人の名前が詰まった帳面。口入屋の帳面。

 明日も人が来る。仕事を探す人が来て、人手を探す人が来る。謀次郎はその間に座って、顔を見て、話を聞いて、合う場所を探し、送り出す。だが、送った先で、弥助が追われた。現場で何が起きているのか。

 謀次郎は灯りを消した。鐘の音は、もう聞こえなかった。

第一章 棟梁の娘

 四字熟語:大義名分(だいぎめいぶん)

  行動の正当性を示す名目。誰もが納得できる理由。 ただし——名分が大きければ大きいほど、その陰で起きることを誰も問わない。

 

 三日後の朝だった。

 幸吉の報告は、謀次郎が思っていたよりも悪かった。

「人足の忠蔵から、もう少し詳しく聞きました。弥助さんが現場を外されたのは先月の二十三日です。その日の朝、寺の坊さんが来て、今日限りだと言った。弥助さんは何も言わずに道具をまとめて出たそうです」

「坊さんの名前は」

「忠蔵は知りませんでした。若い坊さんだったと。三十半ばぐらいの」

「他には」

「弥助さんが出た後、代わりの棟梁が入ってます。名前は甚五郎。北町の——」

「知っている名前だ」

 謀次郎は知っていた。甚五郎は口入屋を通さない棟梁だ。仕事は自分で取る。腕は悪くないが、弥助には遠く及ばない。大きな寺社の普請を仕切れる器ではない。そのかわり、施主の言うことを聞く。言われた通りに建て、言われた通りに削る。

「甚五郎が入って、材木の等級が落ちた」

「忠蔵はそう言ってます」

「仕様書は見たか。忠蔵は」

「人足が見られるもんじゃないでしょう。ただ、弥助さんがいた頃に使ってた材木と、今使ってる材木が違うことは目で見て分かると」

 謀次郎は帳場の帳面を開いた。弥助を紹介した時の記録がある。工事の概要、仕様書の要点、日当の取り決め。佐一が写しておいた数字を見た。柱の径は八寸。基礎の深さは四尺。材木は杉の上等。

「忠蔵に今の柱は何寸か聞いたか」

「聞きました。六寸だそうです」

「六寸」

「はい」

 八寸の柱が六寸になっている。二寸の差は大きい。柱の太さは建物の寿命に直結する。八寸で百年保つものが、六寸なら——謀次郎は算盤を弾かなかった。弾くまでもない。

「基礎は」

「そこまでは忠蔵にもわかりません。土の中ですから」

 謀次郎は帳面を閉じた。

 口入屋として考える。弥助ほどの棟梁を呼んでおいて、六寸の柱を立てさせるつもりはなかったはずだ。最初の仕様書は八寸だった。弥助はそれを見て「骨のある仕事だ」と言った。八寸の柱を建てる仕事だから、弥助を呼んだ。

 途中で仕様が変わった。八寸が六寸になった。弥助はそれを受け入れなかった。だから追い出された。代わりに入った甚五郎は六寸で建てている。

 なぜ仕様が変わったのか。

 金だ。

 八寸の杉の上等と、六寸の杉の並。値段が違う。柱だけではない。基礎の深さも、屋根の勾配も、全てに金がかかる。仕様を落とせば金が浮く。浮いた金はどこへ行くか。

 ——まだ分からない。分からないが、匂いがする。帳面の数字が合わない匂い。

「幸吉。もう一つ聞きたいことがある」

「はい」

「弥助さんが追われた後、他の現場からも断られていると聞いたが、それは本当か」

「本当です。忠蔵の知り合いの大工が言ってたそうです。弥助さんが城下の二、三の現場に声をかけたが、全部断られたと」

「断った理由は」

「はっきりとは。ただ——『上から言われた』と言った者がいるらしいです」

「上とは」

「それ以上は分からないと」

 謀次郎は腕を組んだ。

 棟梁が一つの現場を追われることは、ないわけではない。施主と合わなかった、段取りが狂った、金が足りなくなった。そういうことはある。しかし追われた棟梁が城下の他の現場からも締め出されるのは、普通ではない。誰かが手を回している。弥助の仕事を潰そうとしている。

 なぜだ。弥助を黙らせたいのか。弥助が何かを言うのを恐れているのか。

「——仕様書が変わったことを、弥助さんは誰かに言ったか」

「忠蔵は聞いてません。ただ、弥助さんは現場で何度か『これでは保たない』と言ったそうです。寺の坊さんの前で」

「坊さんの前で」

「はい。それが嫌われたんじゃないかと、忠蔵は思ってます」

 謀次郎は目を閉じた。

 弥助は職人だ。仕様書と違うものを建てることを拒んだ。「これでは保たない」と言った。それは棟梁として当然のことだ。しかし「当然のこと」を言う人間は、都合の悪い人間になる。都合の悪い人間は排除される。排除された後、他の場所でも受け入れられないようにされる。

 口入屋が紹介した棟梁が、そうやって潰された。

「幸吉」

「はい」

「これは口入屋の仕事だ。伊予屋が紹介した者が現場で不当に扱われたなら、伊予屋が動くのは筋だ。分かるな」

「分かります」

「引き続き調べろ。ただし——」

「はい」

「口入屋の事後確認として動け。それ以上のことはまだするな」

 幸吉は頷いて出ていった。

 帳場に佐一と二人になった。佐一は帳面を棚に戻しながら、少し躊躇うような顔をしていた。

「どうした」

「いえ——」

「言ってみろ」

「人足の日当が減っていた話ですが。二文ずつ減っていたのは先月からです。弥助さんが追い出されたのも先月です。同じ時期です」

 謀次郎は佐一を見た。

「棟梁が変わって、仕様が落ちて、人足の日当も削られた。全部同じ時期に起きている」

「はい」

「それは——現場の金を絞り始めた時期が先月だということだ」

 佐一は頷いた。まだ言葉にはなっていないが、帳面の数字が何かを指し示していることに、佐一は気づいている。

「佐一、帳面を見ていて気づいたことがあれば、遠慮なく言え。帳面の数字はお前のほうがよく見ている」

「はい」

 昼前だった。表の格子戸が勢いよく開いた。

 女が立っていた。

 二十二、三だろう。背が高い。髪は簡素に結っている。着物は木綿の縞で、帯の結び方がきつい。怒っている人間の帯の結び方だ。口入屋は帯も見る。

「伊予屋さんですか」

「そうです」

「——お話があります」

 上がり框に座らなかった。立ったまま、謀次郎を見下ろした。帳場に座っている謀次郎との間に、土間の段差がある。女は段差の上に立って、降りてこなかった。

「お座りなさい」

「座る話ではありません」

 声は低かった。怒鳴っているのではない。押し殺している。謀次郎はそれを聞き分けた。怒鳴る人間は怒っている。押し殺す人間は、怒りの下に別のものがある。悲しみか、恐怖か、恥か。

「お名前は」

「お絹と申します。棟梁の弥助の娘です」

 謀次郎の手が止まった。

「弥助さんの」

「はい」

 お絹は口を結んだまま、一拍置いた。それから言った。

「伊予屋さんが紹介してくれた仕事でしょう。広徳寺の普請は」

「そうです」

「父はあの現場に行きたくて行ったんじゃありません。伊予屋さんが『いい仕事だ』と言ったから行ったんです」

 謀次郎は何も言わなかった。

「いい仕事だ、弥助さんの腕なら問題ない——そう言いましたね。父から聞いています」

「言いました」

「父はあの言葉を信じて現場に入りました。仕様書を見て、これは骨のある仕事だと喜んでいました。腕を振るえる仕事だと。——それが、どうなりましたか」

 お絹の声が少し震えた。すぐに戻した。

「追い出されました。理由は仕事が遅い、融通が利かない。父ほどの棟梁が融通が利かないと言われて追い出されて、それで城下のどこにも行けなくなっている。どこに声をかけても断られる。昨日は堀端の大工の親方のところに行きましたが、会ってもくれなかった」

 お絹は一度、息を吸った。

「伊予屋さん。父が追い出されたのは、あなたが紹介した仕事です。あなたには——」

「責任がある」

 謀次郎が言った。

 お絹は言葉を止めた。そう言われると思っていなかったのかもしれない。あるいは、もっと言い募るつもりだったのかもしれない。しかし先に言われてしまった。

「座ってください」と謀次郎は言った。今度は命令ではなく、頼む声だった。

 お絹は少し迷って、上がり框に腰を下ろした。帯の結び目がきつく食い込んでいるのが見えた。

「お絹さん。弥助さんが現場を外されたのは先月の二十三日です。それは間違いないですか」

「……なぜ、知っているんですか」

「こちらでも調べています。伊予屋が紹介した先で何が起きたか、確認するのは口入屋の仕事です」

 お絹の目が少し変わった。怒りの下にあったものが、ほんの少しだけ表に出た。それは安堵ではなかった。もっと複雑な何かだ。——自分の怒りが的外れではなかったという確認。あるいは、怒りをぶつける相手がすでに動いていたことへの、行き場のない感情。

「弥助さんから、もう少し詳しいことを聞きたいのですが」

「父に会ってくださるんですか」

「会わせてもらえますか」

「——父は、伊予屋さんに会わせる顔がないと言っています」

「なぜ」

「伊予屋さんの顔に泥を塗った、と」

 謀次郎は黙った。

 弥助は自分が悪いと思っている。紹介してもらった仕事を追い出されたことを、紹介元への不義理だと思っている。仕様書の変更を拒んだことを、施主への融通のなさだと思っているのかもしれない。棟梁としては当然のことをしたのに、その「当然」が通らなかった。通らなかったことを、自分の落ち度だと思っている。

 職人だ。職人は自分の腕で全てを引き受ける。腕が足りなければ自分のせいだ。腕とは関係ないところで排除されても、自分のどこかが足りなかったのだと考える。

 謀次郎は言った。

「弥助さんの顔に泥がついたとは思っていません。伊予屋の顔に泥がついたとは思っています。ただし、その泥をつけたのは弥助さんではない」

 お絹は謀次郎の顔を見た。

「誰なんですか」

「それを調べます」

「——頼んでもいないのに」

「頼まれなくても調べます。口入屋が紹介した先で、紹介した人間が不当に扱われたまま放っておけば、次から誰もうちを使わなくなる。これは伊予屋の商売の問題です」

 お絹は少し目を見開いた。それから、少し笑った。笑ったというより、口の端が動いた。

「父もそういう言い方をする人です。自分のためだと言い張る」

「言い張っているわけではない」

「わかっています」

 お絹は膝の上に拳を置いていた。握りしめていた指が、少しだけ緩んだ。

「父から聞いたことを、お話しします」

 謀次郎は帳面を開いた。佐一が奥から筆を持ってきて、横に座った。お絹は佐一を見て「この方は」と聞いた。「うちの帳面係です。話を書きます。構いませんか」と謀次郎が言うと、お絹は頷いた。

「広徳寺の工事は去年の秋に始まりました。伊予屋さんに紹介していただいて、父が棟梁として入りました。最初の二か月は順調でした。仕様書のとおりに進めて、基礎も柱も、父が満足のいく仕事ができていたと言っています」

「最初の二か月は、仕様書どおりだった」

「はい。ところが年が明けて正月の後、寺から話があったそうです。『金が思ったほど集まっていない。仕様を見直してほしい』と」

「誰が言ったんですか。住職ですか」

「父は住職から直接は聞いていません。若いお坊さんが来たと——」

「若いお坊さん」

「三十半ば、背は高くない、目のきつい人だと言っていました」

 幸吉が言っていた、弥助を追い出した坊さんの人物像と重なる。

「その坊さんが『仕様を下げてくれ』と言った」

「最初は『少しだけ調整してほしい』という言い方だったそうです。柱を少し細く、基礎を少し浅く。父は最初、施主の意向なら仕方がないと思ったそうです。ただ——」

「ただ」

「度が過ぎた、と。柱の径を八寸から六寸にと言われた時に、父は断りました。六寸では本堂の屋根を支えられない。十年保たない。それを言ったら、『棟梁の仕事は施主の意向に沿うことだ。技術的な判断は棟梁に任せるが、予算の判断は寺に任せてもらいたい』と」

「うまい言い方だな」

「父もそう言っていました。『うまいことを言う坊さんだ』と。——でも父は折れませんでした。六寸の柱で本堂を建てることに名前を出すわけにはいかない。棟梁として判を押す仕事だから、判を押せないものは建てられないと」

 謀次郎は帳面に書きながら聞いていた。佐一も横で書いている。二人の帳面に同じ話が残る。

「それで追い出された」

「先月の二十三日の朝です。例の坊さんが来て、今日限りだと言いました。理由は言わなかったそうです。父が聞いても、『寺の判断です』と、それだけ」

「弥助さんは何と」

「何も言わずに道具をまとめたそうです。職人ですから。追い出された現場でごねることはしない。ただ——帰ってきてから、ずっと黙っていました」

 お絹は膝の上の拳をまた握った。

「黙っているのは父の癖です。怒っているのではなくて——意味がわからないんです。自分が正しいことをした。正しいことをしたのに追い出された。その意味がわからない。父は怒れる人じゃないんです。怒る前に考えてしまう。考えても答えが出ないから、黙る」

「それで、お絹さんが代わりに怒りに来た」

「……はい」

「いい娘だ」

 お絹は少し顔を赤くした。それから、すぐに引き締めた。

「父が追い出された後のことです。父は城下の他の現場を当たりました。堀端の大工の親方、西町の請負師、南の材木問屋が持っている普請。三つとも断られました」

「三つとも」

「はい。どこも理由を言いません。ただ、堀端の親方のところで、弟子の一人が父にこっそり言ったそうです。『上から言われた』と」

「上とは」

「父が聞いても答えなかった。怯えていたと」

 謀次郎は帳面を閉じた。

 三つの現場が同時に弥助を断った。偶然ではない。誰かが手を回した。しかも「上から」という言い方。大工仲間の「上」とは何か。親方の上は施主だ。しかし三つの現場の施主が全員、同じ指示を出すだろうか。三つの施主に影響を及ぼせる「上」がいる。

 寺か。

 寺が城下の工事現場に影響力を持つことは、ないわけではない。寺社奉行を通じて——あるいは藩の役人を通じて。しかし一人の棟梁を城下から締め出すためにそこまでするだろうか。

 するとすれば、弥助を黙らせる必要があるということだ。弥助が何を知っているか。仕様書が変わったことを知っている。八寸の柱が六寸になったことを知っている。基礎の深さが変えられたことを知っている。——それを誰かに言われては困る人間がいる。

「お絹さん。もう一つだけ聞きたい」

「はい」

「弥助さんは、仕様書の控えを持っていますか。最初の仕様書の」

 お絹は少し考えた。

「——はい。父は職人の習慣で、仕様書は必ず写しを取ります」

「それは大事なものです。なくさないように伝えてください」

「なぜですか」

「仕様書が変わったことの証拠になるからです。最初の仕様書と、変更後の仕様書。両方があれば、何が削られたかが分かる」

 お絹の目が鋭くなった。

「削られた——金が、ということですか」

「まだ分かりません。ただ、仕様を落とせば工事費が浮く。浮いた金がどこに行ったか。それを知りたい」

 お絹は立ち上がった。帯の結び目を直した。少し緩んでいた結び目を、また、きつく締めた。

「謀次郎さん」

「はい」

「父に会ってやってください。あの人は——伊予屋さんの顔に泥を塗ったと思い込んでいる。そうじゃないと、伊予屋さんの口から言ってもらえませんか」

「会いに行きます。三日以内に」

「ありがとうございます」

 お絹は頭を下げた。深く、長く。それから格子戸を開けて出ていった。足音が早かった。帯の結び目がきつい背中が、通りの向こうに消えた。

 帳場に静けさが戻った。佐一が帳面を見ていた。今の話を全部書いている。佐一の字は小さくて端正だ。帳面の行が細かく埋まっている。

「佐一」

「はい」

「広徳寺の工事に関わっている者の一覧を作ってくれ。伊予屋が紹介した者だけでいい。弥助さん、人足三人。他にうちから行った者はいるか」

 佐一は帳面を遡った。指で行を追っていく。

「——もう一人います。弥助さんの下に入った弟子の、清次です。去年の夏に弥助さんから『弟子を探してくれ』と頼まれて、うちが紹介しました」

「清次」

「はい。二十一です。大工の見習いを三年やっていて、棟梁の下で修業したいと言っていた者です。弥助さんが気に入って、引き取りました」

 謀次郎は覚えていた。清次の顔を思い出そうとした。面談したのは去年の夏だ。若い男で、手が大きかった。大工の手だ。爪の間に木屑が詰まっていた。目はまっすぐで、声は少し高かった。

「弥助さんが追い出された時、清次はどうなった」

「帳面には、弥助さんと一緒に出たとあります。弟子ですから、棟梁について行ったはずです」

「今どこにいる」

「——わかりません。弥助さんのところにいるんじゃないでしょうか」

「確認しろ。お絹さんに聞けばわかる」

「はい」

 謀次郎は帳場の柱に背をもたせた。

 口入屋が送った人間の一覧。弥助、清次、人足三人。合計五人を、広徳寺の普請に送った。そのうち棟梁と弟子は追い出された。人足三人はまだ現場にいるが、日当を削られている。

 五人の仕事と生活が、広徳寺の普請にかかっている。その普請に何かが起きている。仕様が変わり、金が動き、人が排除されている。口入屋として、これを放っておくことはできない。

 商売の問題だ。信用の問題だ。——しかし、と謀次郎は思う。それだけではない。弥助は正しいことをした。正しいことをして追い出された。その「正しさ」が通らない場所に人を送った。口入屋として、送った先の正しさまで保証することはできない。しかし送った先で正しさが踏みにじられたのを知りながら何もしないのは——。何だ。何になる。口入屋の仕事を超えている。超えているが、今回は口入屋の仕事から始まっている。

 海が帳場に茶を持ってきた。

「お客さま、お帰りですか」

「ああ」

「——怒っていらした方ですね」

「分かるか」

「格子戸の開け方でわかります。来た時は力が入っていて、帰る時は少し緩んでいました」

 謀次郎は茶を飲んだ。

「海。お前の父親が描いた絵が、広徳寺の庫裏にあると言っていたな」

「聞いたことがあるだけです。見たわけではありません」

「何の絵だ」

「本堂の記録画だと思います。改修前の本堂の姿を残すために、藩が絵師に描かせることがあると父が言っていました。——それが父の仕事かどうかは、わかりませんが」

「藩が寺の建物を記録させることがあるのか」

「寺社奉行の管轄のものは、修繕や改築の前に記録を取ることがあると聞いています。父が存命の頃に、城下の別の寺でそういう仕事をしたことがありましたから」

「つまり、改修前の広徳寺の本堂の絵が、どこかにあるかもしれない」

「あるとすれば、庫裏か、寺社奉行の書庫か。ただ——」

「ただ」

「父が描いた絵でなくても、藩の記録画なら残っているはずです。改修前の本堂がどういう建物だったかは、絵を見ればわかります」

 謀次郎はそれを聞いて、少し考えた。

 改修前の本堂の構造がわかれば、改修の仕様書が妥当かどうかを判断する材料になる。八寸の柱が必要な建物なのか、六寸でも保つのか。建物の骨を知っている者なら、わかるかもしれない。

「海」

「はい」

「今すぐではないが、近いうちに広徳寺の境内を見てきてほしいと頼むかもしれない。その時は行けるか」

 海は少し間を置いた。茶碗を下げる手が止まった。

「——何を見ればいいですか」

「まだ決めていない。決まったら言う」

「わかりました」

 海は茶碗を盆に載せて、奥に引いた。足音が小さい。いつもそうだ。海の足音は帳場を通る時だけ少し慎重になる。帳面や算盤に触れないように。

 佐一が帳面を持ってきた。

「清次の件ですが、お絹さんに聞く前に、弥助さんの家を知っている者がいます。人足の忠蔵です。忠蔵に聞けば、清次が今どこにいるかもわかるかもしれません」

「幸吉に言え。幸吉が次に忠蔵に会う時に聞かせろ」

「はい」

「もう一つ。広徳寺の勧化の記録を調べたい。帳面に残っているものはあるか」

「うちの帳面には、伊予屋が寄付した分だけです。他の商人がいくら出したかは——」

「わかっている。ただ、勧化帳そのものを見ることができれば、全体の金額がわかる。それが工事費とどう対応しているか。そこが知りたい」

 佐一は頷いた。しかし顔に不安があった。

「勧化帳は寺のものですよね。見せてもらえますか」

「普通に頼んで見せるものではない。しかし、頼む理由はある」

「寄付者として、ですか」

「そうだ。寄付した者が使途を知りたいと言うのは、筋が通る。通るが——」

「通るけれど、通してもらえるかどうかは別だと」

「その通りだ」

 謀次郎は帳場の帳面を全て棚に戻した。今日の午後は出かける用事がある。別の奉公先への人の紹介だ。口入屋の日常は続く。広徳寺のことだけに構っているわけにはいかない。

 格子戸の向こうで、通りの音が聞こえる。物売りの声、荷車の音、子どもの笑い声。城下は普通に動いている。広徳寺の鐘は朝に鳴って、昼にはもう聞こえない。

 午後の用事を済ませて帳場に戻ると、日が傾いていた。幸吉はまだ戻っていない。佐一が帳面をつけている。海は台所にいる。謀次郎は帳場に座って、一人で考えた。広徳寺の普請。勧化で集めた金。仕様書の変更。弥助の排除。城下の締め出し。

 まだ全体の形が見えない。見えているのは端だけだ。弥助が追われた。仕様が落ちた。金がどこかに消えている。——消えている、と思うのは口入屋の勘だ。まだ数字で確かめたわけではない。

 しかし、口入屋の勘は帳面の裏にある。何人もの人間を見て、何通りの仕事を仲介して、金の流れを追ってきた勘だ。人の値段と仕事の値段が合わない時、そこには嘘がある。弥助ほどの棟梁を呼んでおいて、六寸の柱を建てさせる。それは人と仕事の値段が合わない。最初は合っていた。途中で合わなくなった。

 合わなくなったのは、金が抜かれたからだ。——まだ仮説だ。仮説を数字に変えるには、勧化帳を見なければならない。勧化帳は寺の中にある。広徳寺の住職は恵潮という名だと聞いている。伊予屋との直接の付き合いはない。人足を送る時の窓口は、寺の事務方だった。住職に会ったことはない。

 会いに行く必要がある。口入屋として。伊予屋の人間が現場でどう扱われたかを確認するために。それは正当な理由だ。正当な理由で寺の門を叩いて、住職に会って、勧化帳を見せてくれと言う。

 断られるだろう。しかし断り方で分かることがある。見せたくないから断るのか、見せられないから断るのか。その違いは、口入屋なら聞き分けられる。夕暮れの帳場で、謀次郎はそこまで考えた。幸吉が帰ってきたのは、もう暗くなってからだった。

「遅くなりました。——清次のことですが」

「どうだった」

「弥助さんの家にはいません。弥助さんが追い出された後、しばらくは弥助さんの家にいたそうですが、十日ほど前に出ていったと。自分で師匠の無実を証明すると言って」

「無実の証明を、どうやって」

「それが——広徳寺の工事現場に自分で行って確かめると言っていたらしいです」

 謀次郎は眉を動かした。

「現場に行って、何を」

「弥助さんが言っていた『仕様書と違う』ということを、自分の目で確かめると。基礎がどうなっているか、柱が本当に六寸なのか——」

「それは危ない」

「忠蔵もそう言ったそうです。でも清次は聞かなかったと」

 謀次郎は立ち上がった。

「清次は今、どこにいる」

「わかりません。弥助さんも心配しているそうです。十日前に出ていってから、戻ってきていないと」

 十日。

 謀次郎は帳場を出た。裏口に向かった。草鞋を履いた。

「謀次郎さん、どこへ」

「弥助さんの家だ。今夜のうちに話を聞く」

「俺も行きます」

「ああ」

 二人は夜の通りに出た。城下の夜は暗い。提灯を持って歩く。幸吉の足が早い。謀次郎はそれについていく。

 清次の顔を思い出していた。去年の夏に伊予屋で面談した若い男。手が大きくて、爪の間に木屑が詰まっていて、目がまっすぐ、声が少し高かった。弥助の下で修業がしたいと言った。謀次郎は弥助に「いい弟子が見つかった」と言った。弥助は清次に会って、「この手は大工の手だ」と言った。

 口入屋が送った弟子だ。その弟子が、十日前から行方が分からない。弥助の家は城下の外れにあった。小さな家で、庭に材木の切れ端が積んである。格子窓の奥に灯りが見えた。戸を叩く。

「弥助さん。伊予屋です」

 長い間があった。それから、ゆっくりと戸が開いた。

 弥助は五十二にしては老けて見えた。髪が乱れていて、目の下に隈がある。大きな手が戸の枠を握っていた。棟梁の手だ。鉋を握り、鑿を振るう手。その手の甲に、新しい傷があった。

「——伊予屋さん」

「夜分にすみません。清次のことで来ました」

 弥助の顔が強張った。

「清次は——まだ戻ってきません」

「いつからです」

「十日前です。広徳寺に行くと言って——止めたんですが」

「何を確かめに行ったか、聞いていますか」

「基礎を見ると言っていました。基礎の底を——」

 弥助の声が途切れた。

「弥助さん」

「伊予屋さん、申し訳ない。あの子は私の弟子だ。私が追い出されたから、あの子が——」

「弥助さん」

 謀次郎は弥助の目を見た。

「泥を塗ったのはあなたじゃない。お絹さんにも言いました。伊予屋の顔に泥がついたのは、伊予屋が送った人間を不当に扱った者のせいです。弥助さんのせいじゃない」

 弥助は口を結んだ。唇が震えていた。

「清次を探します。口入屋が紹介した弟子です。行方がわからないまま放っておくわけにはいかない」

 弥助は何も言えなかった。頷いただけだった。大きな手が戸の枠を離した。

 帰り道、幸吉が言った。

「清次のこと、明日から探しますか」

「明日の朝一番で広徳寺の周辺を当たれ。工事現場に入った形跡があるかどうか。夜中に現場の近くにいた者がいないか。人足の忠蔵にも聞け」

「はい」

「それから——」

 謀次郎は足を止めた。提灯の灯りが二人の影を通りに落としていた。

「広徳寺の住職に、近いうちに会いに行く。その前に、もう少し材料が要る。工事の現場がどうなっているか。仕様書の通りに進んでいるのか、それとも——。お前の目で見てこい」

「口入屋の事後確認として、ですね」

「そうだ。正規の仕事だ」

 幸吉は頷いた。

 夜の城下を歩いて帰った。伊予屋の格子戸に灯りがついていた。帳場の灯りではない。台所の灯りだ。海がまだ起きている。二人が戻ると、海は何も聞かずに温め直した飯を出した。

 謀次郎は飯を食った。箸を置き、茶を飲んだ。

「海」

「はい」

「広徳寺の件は、少し長くなるかもしれない」

「——はい」

「お前にも手伝ってもらうことになると思う。近いうちに」

 海は少し間を置いて、「わかりました」と言った。それだけだった。何を手伝うのか、なぜ自分なのか、聞かなかった。聞かないのが海だ。必要な時に必要なことを聞く。今はまだ、その時ではないと分かっている。謀次郎は茶碗を置いた。

 清次が十日前から戻っていない。広徳寺の工事現場に行くと言って出ていった。基礎の底を見ると言った。

 基礎の底。

 清次が書きかけた文字を思い出した。——まだ聞いていない。清次が書いた文字のことは、まだ聞いていない。それは幸吉が忠蔵から聞いた話に出てくるはずの、これからの話だ。

 まだ何も起きていないのかもしれない。清次はどこかで無事にしているのかもしれない。行方がわからないだけで、死んではいないのかもしれない。

 しかし口入屋の勘が言っている。送った先で、何かが起きている。帳面を閉じ、灯りを消した。明日の朝、また鐘が鳴る。広徳寺の鐘が。

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31歳 工場労働者 孤独と自由を設計し、 歴史と小説を通して 世界の“構造”を語る人。 半隠遁ライフ / 日本史講義 J-POP考察 / 小説はKindleで販売中。