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【小説】ボードレールとパリ

断章01 相続と鏡

私の未来は、封筒に折りたたまれていた。

 春のパリは、まだ冬の骨を中に隠し持っている。下宿の洗面台は白磁のふりをした灰色で、鉛の管は小さく喘ぎ、細い水をひと筋だけ吐きつづける。鏡は波打った古ガラスで、私の頬も輪郭も、どこか酒場の床の水たまりのように歪んで見えた。安物の香水を、指先でちょんと喉につける。昨夜、グルネルの露店で買ったもので、柑橘と薬草が誰彼の汗に混ざった匂いをしている。香りは自由のようでいて、自由そのものではない。髭剃り石鹸は獣脂の匂いを立て、剃刀の刃が肌の丘陵をなで下ろすたび、泡の白は細かな灰に変わった。ひと瞬き、掌を滑らせる。ぴり、と頬が裂け、じわじわ滲む血の鉄臭が、石鹸の甘さを圧倒する。自由が血の味をしているなら、私はもうとっくに酔えるはずだ。

 封筒は膨らんで、ポケットに入れるたび、私の心臓をからかうように角を立てる。受領証と金の気配——数字は黒い棒で何箇所か塗りつぶされ、それがかえって想像という毒を濃くする。私は鏡の中の青年の顎をもう一度なでる。顔は父の若い頃に似ていると母は言うけれど、私は父の若い顔を知らない。私は、自分で自分の系譜を作らねばならない孤児だ、と昨日の帰り道で思った。

 公証人の事務所は、春の光をゆっくり噛んでいる建物の二階にあった。踊り場には鉢植えの月桂樹が置かれ、葉は古新聞のように少し乾いている。受付の机は艶のない木で、真鍮の鈴がひとつ。私は名を告げた。「ボードレールです」。少女のような年若い事務員が、つとめて礼儀正しく復唱した。「ボード…ルール様?」私は思わず笑ってしまう。「ボトルの法(ボードルール)……たいへん失礼しました。ボードレール様」。彼女は頬を染め、台帳の指を慌てて走らせる。瓶の規則。なんとすばらしい、未来の寓意ではないか。私は瓶に詰められた新鮮な空気か、あるいは烈しい酒なのだ。封を切られた時に爆ぜるか、ゆっくり揮発して消えるか。いずれにせよ、規則はきっと私を許してはくれない。

 呼び鈴の音に導かれて奥へ進む。公証人は丸い眼鏡をかけ、唇は薄く、紙と人の匂いを同時に身にまとっている。彼は淡々と法の語彙で私の過去を語り、未来を数行の文で示した。父が逝き、母が再婚し、私が成年に達したこと。そして今、私が受け取るべきもの。机の上で羽根ペンが乾き、インクの黒がわずかに青く光る。私は署名した。筆記体の波が一度、わずかに震える。自由という言葉は、署名の下から脈打ちながら立ちのぼる。だが、自由の使い道は、いまだ白紙の砂漠で、私はそこに最初の足跡さえ付けられずにいる。

 私は鏡の前に戻って、頬の切り傷を眺める。赤は、傷口から少しだけはみ出して、あたかも絵の具の偶然の跳ねのように見える。詩はときに、偶然の跳ねから始まる。だが、金は偶然の跳ねを許さない。金は計画と、領収と、家族の会議と、評判と、怠惰のためにある。私が自由を持ったという事実は、母を安堵させ、義父を警戒させるだろう。私は、彼の軍靴の堅い鳴りを思いだす。足音はいつも、私の部屋の扉の前で一拍、余計に鳴る。

 窓の外では、屋根と煙突が互いの影を噛み合っている。埃を含んだ春の光は、階段を慎重に降り、床板の隙間を覗き込み、猫の背をずっと撫で続けるタイプの光だ。パリの朝は、いつだって自分の用事がたくさんある。私の用事はひとつだった。封筒を開かずに、しばらく持ち歩くこと。重さを確かめ、角の鋭さを感じ、紙の擦れる音を聴くこと。持つことは、使うことよりも詩的だ。使うことは、すぐに誰かの数学に変わってしまうから。

 香水は、泡と血の匂いと混じり合って、甘い墓地のような空気をつくる。私は鼻の奥でなく、喉仏の裏でそれを嗅ぐ。古い鏡の銀引きは点々と剥がれ、私の顔に夜空のような斑点を落とす。そこに、金の未来が星座のように結ばれる。南十字ではなく、貨幣座。私は、もしも未来が封筒に折りたたまれているなら、それはいつ開かれるべきなのか、と鏡に問う。鏡は、いつものように沈黙したままだ。沈黙は最高の合いの手だ。なぜなら、沈黙は私の独白を、私の責任にしてくれるから。

 私は受領証を封筒から抜き取り、しばらく眺め、そして机の上に、見せかけの慎重さで置いた。白い紙の上に黒い消し——あの塗りつぶしは、私の空虚を模写したものだ。黒塗りの線は、指先に軽い熱を残す。私はそこで自分の手が少し震えているのを見つける。震えは期待か、恐怖か。どちらでも、私の血をあたためるのなら歓迎しよう。

 昨夜の事務所でのもうひとつの場面を思い出す。署名を終え、椅子を引き、立ち上がると、受付の彼女がそっと近づいてきた。「ボード…レール様。先ほどの失礼、本当に申し訳ありませんでした」。私は笑ってうなずいた。「よくあることです。私の名前は、法にからかわれる運命にあるのです」。彼女はほっとして、しかしまだ顔を赤くしたまま、紙の束を抱えて走り去った。私はガラス戸を押して外へ出た。ひと粒の雨が、目尻のあたりに落ちて弾けた。春の雨は、涙の演技がうまい。

 私は鏡に剃刀を掲げる。刃は、これからの浪費を予告するように、細く光る。浪費——その言葉は悪口のふりをして、私の味方をする。詩は倹約から生まれることもあるが、倹約からは世界の色の過剰が生まれにくい。いっそ、私はひとつの「規則」を定めるべきか。ボトルの法。毎朝、香水をひと滴だけ。毎夜、金をひと枚だけ。残りは、明日の詩のために埋める。規則は詩を窒息させるが、詩もまた規則の首にリボンを結ぶ。私は自分の首に見えないリボンを結び、鏡の中で軽く頭を下げた。

 封筒の角が、胸骨の上で位置を主張する。私はジャケットの内ポケットに押し込み直し、鏡から視線を外す。朝はもう、誰かの昼になっている。パン屋は粉で白く、馬車は石畳の凹みで音を跳ねさせる。私には、今日、なにも仕事がない。仕事が無いということは、退屈が私を待っているということだ。退屈は、神の使いのふりをした地獄の下男である。私は退屈と握手する用意がある。しかし、先に香水の瓶の蓋を、固く閉めておこう。ボトルの法——まずは蓋から。

 受領証は、机の端で春の光を吸って、角を少し柔らかくした。私は紙に指を置き、数字の黒塗りを、ゆっくりなぞる。いつか、この黒の下から、別の未来が透けて見える日が来るかもしれない。もし来ないなら、私が書く。黒の上から、私の数字を。詩の数字を。

 私は外套を取り、扉のノブを回す。鉄の冷たさが、まだ私の頬の切り傷の鉄臭と協奏する。春の街の階段を下りるとき、私はふと思う。自由とは、封筒ではなく、手すりかもしれない。支えながら、どこへでも連れて行く。しかし、支えはいつか手を離す。私は踊り場で一拍、立ち止まる。月桂樹の鉢の土を指で掬い、土の乾いた匂いを嗅いだ。香水の上から、土の匂いが勝った。私は笑って、手を払った。

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資料挿入/公証人受領証(写)

REÇU — Étude de Me P——, Notaire à Paris
Date : 18—年 3月██日
Reçu de : Charles B██████re(署名)
Somme : █,███ francs(内訳:████ francs/████ francs)
Objet : Succession Paternelle
Timbres & Droits : ██ francs
Référence : Registre n° ██-██
※一部黒塗りは本人請求に基づく
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 黒塗りは、私の名前の中に潜む余白を増やした。私は階段を降りきり、通りに出る。通りは、私の未来よりも具体的だ。靴音、パン屑、猫、煙、叫び。すべてが、私の封筒よりも安っぽく、そして確かだ。私は封筒を押さえ、深く息を吐いた。肺の中でも香水がわずかに泡立ち、石鹸の甘さが最後にもう一度だけ蘇る。自由は、今のところ、僕の呼気とともに出たり入ったりしている。

 それでも私は、鏡に告げた問いをまだ折りたたんだまま、胸の奥にしまっている。答えはいつだって、こちらが油断した瞬間にやって来る。私が最初のコインをどこで使うかを決めた瞬間に。私は歩きながら、石畳の隙間にコインを落としてしまった男の話を考えた。拾おうとして膝を折った彼は、代わりに詩を拾い上げたという。私は笑って、靴先で石を蹴った。蹴った石は、規則のように、すぐに戻ってきた。

 部屋に戻るまでの間、私は私の未来にまだ触れないでおく。触れないという行為もまた、行為だからだ。沈黙は、最高の合いの手。私はその反復を覚え、階段の手すりに、指先で小さな韻を刻んだ。

* * *

後半(断章01 相続と鏡)

 昼過ぎ、雲が薄くなって、光が布の裏側から差すようになったころ、私はもう一度洗面台の前に立った。乾いた血が薄膜になって頬に張りつき、指で剝がすと、すこしだけ皮の花びらがめくれた。鉄の匂いは収まって、代わりに朝の香水が酸っぱく熟している。自由は、朝よりも午後の方が軽い。だが軽い自由は、風に飛ぶチラシと同じ危うさを持っている。

 私は封筒を開けた。紙は乾いた鳥の骨の音を立て、数字は白い光の上で居心地悪そうに身をよじった。私はそれらをひとつずつ目で撫で、口の中でゆっくり噛み砕いた。金額は、私の靴を良くし、食卓を少し贅沢にし、借金取りの足音を二、三週間は遅らせるに足るだろう。だが、それは詩を豊かにするだろうか。私は紙の縁で指を切り、もう一滴、血を落とした。昼の血は朝よりも明るい。自由の赤も、時刻で色を変える。

 私は机に紙を広げ、使い道の見取り図を描こうとした。部屋代、書物、布地、靴。ひとつずつ丸で囲み、線で結んでいくと、すぐに蜘蛛の巣のように窮屈になった。私はペンを置き、天井を見た。使い道を考える行為は、詩の律動を鈍らせる。私は知っている。私の詩は、使い道の外側、つまり浪費と失策と衝動の側に咲く。私はペン先に唾をつけて、丸のいくつかを黒く塗りつぶした。黒は、私の午睡だ。そこで私の想像は、静かに深呼吸を始める。

 窓辺に立つと、向かいの屋根で洗濯女がシーツを叩いている。音は規則正しく、白い布は研究室の光のように乾く。彼女の腕は逞しく、太陽は彼女の汗と談合している。私は封筒をポケットに戻し、通りに出た。今日の自由は、通りの幅と同じだ。左右の店の扉、馬の尻尾、煙草の火。私は〈ボトルの法〉に従い、香水瓶を指先で撫でるだけで、買わない。代わりにパン屋の前で立ち止まり、焼き上がりの香りをただ嗅ぐ。嗅ぐことは所有の練習であり、所有の代用品でもある。私は代用品の達人になりつつある。

 橋の上で足を止める。セーヌは午睡から覚めきらない目をこすり、ゆっくり流れている。水面は、私の鏡よりも正確で、私の鏡よりも残酷だ。私は欄干に肘を置き、ポケットの封筒を指で押す。紙の軋みが鳩の羽音に紛れ、どこかへ逃げる。私は思う——この金は、旅になるのか。あるいは、ひとつの部屋になるのか。旅は私を軽くし、部屋は私を重くする。どちらも詩に必要だ。私は、自分の中の二人の書記官が口論するのを聴く。軽い方は笑い、重い方は眉間に皺を寄せる。私はふたりの調停者になれそうにない。

 ふいに、背後から肩を叩かれた。振り向くと、昨日の受付の彼女が紙束を抱えて立っていた。「ボ—ド…」そこで彼女は口を慎重に結び直し、「レール様」と言い直す。私は微笑む。彼女は、私のサインの写しが必要になったのだと言う。「記録のために」。私はペンを借り、欄外にもう一度署名した。彼女は言った。「あなたのお名前、音が好きです。走るようで、すべるようで」。私は礼を言い、ついでに訊ねる。「あなたは香水をつけますか」。彼女は首を振る。「高いから。でも、パン屋の前でよく立ち止まります。香りは、パンの値段を要求しませんから」。私は笑い、彼女も笑った。私たちは、同じ節約の教会の信徒かもしれない。

 別れて歩き出す。私は、いまの会話が、私の〈ボトルの法〉に小さな注釈を加えたのを感じる。香りは、所有の練習であり、所有の赦しでもある。私の午後は、赦しに満ちている。赦しは、浪費を保護する架橋だ。私は赦しの上で、たぶん軽く跳べる。

 夕方。部屋に戻る。光はカーテンの端で細くなり、椅子の脚が長く伸びる。私は机に封筒を置き、鏡の前に立った。朝の傷は細い糸になって、ほお骨の上で乾いている。私は香水瓶の蓋を開けず、指でただ触れ、これからの夜を思う。金は、夜になると音を立てる。カードの切る音、グラスの触れ合う音、靴の踵の音。私はそれらの音を、まだ扉の外に置いておく。この夜は、紙の上で過ごす。私はペンをとり、青いインクで書き始める。自由について、ではない。空虚について、でもない。私は、自由と空虚の間に垂れ下がる橋、つまり今日の沈黙について書く。沈黙は、紙の上ですら、最高の合いの手なのだ。

 書き疲れて、私は頬杖をつく。香水の残り香が、部屋のすみで細糸になって漂い、石鹸の甘さはもうほとんど消えた。代わりに、紙とインクの匂いが強くなる。私は机の端の受領証に視線をやる。黒塗りの棒は、朝よりも静かだ。私はそこに、細い文字でひとこと添える。「本日の支出:なし」。これは自慢ではない。ただの記録。記録は、詩の隣に置くと、急に詩のように見える。私は愉快になって、二行目にこう書く。「本日の浪費:香り」。

 夜。街のざわめきが深くなる。私は窓を開け、遠くの笑い声と、近くの足音と、見えない馬の鼻息を吸い込む。自由は、扉のように開くのではなく、窓のように開く。私は窓枠に肘を置き、星を見ようとして、見えないことに気づく。パリは星を手放すのが下手だ。私は、見えない星の代わりに、鏡の中の自分に視線を戻す。鏡は夜になると、少し寛大になる。昼間の私の欠点をいくらか許してくれる。私は小声で言う。「私の未来は、封筒から出てきた」。鏡は黙っている。黙ることで、同意したふりも、反対したふりもできる。私は、この曖昧さを愛している。曖昧さは、詩の母語だ。

 机の引き出しに封筒をしまい、鍵をかける。鍵の音は、祈りの最後の音節のように乾いている。私はゆっくりとベッドに座り、靴を脱ぐ。踵に溜まった粉塵が、今日の一日の地理を語る。橋、パン屋、事務所、洗面台。私は目を閉じ、手で頬の糸をそっとなぞる。痛みはもうない。ただ、かすかな痒みが残る。自由もまた、最後は痒みになるのだろうか。私は笑って、毛布を腹の上まで引き上げた。

 寝入る直前、私はふいに、受付の彼女の言い間違いを思い出す。ボトルの法。私はその言葉を、枕の下に隠す。明日の朝、目を覚ましたら、まずそれを取り出して嗅ごう。香りは値段を要求しない。だが、香りは思い出の利子を、確実に付ける。私はうっすらと頷き、暗闇の中で、受領証の黒塗りが増える音を聴いた気がした。増える黒は、減る不安だ。減る不安は、増える余白。私はその余白に、ゆっくりと沈んでいった。

 夢の入口で、私はもう一度、鏡に問う。「私の未来は、どこに掛けられるのか」。鏡は、暗闇の中で、いつものように、最高の合いの手をくれた。沈黙。私は、その沈黙を毛布のようにまとい、封筒の角に指を軽く触れた。角は、もう鋭くなかった。春が、思いのほか早く、部屋の隅々にまで忍び込んでいたのだ。

 昼の端がほどけはじめた頃、私は封筒を机の中央に据え、指の腹で四辺をゆっくり撫でた。紙は鱗のように乾いて、触れるたびに小さな音を立てる。私は吸い込む息を細くし、刃物に向かう外科医のふりをしてから、糊の継ぎ目に爪を差しこんだ。ぱり、と鳥の骨が笑う。白が開いて、黒い数字が光に眩しがる。額面のいくつかは、例のとおり黒塗りである。法の優しい秘密主義。私は黒の帯に目を細め、見えない数字の輪郭だけを、想像の指先でたどった。

 紙面の端が指を裂いた。昼の血は朝より明るく、若い。ひと粒、紙に落ち、すぐに乾いて赤褐色の休符になる。私は舌で傷をなめ、鉄の味を確かめた。朝の鉄は目覚まし、昼の鉄は注意書き、夜の鉄は赦し。今日の私は、注意にうながされるのが相応しい。封筒から取り出した受領証は、そのまま机に置くには落ち着きなく、私は空いている額縁を引き寄せ、中にそっと滑り込ませる。額装された法は、少しだけ詩に近づく。

 私は帳面を開く。いつもは落書きと夢と不平を並べるが、今日は几帳面の仮面を取ってくる。「本日の規則(ボトルの法)」と書き、箇条書きにする。第一条、香りは買わずに嗅ぐこと。第二条、金貨は触れて数えるが、数え終えてから引き出しに戻すこと。第三条、買える物については買わない理由を十個発明すること。第四条、買えない物については詩にすること。第五条、鏡を一日に三度は見ること。——書いてみると、私の規則は、私の怠惰とよく似た顔をしている。だが怠惰は、詩の温室管理人でもある。

 私は外套を羽織って外に出た。午後のパリは、昼寝の夢の続きのように柔らかく、それでいて、石畳は現実を忘れさせない硬さで足裏を叩く。パン屋の前では、打ち上げられた新月みたいなクロワッサンが列を作り、私は近づいて、香りだけを胸いっぱいに取り込んだ。嗅覚は財布の代用品であり、時に財布の優等生である。私は少し背伸びをして、もうひと呼吸、焼きたてのバターの幻を肺にしまう。代用品で満腹した心は、しばし善人になる。

 橋に差しかかると、セーヌが日照計のように光の角度を測っている。欄干に肘を置き、私は封筒の厚みを二度、三度、親指で確かめた。金は重さで語り、詩は軽さで抗う。私は重さと軽さの二重唱にしばらく耳を貸す。そこへ、軽い咳払い。振り向くと、昨日の事務所の受付嬢が立っていた。紙束を抱え、表情は朝のパンの中身のように柔らかい。「レール様」と、今度は慎重に正しく呼ぶ。私は軽く会釈した。彼女は台帳の写しに私の追認の署名が必要だと説明し、申し訳なさそうにペンを差し出す。私は欄外に緩やかな波を書く。彼女が言う。「お名前の音、好きです。瓶が転がるみたいで」。私は笑う。「瓶の法(ボードルール)に、今朝から従っているところです」。彼女も笑って、眉尻に小さな影を落とす。「どんな法ですか」「香りは嗅ぐだけ、金は数えるだけ、自由はしばらく瓶に入れておく」。彼女はうなずき、「パンは眺めるだけ」と小声で付け加えた。私たちは短い共犯者になって、別れた。

 私は古本屋に寄った。棚に積み重なるのは、誰かの息の抜け殻。紙は日に灼け、背表紙は皮膚病のように剥げている。私は詩集を一冊、掌にのせ、重さをはかり、ページを扇のように開いて鼻を近づける。紙と埃と、昔の天気。買える、しかし買わない。ボトルの法。私は棚に戻し、眼鏡の店主の視線をやわらかく受け止めて、出る。玄関の鈴が耳の奥で反復横跳びし、私はそのリズムに合わせて通りへ戻った。

 角のカフェに腰を下ろして、真っ黒なコーヒーを頼む。ソーサーの縁に金の細い環があって、私をからかう。店の奥の鏡は縦に割れていて、映る客の顔をゆるく分裂させる。私は二人に割れた自分の片方に訊ねる。「金は詩になるか」。もう片方が答える。「詩は金に厳しい」。新聞の片隅では誰かが誰かを論じて、欄外の広告は歯痛の万能薬を褒めている。万能薬は、いつだって万能ではないが、広告は万能だ。コーヒーは苦く、舌の奥で昼の鉄の名残に触れる。私はナプキンに今日の支出を書いた。「コーヒー 数スー」。そしてもう一行。「浪費 香り」。記録は、貧者の勲章であり、放蕩者の安全ピンである。

 店を出ると、午後が細くしぼんでいた。私はいくつかの用事を、わざと遅歩きでやりすごす。仕立屋の窓をのぞき、絹の光沢が喉を撫でるのをそのまま見送る。靴屋では踵の革が私の過去の歩き方を責めるように鳴り、私は「明日」という滑稽な嘘でそれを宥める。古道具屋の錆びた鏡は、私の傷跡を丁寧に拾い、朝の痛みが絵画的な記号に変わっていることを知らせた。鏡は、いつも美術館の学芸員のように冷静だ。

 夕景が石畳の隙間に流れ込み、馬車の影が延びる。私は部屋に戻り、受領証を入れた額を壁に立てかけた。額は庶民的な聖遺物箱だ。中で黒塗りの帯が、夕陽でわずかに温まる。机の上に紙を広げ、言葉を置く。自由について書くのは気恥ずかしいので、空虚について書く。空虚は素手で触れると吠えるが、ペンで触れると衣ずれの音しかしない。私は自分の空虚が、実は複数形であることに気づく。空虚たち。彼らは互いに肩を寄せ、火鉢のまわりでうたた寝している。私はその上に薄い毛布として一編を書きかける。

 インクの青が乾く間、窓を開ける。風が安物の香水の残り香を撫で、朝の髭剃り石鹸の甘さは、ほとんど遠い寓話になっている。頬の傷は糸のように固まり、触れると痒い。私は痒みを、今日一日の議事録の最後に記す。「所感:痒み」。こうして書いておけば、明日、同じ場所を引っ掻いたとき、自分の反復を許せる。反復は、生活にとっての定規で、詩にとっての障害物競走である。

 日が沈んで、隣室の誰かが椅子を引く音。遠くの笑い声、近くの皿の触れ合う音。街は夜の制服に着替えはじめる。私は〈ボトルの法〉の第五条を履行して、鏡の前に立った。鏡は、夜になると、昼間の裁判長の口を閉じ、懺悔室の格子になる。私は小声で告白する。「今日、私はほとんど使わなかった」。鏡は頷かないし、首を振りもしない。ただ私の肩のラインを、さきほどよりも優しく湾曲させて返す。沈黙は、最上の合いの手。

 机の端の受領証に目をやる。黒塗りの下で眠る数字たちは、規則正しい寝息を立てている気がする。私はインクの乾いたペンで、受領証の余白に小さく書き添える。「本日の支出:コーヒー。その他:思考」。そして引き出しから鍵を取り出し、封筒をしまう。鍵の音は、祈りの最後の音節みたいに乾いている。私は、解放を先送りにする自由を、今日の私に与える。先延ばしは無能の証しとして語られることが多いが、詩においては発酵と呼ばれる。私は自分の自由を瓶に入れ、冷暗所に置く。明日、どんな香りに育っているか、楽しみにしたい。

 眠る前に、母の筆跡を思い出す。宛名の「シャルル」が、いつも最後にわずかに跳ねる。義父の靴音は、廊下の途中でわざと強まり、扉の前で一拍余分に鳴る。私は彼の「秩序」の硬さを嫌いながら、今日一日、自分で自分に秩序を課していたのだと知る。秩序は嫌悪と隣り合って生まれ、やがて滑稽と結婚する。私は笑い、ろうそくの火を細くした。

 ベッドの端に腰を沈め、靴を脱ぎ、粉塵を払う。私の足にこびりついた今日は、橋、パン屋、古本屋、カフェ、鏡、机、封筒、鍵——いくつもの名詞でできている。私はその名詞を、羊を数えるみたいに数え、ゆっくりと横になる。枕の下には、受付嬢からもらった笑いが一つ入っている。私はそれを指の腹で確かめ、目を閉じる。

 暗闇の中で、私はもう一度だけ、冒頭の一行を裏返してみる。「私の未来は、封筒から出てきた」。裏返された言葉は、昼間より軽く、夜のほうがよく似合う。未来は鏡の中で、まだ形を決めていない。だから私は、今日も鏡に問う。「いつ、瓶の蓋を開けるべきか」。鏡は当然、何も答えない。けれど、その沈黙の温度が今夜は少し高い。ためらいと期待の体温。私はその温度を胸に抱き、毛布を引き上げ、封筒の角にそっと触れる。朝の鋭さは、もうない。春が、私の部屋の隅々にまで忍び込み、紙の角から毒を抜いたのだろう。

 眠りの手前で、私は明日の自分にだけ、短いメモを残す。〈ボトルの法・追記——香りは値段を要求しないが、思い出に利子をつける。浪費とは、利子の呼吸である〉。私は微笑し、呼吸をひとつ深くする。封筒の中の未来は、まだ折りたたまれたまま、しかし、わずかに膨らんだ気がした。きっと中で、数字たちが寝返りを打ったのだ。私は彼らの寝息に合わせてまぶたを重くし、沈黙という最高の合いの手に、ようやく身を預けた。

断章02 ホテル・ピモダン入居(第一節)

石壁は呼吸し、私の浪費を歓迎した。

 橋を渡るたび、セーヌは舷側をこすりつける猫のように私の歩調に寄り添い、湿り気を袖に置いていく。初夏のイル・サン=ルイは、四方から水の音で囲い込まれ、島そのものが巨大な浮函(フネダナ)のように軋む。私はトランクと封筒と、まだ使い道の決まらない未来を抱えて、ロザン館――ホテル・ピモダン――の扉の前に立った。真鍮の取っ手は、蝋燭の油の薄い膜でいつも滑らかだという顔をしている。押し開けると、冷たい石床が肺の奥にまで降りてきて、古い絨毯の粉じんが、挨拶代わりにくちびるの間をかすめた。

 中庭は正方形の息をゆっくり吐き、装飾の過剰をうっかり裏返してしまったようなバルコニーが四辺にめぐっている。剥落した金箔は、午後の光で二度ばかり思い出され、すぐに忘れられる。私は自分の靴音を数えながら、管理人の部屋へ向かった。扉は、叩く指を受け止めるのが少し上手すぎる。

「入居の件で」
「お名前を」
「ボードレールです」

 女主人の眉が、ほとんど imperceptiblement(ほとんど見えないほど)持ち上がる。私は昨日までの〈ボトルの法〉を、ここでも適用すべきかどうか迷った。が、ここでは香りを嗅いでいるだけでは追い出される。私は封筒を取り出し、必要なだけを机に置いた。金は、この建物の石の温度とよく似ている――最初に触れたとき冷たく、すぐに体温に寄ってくる。

 帳簿に名を書き、部屋の鍵を受け取る。三階、川に面した角部屋。女主人は、「夜更けの客人が多いことがありますが、驚かないで」と付け足した。私は驚く準備の有無について返答を保留し、階段を上り始める。踊り場のところどころに、以前の住人の名残りの匂いが沈殿している。ポマード、煙草、乳香、そして、説明のつかない、ゆっくりと甘く腐っていく果実。退廃の誘惑は、匂いからやって来る。芸術の巣作りは、匂いを選別するところから始まる。

 部屋の扉を押す。広さは私の虚栄に十分で、私の懐には少し過剰だ。窓は二つ、片方はセーヌの濁った銀に、片方は向かいの屋根の鈍い鉛に開いている。壁紙は年齢を偽らず、ところどころのひび割れが、古い刺繍のように部屋の表情を柔らげている。暖炉の上の楕円鏡は、私の輪郭を自分の時代へ引き戻そうとするが、私はその引力をひとまず無視した。窓を開けると、川の湿った匂いが、蝋燭の油と混ざりあって、肺の奥に古い光沢を塗る。私はトランクを床に置き、上着を椅子にかけ、ゆっくりと息を吐いた。ここから詩を書く。ここから浪費する。二つは矛盾のふりをして、しばしば同じ財布を使う。

 廊下の向こうで足音。私は扉を少し開け、住人たちの顔ぶれを、まずは音で観察する。軽い足取り――仕立屋のモデルか、舞台の袖に慣れた女優か。杖の先の金具が床に音符を落とす――老貴族か、病弱な学者。ドアの隙間から、瞬間だけ目が合う。鳥の骨のように細い鼻梁、片眼鏡、何度も裏返された敬意。芸術の巣は、顔の森の中に掛けるのがよい。枝ぶりの悪い木ほど、面白い影をくれる。

 暖炉の前に跪き、灰を払い、持参の蝋燭に火を移す。とろりと流れる芯の影が、部屋の輪郭を一段深くする。私は机の上を簡単に整え、紙とインク壺と、封筒の残りを並べた。秩序は、私の嫌悪と仲がわるいが、詩の前口上としてときどき必要だ。机の隅に、家賃の領収をしまうべく、受け取ったばかりのレシピを取り出す。書き手は几帳面で、スタンプはやや誇張気味に赤い。私はこれを、ここに住む事実の証拠として、まずは言葉で額装しておく。

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資料挿入/家賃領収書(写)

REÇU DE LOYER — Hôtel Pimodan (Hôtel de Lauzun)
Date : 1842年 6月██日
Locataire : Charles B██████re(署名)
Appartement : 3e étage, angle sur Seine
Loyer (par mois) : ███ francs
Dépôt : ██ francs
Timbre & Droits : ██ francs
Cachet : Étude de Mᵉ P——, Paris(丸印・赤)
※金額の一部は本人請求により黒塗
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 紙の縁に指を滑らせる。印肉の匂いが、蝋燭の油に溶けて、奇妙に晴れやかな気分を作る。私はそのまま床に腰を下ろし、天井の亀裂を一本の川に見立てて眺めた。川は部屋を横断し、私のこれからの散財を、上流から下流へと品よく運んでくれるだろう。私は念のため、頭の中で〈ボトルの法〉の追記事項を作る。第一に、香りはここでも嗅ぐのみ。第二に、賭け事は言葉の中でのみ行う。第三に、浪費は詩に転記して帳尻を合わせる。第四に、退屈を恐れない。退屈は良い巣材になる。

 コンコン、と乾いた音。扉の下で紙が擦れる気配がした。覗くと、細長い角が見える。私は拾い上げ、蝋燭の光の中で広げる。鉛筆で急いで書かれた、短い、無駄のない文字。

Je pars.
常に酔っていなければならない。
戻らないかもしれない。— P.

 仏文と、奇妙な挿入句。私は紙面の震えぐあいから、筆者が若いと推測する。「P」は、昨日、廊下で挨拶をした、まだ髭の不揃いな画学生の頭文字だ。彼は私よりも軽い荷物と、私よりも大きな眼を持っていた。失踪のメモは、告白でも脅しでもない。確率――彼は自分の消失を、数学に預けたかったのだろう。生成して、消え、生成しなおす。芸術家の逃亡は、たいていここから始まる。私は紙を折り畳み、暖炉の上に置いた。戻らない予告は、しばしば最初の帰還である。確率は誘惑の兄弟だ。

 私は窓辺の椅子に座り、川面に目を落とす。水は見ている者の倫理を映す。私が倹約を考えれば倹約の色になり、退廃を考えれば退廃の色になる。対岸から葦笛のような笑い声が流れてきて、すぐに馬車の轟きに砕かれた。私はここで何を育てるのか。詩か、噂か、病的な眠りか。芸術の巣作りは、最初に棲みつく言葉を選ぶところから始まる。私は机に戻り、白紙に一本、縦の線を引いた。線は風の受け皿になり得る。そこに最初の羽毛を置くように、言葉を落とす。

 夕方、島の縁を散歩した。川は穏やかで、匂いは昼より重く、湿り気は衣服の継ぎ目に親切に入り込む。ホテルに戻る途中、角のカフェのテラスで、見知った肩がひらりと動く。友人のG――髪の整いすぎた自由人、いつでも批評の用心棒を連れて歩く詩人――が手を上げた。

「引っ越したのか、カール? 島の顔になりたいのか?」
「顔はもう島にある。私のは、ただの表札だ」

 彼は笑い、空いている椅子を叩いた。私は座り、黒いコーヒーを頼む。カップの縁に金の細線が走り、内側の暗さを静かに包囲している。

「ロザン館は、退屈しないはずだ」とG。「夜の実験室がある」
「実験?」
「思想の。香りの。睡眠の……そして、噂の」

 店の奥の鏡が、私たちの横顔を二度映し、どちらかが余計だと言いたげに歪んだ。私は、昼間拾った失踪メモのことを話すべきか迷い、やめた。Gは情報を花のように扱うが、私は今、その花びらを失いたくなかった。

「君は巣を作りに来たのだろう?」とG。
「巣――あるいは罠だ」
「どちらでもいい。必要なのは、材料と、怠惰に耐える体力だ」

 私は頷き、スプーンで泡を壊した。蝋燭の油の匂いが、窓の隙間から流れてくる。川の湿り気が、砂糖の甘さに短い影を落とす。古い絨毯の粉じんは、ここにはないが、席の下で目に見えない砂が靴底を磨く音がした。Gは時事の噂をいくつか並べ、劇場の失敗談を笑い、最後に声を潜めた。

「島の奥で集まる連中がいる。香りの宗教と、夢の錬金術の信徒たちだ。君のような火薬のそばには、火花が勝手に寄ってくる」

「火薬は保管しておく」と私は言った。「〈ボトルの法〉がある」

「法? 君が?」

「香りは嗅ぐだけ。金は数えるだけ。自由はしばらく瓶に入れておく」

 Gは笑って椅子にもたれ、「その瓶の栓を抜くとき、呼んでくれ」と言った。私は会計を済ませ、彼と握手し、店を出た。夕暮れが島の輪郭を柔らかくしていく。私はホテルへ戻り、先ほどのメモの位置を確かめる。そこにある。確率はまだ眠っている。

 部屋の鍵を回すと、廊下の向こうで誰かが笑い、階段を下りる音が遠ざかった。蝋燭の灯りを高く掲げ、私は机に向かう。紙の上に夜の温度が落ちる。私は、詩と浪費の共犯関係を、今日の第一行として書きつけようとする。言葉は最初、行儀よく並んでくれるふりをしたが、すぐに椅子から滑り落ちて床に散らばった。私は拾い集め、巣材のように、楕円鏡の下に重ねて置く。外では川が、眠る者とこれから起きる者のあいだで、ゆっくりと流れを分けている。私は窓を少しだけ開け、湿った匂いをもう一度だけ吸い込んだ。芸術の巣は、まず匂いから編まれる。退廃の誘惑は、匂いに居座る。今夜は、匂いのバランスだけを整えて眠ろう。鍵をかけ、蝋燭を吹き消す直前、私は暖炉の上のメモに視線を投げ、心の中でつぶやいた。

断章02 ホテル・ピモダン入居(第二節)

 夜が島にかぶさると、川の匂いは重くなり、蝋燭の油は言葉を持ちはじめる。廊下に一歩出るだけで、古い絨毯の粉じんが月光の細い柱の中で踊り、私は自分の肺がこの館の歴史の一部になっていくのを感じた。石壁は呼吸し、私の浪費を歓迎した——その呼吸は、夜の方がゆっくりだ。

 暖炉の上に置いた失踪メモをもう一度ひらく。鉛筆の線は頼りなく、しかし迷ってはいない。〈Je pars. その確率とともに生成して。戻らないかもしれない。— P.〉。私は「生成する」という言い方に引っかかった。生成は本来、物質か、詩の領分に属する。だが彼は自分の行方を生成すると言う。まるで自分の未来を炉の中の合金のように、熱と混合比で作り替えるつもりなのだ。確率はその配合表にすぎない。私はペン先で「その確率とともに生成して」という一文に下線を引き、隣に小さく「帰還=p、失踪=1−p」と書き込む。滑稽な式だ。だが、滑稽はたいてい真剣のもう一つの衣装である。

 廊下の向こうから、くぐもった笑い声と、グラスの触れ合う音が聞こえた。私は扉を少しだけ開け、のぞき窓から覗く。二階のサロンの扉が半ば開き、内側で蝋燭が無数に燃えている。灯は鏡に分裂し、分裂した灯がさらに別の鏡で増殖し、壁の金色の獣の浮彫が生き物のように呼吸している。煙の匂いは葉巻に近いが、どこか東洋の樹脂を思わせる甘さが混じる。私はドアの飾りに指を置き、その輝きを夜の尺度で測った。退廃は、光り方がやわらかい。芸術は、光を一度傷つける。

 階段を降りる途中、踊り場で小さな出来事に出会った。年老いたヴァイオリン弾きが、壁にもたれて眠っている。顎の下の楽器は、彼の胸骨と同じ角度で呼吸し、弦は暗闇の中で淡い海藻のように黙っている。足元には、粉を噛んだような古い絨毯の匂い。私は彼の肩を起こし、部屋まで送った。鍵穴の縁に見覚えのある赤い蝋が溜まり、どこかのスタンプが溶けた跡のように盛り上がっている。彼はうとうとしたまま、「あなたも島に巣を作るのか」と言い、私の袖に爪弾くような指先を残した。

 部屋へ戻る途中、また一枚、扉の下の隙間に紙が差し込まれているのを見つける。拾い上げると、そこにもあの文句があった。〈その確率とともに生成して〉。ただし筆跡は先ほどと違う。今度の線は、女の手だ。細いが、走りに躊躇がない。誰かが私に確率を配っている。私は笑い、紙を折って胸ポケットにしまった。確率は抽象に見えて、実際には嗅覚に近い。川の湿り気と混ざると、予感という匂いに変わる。

 翌朝、島の光は冷たく、石は昨夜の呼吸を忘れたふりをしていた。窓を開けると、パン屋の煙が橋の上で薄まり、セーヌが午前中だけの銀色に戻っている。廊下で女主人に会うと、彼女は私の肩の上の埃をそっと払って、「昨夜は賑やかでしたでしょう」と、どちらともつかない微笑を浮かべた。「夜更けの客人」の意味が少しだけ解ける。私は頷き、階段を下りる。郵便受けの下に、また細い紙片。三度目の確率。今度は数字だけ——〈p=0.37〉。誰かが私の生活を実験に見立てている。あるいは私が、すでに誰かの実験台だ。

 午前のうちに、私はこの館の顔ぶれのいくつかを覚えた。長い顎鬚の版画家は、指先に黒いインクの傷を持ち、階段の角でいつも紙袋を抱えている。寡婦は香の線香を焚き、部屋の扉の前に乾燥させた薔薇の花びらを並べて、住人の足音を色で分類する。若い数学者は三階の端に住み、廊下の壁に分数をチョークで書く——昼には消され、夜には復活する。彼の部屋の前には、しょっちゅう砂糖の欠片が落ちている。砂糖は彼にとって、コイントスの代用品らしい。私は彼に会釈をすると、彼は片眼鏡を押し上げ、「あなたは詩人ですか、確率ですか」と尋ねた。私は「どちらも、夜になると甘くなる」と答え、二人で笑った。笑いは簡単な実験で、成功率が高い。

 昼前、Gが呼びに来た。「島の角のカフェで、ひとつ小さな遊びをしよう」と彼は言う。店に入ると、窓際のテーブルに、小さなグラスと砂糖とスプーン、厚手の紙が用意されている。Gは私の隣に、昨夜廊下で見かけた数学者を座らせた。

「君のPが残した文句——『その確率とともに生成して』——これを、今日の合言葉にしよう」とG。
「彼のpは0.37らしい」と私は胸ポケットから紙片を出した。
「奇妙に具体的だ」と数学者。「だが具体性はいつも救いだ」

 彼は砂糖をテーブルに落とし、「ここで割れたら君の詩、割れなければ君の浪費」と即興の試行を提案した。Gは歓声をあげ、私は肩をすくめる。砂糖は二度割れ、三度目は割れず、四度目は床を跳ねて、古い絨毯の粉じんの中に消えた。粉じんが光の柱の中で舞う。私は笑い、「今日の私は、詩と浪費のあいだで揺れる」と言った。「その確率とともに生成して」。Gはテーブルを叩き、「いい。君の生活はすでに格言の形をしている」と持ち上げ、数学者は「pは日々更新される」と横から補足した。私は紙に小さく書いた——〈p(詩)=0.63、p(浪費)=0.37〉。数字は冷たい。だが数字の周りには、常に蝋燭の油のぬめりがある。そこが詩の出入口だ。

 話題は島の噂に移る。夜ごと、匂いの信徒たちが別の階に集まり、睡眠の錬金術を試しているという。誰かが東洋の樹脂を持ち込み、誰かが天使の羽毛のような粉を混ぜ、誰かが鏡の前で沈黙を攪拌する。数学者は肩をすくめ、「分布を測りたい」と言い、Gは「測るな、香れ」と一喝した。私は窓の外の川を見やり、心の中で〈ボトルの法〉を点検する。香りは嗅ぐだけ、金は数えるだけ、自由は瓶に入れておく。だが、瓶はときどき、内側から蓋を押し上げる。島の風が、蓋の縁を指で弾く。

 午後、部屋に戻ると、机の上に見知らぬ小包。開けると、中から薄いスケッチが出てきた。炭で急いで描かれたセーヌの曲線とアーチ橋、そして欄外に、見覚えのある一行。〈その確率とともに生成して〉。署名はないが、筆圧はPのものに近い。スケッチの下に、微かに蝋燭の油が染みて、紙が透けるほど光っている。私はそれを暖炉の上、領収書の額の隣に立てかけ、鏡越しに眺めた。鏡の中の私の肩の上に、曲線が乗り、橋が私の鎖骨をまたぐ。私の骨の上を、川が渡っていく。詩は時々、骨の地図を必要とする。

 夕方、寡婦が扉を叩いた。両手に古い香の筒を持ち、「廊下の匂いが重すぎますから」と言って部屋の中に短く煙を通した。煙は蝋燭の灯に絡み、床の粉じんをやんわりと沈める。彼女は去り際に振り返って、「あなたの部屋にはまだ、空白の匂いがします」と言った。「空白はよく燃えます。お気をつけて」。私は礼を言い、扉を閉め、彼女の言葉の意味を考えた。空白の匂い——たしかに、机の上の白紙は甘い。甘さは退廃の従姉妹だ。だが、甘さなしに詩は生まれにくい。私は白紙の端を指で折り、角を鋭くする。角は行為のための小さな刃物だ。

 夜。二階のサロンは前夜よりも静かだが、沈黙が逆に熱を伝えてくる。扉の隙間から漏れる光は少なく、代わりに音が深い。壺の蓋が擦れる音、布が床を這う音、遠いところで匙がガラスに触れるかすかな音。私は廊下を通り過ぎて窓辺に立ち、川の黒を吸い込んだ。呼気が白くならない季節に、息は自分の色を忘れやすい。私は忘れるのが上手い。忘れることは、生成の前段だ。私は胸ポケットの紙を取り出し、〈p=0.37〉の横に小さく書き足す——〈更新:p=0.41〉。更新の根拠はほとんど匂いだ。蝋燭の油と川と粉じんの配合率が、今夜は違う。よい兆しだ。私は笑って、瓶の蓋をほんの少しだけ緩めた。

 机に向かい、冒頭の一行をまた変奏する。「石壁は呼吸し、私の浪費を歓迎した」。次の行に、「その確率とともに生成して」と書く。言葉は私の中で、昼の砂糖のように割れたり割れなかったりしながら、ひとつの塊になっていく。外では、誰かが階段を降り、誰かが上がり、誰かが踊り場で立ち止まる。石の呼吸に合わせて、館の住人たちの確率が入れ替わる。誰が戻り、誰が消え、誰が生成し、誰が分解するのか。私はペンを置き、耳を澄ます。薄い笑いと、短い咳と、ガラスの息。退廃の誘惑は、音楽のように調性を持っている。芸術の巣作りは、調性からわざと外れることから始まる。

 私は窓を閉じ、蝋燭の芯を少し短く切った。油の匂いが濃くなり、部屋の陰影がひと段落深くなる。暖炉の上のスケッチと領収書が、同じ赤い光の下で近づき、鏡の中で肩を寄せ合う。私は鍵を回し、背中で扉の重みを確かめる。確率は、今夜は私の側にいる。生成は、まだ始まったばかりだ。私はベッドに腰を下ろし、靴を脱ぎ、粉じんが床に小さな地図を描くのを見てから、目を閉じた。眠りの手前で、私は小声で反復する——「その確率とともに生成して」。その反復は、祈りでも呪文でもない。ただ、私がこの島の夜に支払う微税のようなものだ。微税は私を軽くし、軽くなった私の上を、川の風がやさしく渡っていった。

断章02 ホテル・ピモダン入居(第三節)

 翌日の午後、島の光は白粉をはたいた顔のように平らで、川面はその化粧をわざと不器用に映した。私の部屋には、昨夜の蝋燭の油がまだ低い位置で漂っている。窓枠から手を出すと、指先が湿り気を吸って柔らかくなり、古い絨毯の粉じんがその指の腹に薄く貼りついた。私の肺は、この館の空気をだいぶ覚えたらしい。吸うたびに、言葉の形がひとつ増える。

 暖炉の上には、領収書の額と、Pのスケッチ。そして、胸ポケットから出した三枚の紙——〈その確率とともに生成して〉と書かれた違う筆跡たち。私は机に三角形を描き、その三辺の中に紙を置いた。三角形は巣の原型でもあり、罠の原型でもある。私はそこに、今日の私の「魔法の言葉」を置くことにした。良い創作物を作るための呪文。まじないは滑稽に見える時ほど効く。私は声に出さず、口の中で転がす——その確率とともに生成して。その確率とともに生成して。その——。

 扉を叩く音。開けると、廊下から数学者が顔をのぞかせた。片眼鏡に朝の光を一枚引っかけている。

「昼に小さな集まりがある」と彼。「君のPの友人たちが来るかもしれない。サロンに」

「Pの?」
「彼の失踪は、たいていの人にとっては事件だが、我々にとっては分布だ」

 彼は肩をすくめ、階段を降りていった。私は上着をとり、机の上の三角形に目をやる。三片の紙の真ん中に、私のインク壺が置かれている。壺の蓋は暗いガラスで、蓋の内側に黒い世界が張りついている。私は蓋をひねる。その手つきが、瓶の蓋を緩める手つきと同じであることに気づいて、少しだけ笑った。

 サロンでは、昨日のような喧噪はない。客人は十人ほど、椅子は輪になり、中央に低い机。机の上には香の小さな壺が三つ、薄い酒、砂糖、そして鏡。窓は半分だけ開かれ、セーヌの湿り気が小さな橋のように床をまたいでいる。女主人は部屋の隅にいて、火の状態を絶えず観察している。火は油を欲しがるが、油はすぐに火を傲慢にする。傲慢な火は、詩にも退廃にも役に立たない。

 Gが手をあげ、「君が来た」と笑った。ヴァイオリン弾きは楽器を膝に、寡婦は扇を閉じたまま指先で軽く叩いている。数学者はチョークを持ち、黒い盤のない空中に図形を描くふりをした。

「今日の題は、匂いと記憶と確率」とG。「それから、失踪」

「順序が逆だ」と数学者。「まず失踪、ついで確率、最後に匂い。匂いが残るのは一番あとだ」

「では失踪から」と寡婦。「Pはどこへ」

 沈黙。鏡は輪の内側に置かれ、こちらを見返すのをあえて拒んでいるように伏せられている。私は胸ポケットの紙を取り出し、机に置いた。三つの筆跡が、どれも同じ文句を主張する。

「この言葉を合い言葉にしよう」と私は言った。「『その確率とともに生成して』。私たちは事の行方を作る側に回る。探偵ではなく、鋳造師として」

 Gが楽しそうに笑う。「詩人らしい暴挙だ」

 数学者が頷く。「よろしい。ではpを仮に0.5に置こう。帰還と失踪の確率は半々。だが、この場の匂いと、川の湿り気と、蝋燭の油と、各人の呼気で、pはたぶん変動する」

「良い」と寡婦。「匂いは記憶を織り替える。織り方を少し変えれば、pは傾く」

 ヴァイオリン弾きが低く弦を鳴らす。音は粉じんを起こさず、代わりに蝋燭の火を小さく揺らした。私は輪の外側の、割れていない床板の木目を眺める。木目は、川の流れの古い記録だ。そこにPの歩みを重ねてみる。橋を渡る足、画板の角で当たる肘、ポケットの砂糖の粒。私は口の中で呪文をもう一度転がした——その確率とともに生成して。

 議論はゆっくり進み、配合が決まった。蝋燭の油を一滴、壺の香を二粒、窓を三分の一だけ開ける。ヴァイオリンは、四分音符で二度、休符でひとつ。砂糖は割らない。Gはそこに言葉を置いた。「戻るための嘘、戻らないための真実」。寡婦は扇で空気を打ち、数学者は空中に小さな三角形を描き、私は鏡を半ば起こす。鏡には輪の半分だけが映り、半分は天井のひびを映している。世界の半分は、いまここで生成中だ。

 突然、階段の方から走る靴音。若い足。サロンの扉が開き、昨日見かけた仕立屋のモデルのような娘が息を切らして立っていた。手には小箱。

「Pから」と彼女。「橋の下、石の継ぎ目のところで見つけました」

 箱を開けると、中に折りたたまれた小さなキャンバス。炭で描かれた、島の輪郭。端には、あの一文。「その確率とともに生成して」。だが今回は、最後に数字が添えられている。〈p=0.58〉。誰が更新したのか。Pか、川か、橋か、それともこの箱を運んだ娘の脈拍か。数学者は「上がった」と呟いた。寡婦は「匂いの調合が効いてきた」と微笑んだ。Gは「君の呪文だ」と私の肩を叩いた。

 私は鏡をもう少し立てる。鏡は今度、輪の全員を映した。それぞれの顔に、蝋燭の油の薄い光沢。私の顔には、昨夜から続く痒みが残っている。その痒みが、今日は合図のように感じられた。私は立ち上がる。

「橋へ行こう」と私は言った。「探しに、ではない。生成しに」

 輪はほどけ、数人が私についてきた。階段を降りると、古い絨毯の粉じんが舞い、外へ出ると、川の湿り気が一層濃くなる。石の岸辺には、明るすぎない午後の光。橋の下は、声の弾む小さな聖堂で、言葉を反響させるのが得意だ。石の継ぎ目をたどると、薄く炭が擦れた跡が見つかった。そこにも、例の一文があった。誰かが指でなぞったのか、ほんの少し広がっている。私はそこに私の指を重ね、声に出して言った。

「その確率とともに生成して」

 Gが続ける。寡婦が口の中で唱える。数学者は数字を囁く。ヴァイオリン弾きが弓を軽く振る。橋の下で、言葉は湿った空気に溶け、石に染み、川の表面に薄い波形をつくる。観光客の笑い声が遠くで割れ、馬車の車輪が石を擦る音が手前で繋がる。私は言葉がどこまで届くかを測ろうとしない。測りは、生成の邪魔になる。いま大切なのは、言葉が戻ってくるかどうかではなく、出ていく瞬間の呼気の形だ。

 橋の影から出ると、風が頬を乾かした。私は小箱を娘に返し、礼を言う。彼女は「彼は戻らないかもしれません」と言って、しかし笑った。「でも、皆さんがこうしていると、戻る確率が上がる気がする」——感情でpを上げる。数学者が少し顔をしかめたが、すぐに頷いて、「心理的事前分布というものがある」と折れた。私は胸の中で呪文をもう一度唱え、橋の石に指を置き、粉じんを軽く払った。

 夕方、部屋に戻る。窓を開けると、セーヌは灰青色に沈み、蝋燭の油の匂いが、机の紙の上に月のような輪を作る。私はインク壺の蓋を取り、紙を引き寄せる。最初の行を書き、次の行に呪文を書く。書くたびに、手首の内側で小さな脈が跳ねる。言葉が骨の中に降りてゆく感触。良い創作物とは、骨に届いた言葉のことだ。届かない言葉は、翌朝、絨毯の粉じんに紛れて姿を消す。私は消えるものも愛するが、残るものはもっと愛する。残すために、私は私の「法」を少しだけ修正した。

 〈ボトルの法・改〉
 一、香りは嗅ぐだけ。ただし、創作の前には一滴だけ、手首。
 二、金は数えるだけ。ただし、友のための一杯分は盲判で支払う。
 三、自由は瓶に入れておく。ただし、呪文を唱えた日は栓をひと息だけ開ける。
 四、「その確率とともに生成して」を、書き出しの上に置く。

 私は声に出さずに唱え、少しだけ笑った。滑稽な法は、しばらくのあいだ私を守る。退廃の誘惑はここにある。香りはすぐ隣に座り、粉じんは私の靴を柔らかく包む。だが、巣は少しずつ形を持ちはじめている。巣は一日でできない。藁は折れ、枝は足りなくなり、匂いは夜ごとに変わる。変化のたびにpは動き、動くたびに言葉が更新される。

 夜。サロンは再び賑やかだ。私は輪の外に立ち、扉の枠に背を預け、眺める。火は昨日より穏やかで、鏡は伏せられていない。誰かが笑い、誰かが囁き、誰かが泣く。私は混ざらない。混ざらずに吸い、混ざらずに書く。その距離を私は選んだ。選ぶとは、pを操作することだ。私は胸の中の瓶の蓋を指で押さえ、呪文をゆっくりと反復する。

 ——その確率とともに生成して。

 ただの言葉だ。だが、橋の下で、廊下で、机の前で、私はその言葉で呼吸の形を整えた。呼吸が整うと、石壁の呼吸と合う。合えば、壁は私の浪費を歓迎し、同時に節度を思い出させる。香りは甘く、湿り気はやさしく、粉じんは軽い。私はペン先を見つめる。黒い滴が、紙の上に落ちる寸前で、かすかに揺れる。私は落とす。落ちた音はしない。ただ、文字になった。生成の音は、いつも無音だ。

 遅い時間、窓の外で馬車が止まり、誰かが降り、誰かが乗り、また動く。私はペンを置き、立ち上がり、鏡に向かう。鏡は私の肩の線を少しやわらげて返す。痒みは消え、代わりに疲れの軽い疼き。私は灯を弱め、鍵を回し、ベッドに腰を下ろす。毛布を引き上げる前に、胸ポケットから三枚の紙を取り出し、枕の下に差し込んだ。呪文は、夢にも作用する。夢のpは、昼より自由だ。

 目を閉じる。耳の奥で、川が揺れる。遠くでヴァイオリン。近くで誰かの囁き。私はその上に、最後にもう一度だけ、言葉を置く。

 ——その確率とともに生成して。

 島の夜はそれを受け取り、薄い布のようにたたんで私に掛けた。私は軽くなり、軽くなった私の上を、創作の風が渡っていった。翌朝、机の紙の上に、昨夜の私が置いていった言葉が残っていることを、私はまだ知らない。だが、残るだろうという確率は、たしかに上がっていた。

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半隠遁生活を営む工場労働者