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【歴史小説】天文官:白起 軍門から天文へ… 【第1章】完

第1章 隴西への赴任

【1】

夜の底がゆるみはじめると、邸の梁に溜まっていた冷えが、そっと足元へ降りていった。露は庭石の角で小さな珠に結ばれ、竹の葉は乾いた音で身じろぎする。まだ星は少し残っている。白起は寝所から静かに起き出し、戸口で一度、深く息を通した。胸の内側に昨夜の誓いの句があり、墨の匂いが薄く残っている。灯は要らない。薄闇は友であり、道の始まりは静けさから立ち上がる。庭を見ながら白起は呟く。

「始まりは声でなく、息である。呼吸を整え、精神を安定させる。動じることなく、我が道をゆく。」

広間に出ると、もう火の気は起きていた。土間の竈で女中が湯を立て、杜が荷の紐を指先で確かめる。蒋は布包みの端を揃え、朱の小さな印をもう一度首肯でなぞった。家の拍は冬よりひと息だけ早い。白起は皆の顔を見る。昨夜の名残りと、今日の明るさが、同じ額に共存している。

「皆、随分と早いな。出発までには時間がある。急き過ぎることはない。朝食をゆるりとやり、のちに出発だ。」

「承知。食事の用意は万端でございます。道端で腹が鳴らぬよう、いまから塞いでおきましょう。」

杜が笑う。

「塞ぎすぎるなよ。腹は刀の鞘と同じ、きつすぎれば抜けず、ゆるすぎれば落ちる。」

古株の女中頭が顔を上げて、

「はいはい、白起さまは今朝も名言でお始まりだこと」と匙を粥から上げる。

「粥、薄めと濃いめ、どちらにいたします?」

「出発の前はやや濃いめだな。朝一番での気付になる。」

白起は椀を受け取りながら、声を低くして付け加えた。

「ただし塩は多くするな。塩は言葉と同じ、少しで全体を締める。」

「はいはい、言葉も塩も控えめに。」

女中頭はわざと大きくうなずき、蒋の前にも椀を置く。

「蒋様には卵を一つ多めに。星を見る人には、卵が効くのさ。腹持ちもいいからね。」

「婆さま認定の天文薬、ありがたく頂きます。」

蒋は箸を合わせ、ふと白起を見る。

「白起さまは?」

「私は二つだ。昨夜、抱負を三行書いた。三は腹にも重い。二にして余白を残す。何事も少しの余裕があると危機に対応しやすい。」

杜が小皿を滑らせてくる。

「沢庵。論争を短く終える黄の刃です。」

「沢庵は解釈の友、粥は観測の友。」

白起は椀の縁で湯気を吸い込み、笑った。

「まずは“見”を鼻で確かめ、“解”は舌で見極める。」

粥を啜っている蒋が危うく吹き出しそうになりながら言う。

「食卓で術語が踊ると、難しい話も急に腹に落ちますね。」

「腹に落ちない学は、夜更けの詭弁に似る。苦悩も満腹には勝てないさ。」

白起は一口食み、

「この粥、昨夜より僅かに濃い。女中頭殿、暦を見たな。」

「見たともさ。今日は西へ長く歩く日だよ。薄けりゃ途中で声がとぎれる。」

女中頭は鼻で笑う。

「宮廷の通達より、台所の勘のほうが当たるものさ。」

「それは否定しがたいな。」杜が頷く。

「台所の暦は、火加減でできている。」

「火加減は政治の縮図だ。」白起は冗談めかして言う。

「強すぎれば焦げ、弱すぎれば生焼け。民はその舌で是非を決める。」

蒋が箸を止め、「その比喩、嫌いではありません。」とにやりと笑う。

左遷先へ赴任する当日とは思えないほどの軽妙さであった。皆が皆、本音を隠してはいたが、陰気な食事にはならなかった。

「では、塩梅を司るのが我らの暦、と。」蒋がまた問う。

「そう急いで結論を立てるな。これから、うんと天を見るのだ。暦の解釈を考える暇はたくさんある。」

白起は笑みを含んだ厳しさで指を立てる。

「いまは粥の濃さを決めるだけで十分だ。大論は、椀を空にしてから。」

女中頭がうれしそうに相槌を打つ。

「ほらね。学問だって腹八分だよ。」

(大論は腹八分、旅支度は荷七分か。)

外から荷馬の鼻息が聞こえ、若い下働きが顔を出す。

「杜さま、腹帯、二頭ぶん締め直しました。柱、鳴いてません。」

「鳴かぬ柱は折れる。」白起が即座に返す。

「鳴かない、と感じるのは耳の疲れだ。あとで私の耳でもう一度確かめる。」

「はいっ。」若者は嬉しそうに頭を下げ、土間に消えた。

蒋が卵を崩しながら言う。

「白起さま、昨夜の句……“見を司り、解を制す”。胸のところに入れて眠ったら、悪夢を見ませんでした。効能が即日。」

「それは結構だな。」

白起は椀の底を見て、残りを流し込む。

「句は薬で、薬は少量が効く。多く飲めば毒になる。詩人は往々、過量だ。」

「殿さま、今朝は随分お達者で。」

女中頭が笑って沢庵をもう一枚。

「左遷当日の人の口ぶりじゃないね。」

「昨夜で“前夜”は終わった。」白起は肩を竦める。

「今朝からは“前進”だ。――それに、左遷は私の右手を軽くする。軽い手は、細い線を引ける。」

杜が真顔でうなずく。「重い手は太い線しか引けませんな。」

「太い線は地図に、細い線は星図に向く。」

白起は箸を置き、卓上の水を一口。

「杜、財の件は昨夜の通りだな。」

「はい、借財は清。利は春の雨のように細く長く。」

「春の雨は、粥を薄めますよ。」女中頭が割って入る。

「利を見たら、塩を一つ減らすことだね。」最後に彼女はそう付け加えた。

「それは新しい会計術だ。」蒋が受け、「“塩控除”。」

「塩控除は良策だ。」白起は笑いながら立て板に水。

「人の舌はすぐ慣れる。甘すぎ、辛すぎ、強すぎに。慣れは暴君だ。粥で毎朝、舌の王を簒奪しておけ。」

(慣れは暴君、粥は革命。)

外で馬が二度鼻を鳴らした。出発の刻が、湯気の向こうで合図する。白起は立ち上がり、皆をぐるりと見た。蒋の肩には竹尺、杜の手には結び目の感触、女中の前掛けには朝の湯気のしみ。

「よし。」白起は少しだけ冗談めかして言った。

「本日の作戦を伝える。第一、“粥の勝利を腹で確認”。第二、“卵の徳を歩で証明”。第三、“塩梅の政治を道中演習”。――以上。」

「第四は?」蒋が乗る。

「第四、“余白を各自一つ持参”。途中で息が切れた者は、その余白に座れ。」

笑いが小さく弾けた。杜が扉に向かいながら、

「殿、余白はどこに持ちます?」

「胸の内側に薄く折って。」白起は昨夜の小布をそっと叩いた。

「落としても、拾うのが自分だ。」

女中が卓を片付けながら、名残惜しそうに言う。

「殿さま、帰ってきても、まず粥ですよ。凱旋の酒より、粥のほうが家は静かに喜ぶ。」

「覚えておく。」

白起は門のほうへ歩き出し、皆に振り向いた。

「さあ、腹は整った。声は短く、手は長く。道の最初の一歩は、粥の最後のひと匙より軽い。」

広間の湯気は薄くなり、朝の光が座のあとを柔らかく撫でた。白起は門柱を軽く叩き、外の風を吸い込んで言う。

「行こう。今日は“見”の稽古だ。景色をたっぷり食べる。解は、あとで茶と一緒に。」

笑いとともに、家の拍が外の拍に重なっていった。粥の温みはまだ腹にあり、飴の涼しさが喉に道を作っている。冬は背を離れ、春は袖に絡み、門の蝶番が一度だけ、機嫌よく鳴った。

合図は短い。だが家人たちの背は、音でなく意味を受け取るように、すっと伸びた。先発の荷駄に若い者二人、杜が付き、竹と油の箱は中央に、漏刻の甕は藁に寝かせ、圭表の柱は鞍に斜めに載せる。白起は柱の先を掌で軽く叩いた。木は低く鳴り、鳴りは骨の奥に吸い込まれる。

「鳴かぬ柱は折れる。」白起が言うと、杜が笑った。

「鳴る家も、折れませぬ。」

門の蝶番が風に合わせて一度鳴った。昨夜、白起が確かめた音だ。彼は門に向き直り、外へ向けて開いたままの板を、手で軽く押さえた。

「門は——」

「開けたままに。」杜が先に言った。「帰るためではなく、風を通すため。」

「うむ。」

門外で近所の童が二、三人、眠い目をこすりながら集まってきた。昨日、凧を上げた顔がある。上の子が胸を張って言う。

「殿、きのう教わったとおり、息を入れたら、凧が上がりました。」

「それはよい。」白起は目を細めた。

「凧は風で上がるが、風を呼ぶのは、自分の息だ。」

「では、殿が道で風に負けそうになったら、僕らが息を送ります。」

蒋が笑い、女中が袖で口を覆って肩を震わせた。白起は童の頭に軽く触れた。

「息は、向けてやると戻ってくる。お前たちも息を大切にせよ。」

杜が先発の荷駄を動かしはじめた。革の帯が鳴り、馬の鼻が湿った息を白く吐く。蒋が白起の側に立ち、肩に掛けた竹尺の重みを確かめた。白起は床の間に目をやり、白布に包んだ剣に、言葉のない一礼を与えた。

「留む。」

それだけ。背を向ける。背を向けるには、背の力がいる。白起は裾を整え、家人たちに目を配った。

「行くぞ。」

門を出ると、朝の空気は昨夜より柔らかい。砂利の感触は乾いたとはいえまだ冷えを含み、足裏の記憶を確かめる。路地の隅に捨てられた藁束は夜露で重く、屋根から落ちる水は音を立てず、土へ沈む。冬と春が重ね書きになっている。

邸の並ぶ小路を抜け、咸陽の大路へ出る。市場へ向かう荷車が列をなしている。山草を結わえた束、干魚の樽、麻布の反。女たちの手は早く、男たちの声は短い。家畜の鼻輪がたまに鳴り、遠くの鍛冶場の槌音が薄く重なった。白起は歩を緩めない。都の朝の活気は、今は目に、耳に受け取り、心には踏み込ませぬ。心は、これから長い道を持つのだ。

東門の番所で、番の男が木札を掲げた。昨日、門を出入りした同じ顔だ。白起を見ると、目の奥に認識の光を一度だけ宿し、すぐに公の顔で言った。

「通行の札を。」

白起は懐から札を出し、杜が荷駄の順を短く告げる。番の男は一隊の様子を見渡した。圭表の柱、藁に寝る甕、木箱。彼は目を細め、低く言う。

「観象の旅で?」

「見の旅だ。」白起が答える。「解は都に置いてきた。」

男は一瞬、意味を飲み込めずにいたが、すぐに口の端だけで笑い、「良い旅を。」と頭を下げた。門をくぐると、朝の光が真正面から差してきた。城壁の影が短く、硬い。外の道は思っていたより静かで、地面は都より柔らかい。畑の畦に霜がまだ白く残り、うつむく苗の葉先で光る。遠くで農夫が鍬の柄を肩に、空を見上げて立っていた。彼は白起一行に気づくと、軽く会釈した。白起も頷き返す。

「殿。」蒋が囁く。「春の畝は、言葉を選ばせますね。」

「春は、言を薄くする。」白起は歩を止めずに答えた。「薄くして、根が伸びる。」

やがて渭水に至る。川幅は広く、冬の雪解けを含んで水は速い。渡し場にはすでに人が集まり、籠に入れた雛を抱く女、塩を運ぶ男、布を背負った旅人の姿がある。渡し舟の船頭は日に焼け、目が細い。杜が先に声をかけ、人数と荷の分量を告げた。船頭は荷駄の列を見て、白起のほうを見、礼をした。

「殿、今日は風が東に寄っております。舟は揺れますが、下流へ流されはしません。」

「私は川の流れには無知だ。全て任せる。」白起は舟縁に手をかけた。

「では、渡河を開始します。」と言って手を取る。

白起は最初の舟に蒋とともに乗り、杜は二番舟で荷全体を見張る。舟は川面に乗り、寒い水の匂いが鼻に触れた。水鳥が一羽、上流へ向けて低く飛ぶ。

「白起さま。」櫓の音に合わせて蒋が口を開く。「隴西の星は、都の星とどう違うでしょう。」

「同じだ。」白起は川の流れを見た。

「違うのは、官吏と自然の多さよ。」

「自然に溶け込めましょうか……。」

「都は背が多い。背が多いと、言葉が渦をつくる。山は背が少ない。言葉は、まっすぐに流れる。そち次第よ。」

「どちらが、見には適うでしょう。」

「ふむ。」白起は櫓の音に合わせるように言った。「背の数に合わせて、己を変えるだけだ。」

舟は中州の手前でわずかに揺れ、船頭が水の筋を読み直す。日の光はまだ冷たく、しかし眩しさに春の兆しが混じる。舟縁に座る白起の指先に、川風が細い糸のように絡んだ。

対岸に着くと、荷駄が順に渡ってきた。杜は一本一本の紐を確かめ、柱の布を撫で、甕の藁を押さえた。白起が黙ってそれを見ていると、渡し場の端で小柄な老女が手を振った。昨日、市で会った雑貨屋の商人の母だという。女は籠から布包みを取り出し、白起に差し出した。

「殿さま、旅の間に喉を守りなんし。薄荷と陳皮で煎じた飴です。」

「ありがたい。」白起は受け取って頭を下げた。「喉は、言より先に枯れる。」

「そうですねぇ。」老女は笑い、「枯れた喉は、何も生み出しません。甘いもので潤しておかれませ。」

蒋が横で目を丸くし、杜が控えめに笑った。老女は杖で足元を突き、棹に凭れて空を見上げた。

「星は見えんが、首が軽くなる朝だこと。」

「首が軽いと、心が重くなる。」白起は冗談めかして返した。「首が重いと、心が軽くなる。」

「うまいこと仰る。」老女は歯を見せて笑い、「どっちでもよいから、お達者で。」

道は川を離れ、丘陵へ絡みつくように伸びる。土は都より褐く、踏めば土音が低く鳴る。道の脇で、木の枝を束ねる男が汗を拭い、白起に目礼した。男の背後では、子が枯れ草を集め、母がそれを縄で締めている。春は火の支度をさせる。古いものを燃やし、地を軽くするために。

「殿。」杜が馬の並びを整えながら言う。「三里先の茶屋で休みましょう。荷の紐を一度ゆるめ、馬の腹帯を見直す刻合いです。」

「よい。」白起は頷いた。「休む時は、短く深く。話は薄く。」

「薄く……」蒋が笑い、「茶は濃いほうが良いですが。」

「濃い茶は、あとで水を欲しがる。」

昼前、道端の茶屋に着く。屋根は低く、壁は土で、窓から湯気が逃げている。客は旅の商人が二人、農具を売る行脚の男が一人。店の婆は丸顔で、声が良い。杜が先に入って座敷を確かめ、白起と蒋があとから入る。座に着くと、婆が笑顔で盆を差し出した。

「おや、珍しい荷だねぇ。柱に甕に木の箱。どこへ。」

「西へ。」白起は短く答えた。「風と天を見に。」

「風は、男の暮らしも女の暮らしも、毎日向きが変わるよ。」

婆は茶碗を置き、湯気を手で払った。

「今朝は東で、昼は南で、夜はどっちかね。」

「夜は、上だ。」蒋が言って、すぐ自分で笑って赤くなった。婆は目を細めた。

「夜は上。よいことを言うねぇ。」と、湯を足し、「卵粥を少し持っていくかい。星を見る人は、卵が効くと婆さまがね。」

店の隅で行脚の男が口を挟んだ。「おれは土を見るが、卵は腹に効く。」

「土を見るなら、影も見ろ。」白起が向き直る。「影が違えば、土が違う。」

「影……」男は鍬の柄を撫でた。「正午の影を見れば、いいのか。」

「正午だけが正しいわけではない。」白起は茶を啜った。

「影は、朝にも夕にも意味がある。正午だけを選ぶと、朝夕が嫉妬する。」

婆が笑い、商人たちも肩で笑った。笑いは空気を温める。茶屋を出るとき、婆が戸口まで来て小さく言った。

「西は乾いているよ。喉を先に潤しておくんだよ。」

「心得た。」白起は頭を下げた。

丘の肩に上がると、道は細くなる。空は広がるが、風は狭くなる。荷駄の歩みを揃えるため、杜が手で拍を打ち、蒋がそれに合わせて紐の緩みを見ていく。白起は列の後ろにつき、崩れを前へ送らぬよう、自分の歩で全体を支える。支持は前からだけではない。後ろで支える手がなければ、前は崩れる。

午後、空の端に薄い雲があらわれ、陽が柔らいだ。いやな柔らかさではない。冬の刃が鞘に納まり、春の布がかぶさったような、優しい鈍さだ。道の脇で草焼きをしている家があり、煙が低く流れる。煙は目にしみるが、土は軽くなる。白起は煙の匂いを胸に入れ、ゆっくり吐き出した。

日が傾き始めるころ、小さな関の手前で一隊が道を塞いだ。旗は新しい。先頭の兵士は若く、槍の穂先が春の光を受けて白い。杜が一歩進み、通行の札を差し出した。兵士は札を読み、荷を見、白起の顔に視線を留めた。息を飲む音が、わずかに空気を振るわせた。

「殿……いや。」若い声は慌てて平らになった。「観象の役、これより先、通行を許す。」

白起はただ頷いた。若い兵士の目は、名を知っている目だった。もしかすると白起の隊に従軍していたのかもしれない。名を持っていると、目が先に反応する。白起は目で礼を返し、声は出さない。若い兵士はそれを受け取り、短く槍を上げて道を開いた。

関を抜けると、風が変わった。山の肩を回り込む風だ。乾いて、冷たいが、刺さらない。荷駄の紐が一度鳴り、柱が一度だけ低く鳴いた。白起は柱に手を触れ、鳴りを撫でておさめた。

「蒋。」白起は歩を緩めずに言った。

「いまの風を覚えておけ。隴西の手前では、この向きが多い。」

「はい。東南から北西へ。」

「風の向きは言葉の向きに似る。いつも同じところで曲がろうとする。」

「言葉も、曲がってはいけませんか。」

「曲がることで救われる時がある。」白起は微笑した。

「だが、曲がる前にまっすぐを知れ。」

沈む陽が、道の砂に橙を落としはじめた。杜が前から振り返り、夜営の場所を声に乗せる。

「この先の林の陰に、水場と古い東屋があります。壁は欠けていますが、風は避けられそうです。」

「よい。」白起は頷いた。「火は小さく。灯は少なめに。星の邪魔をするな。」

東屋に着くと、蒋が手早く掃き、杜が藁を敷き、女中が湯の支度を始めた。荷駄は外で輪を作り、馬は鼻を鳴らして土を踏む。白起は井戸の水に掌を沈め、温みの残らぬ冷たさを一度だけ手首まで上げた。冷たい水は、今日の歩みをここで区切る印になる。

粥と少しの塩、卵を割って混ぜた椀が配られ、皆が輪になって座した。杜が道中の手当の順を言い、女中が包帯の場所を知らせ、蒋が明朝の出立の拍を確認する。白起は多くを言わない。輪の中で、人の声が重なり、薄い夜が外から寄ってくる。

「白起さま。」輪が一段落したとき、蒋が声を落として近づいた。

「都を出る時、門を開けたままにしたのは、戻るためではなく、風のためだと。――わたしは、風が怖いと思っていました。見えないものは、怖い。けれど、見えないものを先に通すと、見えるものが壊れないのですね。」

「風は名より先に届く。」白起は椀を置いた。

「名は遅れて届けばよい。遅れて届くものだけが、長く残る。」

「わたしも遅れて届く者でありたい。」蒋は小さく笑った。

「遅れることを恥じるな。」白起の声は柔らかい。

「遅さは品位だ。星の光は、すべて遅れて届く。急いてはならぬ時もある。」

(急く声は近く届き、遅き光は遠く届く。)

夜が落ち、林の上に星が増えた。白起は東屋の柱に背を預け、窓にもならぬ隙間から空を見た。風は弱く、雲は薄い。北を取りやすい夜だ。蒋が小布を取り出して膝に広げ、漏刻代わりの砂時計を横に置く。杜が火の番をし、女中は静かに寝具を整える。白起は息を整え、声を落とす。

「今夜の“見”は少しでよい。道の初めは、数より息を整える。」

「はい。」蒋が筆を取る。「日、晴。風、東南より弱。星、昴淡し。」

「句を一つ、端に。」白起は目を離さずに言った。「“道は声で始めず、息で始める”。」

蒋が書き終えると、布の余白は広く、句は小さく、夜は深くなっていた。白起は筆を求めなかった。今夜は、師が書くより弟子が書くほうがよい。余白は、若い手が多く持つべきだ。彼は静かに目を閉じ、耳の裏で今日の音をもう一度並べた。門の蝶番、渭水の櫓、茶屋の婆の笑い、関の槍の鳴り、柱の低い鳴り。どれも尖っていない。冬の刃が去り、春の布が被さっている。

やがて、人の声は消え、火は小さくなった。白起は東屋の外に出て、夜気を胸いっぱいに入れた。暗闇は昨夜と同じく、友のように寄ってくる。彼はその友に短く告げた。

 ――見を司り、解を制す。

言葉は闇に溶け、空へ散った。散ったものは、遅れて戻る。遅れて戻るなら、長く残る。白起は目を開き、北を一度だけ確かめ、東屋へ戻った。枕は硬く、夜は長く、道は遠い。だが、遠い道ほど、余白がいる。余白があれば、息は切れない。息が続けば、星は見える。星が見えれば、人は落ちつく。

翌けの気配が、林の端で微かに生まれはじめていた。

【2】

夜の湿りがまだ草の先に残るうちに、白起は東屋の外で腕を回し、肩を鳴らした。蒋は火の残りに息を吹き、杜は荷馬の腹帯を一本ずつ指で鳴らして確かめる。女中が土間の鍋につけた耳は早く、湯の立つ音がわずかに変わるのを合図に、卵を崩して粥に落とした。

「白起さま、今朝は薄めですか、濃いめですか。」と女中。

「今日は坂が続く。濃いめにして、塩は控えめ。」白起は笑った。

「塩は言葉と同じだ。少なくても全体が締まる。」

「言葉はいつも塩控除、覚えました。」蒋が茶目っ気を浮かべる。

「覚えたら使い過ぎるのが若さだ。」杜が落とす。

「塩も言葉も、余ったら帰り道に残すのが吉。」

朝餉を終えると、白起は携帯の短い表柱(圭の代わりの竹)を地面に垂直に立てた。影は長く、まだ東へ流れている。


朝は太陽が低く、影が長くなる。影の長さは“太陽の高さ(高度)”と逆の関係。影が短くなるほど太陽は高い。旅先で影の変化を追うだけでも、季節と時刻の見当がつく。正午は“影が一番短い瞬間”。この瞬間を何日か続けて測ると、季節の移ろいが数字で見えてくる。

「今日は“正午の影”を一度だけきちんと測る。」白起は竹に刻みをつける。

「蒋、板を水平に。杜、紐で垂直を補助。」

「はっ。」蒋が板の泡(水滴)を目で追い、水平を出す。杜は紐の糸を竹に添わせ、風で揺れないよう指で支えた。

道は黄土が柔らかく、朝露で表面だけを湿らせている。行き交うのは荷を軽くした行商と、畑へ向かう農夫。丘を巻くように西へ取ると、支流の浅い渡り。足弱の母子が先に立ち往生していた。

「杜、荷を一時降ろせ。先に母子を通す。」白起が言う。

「殿、列が伸びますが。」

「伸びた列は、あとで息を合わせればよい。心の伸びは、合わせづらい。」

白起は母子の背を押し、足場に石を増やした。

「渡りは足より先に、心を落ち着かせる。」

「……ありがとうございます。」母親の瞳が薄く潤む。

「星の人は、優しいのですね。」

「星は無言だ。優しいのは人だよ。」白起が笑うと、蒋も照れくさそうに頷いた。

午前いっぱい歩き、丘陰の茶屋で湯をもらう。女将は丸顔で、声が明るい。

「西は乾きますよ。喉の準備は喧嘩の予防だよ。」女将は湯を注ぎながら言う。

「喧嘩は水で弱まる、覚えました。」蒋が湯呑を両手で包む。

正午が近づくと、白起は茶屋の裏手の平らな場所を借り、竹の影をまた測った。朝より影が目に見えて短い。蒋が刻みを読み上げる。

「朝の影、十三寸。正午、七寸。」

「よし。」白起は小さく頷いた。

「七から六に近づくほど、太陽は高い。季節は春へ寄る。」


影の長さを日々記録すると、太陽の高さ(高度)の変化が見える。春に向かうと正午の影は短くなっていく。簡単な影の記録でも“暦の遅れ・進み”を実感できます。白起たちはこの素朴な方法と、のちに上邽で設置する本格の圭表を組み合わせ、暦の調律を図りる。

午後は風が変わり、乾いた砂が靴の縁に溜まった。黄土の道は軽く崩れ、列が微かに波打つ。杜が拍を短く切り、蒋は後尾の紐の緩みを見て走った。低い雲が光を拡散させ、地物の輪郭が少し眠い。

夕刻、村の外れの桑の木の下で短い休み。蒋が空を仰いだ。

「殿、今夜は月が細いはずですが……おや、月の暗い側が、うっすら見えます。」

白起は目を細め、声をひそめた。

「――三日月の抱く薄明。闇の面、かすかに透く。」

それだけ言って、しばし黙す。袖の内側の小紙に、短く書き付けた。
川の面が日の色を返すごとく、地もまた光を返すや――未定

細い月の夜は、暗い面がほの見えることがある。理由を定めず、そのまま記すのがよい。旅では、薄明の輪郭が澄めば空も澄んでいることが多い。

夜、風は弱く、星の輪郭は硬い。白起は南の空の低い方へ指を伸ばした。

「蒋、あの赤い星が“心”だ。心宿の主。今はまだ低いが、夏へ寄るほど高く昇る。」

「心宿……赤いのが目印ですね。」

「二十八宿は、月の通い路に沿った目印の鎖だ。」白起は続ける。

「すべて覚えずともよい。旅なら“昴”“心”“角”の三つを押さえれば道に迷わぬ。昴は群れ、心は赤、角は春の田の端だ。」


二十八宿は、月が巡る道すじに沿って置かれた“目印”。すべてを知る必要はなく、**昴(群れ)/心(赤星)/角(田端)**のような“覚えやすい印”から手に取るのが古来のやり方である。

観測を終えると、白起は星文の書式に、日と時、風の向き、影の長さ、見取りの星を書き入れ、余白を広く残した。言葉は短く、数はきちんと。茶の香がまだ湯気の中に立っているうちに、火を小さく落とした。

翌朝は、少し騒がしかった。列の前方で荷馬が石に蹄をかけて尻餅をつく。若い下働きが慌て、紐が絡まる。白起は遠くから声を張らず、近づいて手を出した。

「結び目をひとつ減らせ。紐は短く、理は長く。」

「はい!」

馬が立ち上がると、白起は腹帯を一穴だけ緩めた。

「坂の前は息が要る。帯も人も、締めすぎると続かない。」

「殿。」杜が囁く。「関所より先の村で、心宿犯月の噂が流れているとか。」

「噂は風より早い。」白起は頷いた。

「今夜は“寄り”がある。見だけを渡す支度をしよう。」

昼、谷の小さな祠に寄る。司が困った顔で迎えた。

「昨夜、若い衆が“赤い星の上を月が行く”と。凶の字を、と求められまして。」

「凶の字は、みだりに書くべきではない。」白起は笑みを崩さず、布を広げる。

「今夜のを渡す。風の向き、月の高さ、心の位置。これでよい。」

司は安堵し、周りの女たちの肩が下がる。蒋は星文の空欄に「寄り(腕を伸ばし指一つ半)」と静かに書き添え、杜は灯立を少し磨いて、祠の顔を立てた。


寄り——月がある星に近よる夜。腕を伸ばして指の幅で隔たりを量ると、誰にも伝わる。わけを決めず、今夜の姿を人に渡すのが肝要。

夜、宿泊する村の会所の庭で観測。漏刻の滴りを蒋が数え、白起が低く合図する。月は白く、心は赤く、重ならず、ただ近い。

「近い、だけです」蒋がはっきり言う。

「近いなら、安心だ。」司が繰り返し、顔に笑みが戻る。白起は“凶”を一度も口にせず、風の弱いこと、雲の薄いこと、犬が一度吠えて黙ったこと――さわぎ立てぬ徴だけを静かに積んだ。村の空気は、ほどなく落ち着いた。

翌日、丘陵を越えると黄土の台地が広がる。風は乾き、遠目はわずかに白む。道端で若い商人が、水の壺の口を濡れ布で覆っていた。

「旅は喉と関所が難所で。」商人は笑って壺を差し出す。

「今日は影の縁が、あまり鋭くありませんな。」

「空の肌が薄く白んでいる。」白起は壺の光を見た。

「雲が見えずとも、光がほどける日がある。そんな日は影の縁が柔らぐ。」


霞の日は、遠いものの縁どりが鈍くなり、影の輪郭も刃のように立たない。理屈は言わず、影の硬さを目安に晴れ具合を読むのが旅の常。

正刻、影は七寸と少し。春への歩みは確かだ。午後、低い丘の向こうからゆるい砂塵が来る。白起は列を縮め、口と鼻を布で覆わせる。

「蒋、星文は袋へ。杜、柱の先に布。細かな配慮が旅に安心を与える

砂塵はほどなく収まり、空はふたたび薄灰へ戻る。夕刻、西の低い空で、白起が指した。

「細い月のそばに、明るい星がある。太白だ。暮れの空に出る時は長庚ともいう。」

「太白……月に寄り添って見えますね。」蒋が見入る。

白起はただ頷き、余白に小さく記す。
太白は日と近く行き、暮と暁に顔を見せる


太白は暮や暁にひときわ明るく見える星。暮の空では長庚、朝の空では啓明と呼び分けることもある。わけを定めず、いつ・どの方角に出たかを記すのが肝心。

別の日、渭水の支流を遡る細道で、若者三人が道の端に立った。剣はないが、目が尖っている。杜が一歩前に出、白起は列の拍を落とした。

「おや、荷が多いな。」ひとりが言う。「商売の途中かい?」

「天文官吏の者だ。」白起は柔らかな声で答えた。

「待つべき時に、待ちつづける者。風の向き、影の長さ、刻。それだけを書く。」

「待つための……何だ?」若者たちは拍子抜けし、目の尖りが緩む。どうやら商人の荷を狙っている盗人のようだ。しかし、こちらの貧相な荷を予想したのか、旨みを感じなかったのか、塞いでいた道を開けた。

「道は混む。譲る時は譲る。譲れぬ時は、今の姿で説く。」白起は続ける。

「今は君らが先に。次の分岐で我らが先に。史にも、そう記しておく。」

彼らが去ると、蒋が肩の力を抜いた。「殿、山賊の一味でしょうか?冷や汗が出ました。」

「おそらく、そうだろう。人の荷を欲しがるのは天の理ではない。邪の理だ。いつの日か逆流が彼らを襲うだろう。」

夜、川原の小石が白く冷え、星はささやくように明るい。白起は昴を指し、蒋に“ぼやけぬ見方”を教えた。

「昴は、正面から睨むと粒が減る。目をわずかに外して、気配で捉えよ。」


暗い星は、視野の端のほうが見えやすい。遠くの火を真ん中で見張らず、気配で捉えるのと同じ。旅と観測は、息の長さがものを言う。

白起は天文実務はなかったが、行軍中の観測経験が活きていた。暦の知識も軍事行動には必須であり、民の農耕期間を考慮した進軍が求められる。軍人と天文官の相性は意外といいのではないかと思い始めていた。

ひたすら天を観察する公務と勝利をだけを求める軍事。根本のところでは徹底性がものをいう。これからは天文への執着心が成功をもたらすだろう。

次の日の午前、丘の陰で小雨を凌ぐ。杜は荷を覆い、蒋は布と筵を重ねる。白起は雨粒を掌で受け、ひと呼吸だけ見つめた。

「長引くほどの粒ではない。雲も厚くはない。風もさほど強くない。」

茶屋で雨宿りしていると、官の書記に似た男が入ってきて、白起を二度見した。名は呼ばず、互いに湯を掲げる。

「道中の星文を集めています。昨夜の気象はどのようなものでしたか?」

男が控えめに言う。さらに、

「報告の文には凶字を控えるよう、触れが出ておりますので。」と付け加えた。

「さようか。政に用いる天文なら尚更の行いだな。」白起は頷いた。

「**見を渡し、言を抑える。**それで人が落ち着くなら良いこと。」

男は安堵し、一つの竹簡を出した。

「影、風、雲、時、目印星――最後に“所感”を一句以内で。」

「所感は空欄でよい。」白起は笑って受け流す。

「ただ昨夜の気象だけを記してほしい。なるべく主観は排除したい。」

「はあ。」書記は腑に落ちない様子で竹簡に書き付け、茶を飲み干し出て行った。

午後、雨は上がり、雲の隙間の太陽によって影は戻る。正刻の影は六寸半。春は近い。

さらに数日、旅は続く。黄土の段々畑に早い鍬音が鳴り、羊の群れが白く斜面を動いた。宿場町の小さな市で、蒋が天秤を覗き込む。

「白起様、天秤は美しいですね。点をひとつ移すだけで釣り合いが変わる。」

「天秤は“解”の道具だ。」白起が応じる。

「“見”の道具は、影と刻。釣り合いは道が担い、拍は心が担う。」

「咸陽にいた頃、よく市場に出向き、食料品の買い込みで重宝していたのを思い出します。今では遠い昔のようですな。」

杜がしみじみと呟く。

「まだ咸陽に帰れない訳ではありませんよ。」

蒋がその場を取り持つように抗弁する。確かに左遷という名目だが、王の腹の中は分からない。従者の者はこのまま隴西で骨を埋めるとは思っていない。白起もそう思っていたかもしれない。

食料品等の買い込みを済まし市を出ると、夕空がいつもより明るく、白起は足を止めた。

「薄い輪が月にかかっている。」

暈(かさ)——高い薄雲の夜に、月のまわりへ淡い輪がかかることがある。古くより、天の崩れの前触れと伝わる。

「明朝は少し崩れるかもしれぬ。どのような気象にも対応できる体勢を整えておくように。」白起は列に伝えた。その日は夜更けまで天気が崩れることはなかった。

だが、予告どおり翌朝は細雨。道はぬかるみ、靴の縁が重い。白起は馬の歩幅を短くし、息の合図を変える。

「**三歩で吸い、三歩で吐け。**乱れる前に整えよ。大股で歩くと足を滑らせる。」

やがて雲が切れ、光が戻る。竹の影は七寸。蒋が小さく拳を握る。「戻りました。」

「戻る日は、よい日だ。このまま乱れずにいてくれると助かるのだが。」白起が答えた。「人の心も、ときに戻る。戻る道筋は、心が示す。」

その夜、風は止み、星は丸みを帯びてやわらかい。白起は**南の高みに至る刻(中星)**を一度だけ確かめ、早々に筆を置いた。長い旅では、観測を増やす日も、減らす日もある。減らす日は、翌日の見を深くするための日だ。


星が**南でいちばん高くなる刻(中星)**は、時刻を正す目安になる。漏刻と併せ、たまに確かめれば足りる。毎夜、理屈を立てるより、今夜の姿を静かに置くのが古い流儀。

旅の疲労も考えなければならない。寝不足は翌日の歩行に影響をもたらし、その夜の天文観測にも誤りが生じる可能性がある。

「今日は荒天に加えて、歩行時間も長くなった。明日は少し出発を遅らせ昼前の出発とする。各々、観測や準備は程々にし、体を休めることに専念せよ。」

白起は家人に言伝をし、今夜の観測を早々に切り上げた。火が小さくなると、周りの息がそろって長くなった。句は胸の中にだけ置き、記録には残さない。白起は星文の端に、ただ一行を添えた。

――上邽に入る前、柱=心/梁=息、まず点検。

隴西の地が着々と近づいていた。

【3】

隴西へ入るほど、土の色は乾いた黄から、ところどころ鉄を混ぜたような赤に移りつつある。踏むと靴底がきしむ日もあれば、昨夜の霧で柔らかく沈む朝もある。低い丘が幾つも肩を並べ、その間を浅い谷が縫う。

谷の縁では榆が葉をほどき、胡桃は芽鱗を重たげに抱えたまま、風に首を縦へ振っている。野の端では艾が匂いを出しはじめ、崖の白い筋目に燕が泥を運ぶ。遠くの斜面を、雉が二度鳴いて横切り、岩の隙で岩兎が短く笛を吹く。空は薄い青で、雲は糸のように細い。風は軽く乾き、衣ではなく肋骨を撫でて過ぎていく。

「隴西の風は、このように吹くのだな。」

白起は歩幅を一つ短くし、蒋と並んだ。

「服を押す風と、骨を押す風は違う。今日は骨だ。」

「骨が押されると、ついつい背が伸びます。」蒋は笑って胸を張る。

「伸ばし過ぎると、夜に痛む。」白起は口角だけで笑い、前を見た。

丘の肩を回るたび、見えるものが少しずつ変わった。麦はまだ背が低く、畦には碧い草がとぎれとぎれに続く。薄茶の黄土の崖には指先のような雨痕が縦に走り、その谷底を細い水が音も立てずに滑る。野驢の群れらしい灰色の背が、風下へじりじりと移り、頭を一つだけ上げてこちらを見る。杜が鼻で笑い、「賢い顔だ」と呟く。

「賢い顔は、腹の都合で簡単に変わる。」白起は言った。「人も同じだ。」

ここまで長い旅をしてきた一行ではあるが、その表情に暗さはなく、皆が凛とした姿で歩き続けていた。目的地が近いということも会話の内容を明るくしていた。

昼前、浅瀬に出た。渡しの向こうに小さな茶店があり、葦簾の向こうで湯の音が続いている。土間の竈には丸い甕が二つ、蓋の合い目から白い息がもれていた。女主人の頬は赤く、袖は短くまくり上げてある。まもなく春ではあるが、室外の気温は存外低く、防寒無しでは苦しい。しかし、女主人は袖を捲り上げ、汗を滴らせていた。

「西へ行かれるのですか?」女主人は湯を柄杓で汲みながら言う。

「粟の粥で腹を満たして、暖をとってくださいませ。家人総出でおもてなし致しますよ。」

「いかがいたしましょう?」蒋が隣から問うてくる。

「ふむ、時間も余裕がある。少し早いが昼餉にしよう。」

蒋が伝達に走った後で杜が進み出てきた。

「殿、到着後に資産の件で少々相談いたしたいことがございます。」

「貧してきたか?」

「いえ、今後の天文官という職を考えた時、これまでと同じ家人を雇うのは難しくなりそうです。しかし、天文官をこなしつつ、副業を上手く軌道に乗せられると事情は変わってきます。」

「お前にはすでに妙案が浮かんでいるのだな。」白起がニヤリと笑う。この男には珍しい表情だ。

「はい、これまでの将軍の経験を活かしたもの、公益に関するもの、土地に関するもの、いくつか考えております。天文官の懐事情と相談しながら進めてまいろうと思っております。」

「これからも存分に頼らせてもらう。」杜が姿勢を正し、辞儀をした。

飯屋で出てきたのは、粟粥に刻んだ葱、上に細く裂いた乾肉がひとつまみ。薄餅は麦粉を練って手で薄くのばし、熱い石に押し付けて焼いたもの。別に浅い椀で羊の骨を煮出した羹、油は細い輪を描き、口に入るとすぐ消える。大皿の端に蕪の膾、酢は強くなく、鼻の奥で柔らかく立つ。

蒋が薄餅を千切り、香りを嗅いでから齧った。「麦の匂いがよく出ています。」

「若い粉だ。麦は調理に幅が出るからいいのですよ。」女主人が胸を張る。

「冬越しの麦を少し挽いて、今日の分だけ生地にします。古い粉は香りが鈍い。」

杜は羹を啜り、目を細めた。

「骨は深く、塩は軽い。あっさりしているが食べ応えは十分すぎますな。」

「旅は飯ありきで歩く。道中に飯の楽しみがあれば、それだけで幸福度が増す。」

白起は薄餅の端を折って粥へ浸した。「重い味は、遠くへは連れていけない。」


粟は戦国の普遍的主食で、旅では湯で伸ばし粘を弱めて喉を守る。薄餅は酵母を使わず短時間で焼く薄パンで、油を使わない日は香りが立ちやすい。羊骨の羹は弱火で長く引き出し、表の油を一度拭うと舌に残らない。蕪の膾は菜種酢と塩に少量の椒を潰して混ぜると、道中の胃にやさしい。

粥で腹を温め、薄餅で口を働かせると、会話が楽に動く。蒋が箸を置き、ぽつりと言った。

「殿、人は、何を背負えばいいのでしょう。軽すぎると落ち着かない。重すぎると倒れる。」

「自分で選べる重みだ。」白起は迷わなかった。

「選べない重みは、人の背を曲げる。選べる重みは、背を伸ばす。――選び方を間違えなければ。そこに正解を求め始めると複雑な話になってくる。」

「では、名は。」

「名を求めすぎると火傷する。」白起は薄餅を二つ折りにし、片側を粥につけた。

「名を求めるがために他者を追い落とし、暴利を貪り、孤独の道に陥る。そこまでして得た名に何の意味があるだろうか。蒋、そこもとは名がほしいのか?」

「申し上げにくいことながら、出世は望んでおります。」

女主人が笑って頷く。「若いうちに名を求めるのは当たり前です。」

「うむ、その名に恥じぬ生き方を心がけることだ。人生の最後に胸を張って死ねるように。」 

店を出ると、風の匂いが少し変わっていた。乾いた草より土の匂いが勝ち、遠くで羊の群れが角を鳴らす。午後、道は谷を離れて台地の上へ上がり、野の端で杏の蕾が一つだけ開いた。崖の割れ目に草の根が食い込み、その上を燕が斜めに切っていく。岩の天辺に鵟が止まり、首をわずかに傾けた。日が傾くと、影が長くなるのが早い。

薄暮、谷が合わさる場所に、もう一軒の飯屋があった。蒸籠から湯気が上がり、粉と葱の匂いに、羊の脂の甘みが薄く混ざる。店主は髭を短く刈り、腕は太く、言葉は少ない。

「今日は何が。」杜が訊く。

「粟飯と葱餅。」店主は指を折る。

「羊の臓を刻んで炒め、胡麻油を落とす。漬け菜は浅い。醪は薄い。」

「夕刻にはなっているが、まだしばらく歩行が続く。ここで軽く食事し休息といたす。」

蒋が伝達にはしり、荷の調整を行う。杜が店主に支払いをする。

「お役人の方ですか?」

「ああ、隴西の上邽までだ。天文官として赴任する。」

「ほお、左様でしたか。上邽は交通の要衝。商業も盛んで活気に溢れていると聞きます。京都からは離れていますが、生活に不自由はないと思われますよ。」

「そのようだな。上邽に行ったことが?」

「ええ、息子が出稼ぎに出ておりまして、その顔を時々見に参るのです。」

「息子は何を?」

「はい、職人をしていると聞きます。工芸品を取り扱っているとか。」

「手に職をつけ、親にも孝行な息子とは。良くできた息子ではないか。」

「ええ、立派に育ってくれました。子供はおりますので?」

「いや、私は独身だ。この先も、な。」

白起の身の上を聞いたためか、店主は少しばかり寂しそうな表情を浮かべた。だが、これ以上は聞く必要はないと思ったのか、店の中に下がり食事の準備に取り掛かった。

葱餅は層が幾つもあり、噛むと油がじわりと広がる。羊の臓は薄く刻まれ、葱と一緒にさっと火を通し、椒の香りで軽く背中を押す。漬け菜は酸がやさしく、醪は舌に刺さらない。蒋は饅でなく餅を選び、箸で層を剥がしては笑い、「雲を一枚ずつ剥くようです」と言った。


葱餅は薄い生地に刻んだ葱を折り込み、層を重ねて焼く。油は少なめにすると香りが勝ち、層を増やすと腹持ちがよくなる。羊の臓炒めは塩で揉んでから湯通しすると臭みが抜け、葱と椒で香を立たせる。醪(濁り酒)は旅先では薄め、眠る前に湯で割るのが無難。

食後、白起は湯をもう一杯だけもらい、掌で温めながら言った。

「実利の話をしよう。」

「実利。」蒋が背筋を伸ばす。

「長い道は、腹だけでは歩けない。」白起は淡々と言う。

「財布の口、食料の分け方、貸し借りの断ち方。腹の次に、ここが静かでないと道は揺れる。どれだけの富豪でも一瞬にして転落することがある。利の使い方は奥が深い。自身のためだけに使うか。他者にも分配するか。」

「どう調理していきますか。」

「まず、日ごとに余白を作る。」白起は湯気を見た。

「金でも、穀でも、言葉でも。詰めすぎると、心身が折れる。これは稼ぐ、節約する、使う、全てに当てはまることだ。つまり、度がすぎると何事もうまくいかないということ。次に、人と物を分けて数える。物は数で動かし、人は心で動かす。最後に、借りを細かく返さない。大きくまとめて返す。細かく返すと、心が細かくなり、道に向かなくなる。人は借財の返還に非常に敏感になる。その心を察してやり、不安をもたせないようにすること。」

杜が頷く。「白様の“借り方・返し方”は、台所でも通じます。白家の家宰を勤めてきた身からすると、利は生きていく上で欠かせません。しかし、求めすぎると苦しくなる。自分の塩梅を知ること。」

「良い理だ。」白起は湯を一口。「道も台所も、静けさが大切な点だ。」

「蒋よ、そなたはまだ若い。しかし、いずれは一人で立つ時も来る。情熱だけでは生活はできない。利の扱いも必要だ。学問と同様に、杜から利のなんたるかを学んでおくが良い。」

「はっ。見に余る光栄です。利の境地、楽しみにしております。」

店を出ると、夜はすぐそこだった。一行はそれからもしばらく進む。今日は険しい道も多く、距離をあまり稼げていない。歩行を早めることもできるが、それほど急ぐ行程でもなかった。

白起は荷の中から短い竹を取り出し、広い平地の端に立てた。蒋が油紙を敷き、漏刻の皿をそっと置く。火は遠くに一つだけ。風は西から弱く吹き、草の頭だけを撫でて過ぎる。

「角が上がる。」白起が東を指した。「そのあとに亢、やがて氐。鎖の順だ。」

蒋が目を凝らす。「角の二つは、並びが横に伸びて見えます。」

「田の端だ。」白起はうなずく。「亢は二つ、間が広く、風が通る。氐は四つ、器の脚みたいに見える。覚えやすい順だ。春は東でこれが持ち上がり、冬の群れ(昴)は西で沈む。人の仕事も、そういう巡りに合わせれば楽だ。」

春の宵、東で角・亢・氐が相次いで昇り、西で昴が沈む。季節の移ろいは、同じ時刻の星の配置の変化でつかめる。

白起はしばらく風を聴いた。「上の風は右から左へ、下の風は左から右へ。」と低く言う。

「草の頭だけが右へ、煙は左へ伸びる。こういう夜は星の輪郭が固い。」

「見え方に、風の段が関係するのですね。」

「星は、人より先に季節を連れてくる。」白起は竹簡に時と影と風を書き、小さく付け加えた。(季節は星を見ることで明となる)

地上付近と上空では風向が違うことがあり、像の揺らぎや透明度に影響する。煙と草の揺れを見比べると、その違いが簡単に見分けられる。

観測を終えると、またしばらく行軍が続く。川沿いを進み、夕暮れに照らされる森林に心を癒される。

日が西に傾くと、隴西の大地はゆっくりと色を変えた。昼間はただの褐色だった丘陵が、
夕陽を受けて赤銅のように光る。凹凸の影は長く伸び、ときおり吹く風が、土を薄く剥いで舞い上げる。

その風にはまだ冬の名残があったが、どこかに、水の匂いが混じっていた。雪を含んだ山脈の向こうで、ゆるやかな融け水が始まっている証だ。

白起は歩を落とし、人々の足元へ視線を落とした。靴底に絡む土は、朝よりも柔らかかった。昼の陽が、地の芯まで温めていた。

道の脇では、若い柳が薄い鞘を裂こうと身を震わせている。中から覗く緑は、冬の殻を押し出すようにふくらみ、細い枝さえ、心臓があるように脈を打つ。

ひゅう、と風の通る音。丘の斜面を、野雉が二羽ほど滑り降り、足を止めてこちらを見た。
警戒はしているが、餌をついばむ嘴の動きは忙しい。厳冬を越え、腹の重みを戻す季だ。

遠くでは、羊飼いの声が風に細く刻まれながら届く。羊の毛は、夕陽を呑み込んで橙に光り、足元の草は、まだ短い。けれど、そこかしこに芽の尖りが揃って立っていた。見つけようと目を凝らせば、春は至るところに潜んでいる。

空の西の端が、茜から薄紫へと変わるころ、一陣の風が白起の袖を持ち上げた。風が変われば、季も変わる。彼はそう思いながら、胸に息を満たす。

空は広い。声は少ない。 だが、土は確かに息を吹き返している。過ぎた季節は戻らないが、戻らぬものは、前へ導く。それが春の力だ。

白起は遠く、雲の切れ間から顔を覗かせた最初の星を見上げた。その白い点は、日中見たどの光よりも強かった。夜が降りる前に、約束のように輝きはじめる星がある。

明日は、今日より歩きやすい。土がそう言っている。白起はゆっくりと、列の先頭へ歩を進めた。

今夜は川沿いの緑が多い平地に野営地をとる。蒋と杜に荷の確認をさせ、女中には夕餉の支度をさせる。調度品の多くは処分してしまったが、旅先でも簡単な自炊はできる。市場で仕入れた原料を女中が手早く仕上げていく。

篝火は小さく、鍋の水がほつほつ鳴る。女中が薺と葱を刻んで粥に落とし、胡桃を砕いて少し散らす。蒋が両手を火にかざし、話を切り出した。

「白様、さきほどは実利の話でした。学問の話も聞かせてください。」

「学問は、遠くの役に立つ。」白起は即答した。

「目の前の役には、すぐには立たない。だから人は怠ける。だが、遠くの役に立つものが一つでもあると、人は呼吸が深くなる。それが学問の値打ちだ。人は即効性を求める。当然だ。当日に効く薬と1年後に効く薬では選ぶ方は明白だ。」

「遠くの役とは。」

「それはその人の求める学問によって違ってくる。医学、法学、農学、もちろん天文もだ。」白起は粥を一口。

「今夜覚えた星の順を、明日の畑の刻にあてる。そういう橋渡しができるのが、学問だ。知は人を変化させる。悪にも良にも。用いる人間の器量が試されるということだな。」

「難しい言葉は要りますか。」

「要らない。」白起は笑った。

「難しい言葉は、使う側の都合だ。覚えやすい名と、たしかな数で足りる。言い回しより、心の合い方だ。難しい言葉を使うと有能に見える。しかし、蓋を開けてみると存外役に立たないこともある。その学問への門を狭めたい者もいる。」

杜が薪をひっくり返し、火花が低く散った。

「学問も台所も、心で出来ている。」

「そう。」白起は頷いた。

「心は、目に見えないところで持つ。誰かの役に立ちたいという心が人を大きく成長させる。そうだろう?女中殿よ。」

「ええ、白様。心で料理をする。その通りです。」

夜が深くなるにつれ、風は薄く長くなった。火の匂いはすぐに空へ解け、笑い声は焚き火の輪の内側にだけ留まる。白起は皆の顔を見渡し、長くは語らず、しかしよく聞いた。話題はいつの間にか、家のこと、借りのこと、好きな食べ物のことへ移った。

「甘いものは?」蒋が女中に振る。

「干し杏がいちばん。」女中が即答する。

「酸が先に来て、甘さが遅れてくる。遅れて来るものは、長く残る。」

「星も同じだ。」白起が笑った。「遅れて届くものは、長く残る。」

「しかし、人の名はどうであろうか。星ほど長く残る人はいるだろうか。」

「白様はそれほどの偉業を成し遂げました。」

蒋が語気を少し強めて述べた。杜と女中の凛も頷いている。誰もが白起の功績を知っている。白家を守ってきた人々だ。私的な白起を誰よりも知り抜いている。蒋は白起に仕えて日は浅いが、日毎に知も徳も吸収している。あたかも白起から全てを後継するように。

「偉業か。どうだろうか。所詮、私は異形のものでしかなかった。それゆえに正常の者には扱えぬ腫れ物のような存在になった。そのようなものが星ほど長く残るとは思えぬ。」

「白様がそうであるなら私などはどうなりましょう。」

蒋が続けて弁護している。白起はそれに応えて、

「そもそも名や功績を後世に伝える意義とは何であろうか。何を求めて残す。死は全てを無に返す。残るものはない。名が残っているかどうか、死後の私は確かめようがない。」

「それは…」蒋の言葉に張りが無くなる。

「今の生を真っ直ぐに生きることだ。ただ風に乗るように。働く舞台は地でも天でも構わぬ。置かれた場所で大いにやるだけだ。」

「置かれた場所で…。」

名声の浮き沈みの儚さを誰よりも知っているのは白起である。強く輝いていた時期もあった。上昇に上昇を重ねてきた。しかし、消える時は一瞬だ。儚き夢のように。だが、まだ天がある。仕事は残されている。白起は弱くなった焚き火に己を重ねるように自省した。

翌朝、白い息が草の先に残り、太陽が顔を出す前に鳥が三度鳴いた。台地から緩く下り、広い野へ出る。榆の若葉は昨日よりわずかに増え、胡桃の芽は殻をわずかに割って薄い緑を覗かせる。遠くの斜面に羊の群れが白い雨のように散り、鵟が輪を描いて見下ろす。畦では、季節の遅さを見計らう農夫が鍬を止めて空を仰ぎ、短く言った。

「あと一度、雨が欲しい。」

「昼の影がもう一分短くなれば、土の目が開く。」白起は竹の刻みを確かめた。

「待てばよい時もある。季節の過渡はすぐそこだ。春の温かみが待っている。」

「今回の春はのんびりしていますね。なかなか気温が上がらない。」

後ろから蒋が声をかけてくる。

「種まきの季節だ。農民は待ち焦がれているだろう。天文官の職にあれど、気象を操ることはできない。ただ、あるがままを見るのみ。」

「指揮官も戦場をありのままに見ることが求められますか?」

「無論。少しでも好都合な解釈を導くと死が待っている。」

「厳しい世界です。」

「お互いに。」

 昼、渓のほとりの茶店で休む。今日の葱餅は層が厚く、油は少ない。干し杏は昨日より柔らかく、胡桃は脂がよく回っている。女主人は胡桃の割り方を見せ、石の上で軽く叩き、殻がひび割れる音を楽しむ。「この音が、春の音さね」と笑う。蒋は胡桃を指先で割り、中身を細かく砕いて粥に落とした。

「香りと食感が豊かになります。」と蒋。

「芳醇な香りと軽快な食感は、生活に弾みをもたらす。」

白起は言い、中身の薄皮を親指で剥いて「苦みは少しだけ残す。」と付け加えた。


胡桃は隴西の名産。殻は石に押し当てて軽く回すように割ると、実が崩れにくい。薄皮は渋みが香りを締めるので全部は剥かない。干し杏は水で戻してから刻んで粥に落とすと、酸が丸くなり、食べやすくなる。

午後、風はまた変化した。草の先だけが右へ揺れ、煙は左へ流れる。白起は歩を落とし、一度だけ振り返る。歩いてきた道は、黄土の柔らかい線で遠くへ消え、ところどころに人の影が小さく残っている。次の丘を越えたとき、蒋が息を呑んだ。

「白様…。」

遠い褐色の台地が切れて、広い盆地が開く。田の筋が平に引かれ、畦の石は乾いて光る。屋根の群れが薄く重なり、土の城壁が低い線で町を囲う。煙がいくつも、糸のように立ち上がっては風に解ける。上邽だ。まだ音は届かないが、色と形だけで、そこが町であることがはっきりわかる。

白起はしばらく黙って見た。門は見えない。だが、門の影の長さが目に浮かぶ。冬よりは短く、夏ほどではない。胸の内で、心の余白が一枚増えたように感じた。

「町に入る前に息を整え、心を静める。」白起は静かに言った。

「走らず、遅れず。初日は、心を整えるだけで足りる。」

「柱は、明日ですね。」蒋が笑う。

「明日だ。重要なことは体を休めてからじっくり考えれば良い。」

白起も笑ってうなずいた。「柱は一本でいい。天文という柱。梁はそのあとだ。天文を助ける知識や人材。」

凛が肩の荷を少し持ち替え、「白様、上邽の粥は、どんな味でしょう。」と冗談めかして言う。

「さあ、どうだろう。しかし、凛の味に勝るとは思えないな。」白起は短く答えた。

「今は何も持たぬ薄い身の上。何でも受け入れられる。濃くするのは、あとでいい。」

風が一段と乾き、衣の裾が軽く跳ねた。鵟がひとつ輪を描き、遠くで犬が二度吠えた。町の輪郭は、見るたびにわずかに広くなる。白起は一行を振り返り、声をかけた。

「行こう。――息を合わせて。」

誰も大きな声を出さなかった。かわりに、歩幅がひとつだけ揃った。長い道の先の町は、まだ遠いが、もう目の前でもあった。空は薄い青で、雲は細く、風は骨を撫でるだけで、服を揺らしすぎなかった。皆、黙って頷き、足を前へ送った。

【4】

城壁は歩くごとに高さを増し、土に日が染み込み、影が濃くなる。遠い褐の線だったものが、手の届く輪郭になり、積まれた日々の層のように横たわる。門の上では、槍の穂がゆっくりと角度を変え、見張りの兵がこちらの歩を数えているのがわかる。町の匂いが風に混じる。焙った穀の薄い甘さ、湿った革のにおい、家畜の鳴き声。音も粒になる。臼をつく鈍い拍、子の泣き声、遠いところで鍛冶槌の鉄が乾いて跳ねる音。

「白様。」蒋が一歩、半身を寄せる。「門のところで名乗りを。」

白起は頷いた。歩幅を変えないまま、息を二つに割って吐く。凛が肩紐を持ち替え、杜が黙って袋の結び目を確かめる。足音が土に吸い込まれ、城門の影に冷えが立つ。門番の兵が二人。槍は立てたまま、だが目だけが獣のように動く。

「何者か。」

蒋が前に出ようとしたが、白起が掌を軽く上げて制した。白起は歩を止め、影の中で声を整えた。

「秦国・天文官、白起。上邽着任につき、参った。」

兵は顎をわずかに動かして合図し、片方が竹簡を差し出した。印を求める所作が早い。秦のやり方だ。言葉よりも印、印よりも簿。白起は旅嚢から封皮の粗い包みを取り出し、天文官の押印と郡府の回付印を、順に指で示した。朱の色は路塵で曇っているが、形は欠けていない。

兵の目が一瞬だけ和らぐ。

「失礼つかまつった。白起様、上邽は雨を待っております。星を読む官が来たと、城の者は皆、耳をそばだてておりました。」

凛が小さく笑うのが、白起の横顔の影に動いた。「お耳の早いことですね、白様。」

白起は兵の顔を見ず、門の上の陰を見上げる。

「星は夜に、雨は空に問う。今は風を見る。」

兵は首を縦に二度動かし、道を開けた。槍の穂がわずかに傾き、城門の喉が彼らを飲み込む。土の匂いが深いところから立ち上がり、日なたの乾いた空気と混じる。門の裏側は一瞬、音が薄くなる。外の風と内の風が交わらず、息だけが胸の中で響く。白起はその薄い静けさを一枚、心に置く。境を越えた印として。

門を抜けると、音が戻る。戻るというより、溢れる。車輪の軋み、牛の鼻息、売り声の抑揚。道は城壁の陰を離れ、土の平に広がる。屋根が低く連なり、軒先には縄で干した草束が吊るされ、土間の奥で火の赤が揺れる。市場は遠くからは見えなかったが、音でわかる。物を測る音、人の値踏みの声。白起の肩の力が、わずかに抜ける。戦の地ではない。生きるためのやりとりが、ここでは主役を務める。

「白様、まず官にご挨拶を。」杜が低く言う。「郡府、それから県府へ。」

「順がよいな。」白起は答えた。

「天文は郡を跨がぬが、暦は郡を跨ぐ。郡府に印を、県府に顔を。」

凛が市場の方角に首を傾ける。

「白様、あの香りは麦焦がしでしょう。上邽の粥には入れるのでしょうかね。」

「後で確かめよう。」

白起は短く返し、眼を遠くへやる。屋根と屋根の間、そのさらに向こう、城塁の上に、方形の小屋が見えた。土を固め、上に木の欄。人は立っていない。昼の観測などないのだが、小屋は空に向けて開いている。方角は正しい。北の線が、城の通りの線と合っている。白起は無意識に、足を半歩だけ延ばした。視線が吸い寄せられる。台の縁に、古い木の変色が見える。風雨に晒され、指の触れたところだけが浅く磨かれているはずだ。そこに夜の跡がある。

「白様。」蒋の声が現に引き戻す。「郡府はあちらです。」

隴西郡府は町の中央よりやや北寄り、高台の裾に建っている。土壇を固め、その上に木と土の楼。門は二重、控えの兵が槍の石突きを整列させて立つ。門吏は白起たちの衣の埃を見、荷の少なさを見、それから顔を見た。見慣れぬ顔は警戒の種だが、竹簡と印は別だ。

「上邽に天文官着任。白起と申す。」

白起が差し出すと、門吏はすぐに受け取らず、手形を受ける手前で一度、視線を白起の目に上げた。言葉は発さない。秦の吏は、余計な言を嫌う。白起も何も言わない。沈黙の間に、印の朱の重みが竹簡の裏へじわりと沁みる。

「承った。」吏は短く言い、内へ通す合図をした。廊の内側は土間が広く、帳簿の机が並び、筆の音が雨のように細かく続いている。戸棚には木簡が段に積まれ、腰幅に仕切りがあり、官ごとに色の違う紐が掛かっている。郡丞の部屋の前で、吏が一礼して去った。

郡丞とは郡守の補佐役。つまりは最側近に当たる。

「白起殿。」郡丞は痩せた男で、目が冷たい。礼は正しいが、温はない。

「咸陽よりの回付、受領した。赴任の話も来ている。」

白起は一礼した。「暦の配布と観測報告を、期日に遅れず。」

「遅れたことは。」郡丞の声が脇へ逸れる。

「史部の下文には記されていない。代わりに、范相の小印が押されている。」

凛がわずかに目を細めたのを、白起は見ないふりをした。郡丞は続けた。

「上邽の天文台は、東の城塁の北側にある。天文の結果は郡府へ。郡から咸陽へ。道は二つに見えて、一つだ。白起殿はその一つの道を、詰まらせないよう。天文の遅れは政の遅れとなる。天文への勤めが王様への勤めになることを忘れぬように。」

「はっ。心得ました。」白起は丁寧に言った。「私は、ただ、見て、書く。」

郡丞の口角がわずかに動いたのは、笑いではない。納得と、距離。白起はその距離を好む。近すぎる官は、後で距離を欲しがる。彼は白起の無駄のなさを気に入ったのかもしれない。新人の官吏はとかく上級官吏に取り入ろうとする。初日から賄賂を渡すような輩も存在する。しかし、白起は忠誠と勤勉だけを伝えた。そこが彼を満足せしめたのだろう。

「早速、明日から公務にと言いたいところなのだが。」

郡丞が渋い顔で言った。

「実は咸陽とこちらで連絡の手違いがあり、3ヶ月の重複任用になってしまったのだ。前任の天文官はあと3ヶ月公務を続ける。その後で白起殿の公務が始まる。つまりは、三月の間は無給になる。こちらの手違いだ。申し訳ない。本来なら、埋め合わせに俸給を出したいところなのだが、何分、今は財政が苦しい。蓄えはどのくらいある?」

「慎ましく暮らせば、三月は何とかなりましょう。」

「そうか、では公務は三月後。夏ごろから天文を始めてもらう。」

「承知。」

郡府を辞し、県府へ向かう道は市場の縁を通っている。露店では干した野菜と乾した魚が並び、土器の口に布の蓋がのせてある。値段のやりとりは声が低い。秦は吠えて値を切らない。互いの目つきで決まる。

「白様、三月のやりくり大丈夫でしょうか。郡府といえども怠惰ではありませんか。大事な赴任の手続きですよ?」

蒋が憤然と言った。

「ふむ、まあどうにもならぬことだ。風に任せてのらりくらりとやるさ。」

白起は気にすることもなく言った。

「蓄えは十分ありますし、咸陽からの送金、ここでの自給を慎ましくやれば、三月くらいはどうにでもなります。」

杜が皆の不安を払うように述べる。

「うむ。せっかく遠くまで来たのだ。心身を休めつつ、公務の準備をすれば良い。」

凛がひそやかに言う。

「よい町です。声が荒くない。誰しもが市場の原理を守っていますね。」

「荒くする声は、外へ漏れる。」杜が言った。「上邽は壁が耳だ。どこから漏れるか分からない。」

白起は足を止めない。だが目は止まる。大路から外れた細い路地に、夜の水の跡が濃く残っている。井戸の位置、糞壺の位置、火を焚く場所。鼻で読む町だ。背の低い門をくぐり、県府へ。郡府より規模は小さいが、帳簿の数は似ている。県令の部屋には、墨と薬草の混じった匂いがする。筆が乾くのを嫌って、香を焚くのだ。

「白起殿。」県令は年配で、額に深い横皺がある。

「上邽は疎い。これまでも天文の仕事は継続されてきたが、咸陽には及ばない。白起殿が来たならば百人力。どうかご助力くだされ。」

「微力ながら尽力いたします。」白起は静かに答えた。

「上邽は郡府と県府が重なる稀な町です。いわば二重の権力。これまでも二つの間で静かな闘争が繰り広げられてきました。これは致し方のないこと。一つの組織に長は二人いらぬ。白起殿も言動には注意なされよ。」

「御配慮、大変嬉しく思います。それでは。」

県令は笑い、すぐに笑いを消した。

「白起殿の公邸は東の区画にあります。少しでも天文台に近い方が良いかと思いましてな。もとは文吏の宿。広くはないが、雨を凌ぐ。荷を入れたら、天文台を見に行くがよろしい。夜の前に、足の置き場を知ることです。」

「はっ。」

外へ出ると、日はすでに傾き、屋根の縁が長く地面に引かれている。白起は天文台の方角を見直し、方位を胸の中に置いた。北の線。風の筋。丘の高み。夜になると、空の動きが足の裏から伝わるように感じる。そのために、昼のうちに土の斜面の傾きを覚える。

公邸へ向かう道は、石の少ない土の道だ。軒の間を通る風が、夜の支度を始めている。門の前には古い桑の木が一本、影を落としている。門扉は片方がわずかに歪み、主木の頭が二つ、浮いている。凛は門口で立ち止まり、袖で木の粉を払った。

「いい門です。」凛が言う。「長く大事に使われてきたようです。」

蒋が笑う。「星のように長く存続してきた公邸とは縁起がよろしい。」

「これからは白家の公邸。微力ながらお仕えいたします。」

凛は改まって言い、荷の紐をほどき始めた。

「白様、荷は土間に。寝具は奥へ。壺は陽の入らぬところへ。」

凛の声はいつもより少しだけ高い。新しい場所では、声が場所を探す。杜は無言で頷き、柱の歪みを見、床の沈みを足で測り、二度踏んでから荷を置いた。蒋は壺の蓋を開け、乾き具合と匂いを確かめ、蓋を閉めてから位置を変えた。白起は土間の中央に立ち、四方を見た。壁の土盛は厚く、日が入る角度は浅い。夏には涼しいが、冬は堪える。風の入り口は二つ。出口は一つ。息は出るか、戻るか。夜の息は、戻るべきではない。

「白様。」凛が声をかける。

「台所は生きています。竈の灰がよい色をしています。前の住人が火をいじれる人だったのでしょう。」

白起は頷く。

「火が残っている家は、家の形が残っている。」

凛は笑い、「では早速、粥の形を。」と言って竈の灰を指で崩した。灰の下には、まだ温の残りがある様に感じた。凛は薪を少しだけ足し、水の壺の口に布を敷いて、砂をよける。鍋が土間の上で鳴らないよう、三点で据える。手が、よく覚えている。家が変わっても、手は同じ動きをする。

「白様、座を。」杜が、竹の筵を敷いた。座る場所は土間より半段上がった板間。背を壁に近づけすぎると湿が来る。半身だけ壁に寄せ、背の温度を測る。白起は腰を下ろし、息をひとつ入れて、細く出した。家の息と混じり合うのに、時間は要る。焦ると、家の側が戸を閉める。

蒋が外に出て、家の周囲を観察する。

「白様、これだけの庭があれば自給の畑ができますよ。」

嬉しそうに蒋言う。

公邸は官吏の宿ということもあり、通常の農民の3戸分はある土地の広さだった。母屋に蔵、井戸も完備されている。公邸の周りは柵で囲まれ、正面には門も設置されている。四人で暮らすには十分過ぎるほどに広い。各自が一つ部屋を持ち、食事の居間、土間、接客室まで作れるだろう。

(さらに書斎を作っても良いかも知れぬ。)

軍の陣容を構成するかの如く家の配置を考える。これからはここが本陣となる。天文官の采配を行う主戦場に。そのためには、天文の学をさらに深める必要がある。

(在野の天文学者を集めることはできるか?我が家で勉強会のようなものを開く…。)

凛の鍋から、薄い匂いが立つ。水に穀粉が溶ける匂いだ。市場で嗅いだ麦焦がしの香りとは違うが、灰の下に残っていた火の記憶が、匂いを柔らかくする。凛は匙でひと混ぜして、火の位置を変えた。火は移る。移らせるのではない。居心地の良い方へ、勝手に移る。人も同じだと、凛は思っている。

白起は立ち上がり、戸口に立った。門の向こうに、薄い夕の青が見える。天文台の方角を、もう一度見る。昼の台は、ただの台だ。夜の台は、空の一部になる。その違いを、今夜、足で確かめる。白起は掌を柱に置き、木の温度を測った。昼の熱が、指の腹にわずかに残る。夜になると、木は冷え、空気は軽くなり、音は薄くなる。そうなってから、出ていく。

「白様。」凛が粥の鍋から目を離さずに言う。

「上邽の粥は、どんな味でしょう、と先ほど申し上げましたが。」

白起は振り返らず、口が少しだけ笑う。「凛の味には及ばぬだろう。」

「それならば安心。」凛の声が明るい。

「薄い身の上には、薄い粥が似合います。濃いのは、将来のために。」

白起は門口から外を一瞥し、座へ戻った。「3ヶ月の猶予がある。杜よ、この間に準備を整える。家人に不足があれば雇い入れよ。無給の間の畑の耕作、咸陽での資産の運用、上邽での投資話、それにそなた子飼いの士を何人か町で見つけておけ。言わば諜報の士だ。」

「承知。」杜が答える。

「それとこの町で在野の天文学士がいないかも探れ。公務までの時間で勉強会を開き、天文の知識を深めたい。」

「それは大変な志で。」杜が驚きを隠さずに言う。

「並の天文官では終わらぬ。やるからには徹底的に。」

杜の背筋がひやりとした。一瞬、軍人白起に戻ったかのようだったからだ。

「その志、成就のため尽力いたします。」

「頼むぞ。」白起は短く答え会話を締めた。

蒋が扉の裏側を撫でて言う。

「門は、外からは固いが、内からは柔らかい。音がよい門です。」

「音がよいなら、家は人を呼ぶ。果たして誰が参るのか。」

凛が鍋の蓋を少しずらし、湯気の逃げる角度を変えた。

「白様の星も、これから輝きを増します。」

白起は眼を閉じた。暗いところに、昼の台の輪郭がよみがえる。方角と、丘の形と、風の道。夜の星は、遅い。遅いから、嘘をつかない。遅いものの言葉は、胸の底に沈み、後になって浮いてくる。速い戦の言葉は、耳を叩き、すぐに消える。ここでは、遅いものの言葉を、聞く。

外で犬が一度吠え、すぐに息を吸い込む音がした。隣家の戸が軋み、誰かが水を汲む。遠くの鐘の音が、一度だけ。町は夜の支度をしながら、まだ昼を捨て切れずにいる。白起はゆっくりと眼を開け、凛の前に置かれた椀を受け取り、湯気の形を見た。湯気は、白い線を描き、柱の影にほどける。

「白様。」凛が座りながら言う。「落ち着いた後の一口目は、どうですか。」

白起は頷き、椀の縁に唇を当て、舌の先で熱の輪郭を測ってから、粥を迎えた。薄い。水と穀と塩の、一番遠いところで出会った味だ。だが、灰の記憶がある。火が、人の手の温度を覚えている。白起は二口目を静かに重ね、椀を少し傾けた。

「良い。」白起が言った。

「心が温まる。咸陽からの凍るような旅路も融解していく。」

凛が満足そうに笑う。杜は無言で椀を空にし、蒋は湯気で鼻の奥を温めながら、目を細める。誰も大声で話さない。家の中に、薄い声が幾つか、重なっては消える。外は夜に向かう道の上にあり、内は夜を待つ座の上にある。誰しもが疲れているはずなのにそれを表に出さない。

粥が半ばほどになったところで、白起が椀を置いた。

「蒋、門を一度閉めよ。音を聞く。」

蒋が立ち、門扉を押す。軋みが低く、最後に主木の頭が一つ鳴る。鳴り方は悪くない。外の足音が近づき、止まり、遠ざかる。音の流れがわかったところで、蒋は戻る。

「夜は、風が南へ落ちます。」蒋が言う。

「音は北の角に集まる。門の傾きは、明日の朝、少し削ります。」

「よい。」白起は頷いた。

「夜は、天文台へ行く。足の置き場を、今日のうちに見ておこう。」

凛が椀に湯を注ぎ、白起の前に置いた。

「白様、夜の前に、息をもう一つ。体は熱く、心は冷静に。星に合わせて。」

白起は湯を両手で包み、掌に移る熱を感じた。その熱が、骨の薄いところへ入っていく。ここでの夜は、咸陽の夜とは違う。城壁の影が浅く、風の音が長い。犬が遠くまで吠え、吠えた声が戻ってくるまでに、息が一つ、二つ、入れ替わる。

「行こう。」白起は椀を置き、立ち上がった。「――息を合わせて。」

凛は鍋の火を落とし、蓋を閉じた。杜は灯りを低くし、蒋は縄の端を腰に巻き直した。門を出ると、夜の青が薄く町を覆い始めている。空はまだ星を出していないが、台のある丘の縁だけが、暗さの中で形を持っている。白起は一歩を出し、土の傾きと、靴の底のわずかな軋みを聞いた。家を出る音と、町へ入る音。二つの音が重なり、ほどけ、夜への道が開く。

夜は、町の表面から静かに剥がれていった。昼の残響は軒の端に薄く留まり、土の道の上では足音が柔らかい器に入れられたように丸くなる。上邽の夜は、咸陽の夜よりも音の順序が違う。まず風が低く通り、次に家畜が息を吐き、遅れて人の声が来る。白起は歩幅を縮め、足の裏と土の間にひとつ余白を挟むように歩いた。丘の方角は変わらない。台の黒い四角が空の薄い青にわずかに触れている。

台には、低い柵と、竹の格子で囲った小屋がひとつ。夜留の番が火を細く保っている。番は二人いて、一人は若く、一人は髭の白い男であった。火が白起たちの影をほつれさせ、小屋の壁に貼りつけた。若い方が不意に立ち上がり、白起たちを見て、訝しむ。

「どなたか。」

「本日こちらに到着した天文官の白起だ。公務は三月後になるが、先に天文台を見ておきたく参った。」

「承知。」髭の男が火箸で炭を寄せた。

「このあたり、夜半に風の向きが南から東へと変わります。」

「辺りの地形が関係しているのか。」白起は空を見た。

「季節によっても風は変わる。」

番は笑いもせず、ただ「そうでございます」と言い、火に目を戻した。笑いをめったに浮かべない町の夜は、長く持つ。笑いを軽く使いすぎると、火が早く消える。

柵の外から台を仰ぎ、白起は掌を背の後ろで組んだ。丘の傾きが左から右へ、わずかな膝の角度で伝わる。台の四隅が作る見えない枠が、胸の骨に当たる。東の低い空に、まだ星は少ない。だが、目が慣れるより前に、白起は足の裏で夜の線を感じる。風と土の方位に、星は遅れて追いつく。遅れて追いつくものだけが、確かだ。

「白様。」蒋が声を低くした。

「本日は星が少ないですね。街の明かりのせいもあるのでしょうか。」

「ふむ、旅路の空とは訳がちがう。」

白起は柵の縁に指をかけ、節の摩耗を確かめる。

「ここでの則を測るしかないな。」

柵の内側で、髭の番が小さな壺を開けた。中には煤を混ぜた樹脂があり、夜露で緩む縄の結び目に、それを薄く塗った。結び目が夜の間に膨らみ、朝に縮む。台は息をする生き物だ。その息が荒れないよう、番は夜ごとに微かな手当てをする。凛がそれを横目に見て、小さく感心したように言う。

「手のよい方ですね。」

「台は女房と同じだ。」髭の男が上を見ずに答えた。

「文句を言いながら、世話をやめない。」

蒋は笑いを喉の奥に飲み込み、「私も、世話は得意でございます。」と囁いた。白起は聞こえぬふりをして、東の低いところに細い光が増えた気配を追う。音の少ない星は、目より先に耳の後ろで鳴る。

やがて白起は柵から半歩退き、番に向いた。

「今夜はこれでよい。台の息はわかった。三月後また世話になる。」

「承っております。」若い番が深く礼をした。

「夜半の二刻前、風が止むことがございます。止んだ時の声は、遠くまで通ります。」

「遠くまで通る声は、遠くのものを呼ぶ。」白起は短く言い、丘を降り始めた。降りる足は登る足より重い。重い足は土を覚え、土は足を覚える。覚え合うまで、声を立てぬ。

町に戻ると、灯りを落とした家々の間を、まだいくつかの足音が流れていた。壺を抱えた女が、井戸の手前で一度止まって、空を見上げ、そのまま歩き出す。犬が短く吠え、それっきり黙る。白起たちは言葉を減らし、家の前に戻った。門は蒋が昼に音を聞いたとおり、低く唸って閉まった。家の中の空気は、夜の外気より少しだけ重い。重い空気は人の体を落ち着かせる。凛が小さな灯に火を入れ、杜が戸の内側に楔を立て、蒋が縄の結び目を確かめる。

「今夜はここまで。」

白起は座に戻り、背骨をまっすぐに立てた。

「咸陽からの疲れを存分に取ろう。各々ご苦労であった。」

他の3人が辞儀をする。凛が薄い湯をさらに薄くし、三つの椀に分けた。

「白様、眠りの前には軽い湯がよろしゅうございます。」

白起は湯を持ち、目を閉じてから開いた。長い日が、体の中から一枚ずつ剥がれていく。門をくぐった時の薄い静けさが、今、背の中ほどに静かに置かれた。

その夜は深く眠った。夢は見なかった。夢の代わりに、風が枕元をゆっくり抜けた。夜半、遠くで木が鳴り、知らない家の戸が一度だけ短く泣いた。音はすぐに消え、代わりに自分の息が、いつもより少し遅くなっているのを、眠りの底で知った。

【5】

無給期間の朝は、鳥の声ではじまった。日の色は浅く、屋根の上は露で濡れている。凛が早く起き、竈の灰を整え、鍋に湯をつぎ、薄い粥をもう一度温め直した。杜は庭の隅に置かれた石の上に腰をかけ、靴底の土を小刀で落としている。蒋は門を開け、白起家の始まりを告げる。朝の家は人の言葉よりも手の音が多い。白起は巻物を二つ選び、筆の穂先を確かめ、腰に革の帯を締めた。

「三月あれば、畑がひとつできます。薄い身の上には、薄い畑が似合いますよ、白様。」

蒋が笑って、殺風景な庭を指さした。

「庭は陽の道がよい。午の少し手前に、一番よく光が落ちます。」

杜は黙って頷き、翌朝には鋤を借りてきた。家の裏手、石と瓦礫をひとつずつ拾い、指先で土の粒を確かめる。乾いているが、深いところに湿りが残っている。土は機嫌を直しやすい顔をしている。白起は上衣を脱ぎ、袖を捲った。

「溝を先に。」

「承知。」杜は短く答え、土の面に細い水路を二本、斜めにつくった。雨はまだ遠いが、水の道は先に決めて良い。蒋は竹を割って、低い柵を組んだ。家で作る畑は、見せるためではない。風を読ませ、土の気配を教えるためだ。凛は紐で髪を結び直し、籠から袋を取り出した。雑穀と、香りの強い葉。

「粟、それから菜。白様、においの強いものは、腹を安心させます。」

白起は土を指で掬い、匂いを嗅いだ。土にも匂いがある。若い土の匂いと、年寄りの土の匂い。ここは若い。若い土は、教えるとすぐに覚える。凛は手際よく畝を立て、種を落とし、薄く土を掛ける。手の動きが、台所の刻みと同じであることに白起は気づいた。刻みも蒔きも、音を立てすぎず、音を消しすぎないところに均しがある。

朝の光が背に移り、汗が土の粉と混じって掌に薄い膜を作る。昼前には畝が静かな二列になり、それなりの姿になった。畑らしいものが生まれると、家は家に近づく。蒋が柵の藁を結び直し、杜が溝の角に小さな石を噛ませる。凛は壺を運び、口を布で覆って泥を避け、水を静かに落とす。

「良い顔になりました。」凛が言う。「畑は季節によって顔を変えます。人と同じです。」

白起は頷いた。小さな成果。一歩を踏み出した瞬間だった。

「順調に育ってくれれば良いが。」

耕作の経験がない白起が不安げに言う。

「白様、人生と同じです。失敗してもやり直せば良いのです。工夫もそこから生まれてきます。」

杜が励ますように述べた。

「無給でも腹が減るのはどうしようもありませんね。」蒋が笑って続いた。

「蒋さんは若いからしっかり食べないと。飢えるのは老人から。」

凛が臆面もなく添えた。たちまち皆の間に笑顔が生まれ、早朝の作業を締め括った。

無給期間のある日、門の外で男が声をかけてきた。胸には麻紐の袋、腰には帳面。土の上を迷いなく歩き、足袋の先に乾いた麦殻がついている。

「白起殿でございましょう。」

男は深い礼も浅い礼もしない、間合いを計る礼をした。名を聞けば、

「夏衍(かえん)と申します。」

声が短く、余計な湿りがない。秦の商人らしい言動だった。

「この上邽で、南の郷と糧をやりとりしております。白起様がお庭で麦を育てておられると聞きまして…もし差し支えなければ、種をお預けいただきたい。我らで栽培し、秋に収穫し、売り捌いた利の、二割を白起様に。」

杜が一歩引いて白起を見る。頭の中で計算を始めている様子だ。杜は財に明るい。このような話に杜はうってつけの存在だ。

白起は門の影に男を入れた。

「預ける種は、何で受ける。」

「麦そのもの。重さでお返しします。
倉を、ご覧いただくのがよろしい。」

夏衍はすぐに向きを変えた。背を見せるのを恐れぬ歩きだ。

翌朝、三人で倉に赴く。箱は土の上に寝ず、板の上に座っている。鼠穴は藁で埋められ、鍵束は多いが、錆びていない。夏衍が手にした鍵束は、重さで本物だとわかる。偽物の鍵は軽い。鍵は嘘をつかぬ。

杜は倉番二人の名前を控え、白起に同意の頷きをする。

「二割は悪くありません。薄い身の上には、薄い利が似合います。」

白起は利より「道」を見た。秋に向かって動く町。干からびた畝が、遠い収穫の匂いを既に吸っている。全部を預ければ、土が拗ねる。息も同じだ。全部吸えば、吐けなくなる。

「半分だ。」

白起が言うと、夏衍は即座に頷いた。

「結構にございます。」

契りの木札が差し出される。白起は受け取り、木目の新しさと湿りを指で感じる。正しい方向へ乾いた木は、嘘を覚えにくい。家へ戻る道すがら、杜が口の端で笑った。

「白様の投資、第一号ですな。」

「投資という言葉は、家の中でだけ使え。」

白起が言う。

「外では、倹約と呼べ。」

「承知。」

杜はにやりと頷き、壺を揺らした。杜が低く言う。

「白様、倉番の二人は働き者です。ただ、風の強い夜は鍵を一つ外す癖がある。
出し入れをしやすいように。」

白起は歩を緩めた。

「鍵を外す癖は、利を外す癖に繋がる。」

「見ておきます。」杜が短く返した。

夏衍は後ろを一度も振り向かず、倉の方へと消えていった。

白起は足を止め、畝の伸びた自宅の方角を見た。

蒔いたものが、形を変えて戻ってくる。遅い利は、長く利く。白起は小さく息を整えた。

「始めよう。」とだけ言い、歩き出した。白家の動きは加速していく。

「白様、資産のことで相談が。」

昼餉を終え、庭の縁側でくつろいでいる白起に杜が話しかけた。

「咸陽か。」

「お察しの通りです。息子の伯から頼りがあり、例の計画は順調に進んでいるとのことです。」

「ふむ。さすがは杜の息子だな。」

例の計画というのは、白起の左遷が決まった時、杜から打ち明けられた資産運用の計画である。将軍から一官吏に降格となれば、もちろん俸給も減る。今のうちから資産を活用し、今後の生活に備えようという杜の配慮であった。

「まだ内密に進んでいるのか?」

「はい、白様の名義は出しておりません。あくまでも息子の名前で運用し、白様とのつながりを見つけ出すことはできないように図っております。」

杜の息子伯は、杜と血のつながりはない。杜は今日まで独身を貫き、白家を支えてきた。ある時、遠征から戻った白起が杜の家庭のことについて話した。その際に、結婚はせずとも、養子を迎えてはどうかと言う流れになった。

「この歳で養子とは。」

と、ためらいを見せたが承諾した。結果、それは白起、杜の両者を支援する形となったため、杜は今の形に非常に満足している。伯は杜がよく出入りしていた勉強会の参加者で、最年少かつ優秀な若者だった。そこに惚れた杜は食事や酒を一緒する機会が増え、親交は深くなった。白起はこの若者の顔を知らない。機会がなかったと同時に、杜が避けていたのかも知れない。

「もう20を超えたか?」

「はい、22になりました。未だに学問の熱は冷めないようで。」

「もしかすると宮仕えでもしそうだな。」

「さあ、どうでしょう。伯自身はのびのび在野で暮らすことを好んでおるようですが。本人の志次第、長い目で見ておきます。最近は他国にも足を伸ばし、繋がりを作っているとか。商人の集まりにも顔を出しているそうです。」

「白家の縁の下の力持ちだな。」

「ありがたきお言葉。白様の積み上げてきた資産を順調に増やし、万が一に備えておく。白様の寛容な決断がなければ実現していませんでした。」

「杜の計画と伯の実行力のおかげだ。」

咸陽からの知らせは、半月おきに届くことになった。最初の送金は乾いた袋で届いた。中には一月は裕に暮らしていける銭だ。

「息子は落ち着きが出てきました。」杜が珍しく長く話した。

「蔵の半分は貸し倉にし、残りを干物と布に当て、季に合わせて入れ替える、と。」

「よい頭だ。」白起は袋の口を閉じる。

「蔵は動かしてこそ蔵になる。理なき停滞はすなわち後退だ。」

蒋が袋を持ち上げ、重さで十のうちの七と見た。

「咸陽の市は、春は布が重んじられます。葦舟の動く前に布を動かすのは、よい。」

立ち聴きしていた凛は笑って、「男の話は重さと数ですね」と言い、家事に戻って行った。

送金の二度目、三度目が滞りなく届き、家の中のゆとりは少し大きくなった。凛が粥に香りの葉を一つ増やし、蒋が門の傷を修復し、杜が庭の溝の角に石をさらに噛ませる。家は金で豊かになる。しかし、さらなる豊かさを求めるなら人が重要になる。金は理の流れを妨げない形で使う。置けるだけ置き、置けない分は外に回す。伯はその原動力になる。白起はその原則を、巻の端に細く書いた。

「私は天文のことをどれほど知っているのか。」

在野の天文学士を招く話は、その問いから始まった。夕刻、門を軽く叩く音。痩せた影が立ち、手に布で包んだ荷物を抱えている。歳は五十ばかり、目が静かに笑っている。

「他国で同じような天文台を見たことがあります。」男は言った。

「私は青淵(せいえん)と申します。昔は他国で天文官を務めておりましたが、とある理由で故郷に帰ってきました。今は在野で天文学を収めつつ、農耕に励んでおります。」

凛が灯を低くし、椀を差し出した。青淵は一口すすり、荷物から竹簡を取り出した。二十八宿の並びが筆の骨で書かれている。書きぶりがよい。筆は師を選ぶ。

「上邽は、北の二宿がよく見える。」青淵が言う。

「だが、見えているだけで、理解できていないことがある。」

白起は竹簡を受け取り、黙って頷いた。

「見ている者は、見たふりをする。見ないものは、何も知り得ない。もっと深淵まで知ろうとする意欲がいる。」

その夜から、三日に一度、家で小さな勉強会が開かれた。青淵のほか、声援の紹介で知り合った人々と共に学んだ。職人で星の名をよく知る男、太鼓の調律で時を読む女、郷の少年が一人。凛が薄い餅を用意し、蒋が灯の芯を調え、杜が外の音に耳を置く。白起は圭表を小さく削り、室内でも影の角度を試した。漏刻の水の落ち具合を、太鼓の女が音で拾うと、少年がからかって指を鳴らした。

「音で刻を拾う者は、星を怖がらない。」

白起は、勉強会の終わりに必ず言った。

「書いて、忘れよ。忘れてから、見よ。」

記憶が前に立つと、空が後ろへ退く。忘れることで、空が前に出る。青淵は深く頷き、「あなたの意欲には負けます。」と言い、帰っていく。凛は戸口で灯を覆い、人々の背にそっと一礼する。学ぶ夜は、家の灯火が薄くなる。しかし、人々の心の中は大きな炎が燃えたぎっている。

この勉強会は白起の公務開始まで行われ、天文官としての基礎体力を作った。青淵はこの後も在話の天文学者として白起を後援する。

「室内の活動ばかりでは息が詰まる。歩くことだ。」

それ以来、白起は日に一度、街を歩くことを自分に課した。歩くほどに、頭の中の上邽の地図は精密になり始めた。井戸の水の繊細さで区を分け、糞壺の位置で路地の風向きを読み、夜番の足音で警備境界を知る。城内の中央に位置する市場は四つの小さな塊に分かれ、北の塊は塩と干物、東は麻と縄、西は陶と鉄、南は根菜と油。塩の声は低く、麻の声は速い。陶は割れる音が商談をやめさせ、鉄は打つ音が商談を始めさせる。白起は脚に地図を覚えさせ、鼻には匂いの線を置いた。

門の外、土塁の上から町を眺めると、屋根の波が風の道を描き、影の角が時の針を作る。城壁の内と外の気配の違いは、昼より夕に濃い。夕の町は、昼を一度畳んでから夜を広げる。その折り目の位置に、官と民の境が出る。白起は折り目の位置を、毎日、少しずつ確かめた。折り目が乱れる日は、風が荒い。風が荒いと、書くべき言葉の順番が変わる。

市場の北側には郡府があり、その西方向には県府が構えられている。白起の公邸は市場の東。学徒区の中の存在する。市場の南は商人・職人区画、西には農村・労働区が配置されている。労働区は軽犯罪を犯したものが強制的に従事させられている区間であり、正規兵の監視の目が光っている。東門と西門が出入り口となり、その門からは東西の都市を結ぶ大路が整備されている。

ここ上邽は交通の要所内でもあり、その大路は軍事、商業など多岐に利用されている。さらに城郭の南側を川が流れており、その川に沿っていくつか橋が架けられている。そこは、渡し船や下流への物資輸送に利用される。県府の役人が河川部を設けて管理にあたっている。

「私の想像を超える繁栄ぶりだ。」町を眺めながら白起は呟く。

歩く途中、利の男夏衍以外にも、いくつかの「利の匂い」が門を叩いたことを思い出した。挽き臼を増やすから小口で出資を、縄場を広げるから麻の先買いを、と。白起は利他という名で、少しだけ道に乗った。利ではなく、理の通りを良くするために。臼は町の音を変える。縄は町の結び目を変える。音と結び目は、風の骨格だ。骨格が良くなれば、たくましく育っていく。天文の任にも耐える精神力をもたらす。白起はそう考え、凛は「白様の利他は、いつの間にか町中上げての利他になりますね。」と笑った。

三月は瞬く間に終わった。畑には柔い緑が並び、葱は背を伸ばし、菜の葉は風の線を見せた。伯からの送金も途絶えることなく、家人が飢えることも無かった。勉強会の夜には、少年が星の名をひとつ間違えずに言い切り、青淵が指を鳴らして笑った。家の中の灯は低く、家人の心は熱く、座の息は深い。歩いた地図は脚に刻み、観測の日々は白起に深みを与えた。

その朝、門を叩く音があった。吏の声は乾いており、印の朱は落ち着いた色になっていた。

「白起殿。任用の手続き、整いました。明日の夕、県にお出ましを。鍵と札の改め、夜の巡り、雑務の取扱などをご説明します。明日より官務に就かれたし。」

凛がふっと息を漏らし、「では、粥は少し濃くいたしましょう。」と言った。蒋は竹簡の山を撫で、短く頷いた。杜は居間の筵を整え、白起は椀を両手で包んだ。濃さは、胸の奥でわかる。この三月の濃い生活を振り返りながら粥を流し込んでいく。

「凛よ、上々だ。」

凛が言葉なく笑う。杜も蒋も深く頷く。

白起は椀を置き言う。「さあ、これからが道の始まり。」

家人は、その言葉を覚えていた。壁の土が静かに呼吸し、灯の火が背中を押し、門の影が外へ伸びた。外の風は少し涼しく、空の青は薄く、町の音は遅く動いていた。三月の濃さが明日からの職務に静かに結ばれる。将軍白起はここで畳まれ、天文の白起が、次の扉を開ける。その扉の向こうで、星が待っていた。

【第1部 完】

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半隠遁生活を営む工場労働者