連作短編集『朝の喫茶、夜の質屋』を書きました。
全五話、徳島市の飲み屋街の路地裏で、朝は喫茶店、夜は質屋を営む男の一年を描いた小説です。
この小説の出発点
出発点は、一つの設定でした。
「同じ店が、朝は喫茶店で、夜は質屋」
この設定を思いついたとき、これだけで一冊書けると思いました。
朝の喫茶店には、コーヒーを飲みに来る人がいる。新社会人、資格勉強中の女性、子育て中の母親、年金暮らしの年配者。それぞれが「普通の暮らし」の顔をして座っている。
夜の質屋には、品物を持ち込む人がいる。腕時計、婚約指輪、金のネックレス、母の着物。それぞれが「普通の暮らし」の裏側を抱えて立っている。
同じ店で、同じカウンターで、朝と夜で客の顔が変わる。
もっと言えば、朝に苺タルトを食べていた人が、同じ日の夜に時計を質に入れに来る。
この「朝と夜の接続」が、この小説の背骨です。
店の名前は「薄明」
店名を決めるのにかなり悩みました。
朝でも夜でも違和感のない名前。喫茶店にも質屋にも合う名前。洒落すぎず、地味すぎず。
最終的に「薄明(はくめい)」にしました。
朝とも夜ともつかない時間帯。光と暗がりのあいだ。どちらにもなりきらない場所。
主人公の蒲生という男自身が、そういう人間です。社会の中心にいるわけでも、完全に外れているわけでもない。人付き合いは好きだが、べたつかない。金に冷淡ではないが、幻想も抱いていない。朝の客にも夜の客にも、態度を変えすぎない。
この「静かな一貫性」が、蒲生の核です。
五つの話、五つの季節
連作短編集なので、五つの独立した話で構成されています。
第一話「春の苺タルト」 ── 新社会人の青年が、朝に苺タルトを食べ、夜に腕時計を質に入れる。「普通の暮らし」を始めるだけで、なぜこんなに金がかかるのか。
第二話「雨の紅茶と指輪の値段」 ── 婚約者の事業を支えるため、自分の意志で婚約指輪を質に入れる女性。愛情と金銭は、交換できるのか。
第三話「真夏のアイスコーヒーと夜の金」 ── 由来の怪しい貴金属を持ち込む男。合法と違法の境界線で、蒲生の職業倫理が試される。
第四話「栗のケーキと母の着物」 ── 母の介護費用のために、母の着物を質に入れる中年の男。真面目に生きていても、なぜ金が足りないのか。
第五話「冬のチーズケーキと質札の向こう側」 ── 京都時代の知人が現れ、蒲生自身の過去が開かれる。この男もまた、何かを預けたまま生きている。
春から冬へ、季節とともに菓子が変わり、客が変わり、蒲生の目が少しずつ深くなっていく。
書きたかったこと
この小説で書きたかったことは、いくつかあります。
一つ目は、金に困ることは特別なことではないということ。
質屋に来る人を「転落した人」として描くのは簡単です。でも実際には、質屋に来るのは普通の人です。新社会人、婚約中の女性、働いている中年男性。誰もが通りうる道の上にいる人たちです。金に困ることは人格の敗北ではなく、生活の力学です。
二つ目は、物の値段と人の気持ちの値段は違うということ。
婚約指輪が十二万円に査定される場面があります。六十万円で買ったものが十二万円になる。でもそれは物の値段であって、指輪に込めた気持ちの値段ではない。蒲生はそのことを、静かに、でもはっきりと区別します。
三つ目は、きれいな言葉で救えない場面があるということ。
蒲生は第一話で「普通という言葉は高くつく」と言い、第二話で「物の値段と決めたことの値段は違う」と言います。知的で、的確で、読者も頷くような言葉です。
でも第四話で、介護費用のために母の着物を持ち込んだ男に対して、蒲生は何も言えません。どの言葉も正確ではなく、どの慰めも空虚に感じられて、黙るしかない。
蒲生にも限界がある。その限界を書くことが、この小説では大事でした。
坂本という男
蒲生の同級生・坂本は、この小説のもう一人の主役です。
既婚、子持ち、住宅ローン持ち。建材会社の営業。声が大きく、よく喋り、誰とでも打ち解ける。蒲生とはあらゆる意味で正反対。
この男がいなかったら、小説が重くなりすぎていたと思います。
坂本は毎回、朝の喫茶に現れて、住宅ローンや子どもの教育費や妻の機嫌の話を、笑いながら話します。笑いながら話すけれど、中身は全然笑える話ではない。それでも笑っている。笑うことで、生活を回している。
蒲生が静なら、坂本は動。蒲生が余白なら、坂本は生活感。
そして第三話では、坂本の社交性が思わぬ防波堤になります。明るいだけの男ではない。この町で生きていくための知恵と人脈を持っている。
蒲生の静けさが孤立ではなく選択に見えるのは、坂本がそばにいるからです。
舞台を徳島にした理由
舞台は徳島市秋田町です。実在の飲み屋街です。
東京や大阪ではなく、地方都市を選んだのには理由があります。
地方都市には、華やかではないけれど確かな困窮があります。年金だけでは足りない高齢者。介護費用を捻出できない家族。空き家を維持する余力のない持ち主。それぞれが自分の家の中で、静かに困っている。
この「静かな困窮」を書くには、地方都市が合っていました。
そして秋田町という飲み屋街は、昼と夜の顔の落差が大きい場所です。朝は古い商店街、夜はネオンの街。その境目に質屋を置くことで、町そのものが小説の舞台装置になりました。
読んでほしい人
この小説は、派手な事件は起きません。殺人もなければ、大恋愛もない。
あるのは、金の話と、人の話だけです。
お金のことで少し疲れている人。 普通に暮らすことの重さを感じている人。 誰かの事情を、黙って聞いていたい人。
そういう方に、読んでいただけたら嬉しいです。
朝のコーヒーのお供に、あるいは、夜の紅茶と一緒に。
