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【歴史小説】天文学者:白起 軍門から天文へ… 【第1章】隴西への赴任

第一章 

【1】

夜の底がゆるみはじめると、邸の梁に溜まっていた冷えが、そっと足元へ降りていった。露は庭石の角で小さな珠に結ばれ、竹の葉は乾いた音で身じろぎする。まだ星は少し残っている。白起は寝所から静かに起き出し、戸口で一度、深く息を通した。胸の内側に昨夜の誓いの句があり、墨の匂いが薄く残っている。灯は要らない。薄闇は友であり、道の始まりは静けさから立ち上がる。

始まりは声でなく、息である。

 広間に出ると、もう火の気は起きていた。土間の竈で女中が湯を立て、杜が荷の紐を指先で確かめる。蒋は紙包みの端を揃え、朱の小さな印をもう一度首肯でなぞった。家の拍は冬よりひと息だけ早い。白起は皆の顔を見る。夜の名残りと、今日の明るさが、同じ額に共存している。

「出す。」

 合図は短い。だが家人たちの背は、音でなく意味を受け取るように、すっと伸びた。先発の荷駄に若い者二人、杜が付き、紙と油の箱は中央に、漏刻の甕は藁に寝かせ、圭表の柱は鞍に斜めに載せる。白起は柱の先を掌で軽く叩いた。木は低く鳴り、鳴りは骨の奥に吸い込まれる。

「鳴かぬ柱は折れる。」白起が言うと、杜が笑った。

「鳴る家も、折れませぬ。」

 門の蝶番が風に合わせて一度鳴った。昨夜、白起が確かめた音だ。彼は門に向き直り、外へ向けて開いたままの板を、手で軽く押さえた。

「門は——」

「開けたままに。」杜が先に言った。「帰るためではなく、風を通すため。」

「うむ。」

 門外で近所の童が二、三人、眠い目をこすりながら集まってきた。昨日、凧を上げた顔がある。上の子が胸を張って言う。

「殿、きのう教わったとおり、息を入れたら、凧が上がりました。」

「それはよい。」白起は目を細めた。「凧は風で上がるが、風を呼ぶのは、自分の息だ。」

「では、殿が道で風に負けそうになったら、俺らが息を送ります。」

 蒋が笑い、女中が袖で口を覆って肩を震わせた。白起は童の頭に軽く触れた。

「息は、向けてやると戻ってくる。お前たちも息を大切にせよ。」

送った息は、遅れて戻る。

 杜が先発の荷駄を動かしはじめた。革の帯が鳴り、馬の鼻が湿った息を白く吐く。蒋が白起の側に立ち、肩に掛けた竹尺の重みを確かめた。白起は床の間に目をやり、白布に包んだ剣に、言葉のない一礼を与えた。

「留む。」

 それだけ。背を向ける。背を向けるには、背の力がいる。白起は裾を整え、家人たちに目を配った。

「行くぞ。」

 門を出ると、朝の空気は昨夜より柔らかい。砂利の感触は乾いたとはいえまだ冷えを含み、足裏の記憶を確かめる。路地の隅に捨てられた藁束は夜露で重く、屋根から落ちる水は音を立てず、土へ沈む。冬と春が重ね書きになっている。

 邸の並ぶ小路を抜け、咸陽の大路へ出る。市場へ向かう荷車が列をなしている。山草を結わえた束、干魚の樽、麻布の反。女たちの手は早く、男たちの声は短い。家畜の鼻輪がたまに鳴り、遠くの鍛冶場の槌音が薄く重なった。白起は歩を緩めない。都の朝の活気は、今は目に、耳に受け取り、心には踏み込ませぬ。心は、これから長い道を持つのだ。

 東門の番所で、番の男が木札を掲げた。昨日、門を出入りした同じ顔だ。白起を見ると、目の奥に認識の光を一度だけ宿し、すぐに公の顔で言った。

「通行の札を。」

 白起は懐から札を出し、杜が荷駄の順を短く告げる。番の男は一隊の様子を見渡した。圭表の柱、藁に寝る甕、紙の箱。彼は目を細め、低く言う。

「観象の旅で?」

「見の旅だ。」白起が答える。「解は都に置いてきた。」

 男は一瞬、意味を飲み込めずにいたが、すぐに口の端だけで笑い、「良い旅を」と頭を下げた。門をくぐると、朝の光が真正面から差してきた。城壁の影が短く、硬い。外の道は思っていたより静かで、地面は都より柔らかい。畑の畦に霜がまだ白く残り、うつむく苗の葉先で光る。遠くで農夫が鍬の柄を肩に、空を見上げて立っていた。彼は白起一行に気づくと、軽く会釈した。白起も頷き返す。

「殿。」蒋が囁く。「春の畝は、言葉を選ばせますね。」

「春は、言を薄くする。」白起は歩を止めずに答えた。「薄くして、根が伸びる。」

春の言は薄く、根は深く。

 やがて渭水に至る。川幅は広く、冬の雪解けを含んで水は速い。渡し場にはすでに人が集まり、籠に入れた雛を抱く女、塩を運ぶ男、布を背負った旅人の姿がある。渡し舟の船頭は日に焼け、目が細い。杜が先に声をかけ、人数と荷の分量を告げた。船頭は荷駄の列を見て、白起のほうを見、礼をした。

「殿、今日は風が東に寄っております。舟は揺れますが、下流へ流されはしません。」

「流されるのは舟ではなく、心だ。」白起は舟縁に手をかけた。「心に石を置いて渡れ。」

「石……」船頭は笑い、「では、櫓に石の気持ちで」と言って手を取る。白起は最初の舟に蒋とともに乗り、杜は二番舟で荷全体を見張る。舟は川面に乗り、寒い水の匂いが鼻に触れた。水鳥が一羽、上流へ向けて低く飛ぶ。

「白起さま。」櫓の音に合わせて蒋が口を開く。「隴西の星は、都の星とどう違うでしょう。」

「同じだ。」白起は川の流れを見た。「違うのは、見ている背の数と、風の息だ。」

「背の数……」

「都は背が多い。背が多いと、言葉が渦をつくる。山は背が少ない。言葉は、まっすぐに流れる。」

「どちらが、見には適うでしょう。」

「どちらでもない。」白起は櫓の音に合わせるように言った。「背の数に合わせて、息を変えるだけだ。」

 舟は中州の手前でわずかに揺れ、船頭が水の筋を読み直す。日の光はまだ冷たく、しかし眩しさに春の兆しが混じる。舟縁に座る白起の指先に、川風が細い糸のように絡んだ。

水は声を持たず、岸が声を持つ。
渡る者は、岸の声を借りよ。

 対岸に着くと、荷駄が順に渡ってきた。杜は一本一本の紐を確かめ、柱の布を撫で、甕の藁を押さえた。白起が黙ってそれを見ていると、渡し場の端で小柄な老女が手を振った。昨日、市で会った紙屋の商人の母だという。女は籠から布包みを取り出し、白起に差し出した。

「殿さま、旅の間に喉を守りなんし。薄荷(はっか)と陳皮で煎(せん)じた飴。」

「ありがたい。」白起は受け取って頭を下げた。「喉は、言より先に枯れる。」

「そうさねぇ。」老女は笑い、「枯れた喉は、黙っていても喧嘩になる。甘いもので潤しておきなされ。」

 蒋が横で目を丸くし、杜が控えめに笑った。老女は杖で足元を突き、棹に凭れて空を見上げた。

「星は見えんが、首が軽くなる朝だこと。」

「首が軽いと、心が重くなる。」白起は冗談めかして返した。「首が重いと、心が軽くなる。」

「うまいこと仰る。」老女は歯を見せて笑い、「どっちでもよいから、お達者で。」

 道は川を離れ、丘陵へ絡みつくように伸びる。土は都より褐く、踏めば土音が低く鳴る。道の脇で、木の枝を束ねる男が汗を拭い、白起に目礼した。男の背後では、子が枯れ草を集め、母がそれを縄で締めている。春は火の支度をさせる。古いものを燃やし、地を軽くするために。

「殿。」杜が馬の並びを整えながら言う。「三十里先の茶屋で休みましょう。荷の紐を一度ゆるめ、馬の腹帯を見直す刻合いです。」

「よい。」白起は頷いた。「休む時は、短く深く。話は薄く。」

「薄く……」蒋が笑い、「茶は濃いほうが良いですが。」

「濃い茶は、あとで水を欲しがる。」

休みは短く深く、言は薄く長く。

 昼前、道端の茶屋に着く。屋根は低く、壁は土で、窓から湯気が逃げている。客は旅の商人が二人、農具を売る行脚の男が一人。店の婆は丸顔で、声が良い。杜が先に入って座敷を確かめ、白起と蒋があとから入る。座に着くと、婆が笑顔で盆を差し出した。

「おや、珍しい荷だねぇ。柱に甕に紙の箱。どこへ。」

「西へ。」白起は短く答えた。「風の向きを見に。」

「風は、男の暮らしも女の暮らしも、毎日向きが変わるよ。」婆は茶碗を置き、湯気を手で払った。「今朝は東で、昼は南で、夜はどっちかね。」

「夜は、上だ。」蒋が言って、すぐ自分で笑って赤くなった。婆は目を細めた。

「夜は上。よいことを言うねぇ。」と、湯を足し、「卵粥を少し持っていくかい。星を見る人は、卵が効くと婆さまがね。」

 店の隅で行脚の男が口を挟んだ。「おれは土を見るが、卵は腹に効く。」

「土を見るなら、影も見ろ。」白起が向き直る。「影が違えば、土が違う。」

「影……」男は鍬の柄を撫でた。「正午の影を見れば、いいのか。」

「正午だけが正しいわけではない。」白起は茶を啜った。「影は、朝にも夕にも意味がある。正午だけを選ぶと、朝夕が嫉妬する。」

 婆が笑い、商人たちも肩で笑った。笑いは空気を温める。茶屋を出るとき、婆が戸口まで来て小さく言った。

「西は乾いているよ。喉を先に潤しておくんだよ。」

「心得る。」白起は頭を下げた。

 丘の肩に上がると、道は細くなる。空は広がるが、風は狭くなる。荷駄の歩みを揃えるため、杜が手で拍を打ち、蒋がそれに合わせて紐の緩みを見ていく。白起は列の後ろにつき、崩れを前へ送らぬよう、自分の歩で全体を支える。支持は前からだけではない。後ろで支える手がなければ、前は崩れる。

 午後、空の端に薄い雲があらわれ、陽が柔らいだ。いやな柔らかさではない。冬の刃が鞘に納まり、春の布がかぶさったような、優しい鈍さだ。道の脇で草焼きをしている家があり、煙が低く流れる。煙は目にしみるが、土は軽くなる。白起は煙の匂いを胸に入れ、ゆっくり吐き出した。

煙は目を刺すが、土を軽くする。
言は人を刺すが、重さを取る時がある。

 日が傾き始めるころ、小さな関の手前で一隊の武が道を塞いだ。旗は新しい。先頭の武士は若く、槍の穂先が春の光を受けて白い。杜が一歩進み、通行の札を差し出した。武士は札を読み、荷を見、白起の顔に視線を留めた。息を飲む音が、わずかに空気を振るわせた。

「殿……いや。」若い声は慌てて平らになった。「観象の役、これより先、通行を許す。」

 白起はただ頷いた。若い武士の目は、名を知っている目だった。名を持っていると、目が先に反応する。白起は目で礼を返し、声は出さない。若い武士はそれを受け取り、短く槍を上げて道を開いた。

 関を抜けると、風が変わった。山の肩を回り込む風だ。乾いて、冷たいが、刺さらない。荷駄の紐が一度鳴り、柱が一度だけ低く鳴いた。白起は柱に手を触れ、鳴りを撫でておさめた。

「蒋。」白起は歩を緩めずに言った。「いまの風を覚えておけ。隴西の手前では、この向きが多い。」

「はい。東南から北西へ。」

「風の向きは言葉の向きに似る。いつも同じところで曲がろうとする。」

「言葉も、曲がってはいけませんか。」

「曲がることで救われる時がある。」白起は微笑した。「だが、曲がる前にまっすぐを知れ。」

 沈む陽が、道の砂に橙を落としはじめた。杜が前から振り返り、夜営の場所を声に乗せる。

「この先の林の陰に、水場と古い東屋がありやす。壁は欠けてますが、風は避けられる。」

「よい。」白起は頷いた。「火は小さく。灯は少なめに。星の邪魔をするな。」

 東屋に着くと、蒋が手早く掃き、杜が藁を敷き、女中が湯の支度を始めた。荷駄は外で輪を作り、馬は鼻を鳴らして土を踏む。白起は井戸の水に掌を沈め、温みの残らぬ冷たさを一度だけ手首まで上げた。冷たい水は、今日の歩みをここで区切る印になる。

 粥と少しの塩、卵を割って混ぜた椀が配られ、皆が輪になって座した。杜が道中の手当の順を言い、女中が包帯の場所を知らせ、蒋が明朝の出立の拍を確認する。白起は多くを言わない。輪の中で、人の声が重なり、薄い夜が外から寄ってくる。

「白起さま。」輪が一段落したとき、蒋が声を落として近づいた。「都を出る時、門を開けたままにしたのは、戻るためではなく、風のためだと。――わたしは、風が怖いと思っていました。見えないものは、怖い。けれど、見えないものを先に通すと、見えるものが壊れないのですね。」

「風は名より先に届く。」白起は椀を置いた。「名は遅れて届けばよい。遅れて届くものだけが、長く残る。」

「わたしも遅れて届く者でありたい。」蒋は小さく笑った。

「遅れることを恥じるな。」白起の声は柔らかい。「遅さは品位だ。星の光は、すべて遅れて届く。」

急く声は近く届き、遅き光は遠く届く。

 夜が落ち、林の上に星が増えた。白起は東屋の柱に背を預け、窓にもならぬ隙間から空を見た。風は弱く、雲は薄い。北を取りやすい夜だ。蒋が小紙を取り出して膝に広げ、漏刻代わりの砂時計を横に置く。杜が火の番をし、女中は静かに寝具を整える。白起は息を整え、声を落とす。

「今夜の“見”は少しでよい。道の初めは、数より息を整える。」

「はい。」蒋が筆を取る。「日、晴。風、東南より弱。星、昴淡し。」

「句を一つ、端に。」白起は目を離さずに言った。「“道は声で始めず、息で始める”。」

 蒋が書き終えると、紙の余白は広く、句は小さく、夜は深くなっていた。白起は筆を求めなかった。今夜は、師が書くより弟子が書くほうがよい。余白は、若い手が多く持つべきだ。彼は静かに目を閉じ、耳の裏で今日の音をもう一度並べた。門の蝶番、渭水の櫓、茶屋の婆の笑い、関の槍の鳴り、柱の低い鳴り。どれも尖っていない。冬の刃が去り、春の布が被さっている。

 やがて、人の声は消え、火は小さくなった。白起は東屋の外に出て、夜気を胸いっぱいに入れた。暗闇は昨夜と同じく、友のように寄ってくる。彼はその友に短く告げた。

 ――見を司り、解を制す。

 言葉は息に溶け、空へ散った。散ったものは、遅れて戻る。遅れて戻るなら、長く残る。白起は目を開き、北を一度だけ確かめ、東屋へ戻った。枕は硬く、夜は長く、道は遠い。だが、遠い道ほど、余白がいる。余白があれば、息は切れない。息が続けば、星は見える。星が見えれば、人は落ちつく。

 翌けの気配が、林の端で微かに生まれはじめていた。

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半隠遁生活を営む工場労働者