夢幻の遍路
序章 退職届の余白
ハローワークの待合椅子は、尻に優しくない。もう少し正確に言えば、あの椅子は人間の尻ではなく、制度のために設計されている。座面はわずかに前傾し、背もたれは垂直に近く、長時間座っていると自然に姿勢が崩れるように出来ている。崩れた姿勢は不快を生み、不快は焦燥を生み、焦燥は「早く仕事を見つけなければ」という気持ちを加速させる。少なくとも私にはそう思えた。あの椅子は優しさの形をした催促だった。
十月の第一月曜日、私はその椅子に座って順番を待っていた。手元には雇用保険受給資格者証と、失業認定申告書がある。書類の記入欄は細かく、ボールペンのインクは薄く、窓口の向こうでは職員が別の誰かに「求職活動の実績」について説明している。その声が待合室に低く響いていた。
求職活動の実績。つまり、仕事を探した証拠を示せということだ。ハローワークの端末で求人を検索した、企業に応募書類を送った、面接を受けた――そういった行為を、期間内に二回以上行わなければ、失業給付は支給されない。仕事がないから給付を受けるのに、仕事を探した証拠がなければ給付を受けられない。この循環論法のようなものを、私はまだうまく消化できていなかった。
べつに制度に文句があるわけではない。仕組みとしては合理的だろう。ただ、合理的なものが必ずしも人間に優しいとは限らない。あの椅子と同じように。
私の名は蒲生。三十一歳、独身、無職。最後の二文字がこの場所にいる理由のすべてである。今年の夏まで、私は食品メーカーに勤めていた。社名を出す必要はないだろう。中堅と呼ぶには小さく、零細と呼ぶには大きい、そういう会社だ。冷凍食品と調味料を作っていた。私は営業部にいて、スーパーマーケットのバイヤーと商談をする仕事をしていた。八年間。大学を出てすぐに入り、八年間、ほとんど同じことを繰り返した。コロナが来て、外食産業が縮小し、業務用の冷凍食品の売上が落ちた。家庭用は少し伸びたが、全体としてはマイナスだった。会社はコロナが明ければ回復すると信じていた。私も信じていた。しかしコロナが明けても数字は戻らなかった。原材料費は上がり、物流費は上がり、取引先は値上げに渋い顔をし、会社は笑わなくなった。
七月の末、私は上司に呼ばれた。会議室ではなく、ビルの一階にあるチェーンのコーヒーショップだった。そういう場所を選ぶ時点で、話の内容は読めた。上司は先にアイスコーヒーを頼んでいて、「蒲生くんも何か頼んで」と言った。私はブレンドのホットを頼んだ。季節外れの選択だったが、冷たいものを飲む気になれなかった。
退職勧奨、という言葉を上司は使わなかった。「会社としてはね、蒲生くんにもっと広い世界で活躍してほしいと思っているんだ」と上司は言った。広い世界。コーヒーショップの窓の外では、七月の陽炎が駐車場のアスファルトを歪めていた。広い世界は歪んでいた。私は頷いた。怒りはなかった。悲しみも、正直に言えば薄かった。あったのは、ある種の当惑だけだった。この八年間、私はこの会社で何をしていたのか。毎朝起きて、電車に乗り、デスクに座り、得意先を回り、見積もりを作り、会議に出て、電車に乗って帰った。それを繰り返した。繰り返すことに意味があると思っていた。いや、意味があるかどうかを考えないことが、繰り返しの条件だった。
八月末で退職した。退職届には「一身上の都合」と書いた。一身上の都合。便利な日本語だ。何も説明せず、すべてを説明している。会社都合の退職なのに退職届は「一身上の都合」と書くものだと総務から言われた時、私は少し笑った。辞めさせられるのに、自分で辞める体裁を整える。この国の書類は、現実よりも書式を優先する。
九月になって無職が確定すると、日々はひどく静かになった。もともと私は人づきあいが多い方ではない。友人と呼べる人間は三人か四人で、連絡を取るのは数ヶ月に一度だ。家族は母が埼玉にいるが、退職の報告をした時の電話は五分で終わった。「あら、そう」と母は言った。「じゃあ少しゆっくりしなさい」。それだけだった。母は昔からそういう人で、私はそういう母の息子だった。
一人暮らしの部屋は東京の西の端にある。八畳のワンルーム。窓からは隣のマンションの壁が見える。壁にはエアコンの室外機が六つ並んでいて、夏は一斉に唸り、秋になると黙る。九月の中旬にすべての室外機が止まった朝、私は無職の秋が始まったことを実感した。
日課はこうだ。朝六時に起き、近所の公園を三十分走る。帰ってシャワーを浴び、トーストとコーヒーの朝食。午前中は読書。午後は散歩か、図書館か、または何もしない。夕方にスーパーで食材を買い、自炊する。夜は読書か映画。零時前に寝る。この生活を、世間では引きこもりと呼ぶかもしれない。私自身は「半隠遁」と呼んでいる。完全な隠遁には山奥の庵が必要だが、私には八畳のワンルームしかない。隣の室外機の音が聞こえる庵は、隠遁としては中途半端だ。だから「半」がつく。
この生活が嫌ではなかった。むしろ、会社にいた八年間よりも呼吸が深い気がした。不思議なものだ。仕事という「やるべきこと」がなくなった途端、一日が長くなった。時計の針が遅くなったのではない。私の中を通過していく時間の密度が、変わったのだ。ただ、この静かな日々には一つだけ棘があった。「やりたかったこと」という棘だ。退職が決まった時、私は漠然と考えていた。年内は自分のやりたかったことに注力しよう、と。三十一年間、特に社会人になってからの八年間、「やるべきこと」に追われて「やりたかったこと」を棚上げにしてきた。その棚を開ける時が来た――はずだった。棚を開けてみたら、中は存外に空だった。
旅行がしたい。読書がしたい。運動がしたい。それは確かにある。しかし「旅行がしたい」と言っても、どこへ、何のために、という問いが立つと途端に曖昧になる。読書は毎日している。運動も毎朝している。すでに「やっている」ことを「やりたかったこと」と呼ぶのは、何かが違う。結局、私が「やりたかったこと」と呼んでいたものは、「仕事をしないこと」だったのかもしれない。仕事をしないこと自体が目的で、その先には何もなかった。その空虚に気づいた時、私は初めて少し怖くなった。
四国遍路のことを考え始めたのは、九月の終わりだった。きっかけは図書館で手に取った一冊の本だった。司馬遼太郎の『空海の風景』。空海の足跡を追いながら、四国と高野山と中国を巡る紀行的評伝。私は城郭史が好きで、中世の石垣や縄張りの本ばかり読んでいたが、その日はたまたま棚の端に目が留まった。空海、という二文字が、秋の図書館の静けさの中で妙に目を引いた。読み始めると、止まらなかった。空海が讃岐に生まれ、大学を中退し、山林で修行し、唐に渡り、密教を持ち帰り、高野山を開いた――その生涯は、制度と逸脱の連続だった。空海は既存の仏教制度からはみ出し、自分の制度を作った人間だ。そのエネルギーの在処に、私は惹かれた。空海が修行した四国の山々。その足跡を辿るように生まれた八十八箇所の巡礼路。全長約一二〇〇キロ。歩いて四十日から六十日。歩いてみよう、と思った。
信仰心は――ない。手を合わせることはできるが、何に祈るかを聞かれたら答えに窮する。般若心経は読めない。仏教の知識は高校の日本史レベルだ。しかし四国遍路は、信仰だけの道ではないはずだ。千二百年の歳月が堆積した道だ。無数の人間が歩き、祈り、迷い、時には死んだ道だ。その時間の地層を、自分の足で踏みたい。歴史好きの私にとって、それは十分な動機だった。――と、自分に言い聞かせた。1本当の動機は、もう少し薄暗い場所にある気がした。しかしそれを掘り出す勇気はまだなかった。とりあえず、歩く理由としては「歴史好きだから」で十分だろう。自分を騙すのに理由は一つでいい。
失業給付の受給期間は百二十日ある。認定日にハローワークに来れば、それ以外の日は自由だ。交通費を切り詰め、宿は遍路宿かビジネスホテルの安い部屋を使えば、貧乏旅行は可能だろう。全行程を一気に歩く「通し打ち」は日数的に厳しいかもしれない。であれば、「区切り打ち」で何度かに分けてもいい。
まずは徳島だ。一番札所から始めて、十番まで歩く。発心の道場と呼ばれる最初の区間。「発心」とは、心を発すこと。何かを始めようとする心。その言葉の響きが、無職の私には皮肉にも、あるいはぴったりにも聞こえた。
十月二十三日の夜、私はリュックサックに荷物を詰めていた。着替えは三日分。洗濯は宿でする。防寒着、雨具、洗面用具、救急セット、モバイルバッテリー、文庫本を二冊。必要最低限を意識して詰めたが、リュックは思ったより重くなった。背負ってみると、肩に食い込む。これを背負って一日に十五キロから二十キロ歩くのかと思うと、少し気が重くなった。
白衣や菅笠、金剛杖といった遍路用品は現地で買うつもりだった。一番札所の霊山寺に売店がある。インターネットの情報によれば、一式そろえると五千円から一万円程度。決して安くはないが、形から入るのも旅の一部だろう。
荷造りを終え、部屋を見回した。八畳のワンルーム。本棚、デスク、ベッド、小さなキッチン。この部屋に帰ってくる前提で旅に出る。当たり前のことだが、その当たり前を意識するのは妙な気分だった。会社には「帰ってくる前提」で八年間通い続けた。帰る場所があることの安心と、帰らなければならないことの束縛は、同じものの表裏だ。
デスクの引き出しを開けると、退職届のコピーが入っていた。なぜコピーを取ったのか、自分でもよく分からない。記念、ではないだろう。証拠、というほどのものでもない。ただ、「一身上の都合」と書かれた紙が手元にあることで、退職が本当に起きたことだと確認できる――そういう心理だったのかもしれない。そのコピーを、私はリュックのポケットに入れた。これも理由はよく分からない。旅に持っていく必要はまったくない。しかし置いていく気にもならなかった。お守りの代わり、と言えば聞こえはいいが、お守りにしては縁起が悪すぎる。
窓の外では、隣のマンションの室外機がすべて沈黙している。十月の夜は冷暖房のどちらも必要としない。中途半端な季節。暑くもなく寒くもなく、上着一枚で済む。旅に出るにはちょうどいい。明日の朝、高速バスで東京を発ち、徳島に向かう。約八時間。バスの中で寝て、午後には徳島駅に着く。そこからタクシーか路線バスで一番札所・霊山寺へ。
ベッドに横になり、目を閉じた。眠る前に、ふと考えた。明日から私は「お遍路さん」になるのだ。他人からそう呼ばれ、白衣を着て、杖をつき、寺を巡る人間になる。「営業部の蒲生」でも「無職の蒲生」でもなく、「お遍路の蒲生」。一種の変身だろうか。カフカのグレーゴルは朝起きたら虫になっていた。私は明日、バスに乗って遍路になる。虫よりはましだが、どちらも自分ではない何かになることには変わりない。あるいは――自分ではない何かになることで、自分が何であるかを知る。そういう旅なのかもしれない。いや、考えすぎだ。寝よう。
高速バスの中で、私は城のことを考えていた。城といっても、石垣と天守の城ではない。フランツ・カフカの『城』だ。測量士のKが村に到着し、城に入ろうとするが、どうしても辿り着けない。城は見えているのに、近づこうとすると道が逸れ、手続きが膨らみ、人々の説明は核心をすり替え、Kは永遠に城の門前で立ち往生する。
あの小説を大学時代に読んだ時、私はKの苛立ちが理解できなかった。入れないなら帰ればいいじゃないか。なぜ城にこだわるのか。しかし社会に出て八年が経った今、Kの気持ちが少し分かる。城に入りたいのではない。城に入ることが「自分の役割」だと思い込んでいるから離れられないのだ。
私にとっての「城」は何だったのか。会社か。社会か。「働く大人」という概念か。いずれにせよ、その城から追い出された――あるいは城のドアが、知らないうちに私の背後で閉まった。
バスは東名高速を西に走っていた。窓の外を流れる景色は、日本の高速道路の典型だ。防音壁、標識、トラック、サービスエリアの看板。景色というより、移動の証拠。ここではないどこかに向かっている、ということだけが分かる。斜め前の座席では若い女性がイヤホンで何かを聴きながら眠っている。通路を挟んだ向こうでは中年の男性がノートパソコンを開いて仕事をしている。彼にはまだ城がある。私にはない。その差異を、私は羨ましいとも寂しいとも思わなかった。ただ、確認した。
バスは淡路島を経由して四国に入る。明石海峡大橋を渡る時、海が見えた。十月の瀬戸内海は穏やかで、陽光が水面を砕いて散らしていた。橋の高さから見下ろす海は地図の海に似ている。実感がない。しかし四国に渡るのだという事実だけが、胃の底あたりに小さな重みをもたらした。鳴門海峡を越えると、車窓の景色が変わった。山が近い。平野が狭い。家々の屋根の色が違う。空気が――いや、バスの中から空気は分からない。しかし光の質が違う気がした。東京の光よりも、少し黄色い。秋が深いのか、緯度の問題なのか、単なる気のせいなのか。
徳島駅前にバスが着いたのは午後二時過ぎだった。バスを降りた瞬間、風が吹いた。吉野川から吹いてくる風だ、と思い込んだ。その時はただ「東京とは違う風だ」と思っただけだった。湿り気があり、かすかに甘い。何の甘さかは分からなかったが、その風を吸い込んだ時、肺の奥で何かが緩んだ。八年間、あるいはもっと長いあいだ、固く結ばれていた何かが。気のせいかもしれない。旅の始まりに感傷的になっているだけかもしれない。どちらでもいい。私はリュックを背負い直し、駅前のロータリーに立った。タクシー乗り場に向かいながら、ポケットの中の退職届のコピーに指が触れた。紙の角が指先を軽く刺した。一番札所・霊山寺まで、タクシーで約三十分。旅が始まる。あるいは、旅はもうとっくに始まっていて、私が気づいていなかっただけかもしれない。
第一章
霊山寺──出発の刻印
【一番札所・霊山寺(りょうぜんじ)/鳴門市】
タクシーの運転手は、私が行き先を告げるより先に「お遍路さんですか」と言った。リュックサックを背負った人間が徳島駅前で「霊山寺まで」と言えば、そう判断するのは当然だろう。私は「はい」と答えた。運転手は六十代くらいの男で、日に焼けた首筋に深い皺が刻まれていた。バックミラー越しの目が人懐こく笑っていた。
「歩きですか」
「はい」
「通しで」
「いえ、区切りで。まず十番まで行こうと思います」
「十番いうたら切幡寺か。ほしたら四、五日いうとこですな」
運転手は嬉しそうだった。遍路客を乗せるのが好きなのか、単に話し好きなのか。おそらくその両方だろう。タクシーは国道十一号を北に走り、車窓の左手に吉野川の河川敷が広がっていた。刈り入れの終わった田が灰色に乾いている。遠くに讃岐山脈の稜線が霞み、その上に秋の雲が薄く引かれていた。東京の空とは雲の量が違う。東京では空を見るにはビルの隙間を探さなければならないが、ここでは空のほうが先に目に入る。
「お一人で?」
「はい」
「若いのに偉いなあ。最近はお若い方も増えましたけどな。昔は歩き遍路いうたらお年寄りばっかりやったけど」
偉くはない。暇なだけだ。しかしそう言うと会話が面倒になりそうだったので、「そうなんですか」と相槌を打った。運転手は遍路について語り始めた。春と秋が多いこと。外国人の遍路が増えたこと。コロナで一時期は減ったが、最近また戻ってきたこと。去年、八十歳のおばあさんを一番まで送ったが、あのおばあさんは結願できたかなあ、ということ。話は途切れなかった。私は適当に頷きながら、車窓の風景を見ていた。
鳴門市に入ると、道路沿いに「おへんろ」の幟が立ち始めた。コンビニの駐車場にも、ガソリンスタンドにも、小さな幟が翻っている。遍路がこの地域の風景に組み込まれている。日常の一部になっている。東京でいえば通勤ラッシュのようなものか。いや、それは違う。通勤ラッシュは誰も歓迎しないが、遍路はこの土地に歓迎されている。少なくとも幟はそう主張していた。
霊山寺の駐車場にタクシーが入った時、最初に目に入ったのは柿の木だった。参道の脇に一本、たわわに実をつけた柿が立っている。濃い橙色。枝が重さで少し垂れている。十月の終わりの柿は、もう少しで落ちるぎりぎりの重さを湛えていて、それが妙に美しかった。運転手に料金を払い、タクシーを降りた。足の裏に駐車場の砂利の感触。リュックの重さが肩に戻る。そして――線香の匂い。まだ山門の外だというのに、風に乗って線香の煙がやってくる。甘く、少し苦い。この匂いは仏事の匂いであると同時に、時間の匂いだ。何百年も前から、この場所ではこの匂いがしていたのだろう。匂いだけが時代を超える。建物は朽ちても、仏像は焼けても、線香の煙は同じ匂いで立ちのぼり続ける。
霊山寺の山門は、予想していたよりも控えめだった。八十八箇所の始まりの寺、と聞けば壮麗な門を想像するが、実際は落ち着いた佇まいの仁王門で、左右の金剛力士像も風雨で表面が摩滅し、怒りの表情がやや丸くなっている。怒りが丸くなることを「円熟」と呼ぶのだとすれば、この仁王像は円熟している。
門をくぐると境内は意外に広く、正面に本堂、右手に大師堂、左手に売店と納経所が並んでいた。平日の午後だが、参拝客はそれなりにいた。白衣に菅笠の正装遍路が数人、私服にリュックの軽装遍路が数人、明らかに観光客と分かる家族連れが一組。本堂の前では年配の女性が般若心経を唱えていて、その声が境内に低く反響していた。
私は本堂に向かう前に、境内をぐるりと歩いた。歴史好きの癖で、初めての場所ではまず全体を把握したくなる。城跡を訪ねた時もそうだ。いきなり天守に向かわず、まず堀の外周を歩いて縄張りを確認する。寺も城も、空間の設計という意味では同じだ。境内の中央に池がある。泉水庭園というほど大きくはないが、水面に本堂の屋根が映っている。鯉がゆったりと泳いでいる。赤い鯉と白い鯉。鯉は人間が何をしていようが関係なく泳いでいる。遍路が来ようが来まいが、鯉は泳いでいる。その無関心さが、少し羨ましかった。
本堂の内陣を覗くと、薄暗い中に無数の蝋燭が揺れていた。天井から吊された灯籠の光が金色の仏具に反射して、暗闇の中に星のような光点が散っている。この光景を「幻想的」と呼ぶのは簡単だが、それでは足りない。幻想ではなく、これは現実なのだ。千二百年にわたって蝋燭が灯され続けてきた現実。その持続の重みが、薄暗い本堂の空気を圧縮していた。
手を合わせた。般若心経は読めない。何を祈ればいいかも分からない。ただ手を合わせて、目を閉じた。暗闘の向こうで誰かが木魚を叩く音がする。一定の間隔。規則正しい。その音に意識を預けていると、頭の中の言葉が少しずつ減っていった。会社のこと、失業のこと、これからのこと――そういう雑念が木魚のリズムに洗い流されていく。
三十秒か一分か、手を合わせていた。目を開けると、隣に立っていた老夫婦が私を見ていた。目が合うと、おばあさんのほうが軽く会釈した。私も会釈を返した。会釈、という行為のシンプルさに救われる瞬間がある。言葉は要らない。説明も要らない。ただ頭を下げ合うだけで成立する、最小単位のコミュニケーション。お遍路の以心伝心。
遍路用品の売店は、境内の左手にあった。引き戸を開けると、中は思ったより広い。白衣、菅笠、金剛杖、輪袈裟、数珠、ろうそく、線香、納経帳、札挟み、頭陀袋――遍路に必要なものがすべて揃っている。値札のついた信仰具が棚に整然と並んでいる光景は、アウトドアショップに似ている。登山に行く人が靴やザックを選ぶように、遍路に行く人は白衣や杖を選ぶ。道具を揃えること自体が旅の始まりなのだろう。
売店の奥で、五十代くらいの女性が椅子に座っていた。客が来ると立ち上がるでもなく、座ったまま「いらっしゃい」と言う。声に抑揚はなく、日に何十回と繰り返しているのだろう空虚ささえ漂う挨拶だったが、不快ではなかった。慣れた人間の淡白さには、かえって安心感がある。
「初めてのお遍路なんですが」と私は言った。
「ほしたら一式いりますなあ」
女性は座ったまま棚を指差し、必要なものを教えてくれた。白衣は上だけでいい、ズボンは動きやすいもので十分。菅笠は日除けにもなるが、風が強い日は飛ばされるから注意。金剛杖は弘法大師の分身だから、宿に着いたらまず杖の先を洗って清める。このあたりの説明は流暢で、おそらく毎日同じことを話しているのだろう。
私は白衣、菅笠、金剛杖、輪袈裟、納経帳、札挟み、蝋燭と線香のセットを選んだ。合計で八千円ほど。白衣を広げてみると、思ったよりぺらぺらで、夏用のポリエステル素材だった。これを着て歩くのかと思うと、正直な話、少し気恥ずかしい。コスプレ――という言葉が浮かんだ。歴史テーマパークで甲冑を着る観光客を見た時のあの感覚に似ている。他人がやっていれば微笑ましく見えるが、自分がやるとなると途端に居心地が悪くなる。
しかし遍路の白衣はコスプレではない。少なくとも、この土地ではそうだ。白衣を着ることには千二百年の文脈がある。その文脈に自分の身体を挿入することの重さを、私はまだ十分に理解できていなかった。
白衣に袖を通した。鏡はなかったが、袖の長さは合っている。菅笠を被ると視界が狭まり、世界が少し遠くなった。紐を顎の下で結ぶ。金剛杖を右手に持つ。ずしりとした木の重み。杖の頭部には梵字が刻まれ、布がかけてある。
この杖が弘法大師の分身であるという信仰を、私は信じていない。しかし「杖は同行二人の相棒」という言い方には、信仰とは別の真実がある気がした。一人で歩く旅に、もう一本の足を加える。三本目の足。それだけで歩行の安定感が変わる。物理的な真実だ。信仰は要らない。杖があれば、坂道が少し楽になる。それで十分だ。最後に納経帳を受け取った。女性が帳面を渡しながら、最初のページをぱらりとめくった。そして一瞬、手が止まった。
「あら」
小さな声だった。独り言に近い音量。しかし私には聞こえた。
「何ですか」と私は聞いた。
女性は最初のページを私に見せた。見返しの左下に、朱色の小さな印が押されていた。直径一センチほどの円形で、中に文様がある。梵字のようにも見えるし、家紋のようにも見える。しかし梵字にしては形が崩れすぎているし、家紋にしては線が流動的すぎる。何かの形を表しているのだが、何の形かが分からない。
「これは?」
女性は一瞬、考えるような間を置いた。それは思い出そうとする間というよりも、何を言うべきか、言葉を選んでいる間に見えた。
「最初から入っとるんよ」
女性は微笑んだ。穏やかな笑みだった。しかし笑みの下に、薄い膜のように別の表情があるような気がした。それが何なのかは読み取れなかった。
「他の納経帳にも入っているんですか」
私がそう聞こうとした時、後ろで声がした。
「すみません、納経帳はありますか」
女性の視線が私の後ろに移った。
「はい、どうぞ。こちらにございます」
女性は立ち上がり、新しい客の対応に入った。私の質問は、新しい客の到着によって自然に消滅した。会話が途切れたのではない。会話が別の会話に置き換えられたのだ。私が質問を繰り返すタイミングは、もうなかった。
納経帳を閉じ、鞄に入れた。印のことは気になったが、それ以上追及する気にはならなかった。新品の納経帳に最初から印があるのは変だが、印刷のミスか、検品の印か、何かそういう事務的な理由だろう。世の中の不思議の九割は、事務的な理由で説明がつく。残りの一割は――まあ、考えても仕方がない。
本堂で最初の納経をしてもらった。納経所の窓口に納経帳を差し出すと、僧侶が墨で寺の名を書き、朱印を押してくれる。所要時間は数分ほど。三百円を支払う。信仰の行為に定価がある、ということに最初は違和感を覚えたが、考えてみれば当然だ。寺は宗教施設であると同時に事業体であり、僧侶は聖職者であると同時に労働者だ。朱印を押すことは、サービスの提供であり、三百円はその対価である。
ここにも「制度」がある、と私は思った。信仰は制度によって運営されている。祈りにも手続きがあり、手続きには料金表がある。しかしそのことを批判する気にはならなかった。制度がなければ、この寺は千二百年も続かなかっただろう。祈りを持続させるのは信仰の力だけではない。帳簿の力だ。
納経を終え、大師堂にも参拝してから、境内のベンチに座った。まだ午後三時を回ったばかりだ。今日の目的地は二番札所・極楽寺だが、距離は約一・四キロ。歩けば二十分もかからない。急ぐ必要はない。ベンチに座って、境内を眺めた。秋の午後の光が斜めに差し込み、本堂の屋根の勾配を際立たせている。柿の木の影が地面に伸びていた。風が吹くと、枝が揺れ、影も揺れた。空は高く、雲は薄い。吐く息はまだ白くならない。しかし空気の底に、冬の予感が混ざっている。
この場所――鳴門は、古くから四国への玄関口だった。撫養街道が鳴門海峡に面した撫養港から内陸に伸び、阿波の中心部へと続いている。京や大阪から四国に渡る旅人は、まずこの地を踏んだ。つまり霊山寺が一番札所に定められたのは偶然ではない。四国の入口に、遍路の入口がある。空間の論理として正しい。
空海もこの地を歩いたのだろうか。正確には、八十八箇所の巡礼路が整備されるのは空海の死後だが、空海自身は四国の山野で修行した。この鳴門の地を彼が踏んだかどうかは定かでないが、千二百年前にもこの空があり、この風が吹いていたことは確かだ。空と風だけは同じだ。建物は変わり、道は舗装され、柿の木は代替わりしている。しかし空は同じ空で、風は同じ方角から吹いてくる。
売店で買った遍路案内のパンフレットを開いた。霊山寺の縁起が簡潔に記されている。天平年間に聖武天皇の勅願で行基が開基し、のちに空海が修行して霊場に定めた――と。歴史好きの習い性で、「天平年間」「聖武天皇」「行基」「空海」という固有名詞に反応する。八世紀前半の日本。律令制が整備され、国分寺が建立されていた時代。国家が仏教を管理し、仏教が国家を護る――祈りと制度の蜜月。パンフレットを閉じ、ポケットからすだちを一つ取り出した。タクシーに乗る前、徳島駅前の売店で買ったものだ。三個入り百五十円。皮を爪で割ると、鋭い柑橘の香りが指先から立ち昇った。口に含むと酸味が舌を刺し、その奥にかすかな苦みが追いかけてくる。この酸味は徳島の味だ、と思った。まだこの土地に着いて二時間も経っていないのに、すでに一つの味を知った。旅の速度は、移動の速度ではなく、味覚の速度で測るべきかもしれない。
境内を出ようとした時、手水舎の傍に人が立っていた。白衣に菅笠。正装の遍路だった。ただし、その佇まいが他の遍路と違った。何が違うのかを言語化するのに少し時間がかかったが、やがて分かった。この人は「止まっている」のだ。他の遍路は参拝のために歩き、参拝を終えれば出ていく。常に移動の途中にある。しかしこの人は、手水舎の横にまるでそこが定位置であるかのように立っていた。待っている、のとも違う。ただ、在る。五十代、いや、それより上かもしれない。痩身で、背が高い。菅笠の下の顔は日に焼けているが、農作業の日焼けとは質が違った。歩く人間の日焼けだ。長い距離を歩いた人間特有の、均一な褐色。私が通り過ぎようとした時、その遍路が視線を向けた。目が合った。深い色の目だった。黒というよりも、暗い茶色。光を吸い込むような目。
「初めてですか」
声は穏やかだった。低く、少しかすれている。しかし不思議な通りのよさがあり、境内の雑音を透過して耳に届いた。
「はい」と私は答えた。
遍路は軽く頷いた。それから私の手元に目を落とした。納経帳を入れた袋を、私は左手に提げていた。遍路の視線がそこに止まったのは一瞬だったが、確かに何かを確認したように見えた。気のせいかもしれない。
「私は白縫と言います。道は真っ直ぐです」
遍路はそう言った。そして、間を置いて続けた。
「ただし、真っ直ぐというのは、見かけほど簡単ではない」
言い終わると、遍路は軽く会釈をして、山門のほうへ歩いていった。菅笠の白い背中が参道を進み、山門をくぐり、駐車場の向こうに消えた。足取りは速くもなく遅くもなく、しかし無駄がなかった。迷いのない歩行。道を知っている人間の歩き方。
真っ直ぐというのは、見かけほど簡単ではない。変なことを言う人だ、と私は思った。道案内としては不親切だし、禅問答としては中途半端だ。しかしその言葉が、喉に引っかかった小骨のように意識の端に残った。あの遍路の名前を聞き忘れた。いや、聞く理由がなかった。遍路同士がすれ違い、一言二言を交わす。それだけのことだ。名前を聞くほどの関係ではない。――はずだった。しかし、この時の私はまだ知らなかった。あの白い背中を、この先の寺で何度も見ることになることを。
霊山寺の門前に、食堂が一軒あった。「門前」という言い方がいいのか「隣」と言うべきか迷うが、とにかく山門のすぐ横に、小さな食事処がある。遍路客相手の店だろう。暖簾には「うどん・そば」と染め抜かれていた。
午後三時半。昼食は高速バスの中でコンビニのおにぎりを食べたが、あれから四時間以上が経っている。腹が減っていた。腹が減るという事実が、旅の現実感を保証してくれる。哲学的な問いも、不思議な遍路の言葉も、空腹の前では後回しになる。身体は精神より正直だ。
店に入ると、客は私一人だった。カウンター席が五つと、座敷が一つ。テレビがついていて、ワイドショーが何かを報じている。音量は低く、内容は聞き取れない。壁に手書きのメニューが貼ってある。うどん、そば、カレーライス、おにぎりセット。その中に「鳴門わかめ定食」の文字を見つけた。
「鳴門わかめ定食をお願いします」
厨房から「はーい」と返事があり、六十代くらいの女性が顔を出した。割烹着を着て、手拭いで頭を覆っている。「お遍路さん?」と聞かれ、「はい」と答えると、「ゆっくりしていきなさいよ」と言われた。このやりとりは、おそらく日に何度も繰り返されているのだろう。しかし定型文にも温かさはある。マニュアルに沿った接客とは違う、土地に染みついた応対の所作。
鳴門わかめ定食は、わかめの味噌汁、わかめの酢の物、白飯、漬物、冷奴、という構成だった。味噌汁の椀を持ち上げると、湯気と一緒にわかめの磯の香りが鼻腔に入ってきた。一口啜る。出汁が深い。いりこと昆布だろうか。その出汁の中で鳴門わかめがくたりと揺れている。肉厚で、歯応えがある。噛むと海の味が広がる。
鳴門海峡の潮流に揉まれて育ったわかめは、全国的にも品質が高いと聞いたことがある。渦潮が作る激しい海流が、わかめを強く、厚くする。厳しい環境が良いものを育てる――と言ってしまうと処世訓みたいで嫌だが、少なくともわかめに関しては事実のようだ。白飯を一口、味噌汁を一口。交互に口に運ぶ。食べるという行為の基本に戻っている感覚があった。東京での食事は、たいてい何かをしながらだった。スマートフォンを見ながら、テレビを見ながら、あるいは仕事のことを考えながら。ここでは食べることだけをしている。わかめの味を味わい、味噌汁の温かさを喉に通し、白飯の甘さを噛み締める。それだけだ。それだけのことが、なぜか少し胸に迫った。
食後、女将に「ごちそうさまでした」と言うと、「二番さんに行くんやったら、この道をまっすぐやけんね」と教えてくれた。「二番さん」。寺を「さん」づけで呼ぶ。この土地の人にとって、寺は制度ではなく隣人なのかもしれない。「ありがとうございます」と言って店を出た。外はもう夕方の光に変わり始めていた。太陽が西に傾き、山門の影が参道に長く伸びている。空気が少し冷えてきた。菅笠を被り直し、金剛杖をついて、二番への道に足を向けた。
二番札所・極楽寺への道は、県道沿いの歩道だった。遍路道の標識が電柱に貼ってある。赤い矢印に「へんろ道」の文字。この矢印に従って歩けば、寺に辿り着く。迷いようがない――はずだが、あの遍路の言葉が蘇る。「真っ直ぐというのは、見かけほど簡単ではない」。今のところ、道は文字通り真っ直ぐだった。何が簡単でないのか、まだ分からない。
歩き始めて五分ほどで、身体が抗議を始めた。リュックの肩紐が食い込む。菅笠の紐が顎の下で擦れる。新しい靴が右足の踵に当たっている。靴は出発前に何度か履いて慣らしたつもりだったが、荷物を背負って歩くのとは負荷が違う。金剛杖を突く右手首にも、不慣れな動きの疲れが溜まっている。まだ一・四キロだ。この先、十番まで歩けば総距離は約二十五キロになる。さらにその先、八十八番までは千二百キロ。数字にすると気が遠くなるが、気が遠くなっても足は動く。足が動く限り、距離は減る。一歩で約七十センチ。千二百キロは約百七十万歩。百七十万歩。途方もないが、今はこの一歩だけを考えればいい。
道の右手に田んぼが広がっていた。刈り入れ後の田で、切り株が規則正しく並んでいる。水は抜かれ、土は乾いて少しひび割れている。一枚の田の向こうにもう一枚、さらにその向こうにもう一枚。田の連なりが地平線に届くかと思うほど広い。東京にはない広さだ。視線を遮るものがない。空と田と、その間を歩く自分。
ふと、前方に白い影が見えた。菅笠、白衣、金剛杖。遍路の後ろ姿。二百メートルほど先を歩いている。あの遍路だ――霊山寺の手水舎の横に立っていた、あの人。同じ方向に歩いているのだから当然だが、私のほうが後から出たはずなのに、なぜあの距離にいるのか。私が食事をしている間に先に出たのか。時間的には合わないこともないが、あの人は私より先に境内を出ていった。食堂で三十分以上は過ごしたから、その分だけ差がついた。それだけのことだ。それだけのことだ、と自分に言い聞かせながら、私は少し歩く速度を上げた。追いつこうと思ったわけではない。ただ、あの遍路がどんな顔で歩いているのか見たかった。手水舎で立っていた時のあの不動の佇まい。あの人が歩いている姿は、どんなふうに見えるのか。
しかし距離は縮まらなかった。私が速度を上げると、向こうも同じだけ速くなっているように見える。いや、向こうの速度は変わっていないのかもしれない。変わっていないのに、追いつけない。二百メートルという距離が、伸縮する紐のように一定を保っている。馬鹿馬鹿しい。距離が伸縮するわけがない。単に自分の歩行速度が思ったより遅いだけだ。リュックの重み、慣れない靴、初日の身体。速く歩いているつもりで、実際にはそうでもないのだろう。追うのをやめた。自分のペースに戻すと、呼吸が落ち着いた。前方の白い影はゆっくりと小さくなり、やがて道の曲がり角を曲がって見えなくなった。一人に戻った。
夕暮れが近づいていた。空の西半分が淡い茜色に染まり始め、田んぼの切り株に夕陽の影が伸びている。風が出てきた。乾いた藁の匂いが、風に混じって鼻に届いた。秋の匂いだ。何かが終わった後の匂い。しかし不思議と寂しくはなかった。何かが終わった後には、何かが始まる前の静けさがある。その静けさの中を、私は歩いていた。
納経帳を取り出し、歩きながらぺらりとめくった。最初のページの朱色の印。指先でなぞると、微かな凹凸がある。朱肉が紙の繊維に染み込み、わずかに盛り上がっている。この印は何だろう。事務的な理由――さっきそう片づけたはずだが、片づけきれなかった。指先に残る朱肉の感触が、別の記憶を呼んだ。退職届に押した印鑑。三文判の安い印鑑を朱肉に押しつけ、紙に押した。あの時も、こんなふうに朱が指に残った。退職届の印は、私を会社から解放するための印だった。自由にするための印――のはずだった。しかし実際には、あの印は私を自由にしなかった。自由にしたのは私ではなく、会社のほうだった。会社が私を「自由にした」。この受動態の中に、私の三十一年間のすべてが凝縮されている気がした。自分で選んだことが、何もない。高校の進路も、大学も、就職も、退職でさえ、誰かに決められた。自分で押した印鑑でさえ、実は誰かに押させられたものだ。では、この納経帳の印は。これは誰が押したのか。誰のために押されたのか。分からない。分からないまま、私は歩いた。
極楽寺が近づいてきた。樹木の向こうに屋根が見える。ポケットの中で、退職届のコピーが太腿に触れていた。明日はこの紙をどう感じるだろうか。明後日は。十番に着いた時は。答えは出なかった。答えが出ないまま、私は一番札所から二番札所への道を歩き終えようとしていた。一・四キロ。遍路の最初の一・四キロ。千二百キロの、〇・一パーセント。しかしその〇・一パーセントの中に、すでに私の知らない印が一つ、刻まれていた。
