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【歴史小説】天文官:白起 軍門から天文へ… 【第2章】上邽の星 完

【第2章】上邽の星

【1】

薄い朝の白さが、屋根の面をゆっくり撫でていく。庭の畝は、春より背を伸ばした。葱は鋭さを増し、菜の葉は風の線をより長く見せる。露は少なく、土はしっとりとした深みを残しながらも、手の甲に触れると乾いた粉をひと筋残した。夜に冷えていた竈の灰は、凛の指先で軽く崩れると柔らかい匂いを立てる。夏の匂いは、火の消え際に最初に来る。

「白様、灰が軽くなりました。」

凛は灰掻きを置き、壺の布を指で整えながら言う。

「水も、井戸の一本目はぬるい。二本目のがよろしいです。」

白起は頷き、縁の影から畝を見た。葉の裏側に小さな影が増え、影の縁が春より柔らかい。夏の影は、力を見せびらかさない。深く、長い。しかし、太陽はそれに反するように強くなる。

蒋は、家の周囲の柵を点検しながら歩く。

「白様、畑の様子も随分と変わってきましたね。」

「夏は成長の時期でもある。同時に成長の分岐点となる。咲くか枯れるか。人も同じ。」

蒋が表情を締めて頷く。人知れず白家の行方を考え、悩んでいたのかも知れない。左遷の身になったとはいえ、蒋にとって白起は主人である。慕う主人の未来を呪う師弟などいない。蒋も例に漏れ無かった。

「白様、今日の夕刻より勤めが始まります。私は官吏ではないため同行できませんが、一層白家のために尽くして参ります。」

「蒋よ、そなたの尽力、努力は私が一番よく知っている。今は畑を耕し、種を蒔くときだ。焦らず、じっくりと、丁寧にな。」

「はい。身に余るお言葉です。」

蒋が感極まったように頭を垂れる。杜は庭の隅で腰を下ろし、二人の会話を見守っていた。蒋は杜が推薦した若者だ。誰よりも蒋の未来を考えているだろう。杜が靴底に張りついた土を石で落とす。落ちる土の塊が、春より小さい。「乾き方が変わりました。」とだけ言う。杜の言葉は、いつも来し方の重さでできている。素朴であるが深みがある。

家の中には、期待があった。張り詰めた糸のような緊張も、同じ所に居座っていた。任用の手続きが整って一夜。今日の朝は、郡の府長と県令へ正式に挨拶する。昼には天文台を視察し、夜の巡りに備える。家人それぞれが、持ち場の道具を指で撫で、息を一度整えた。皆が平静を装っているが、浮つきを隠せない。

凛は粥を薄くし、椀の縁を布で拭う。やや多めに刻んだ葱を、最後にこんもりと盛る。今日の粥には添え物があった。

「ささやかな祝いとしてほし肉を付けてみました。本来であれば、蒸し肉や羹にすべきですが、先の生活を考えると…。」

歯切れが悪くなる凛に向かって白起が労う。

「それでこそ白家の女中頭だ。倹は未来の我らを救う。」

凛の顔がぱっと明るくなった。杜も蒋も歯を見せる。白起は椀を受け取り、湯気の輪郭で熱の高さを測り、少し冷ましてからすすった。熱は舌の上ではなく、胸の奥に座る。「よい。」と言って椀を置く。

「白様。」凛がさりげなく口を開く。

「府長のところでは頭を低く、県令のところでは言葉を少なくですか?」

白起が苦笑する。同時に蒋が笑った。

「頭を低く、言葉を少なく。官吏の心得でしょうか。」

杜は頷き、腰帯を締め直す。「出過ぎた才覚は。」と言いかけて杜が口をつぐむ。

「隴西に飛ぶ。」白起が引き取った。

たまらず皆が吹き出してしまった。白家の中で、左遷は既に過去の物になっていた。笑いに用いられるほどに。これからは皆で天文の道を行く。相手は人ではなく空。未だかつてない戦いが始まるのだ。

出立の際は3人が見送ってくれた。皆、凛とした表情をたたえていた。

「白様、天運を。」杜が言葉をおくる。

「うむ。ゆく。」短く白起が受け取る。前には青い空が広がっている。

門を出ると、町はすでに薄い熱を持ち始めていた。朝の風は、春には真新しかったが、今はどこか馴れている。屋根の土が水を吐き、石の面が夜の冷えを手放していく。犬の声は短く、店の戸はまだ半分だけ開いている。足音は多いが、声は小さい。夏は、声の前に汗が出る。

道の端では、童が水を撒いている。壺の口からこぼれた水が、土に丸く吸われて、跡だけがひんやりと残る。駄馬の背に巻かれた布が薄く、紐の結び目が春より高い位置で結ばれている。汗を避ける結び方だ。

「夏の結び、か。」と白起が呟く。

見慣れた町が、季節で少し表情を変える。

露店はまだ全面には開かないが、匂いは通り始めていた。蒸した根菜の甘さ、煮た穀の匂い、油に火を入れる前の静かな気配。土器の縁は露で滑らかに光り、縄の繊維は夜露を吸って指に柔らかい。塩の店の前では、塩が小さく湿り、塊の輪郭が春より丸い。

(塩、鉄。専売から上がる利は何を富ませる?)

白起の思索は町の風景とともに流れていく。理、利、名。

川筋へ下りる細い路で、洗い場の女たちが布を絞る音が連なった。絞り水が石に落ちて、薄い紋を描く。石は紋を覚え、日が高くなるとその紋が消える。夏は、覚えたものをすぐに手放す季節だ。地に落ちた水も姿を消すように。

(手放すことを覚える季。台は手放さぬ。)

拳を強く握る。そこではっとする。天文官の職に執着し始めている自分に。

(執着により身を滅ぼしたのではなかったか。)

城の中心に向かうに連れて、道は少しずつ固くなる。郡府へ続く道は、朝の足で磨かれている。兵の靴底の音が石の角を叩き、商人の荷車が木の軋みを低く引く。声は相変わらず小さい。官の近くでは、より秩序が重んじられる。

(天文官とて秩序の中。縄で繋がれた者にすぎぬ。)

郡府の門に着く頃には、日差しが屋根の端から一歩、地面に降りていた。門吏は槍を立てているが、目は白起を知っている。昨日の挨拶の続きだという合図で、竹簡の提示は省かれた。

廊に入ると、筆の先の音が雨のように細く続く。帳簿は机の上で並び、木簡の紐は色で目的が分かれる。夏の光は、部屋を白すぎるほどにして、墨の線を一段と黒く見せる。郡府の空気は、秩序の重さでいつもよりひんやりしている。

府長の前に出る。府長は細い目をさらに細くして、白起を迎えた。

「白起。」声は短い。「昨日の通り、着任を認める。」

白起は礼をとる。

「報は期日に。凶はすぐに。」

「すぐに、だ。」

府長は机上の札を指で押し、淡い朱の跡を見た。

「夏は、何事も騒ぎやすい。騒ぎやすい季には、言葉は短い方がよい。」

「承知。」

「台は東門の北端。風が南から東へ回る日がある。」

府長は目を逸らさずに言った。

「その日に、灯を高くするな。」

「低く。」

白起は繰り返し、府長を一瞥する。府長は小さく頷いた。府長との挨拶はそれで終わった。必要な言葉は届いた。余計は互いに持ち帰る。廊を出る際も筆の動きは変わらない。白起が存在の有無に限らず。官の建物は、秩序で身を守る。

郡府を出ると、日がもう一歩下りていた。次は県令へ。道は市場の縁を抜けている。市場は朝の顔から昼の顔へ移り変わる途中で、軒の布がほぐれ、縄の結び目がほどけ、手の動きに速さが出る。

塩の店では、塊を割る音が次第に強くなり、麻の店では繊維を捻る指の音が聞こえそうだった。陶の店では、釉の光が増し、農具の店では小さな火が息を吸い始める。白起は目を細め、空の白さを指先で測る。

(今日の白は、薄い。薄い日は何を呼ぶのか。)

県府の門は郡府より低い。だが、郡府同様、秩序は保たれている。門吏は白起を見ると即座に内へ合図し、白起を誘う。県府の廊を進む。郡府をそのまま小さくしたような構図だ。最奥の部屋で県令が待っていた。

県令は年配で、目の奥に湿りを残している。

「白起殿。お久しいですな。」

「今後もお頼み申し上げます。」

「そう堅くならずに。世話は天文台の官吏に任せています。私は邪魔をしないだけ。勤務の形態も向こうで伝えてくれるでしょう。」

県令は机の横の壺から水を汲み、自ら白起に差し出した。

「夏は、言葉より水だ。」

白起は椀を両手で受け、口を湿らせた。水は井戸の二本目の味がした。凛が朝に選んだ方だ。

「天文の官吏は三つの長に別れる。その一人がそなただ。正天文官が一人、副天文官が一人、書記と雑役が二人。皆で四人。よく働くことです。灯は小さく。報は早く、正確に。三日に一度は当直番が来る。詳しくは天文台で。」

県令の声は、窓から差す光よりも柔らかい。

「異象があれば、まず天文台で精査。台で整えてから、県府へ。」

「整える間に、空が変われば。」白起。

「その時は、白起殿が自ら早馬で県府へ。」

県令は短く微笑んだ。白起は静かに息を吸った。挨拶を終えると、県令は一歩前に出た

「夏は夜が短い。公務始めには悪くない。」

「ゆっくりと慣れていきます。」白起が言う。

「それでよい。」県令は頷いた。「遅く歩く者が、一番遠くにゆく。」

県府を辞した頃には、町の光はすでに強くなっていた。だが、白起の歩みは変わらない。道すがら、季節の交代が細かいところで顔を出す。川辺の柳は、枝の重みで水に触れようとして触れない。家々の簾は半分まで下り、影の厚さを調節している。屋根の上の土は、乾き方の違いで地図のように斑になり、塀の角には夜の冷えがまだ一握り残っている。子の笑い声は遠く、鍛冶の音は近い。夏は、音の距離を入れ替える。

(今日は良い風が吹いている。気象も荒れそうにない。)

家に戻る途中、路地の影が深くなる場所で白起は一度だけ足を止めた。影は冷たく、石の面は滑らかで、朝の息がまだ残っている。夏の朝は短いが、短さを留めておく方法がいくつかある。そのひとつが、影だ。

(影は私の一番の理解者。私の全てを知っている。そして、影は天文に通じている。)

家の門に戻ると、凛が出迎え、火に息を吹き、湯を少し沸かした。蒋は作物の様子を見ており、杜は柵の綻びを修復していた。家人の呼吸が、朝の息よりゆったりとしている。もう緊張の糸はない。日常が戻ってきたのだ。白起は座に腰をおろし、凛の出してくれた湯で喉を潤す。

「官庁への挨拶はいかがでしたか?」蒋が問う。

「うむ、府長は法の人。県令は人情の人という感触だ。」

「府長様は厳しいお方なのですね。」

「厳しいというよりも法、秩序を重んじている人だな。秦の役人の典型と言っていい。柔軟さはないかも知れないが、町の治安には必要な存在だ。」

秦の法律の厳しさは全国に轟いている。それは咸陽だけでなく、白起のいる上邽も同じだ。どこにいようとも秦の領地にいる限り法が追ってくる。

「蒋よ、汝も一度、秦の法をじっくりと学んでみるが良い。良し悪しあるだろう、そこから得られるものを上手に吸収するのだ。」

「はい、かしこまりました。最近の勉強会では法家も取り上げられるのです。」

蒋は最近、青淵の勉強会に参加している。天文学だけでなく、法、天文、農、儒、道、医など多岐に渡る分野の学問を収めている。蒋は分野を絞っていないが、白起はそれでいいと思っている。若いうちに多くを学んでおく。そこから己の道を導き出せば良い。

「白様、公務は今日の夕刻からですか?」

室内に戻ってきていた杜が伺う。

「ああ、今夕からだ。まずは勤務体系を知る。三日に一度は当直の番がある。当直の日は昼に寝ておき、夜通し観測する。それ以外の日は夜の中盤で観測を切り上げ帰宅する。」

「天文官はかなりの体力勝負になりますね。当直があるかどうかで昼間の行動も変わってきます。」

「うむ、これまでの生活とは違ってくる。みなにも生活の変化があるだろう。特に当直の日には。これはもう慣れるしかないと思っている。」

3人が頷く。

「当直終わりには熱い粥を作って待っていますよ。」

凛が笑顔で答える。白起も頷く。

「ありがたいことだ。しかし、凛よ、無理はしないように。」

「はい、白様。御配慮に感謝します。」

食事を終えると、白起は少し眠った。当直ではないが頭が冴えるように数時間休む。起きた時には太陽がかなり傾いていた。招集の時間にはまだ余裕がある。

「白様、お目覚めですか?」

部屋で伸びをしていると凛が声をかけてきた。

「ああ、今起きた。凛よ、湯を一つ頼む。あと、餅を二つばかり作っておいてくれ。」

「かしこまりました。うんと力の出る餅にしておきましょう。」

凛が張り切って廊下を歩いていく。家の中の期待は声にせず、緊張は道具を撫でる手の中でほどける。白家の日常はゆっくりと進行している。まもなくこの天文官の職も日常の一部となる。

(行こう。――夏の歩幅で。)

空の白は少し薄く、風は骨を撫でるだけで、衣を揺らしすぎなかった。町の夏は、静かな速度で始まり、白起の夏もまた、その速度で始まった。

【2】

日は斜めに落ち、町の土が薄い金に変わる。屋根の縁は熱を手放しはじめ、簾の影が地の上でゆっくりと位置を移す。庭では葱が細く鳴り、畝の土は朝より軽く、指でつつくと乾いた粉が涼しい顔をして舞い上がる。空は浅い蒼の底で、遠い雲だけが白さを残している。夏の夕刻は、昼の活気を一段抜いたような落ち着きがあった。

「白様、帯が少し甘いです。」

凛が近づき、結び目を一度解いて結い直した。指先が早い。

「今夜は強い風が東へ行くかも知れない。灯の管理には気を付けるがよい。」

「杜。」白起が呼ぶと、杜は竹の筵を巻いて立ち上がる。

「戸が少し綻んでいる。戻るまでに手を入れてくれ。」

「承知。」杜は短く頷いた。長年、白家の家宰を務めてきた男。家の修復は朝飯前だ。

蒋は門の内外を一度往復し、「外は祭の前みたいです。」と笑った。

「皆、家路についているのだろう。これからは家庭の時間となる。」

「でも、白様の戦いはこれからですね。」凛が付け加える。

「西壁の低いところが澄んでいる。夜半は、風は強いが、いずれ静かになるだろう。」

白起は3人を見渡し、息をひとつ整えてから言った。

「行く。――家内は任せる。」皆が礼をする。

凛は火の具合を見てから、白起の袖をそっと直した。

「白様、帰ったら熱い粥を用意します。星の話が長くなっても大丈夫なように。」

「働きがいがあるものだ。」

白起は笑って頷く。笑いは声にならないが、家の空気がわずかに温くなった。

門を出る。夕刻の町は、昼の顔を丁寧に畳んでから、夜の支度を始めたところだ。油の店は灯を試し、縄の店は巻き直しを終え、陶の店は釉の光を最後にひと撫でしている。井戸の列では、壺の口が静かに触れ合って、魚のうろこのような小さな音が連なる。遠くから、鍛冶の槌が打ち上げる乾いた音。近くでは、子の笑いが短く跳ねて、すぐに消える。

道の上では、風が細い。汗のにおいと肉の焼ける匂いが、ほとんど音を立てずに通り過ぎていく。白起は歩幅を半分ほど詰め、足の裏に土の傾きを拾わせる。石畳は所々で角が丸く、陽が落ちるにつれて、角の丸みが増したように見える。夏の夕刻は、硬いものを柔らかく見せる。

市場の端を抜けると、葦簀越しに見える人の影が長い。女が布を畳むと、畳まれた布の角に残った光がゆっくり消える。男が秤を手に、錘を一度だけ置き直す。白起は横目で見るだけ。天文台へと急ぐ。

(ここまで、千変万化の戦場で生きてきた。)

(速い戦、速い命令、速い死。)

(今は、遅いものの領域へ入っている。)

城壁の影が長く伸び、門が夜の色を深くする。黒い四角――天文台――が、夕蒼の中でゆるく浮き上がっている。白起の胸に、静かなものが増える。呼吸を深くする。夕陽はまもなく沈み切る。

道すがら、白起は自分の背中の重みを測った。咸陽の頃は、鎧と馬。上邽の重みは、星と観測。どちらも責は重い。一つ間違えば宮廷の叱責が飛んでくる。咸陽との距離は関係がない。それは将軍時代に身に沁みて理解していた。それが秦の法である。

(将軍を畳んだのは我が失態。星を見る職ですら緊張の海に入るに等しい。)

東門の夜留の番が火を細く保っていた。二人とも、夏の夜の顔つきである。顔の筋肉が日中より緩み、額から汗が滴る。番のうち、年長の方が立ち上がり、低く礼をした。

「白起様。着任の件は伺っております。こちらの段より天文台にお上がりください。」

白起は頷き、門のすぐ近くから伸びる階段を進む。台に上がる前に、白起は足を止めた。

「私は今夜から、正天文官としてここに入る。」

番の二人が姿勢を正す。

「不手際もあるだろう。行き届かぬところは補佐を頼む。」

二人がさっと礼の姿勢をとる。それを見届けて白起は階段を進む。小屋は城郭と陸続きになっており、土や石で盛り固められた台地に造られていた。小屋と言うよりも一つの家屋に近い。窓も備え付けられているところを見ると、いくつかの部屋に区切られているようだ。

正面の扉を叩き、名を名乗ると、中から30代くらいの男が顔を出した。

「おお、白起様。どうぞ中に。」男は慇懃に白起を迎えた。

中に入ると中央を廊が通り、左右に二つずつ設けられていた。男は右奥の部屋に白起を通す。そこにはもう二人の男が座についていた。

案内した男が紹介する。

「こちら正天文官に着任した白起様です。」

座についていた男たちがすっと立ち上がり礼の姿勢をとる。

「向かって左側が副天文官の程慶(ていけい)殿。もう一人は書記の李温(りおん)殿。最後に私は雑務役の史狗(しこう)と申します。私共が今日より白起様をお支えします。」

「白起だ。天文官の職は初めてとなる。皆の力添えが必要だ。よろしく頼む。」

思わぬ白起の辞儀で三人がたじろいだ。

「私どもに頭など…身に余る光栄です。」程慶が引き取る。

程慶は痩せた男で、額が広く、温厚な表情を湛えている。背の低い丸顔の男が李温だ。肩の広いがっしりとした若者が史狗。

李温は筆を指でくるりと回し、白起たちを見回して口を開いた。声は軽いが、要点は逃がさない。

「では、白起様。勤務の型をお伝えします。要点だけを申し上げます。細部は実務の中で掴めると思います。」

程慶が肘で机をとん、と叩く。「うむ、要点だけ拾っていけばよい。」

李温はうなずき、札を三枚、板の上に横一列に置いた。夜気が札の端で冷え、墨の線がくっきり立つ。

「まず更(こう)の刻み。わたしたちは夜を三つに切って働きます。」

初更:日没から夜のはじめ。灯を低く、目を慣らす段。

二更:夜半まで。主観測。斗柄(北斗の柄)、二十八宿の要(要星)、雲・風・月の状態。

三更:夜半から暁前。記録の補い、漏刻の調律、結び目の点検、異象があれば追観。

昼は、圭表(けいひょう)の影を測り、器具を乾かし、報をまとめる。毎日ではないですが、節候(季の節目)前日は必ず行います。」

白起が素直に手を挙げる。「非番は?」

「三日に一度、非番が回る。非番でも朔望(月の満ち欠け)と節候の前後は呼び出しあり。呼ばれたら来る。来られぬ時は減給の可能性もあります。」

李温は二枚目の札を指で叩いた。

「次は役割の分け方です。

正天文官:観の基準、観目(みめ)の決定、報の骨子。『何を見るか』『何を残すか』は白様が決める。

副天文官:空と台の“間”。風や雲、器具の癖を先に拾い、観を支える。

書記:記す。長くせず、抜かず、飾らず。報の文言を整える。

雑務役:足と手。灯、札の受け渡し、結び目、漏刻、水。急の時は足となります。」

程慶が口を挟む。「我々三人は長年この仕事に従事しております。雑務役であろうと一夜くらいなら天文官の代行ができる技量を持っています。もし、欠員が発生してもなんとか補える組織力になっておりますので、ご安心を。」

「それはありがたいな。」白起は頷く。

「風が止んだときの遠い音、夜半の犬、城門の木。夜の町の音は面白いですよ。星だけでは退屈すぎます。」

史狗が小さく笑った。「軽口がすぎるぞ。」程慶が嗜める。

「いつもの事ですので。」李温は笑い、話を進める。

「手順に入ります。

暮れ六分の頃:灯、器具、書記の準備。軽い食事をする時もあります。。

初更:斗と南の要星を“置き目”にします。置き目が決まればその日の骨子が決まります。

二更:観の本体。白起様の合図で、記載順は——『風・雲・斗・宿・月・その他』。

三更:重ね観と補い。相違が無いか確かめ合います。

明け前:報の草案を作成。白起様の決裁で報が送られます。」

白起が短く問う。「今の季ならどのような報に?」

李温は淀みなく答える。「夏。斗柄が東に戻る夜は『畦水、通すに宜し』。南の尾・箕が澄めば『草刈り、疾く』。月が太って雲が遅ければ『乾穀、慎むべし』。あくまで一つの例になりますが。」

史狗が身を乗り出す。「異象は?」

李温は三枚目の札を取り、朱の小印を指した。「異象は三つに分けて扱います。

天文(恒星の異):宿次の乱れ、色の変。

五星(遊星):行度の異常、合・犯(おかす)など。

日月:暈・珥(かさ)、蝕の兆し。

どれも“驚かず、短く、すぐ”。『すぐ』は史狗の足、『短く』は私の筆、『驚かず』は白起様の顔。」

程慶が笑う。「顔が一番むずかしい。」

白起は平らに言った。「長い戦場で驚きは忘れた。」

「それはよろしゅうございますな。」李温は真顔に戻る。

「報の道筋も大事です。順は——

県へ内報(夜明け前または辰の刻まで)。

郡へ抄(しょう:写し)を同日中。

凶のときは先報——文字よ口、口より足。印は後でよいです。

凶の場合はまず県令に。郡府には県令から早馬が出ます。その後、凶に関する報を作成し提出します。」

「これまでに凶が出たことは?」白起が問う。

「あります、台風の予兆、大雨、強風なども。夏の終わりから秋にかけては凶の可能性が高いです。」李温が記憶を辿りつつ答える。

「」李温は筆を置き、両手を開いた。「休みと交代。七日で“一度の非番”が回るが、節候・朔望・雨兆は県府から急な呼び出しがあるかも知れません。昼の校正日を月に一度、必ず設ける。圭表、漏刻、方位枠、家屋の状態、器具の点検など異常がないか確認していきます。」

「報の文言は一定でも良いのだろうか?」白起。

「残念ながら同じような記述ばかりが続くのはよろしくないです。」

李温は肩をすくめた。

「同じことが続くようなら言葉をずらします。『晴』ばかり書かず、『星光堅』『風骨静』『雲不至』と、夜の質を繊細に残していきます。言ってしまえば美辞麗句ということです。ここはお役所、といったところです。」

程慶が念を押す。「観測の際はほとんど明かりをつけません。書記の部屋だけに僅かな光を用います。観測の報告は部屋の扉越しに口頭で行います。明るさに目が慣れないようにするためです。」

「油は惜しむが、言葉は惜しまぬ。という感じですね。」李温は白起を見た。

「長文は“昼の官”が喜びます。夜の台は灯火を喜ばない。」

白起がうなずく。「鍵と札の受け渡しは。」

李温は鍵袋を指した。

「二重にします。外柵の鍵と家屋の鍵。夜の終わりに全員で点検します。これで夜の閉じが完了します。夜明けに報告を届け、早朝に解散となります。そしてまた夕刻、ここに集うことになります。」

李温は最後に札を束ね、白起へ向き直る。

「白起様。勤務形態の説明は以上になります。簡単な説明に終わりましたが、実務の方は我々が支援いたします。他にお聞きしたいことは。」

「いや、十分だ。」

「承知いたしました。では、夜までまだ時間があります。狭いところではありますが、ゆっくりとお過ごしください。この部屋は小休憩をとる部屋です。残りの三つは書記部屋、器具室、仮眠室となっております。」

李温は愉快そうに笑った。短い説明は終わったが、夜の仕事はこれから長く続く。まだ夜の端は来ていない。夕の色は薄く、町の灯がぽつりぽつりと生まれていく。台から見下ろすと、屋根の線が互いに距離を取り、道の曲がりが緩くなる。夏の夕刻は、音の数が減る代わりに、間が増える。白起は窓から町を眺めながら息を吐く。

程慶が肩を回しながら問いかける。

「白起様は、いつから星を見ておられましたか。」

「従軍の天文官から少しだけ教えを受けたことがある。翌日の天候を読むために。その時から星は見ていたが、お前たちのような知はない。」白起は言った。

「戦の頃は夜が長かった。」白起が続けた。

「戦の後は。」

「一人で考える夜が増えた。戦の頃よりも夜は深くなったな。」

「今はどうです。」

「別の夜が始まろうとしている。」

「軍門から天文とはかなり異色の転身ですね。先例は聞いたことがないです。」

李温が引き取って言う。三人とも白起のことを特別視しようという気配はない。それは白木にとってありがたいことだった。郡府や県府では、廊を歩くだけで奇異の目で見られた。しかし、この小さい家の中では誰も白起を気にしない。一人の上官として平然と接してくる。

しばし雑談が続いた。李温の野心話で場が熱くなり、史狗の身の上話に皆が聞き入る。程慶は間を見て、好奇の問いを発する。白起は多く語らず、語る時は短い。語らない時はじっくりと話を聞き込む。徐々に暗闇が周囲を包んでいく。李温が門下の灯を指した。

「今日は灯がまばらで、声が少ないですね。」李温。

「歌がない夜は、星の言葉が聞こえやすい。」程慶。

「煌々と火を焚かれると観測に障りますからね」史狗。

「民の歓楽は、我らの困難だな。」白起。

遠くの城門が一度だけ低く鳴った。風向きが指の幅だけ変わる。東から来る風が、南の匂いを少し連れてきた。白起は肩をわずかに北へ寄せ、台の北角に半歩、重みを移す。

「白起様、灯の芯をそろそろ。」程慶が告げる。

「うむ、いよいよだな。」白起。

史狗が器具室から油を持ってくる。李温は札を整え、筆の先を舐め、程慶は空の端で薄い星を探す。まもなく公務が始まる。白起の初陣である。

白起は一度だけ、町の方へ目をやった。屋根の黒が増え、簾の影が消え、窓が灯の色になっていく。家という家が、ぼうっと呼吸している。ひとつひとつ違う呼吸。ひとつひとつ違う速度。

(あれらを、乱さないこと。)

(星を見る者の務めは、乱さないことだ。)

程慶が小声で問う。

「白起様、台はお気に召しましたか。」

「ふむ、この静けさは今までの人生にはなかった。」

白起は空に目を向けた。

「戦場では気が休まらない。一つの過失が死を招く。ここは違う。別の戦場だ。」

「別の戦場。この戦場の相手は広大です。」

「さらに毎日陣形が変わる。」白起は笑って、角尺を置いた。

丘の下から、細い笛が聞こえた。誰かが子を寝かしつけているのか、あるいは、自分を寝かしつけているのか。夏の笛は、冬より遠くへ届く。空気が柔らかいからだ。李温が耳をすませ、「これは書けない音だな」と呟く。史狗が胸を張る。「音を記録するのも書記の職務ですな。」程慶は肩を竦め、「あの音は眠りを誘うな。」とまとめた。

白起は柵の結び目に触れ、夜露を待つ場所を指で覚えた。夜になるまで、あと僅か。台の上の人々の声は薄くなり、道具の所在が静かに決まる。灯の高さ、漏刻の口、角尺の位置、札の順序。ひとつひとつが、夜への支度であり、人生の支度でもある。

(戦は、命令で始まる。観測は、天の声で始まる。)

(これほど静かな戦場はこれまでに無かったな。)

「白起様。」程慶が姿勢を正した。

「今夜から、この天文台は白起様のものです。」

白起は首を横に振る。

「ここは誰のものでもない。故に皆で守るのだ。」

その言い方に、李温の口元が静かに緩み、史狗の頷きを繰り返す。程慶が軽く笑い、「閣下の部隊はいつでも動けますよ。」とだけ残した。

町の灯が増え、風が少し強くなる。台の四方が空の色に溶けていく。白起は額にわずかに夜の冷えを受けた。だが、まだまだ暑さを残している。

「機は熟した。李温の灯以外を消そう。」白起が言う。

「はっ。」程慶が応じる。

史狗が芯を切り、李温が筆を持ち直す。程慶が空の端で最初の星を探す。台の上にいる者たちの影が、長さを失っていく。影がなくなると、仕事だけが残る。夏の夜は、静かに加速する。しかし、騒がない。

白起は一度だけ、家の方角へ目をやった。見えはしない。だが、白湯の湯気、凛の火の高さ、杜の高説、蒋の若気、胸の中で場所を持っている。

(私には帰る場所がある。)

(帰る場所がある者は、遠くまで行ける。)

「始めよう。」白起は低く言った。この一言が夜を呼び、台は戦場になる。夏の夕刻は、ついに夜に手を渡しつつあった。灯は低く据えられ、芯を切り、油は惜しまれた。器具室の扉が静かに閉まり、台の上に残るのは人と風。夏の夜は、蒼さを脱ぎ捨てるのが遅い。昼の薄衣が、山の端にかかっている。

「史狗、漏刻。」

白起が言うと、史狗は水鉢の縁を拭ってから、細い流れを落とした。水の音は、土の音に合う高さに調整してある。点と点が等間で落ちる。

「今日は落ちが素直です。」史狗が囁く。

「水が怠けたい夜は、星も怠ける。」白起は笑わずに言った。

「怠けた星に、怠けた字を遣わないことだ。」

李温が筆の先を整え、札の順を右から左へ、ひとつずつ撫でる。

「夜留の交代、油の受領……報の枠はいつでも空けておきます。」

程慶は闇の深さを量っていた。

「そろそろ最初の星が現れます。」

最初の星は、台の南東の端で灯る。ほどなくして、東の浅い闇の境目に、細いしるしが幾つか――織女が生まれ、天漢が薄く滲む。さらに遅れて、南の高みに赤い火が浮かぶ。「大火。」程慶が静かに名を置く。心宿の二、民の言葉で言えば“夏の印”。赤いひとつの火が、季と風と田の機嫌を背負っている。

白起は角尺を持ち、台の縁に当てる。

「程慶、北の角、半歩内へ。」

程慶が無言で踏み直す。台は人の重みを覚える。重みを正しく置けば、木は長く持つ。

「斗柄は。」白起。

「南へ指しかけています。」程慶が空の北を指さす。

「季に合う指し方です。夜半にはもう少し東へ戻ります。」

北斗の柄が南を差す――夏。古い言い回しが台の上を静かに転がる。斗で月を量り、年を量る。白起の胸中に、遠い戦場の陣形図と同じ種類の“秩序”が立ち上がる。

(速い戦には、速い衡がある。遅い星にも、遅い衡がある。)

(衡は変わる。だが、変わり方に型がある。)

白起は灯の影を踏まぬように、台の西角へ移る。

「李温、書く。――『初更始、風東微、灯低、漏細、斗柄向南、大火赤而定』」

李温が声に出して復唱し、筆を滑らせる。竹簡が墨を吸う音が、夜の底で小さく鳴るようだ。

史狗が耳をそばだて、「門の方、遠くで笛です。」

程慶が頷く。

「笛は風を呼ぶ。風は雲を呼ぶ。雲は暗雲の可能性もある。」

「来ないなら来ないとして書け。」白起は短く言う。

「“雲不至”,それだけで足りる。」

李温が笑った。「長い文が好きな官吏いますが、台の書記は短文を好みます。」

程慶と史狗がくすりと笑う。白起はじっと空を見ている。

やがて、天漢が濃くなる。織女と牽牛が川を挟んで向き合い、間の諸星がにじんで橋を架ける。史狗が無遠慮な子のように問う。

「あれはいつ会うんだ。」

「暦の話にすれば秋の七日。」程慶は言葉を柔らかく落とす。

「物語にすれば、今夜でも会う。」

「台の上は暦に従う。」白起がまとめる。

「物語は家で語るが良い。家で語れば、家の火が長く持つ。寝物語には最適だ。」

南の空では、尾・箕の辺りがゆっくりと高みに差し掛かる。尾の紐のような星列、箕の匙のような形。

「尾のたわみが少ない。」程慶が目の端で言う。「風が東で、湿が軽い。」

「ならば露は遅い。」白起は角尺を置く。

「史狗、結び目は三更前に一度だけ締める。二度締めるな。縄は過ぎると駄目になる。」

「承知しました。」

史狗は膝に手をつき、夜の床の固さを確かめるように身を起こした。

白起は北の方へ身体を返し、北辰の“領域”を確かめる。極そのものは星にならない。ぐらつく中心を、周りの星が抱え、回る。その抱え方の揺れが、年ごとに微妙にずれていく。

(中心は、見えない。見えすぎる将は、狙い撃たれる。)

咸陽の朝議、軍の進退、将の名、功の列。見えるものほど崩れやすい。白起はそれをよく知っている。

(見えないものの側で、長く立つ。)

「白起様。」程慶が低く呼ぶ。

「南、雲の端。」

白起は振り向かない。耳で、まず位置を取る。風が東から、薄い布を引き摺ってくる音。南の高みに僅かにかかる綿。

「薄い。」白起。「逃げる雲だ。」

李温が筆を止めず、「『南雲如綿、行東』」

程慶が付け加える。「『星光不滅』」

史狗がうれしそうに頷く。「風が来ていますねぇ。」

初更が深まり、町の灯が少し減る。台から見下ろすと、屋根の黒が増し、道の線が細る。家々の息が、均一でなくなる。誰かが遅くまで何かを煮ている家、誰かが泣いて眠らない家、誰かが静かに書く家。夜は、同じ闇で、人それぞれに濃さが違う。

(乱さないこと。)白起は自分にもう一度言う。

(乱れは風で生まれ、風で解ける。人が解こうとすると、余計に固くなる。)

「白起様。」李温が小声で笑う。

「今日は頭がご機嫌ですよ。」

「どうしてわかる。」

「筆が軽いです。すらすらと進みます。」

李温は筆を持つ指をわずかに開いた。

「気象が乱れる時は無論、書く文字も多くなります。手が痺れてくる程にです。」

斗柄がじりじり東へ戻る。史狗が漏刻の口を覗き、耳で刻を拾う。

「一刻。」「二刻。」

水が落ち、夜が擦り減り、星の配置が少しずつ形を入れ替える。

「李温。」白起が呼ぶ。

「斗の指し方に合わせて、農の一言を入れておけ。」

李温が即座に走り書く。

「『斗杓向東、畦水通宜。向南、草刈急。』……こんなところでしょうか。」

「布告を読む者が、今日の仕事を一つ、早く終えられれば足りる。」白起は短く言う。

「天の言葉を、地に落とせ。」

南の高み。心宿は相変わらず赤く、乱れない。

程慶が目を細める。「大火の機嫌がよい。」

「機嫌の悪い星は無い。」白起。「悪いのは人だ。」

程慶が肩を竦める。「機嫌の悪い風はありますが。」

「風は怒っても、すぐ忘れる。」と白起。「人は怒りを忘れられない。」

誰もが同じことを考えた。しかし、それを口に出そうとしなかった。あたかも観測に没頭することで、それを忘れようとしているかのように。均衡を破ったのは李温。

「それは、つまり…。」と真顔で言って、全員が固まった。李温も口を閉ざしてしまった。

初更の終わり頃、北西の低いところで、薄い雲が一枚、砂のように流れた。星が一瞬、ざらつく。

「史狗、柵。」白起。

史狗が走り、結び目を指で握る。夜露はまだ軽い。縄に異常はない。「よし。」白起は足を戻す。「程慶、観を一度切る。目を休める。」程慶が灯に手をかざし、芯をさらに僅かに詰める。李温が肩を回し、額の冷えを一度、手の甲に移した。竹簡の表面を撫で、乾き具合を測る。史狗は階の下で膝を折り、土の匂いを吸ってから、もう一度台に戻った。

「白起様。」程慶がふいに問う。「戦と、観、似ていますか。」

白起は少し考えて、首を横に振った。

「似ていない。だが、両方とも“始まり方”がある。戦は命令で始まり、観は沈黙で始まる。」

「終わり方は。」

「戦は人が死にすぎることで終わる、観は、どうであろうか。」

「それゆえに、観は長い。天があり続ける限り観は続きます。」と静かに続けた。

二更に入る。夜の芯が固まるあたりだ。

「斗柄東――」李温が独り言のように繰り返す。

「東に戻ると、人の声が薄れて、暗雲が近くなる。」

史狗が耳を立てる。「今は遠い。」

「良い夜だ。」白起は南を見る。

「南が静かなら、他は騒いでもよい。」

程慶が北を見遣り、「北は働き者です。」と笑う。「働き者は、文句を言わない。」

白起は角尺を置き、手すりに掌を乗せた。木の冷えが、骨にゆっくり入る。

(将軍は、速い命の出し入れだった。常に動くものを見極める必要があった。)

(天文官は、遅い言葉の出し入れだ。星は早々に動かない。じっくりといつまでも見ている必要がある。)

(速いものは、声を張る。遅いものは、息を長くする。)

胸の奥に、咸陽で失ったものの形が一枚、浮かぶ。それは重くない。重いものは、ここでは置けない。重いものは、家に置く。家には火があり、凛がいて、杜がいて、蒋がいる。

(帰る場所がある者は、遠くへ行ける、か。私も随分と感傷的な人間になったものだ。)

指先に力が戻る。白起は身体を中心に寄せた。

程慶が南の空に顎を上げる。「尾、箕、よく乾いている。」

「李温、書き記せ。」白起。

「『南尾箕明、農事可疾』。短くとも文句は言われまい。」

「天は怒らない。」程慶は短く笑った。「人が怒る。」

「怒らせません。」李温は筆を逆さにし、背で竹簡を叩いて乾きを早めた。

史狗が闇の底を嗅ぐように言う。「白起様、風が一度、止まります。」

「止まる時の声は、遠くまで通る。」白起は足を半歩、内へ寄せる。

「風が止むと何が起こるのか。」

風が薄く切れ、町の音が一瞬、遠い水のようになる。遠くの戸の開閉、誰かが椀を置く小さな音、犬が息を吸って吠えるのをやめる気配――そのすべてが、ひと織りになって、台の上を撫でて通っていく。

(この町の息を、乱さないこと。)

白起は自分の呼吸を、漏刻の落ちに合わせた。点が落ちる。肺が動く。星が僅かに動く。

「白起様。」程慶が声を低くする。「西の端、薄雲、二。」

「“二”と書け。」白起。

李温は迷いなく記す。「『西雲薄二、行北』」

程慶が「良い数字だ。」と小さく言い、史狗が「三は駄目ですか」と首を傾げ、程慶が「今は二だ」と笑い、白起は何も言わなかった。夜は、数字で落ち着く。言葉は、数字に寄りかかって楽をする。

「史狗、締め。」

史狗が結び目を指先でつまみ、呼吸の長さで一度だけ締め直す。二度は締めない。縄は過ぎると怒る。「よし。」白起は北へ顔を返し、斗の柄の戻りをもう一度、目で拾う。

(夏の、正しい遅さ。)

(正しい遅さは、長く持つ。)

三更の端が近づく。灯はさらに低く、漏はさらに細く。李温の筆が軽くなり、竹簡の上に、今夜の一列が揃っていく。

「白起様、最後に――」

「農の一言は入れた。風も入れた。雲も入れた。斗も入れた。」

程慶が横から囁く。「“静”を入れては。」

白起は頷いた。「『今夕静』」

李温が微笑む。「短くて、よいです。」

最後に、白起は南の大火をもう一度、見上げた。赤は少し薄くなった。夜が深まると、赤は静かになる。

(心が、赤い。)

(赤い心は、長く燃えるのではなく、長く温い。)

戦の炎は熱くて速い。観の火は温くて長い。白起はそれを覚え直している。覚え直すには、時間がかかる。初陣ゆえの長期戦だ。四更、五更と時間が流れていく。経験豊富な天文部であっても疲労の色は隠せない。しかし、白起は飄然としていた。眠らない戦場を何度も経験しているからだ。改めて白起の異様を感じた三人は声には出さなかったが、その畏怖をまざまざと感じ取った。

「終いにする。」白起が言った。

程慶が灯をさらに落とし、史狗が漏刻の口を塞ぎ、李温が筆を洗い、白起が空から目を下ろす。台の上の影は、また長さを持ち始め、夜が少しずつ、背を緩める。遠くで鶏が鳴くにはまだ早い。だが、町はすでに夜を消す準備を始めている。街の鼓動が闇の底で微かに明るむ。

白起は台の縁に手を置き、木の温度が夜の間、どれほど変わったかを骨で測る。

(この夜は、乱さなかった。)

(乱さないことの集積が、力だ。)

戦は勝ち負けを刻に残す。観は“乱さなかった夜”を積む。積まれた静けさは、やがて誰かの決断の重さを支える。王の、郡の、民の。白起は、それを支える側に立つ。

「台を閉じる。」

各々が持ち場を片していく。李温が札を束ね、

「白起様、初陣はいかがでしたか。」と尋ねる。

「悪くは無かった。しかし、毎日こう簡単にはいくまい。荒れる日もあろう。」

「白起様には一縷の慢心もありませんな。」李温が答える。

「どの職においてもそうだろう。慢心は成功も人も遠ざける。」

李温が静かに頷く。「徳の行いこそが全てを引き寄せる。」

「そうだ。徳。万物の根源。」

程慶が報の確認を終え、白起に裁可を求める。白起はさっと目を通し、印をする。史狗が「走って届けます。」と胸を叩く。程慶が「目を休めてください。」と一歩、白起の前に回った。

「皆、ご苦労であった。初陣の成功も皆のおかげだ礼を言う。しかし、これはまだ何千、何万のうちの一回だ。慢心せずに職務に励もう。」

三人が礼の姿勢を取る。

「史狗よ、報の届けは任せたぞ。」

「御意。」

階を降りる時、白起は町の方角に目をやった。家々の灯は落ち、町が闇に溶け込んでいる。あの中に自分の家がある。軍門にいたときは考えもしなかったことだ。職務を終え、毎日自分の家に帰っていく。次の日には職場に出かけていく。野を駆け回る日ではない。それは遠い記憶のように感じられた。自身の記憶であるが夢のような過去。

(帰る場所がある者は、遠くまで行ける。)

今夜、遠くまで行ったのは空だ。自分はただ、空の歩幅に合わせて、遅く歩いた。丘を下りきる頃、東の低みに白がひとかけら。まだ朝ではない。だが、夜が自分の領分を少し譲る印だ。門の影が薄く、土の匂いが水の匂いに変わる。白起は一度だけ振り返り、台の四角を見た。昼には土の上の物、夜には空の中の物――今はもう、ただの黒い塊。

(また夜に。)

心の中でそれだけ告げて、白起はまた歩を家へ向けた。足は軽く、息は深い。遅い戦の一夜が、静かに終わる。丘を下りると、町は自分自身の影を纏い直していた。夜半をすぎ、音の序列が入れ替わる時刻。人の声は最も遠く、犬は短く、木は低く鳴る。路地の角では井戸の石が露を吸って丸く光り、土の道は薄い粉を浮かせているのに、足裏はほとんど音を拾わない。夜というものは、踏まれることに慣れている。

白起は急がなかった。歩幅を半分にし、呼吸を漏刻に合わせる癖がそのまま残っている。ひと息ごとに、今夜の観測の幾つかが胸の奥でほどけた。斗柄の戻り、大火の赤の落ち着き、尾と箕の乾き、薄雲が「二」だけ過ぎたこと――竹簡の上に置いた語が、背の内側で別の順番に並び直す。

空はまだ夜のものだった。東の低みがわずかに白み、雲の腹が墨から灰へと移る手前の色。星は多くを失いながらも、なお粘り強く居続ける。空の方が、地上より少しだけ疲れない。

(未だ天を知らず。学ぶべし。多くを学ぶべし。)

路地の奥で、一軒だけ遅い火が小さく息をしていた。薄い湯を保つ火か、子の咳を見守る火か。土塀の内側から、ひと呼吸ごとに小さな温が漏れ出して、道の冷えと和える。白起は通り過ぎ、火の名をつけなかった。名を与えると、拾ってしまう。今夜は拾うべきものを拾い終えている。

(将軍の夜は、いつも速かった。)

(速い夜は、すぐに朝になり、誰かの名を増やし、誰かの名を消した。)

(今の夜は、ただ長い。長いだけで、誰の名も増やさない。だが、土に刻む。)

柵に絡む蔦の影が、風でぱらぱらとほどける。蔦は声を出さないが、影は声を持っている。影の声は「ここに在る」という言葉だけを、繰り返す。

(在るものだけを数えればいい。)

(望むものまで数えると、夜が濁る。)

市場の外れを抜ける。昼のあの喧しさの芯が、いまは粉になって床に沈んでいる。机の脚は畳に跡を残し、縄の端は丁寧に結び直され、秤の錘は箱の底で丸く眠っている。麻の匂いは遠く、塩の塊は湿りをわずかに取り戻し、陶の皿は月の光を借りて薄く白む。白起はふと、夏衍の倉の鍵束の重みを思い出した。

(麦と同じ。牛歩を続け前に進んでいく。徐々に。軍門、天文の場所に限らず。)

今夜の天は機嫌がよかった。李温の筆が軽く走り、程慶の声は固くならず、史狗の足は必要なだけ速かった。

(良い初日だ。)

(良い初日は、良い二日目を約束しない。ただ、悪くない二日目を許す。)

路地から路地へ渡るうちに、風の筋が細く変わる。東から来たものが南へ寄り、そのまま低く沈む。空の白はまだ薄いが、夜の底に、どこか終わりの味が混じる。

(夜は、いつも、やめ時を知っている。)

(人間は、知らないふりをする。)

自宅の近くまで来ると、門の上の桑の葉が一枚、音を立てた。葉が落ちたのではない。葉が動いただけで、音を立てる季節になったのだ。門扉は閉じている。白起が近づくと、内側で小さな足音が一つ、そしてもう一つ。門は音を出して開いた。

凛が立っていた。灯は低い。顔は明るい。声は出さない。代わりに、袖を半歩だけ引いて、白起を内へ呼び込む。土間の空気は夜より少しだけ重く、竈の灰は薄く温を抱いていた。卓の上に、蓋のない椀がふたつ。ひとつは薄い粥、ひとつは小さな徳利。徳利の腹には、夜の水滴がいくつか付いて光っている。

「白様。」凛が声を落とす。「おかえりなさいませ。」

「凛よ、起きていたのか。体に障るのではないか。」

白起は帯をゆるめ、鍵袋に指を添えたまま、座に腰を落ち着けた。背骨が板の固さをゆっくり吸い上げ、息が家の息に混ざるのに、一呼吸ぶんだけ時間が要った。

「初日くらいは夜通しでもかまいませぬ。」

「待つのは、女中の仕事です。」凛は笑った。

「私は火の側におります。」

凛は粥の椀を白起の前に置いた。湯気が少しばかり。表面に細い薄皮が張り、その下で米の白さが静かに眠っている。

「少し涼しくいたしました。星を見た後は、熱よりも静けさが口に合うかと。」

白起は頷いて、椀に唇を当てた。冷えているのではない。熱が動かない温度。舌の上で拡がらず、喉の奥で滑る。

「うむ、よい。」

「葱は、ほんの少し。」凛が指で示す。

「香りは声ですから、今夜は控え目に。」

「杜は。」白起。

「咸陽の投資計画を練り、先に眠りました。早朝に人に会いにいくそうです。」

「蒋は。」

「一日中外仕事をしておりましたのでぐっすり眠っております。」

凛は徳利を手に取り、杯にゆっくり注いだ。酒は白い灯の色を吸って、静かに濃く見えた。

「薄い酒を少し。水を足してあります。」

「初夏と床前に良いな。」

白起は杯を指で支え、軽く鼻で香りを覚えた。

「初陣は、いかがでございました。」

「戦とは別の深みがある。まだまだ未知の領域だ。」白起は一口、含む。

「天も人も。」

「これからは夜が白様の主戦場ですね。」

「月明かりを頼りに働くのも悪くない。」

凛はそこで微笑み、少しだけ頷いた。「良い初日でございました。」

白起は粥を二口すすり、杯を一度置き、また手に取った。家の灯が低く、壁の土が呼吸しているのが背に伝わる。白起は今夜の観測の内容を凛に語って聞かせた。珍しく饒舌だった。凛は頷きと相槌を忘れず、主人の話に聞き入った。

「これからは毎日、夜の帰宅となる。食事は保存食で良い。凛は無理せずに休むことだ。」

「ご配慮感謝致します。」

笑いの後、凛は少し真顔になって、目の高さをわずかに落とした。

「白様。お話を伺っておりますと、白様は、今夜、ひとつも“勝とう”となさらなかった。」

白起は杯を置いた。「勝つ相手がいない。風にも、雲にも。勝っても、明日には変わる。」

白起は粥の椀を両手で包む。

「乱さないことの方が、明日に繋がる。」

凛は静かに頷いた。「乱さない者は、長く座ります。」

「長く座るために観るのではない。国の安寧のために観る。」

凛はしばらく白起の指先を見ていた。角尺の痕が薄く、木の冷えがまだ骨に入っているのか、指の節のあたりが少しだけ色を変えている。

「白様のお手は、よい手。」

「火をいじる手ではない。」

「星をいじる手。」

「いじらない。」白起は首を振る。「見る手だ。」

「見る手。」凛はゆっくり繰り返した。

「家には、火を見る手。台には、星を見る手。どちらも、薄い匂いが手に残ります。」

凛は自分の指先を嗅いで、微笑んだ。「灰の匂いがします。白様は、木の匂いがします。」

白起は杯をまた口に運び、「縄の油の匂いもある」と言った。「史狗が、結び目をよく締めてくれた。」

話しながら、白起は今夜の幾つかの像が、家の灯で別の色を帯びていくのを見た。台の木の冷え、灯の低さ、漏刻の落ち、李温の速さ、程慶の間の取り方、、史狗の足――それらが家の土と混ざると、戦場の記憶とは違う重なり方をした。

(戦の夜は、朝で裁かれる。)

(観の夜は、朝に渡される。)

(裁かれるより、渡される方が、長い。)

杯の酒は薄く、粥の温さは低く、それがちょうど良い。家で濃いものを飲む必要はない。濃いものは外にある。外で濃い声を聞いた日には、家で薄いものを口にすれば、声は薄くなる。

白起は椀を置き、帯の鍵袋を膝に移し、掌で一度、軽く押さえた。柵の鍵と天文小屋の鍵――今夜の重みは、今夜のうちに家の重みに混ぜる。

「明日は。」凛。

「昼に圭表の影をもう一度見る。尾と箕が乾いている間に、畝の水を浅くする。杜に頼む。」

「承知いたしました。伯への札は、朝の初めに。今日の“二”を書き添えておきましょう。」

「好きに書くが良い。」白起は微笑んだ。「伯は、数字で理解する。」

粥の椀は、底が見えた。空の杯は、そのままにしておく。酔うための酒ではない。夜の名残を小さく口に移し替えるための酒だ。

凛が立ち上がる。「湯をもう少しだけ。」

「十分だ。」白起は首を振った。「今夜は、この薄さでよい。」

凛は「では、灯を」と言い、芯をまた半分だけ短くした。座の影が、壁に静かに重なった。白起は立ち上がった。身体は軽い。軽さは、何も捨てずに済んだ印だ。

「凛。」

「はい。」

「よい夜だった。」

凛は深く頭を垂れ、「おかげさまで。」とだけ言った。白起はそれ以上言わず、寝所の方へ向かった。足音は短く、板は一度だけ小さく鳴き、家はその音をすぐに飲み込んだ。

【3】

夜の入口は、昨夜と同じように静かだった。台は黒い四角、灯は低く、漏刻は細く落ちる。風は東。湿りは軽い。今夜も、観やすい夜である。白起は変わらず泰然としている。

「白起様、始めます。」副天文官の程慶がいつもの声で合図した。声は小さいが、必要なところだけ届く。書記の李温が札の余白を指で撫で、「どのような気象でも文字で表現して見せましょう。」と笑う。雑務役の史狗は柵の結び目を一度だけ確かめ、「どのような強風でも耐え凌げます。」と胸を叩いた。白起は空を眺めつつ、黙ってうなずく。

最初に目を置くのは北斗だ。夜の看板のようなもの。

「李温、斗の柄は今、南を向く。」

「承知。」李温は声に出してから短く書く。「斗杓 南 向」

程慶が補う。

「夏という印です。柄が東へ戻り始めると、夜が深まる合図。」

史狗が首をかしげる。「柄が向きを変えるだけで、どうして分かるのですか。」

「毎晩、少しずつ動く。」白起は北の形を指でなぞる。

「その“少し”が季節の歩幅だ。」

次に南の高みを確かめる。赤い一星、大火が静かに光っている。

「今夜の赤は、荒れていない。」白起は言葉を選ぶ。

「赤が強く瞬く夜は、風が喧嘩している。今夜は、喧嘩がない。」

李温が滑らかに載せる。「大火 赤 定」

程慶が横から一滴。「赤が落ち着けば、人の心も少し落ち着きやすい。」

「では喧嘩する夜もあると。」史狗が楽しそうに聞く。

「ある。」程慶が笑う。

「風と雲が、勝手な歌を歌うときだ。その時は我らも大変な目にあうぞ。」

「その時もひたすらに記す。」白起は短い。

「風強乱、と。」

東の低みには薄い川――天漢が伸び、織女が細く、牽牛が低い。

「この川が濃い夜は、空気が澄む。」程慶。

「川が薄い夜はいかに。」史狗。

「地上で、誰かが灯を高くした。」李温が苦笑いで言う。「歌の夜だな。」

白起は「雲 不至、声 少で足りる。」と呟く。

尾と箕。匙の形がくっきりしている。

「農の一言を入れておけ。」白起。

「はい。」李温は即答し、筆先を走らせる。

「尾箕 明 草刈 早良」

史狗が横目で覗く。「なぜ草刈り?」

「乾いていると刈りやすい。積むときにも、腐りにくい。」程慶が指を二本立てる。

風は相変わらず東、夏の夜を心地よくさせる。雲は南の端に少し。

「雲は四。」白起。

「四。」李温が繰り返して記す。「南 雲 薄 四 行 東」

史狗が笑む。「随分と増えましたね。」

「今夜は四だ。」白起の口元にも小さな笑い。

灯は低いまま。

「白起様、灯、足に十分。」程慶。

「よい。」白起。「目のために上げない。」

「灯は足のため、ですね。」

史狗が覚えたての句を誇らしげに言い、李温が「観測の目も喜ぶ。」と付け足す。

北の方で、見えない中心の周りを星が規則正しく配置されている。李温の筆が一拍だけ止まり、さらりと一行。「北 旋 秩序 有 心 不見」

「白起様、月は。」程慶が東へ顎を上げる。今夜の月は細い。濡れた爪のように、空の端に掛かる。

「太る前だ。」白起は平らに言う。

「太って雲が遅ければ、記録は急がぬ方が良い。」

李温がうなずき、「今夜 月 細在」と短く置いた。初更が深まるにつれて、町の灯は減っていった。遠くで一度、戸が軋む。小さな笛がひと節だけ。犬の息は短い。

「白起様。」史狗が耳を立てる。「風、一度止まります。」

「止まる時は、遠い音が通る。」白起は足を半歩、内へ寄せた。風がふっと薄れ、遠い水の音、壺の口が石に触れる音、誰かが椀を置く平たい音——が、ひとつにまとまって台を渡っていく。

「静だ。」白起。李温は満足げに一文字だけ置いた。「静」

「静一字だけでよろしので。」史狗が不思議そうに見る。

「静を仰々しく飾り立てる必要もあるまい。」李温は笑う。

程慶が南を見て、小さく顎を引いた。

「大火、今夜も気難しくない。」

「星には気難しい、優しいがある。」史狗が得意げに言い、すぐ照れて頭をかく。

「……程慶様の真似です。」

「人の心のように星も日々変化する。」白起はやわらかく言い換える。

二更に入る。北斗の柄がじわじわ東へ戻り、天漢は濃さを増す。

「斗、東へ戻る。」白起。

李温が追う。「斗杓 向東」

程慶が短く補足。「夜が深い。露はこれから。」

「白起様、雲は。」史狗が南の端を指す。

「雲が流れ始めているな。気象の変化の兆しかも知れぬ。」

史狗が唐突に問う。「白起様、“良い夜”とは何でしょうか。」

「乱さずに終われる夜。」白起は短い。「誰の灯も、高くならない夜。」

「台の仕事は“乱さない”ですか。」

白起は言葉を置く。「“乱さない”を積むと、国家を支える力になる。」

李温が穏やかにまとめる。

白起は最後に、南の尾・箕をもう一度確かめる。匙の形は崩れていない。

「よし。仕上げる。」

李温が筆を走らせ、記録の列を静かに揃える。

風 東 微

雲 薄 一

斗杓 南 向 東

大火 赤 定

尾箕 明

月 細

「いい並びです。」李温が満足そうに札を重ねる。

台の上を、遅い風が一本、通り抜けた。夏の星に難しい言葉はいらない。どちらへ向いているか、どれだけ澄んでいるか、今夜は静かか。それだけで、明日の畑と町が、少しだけ楽になる。

夜が深まるころ、風の筋が変わりはじめた。東から南へ、そしてまた東へ。まるでどこかが息を詰まらせたように、空の流れがねじれていく。白起は斗の柄を追いながら、その微妙な変化に眉を動かした。

「白起様、風が落ち着きませんね。」

程慶の声が低く響く。彼の袖が揺れて、灯が少しだけ長く燃えた。

「灯を低く。乱れは、音で先に来る。」白起は空を見上げた。

雲が、南から押し寄せていた。昼の熱をまだ腹に抱えたままの、重い雲だった。

「白起様、尾と箕、もう見えません。」程慶が言う。

「雲、無数。」李温が書きつける。

風が東から西へ変わった。夜が息を反対に吐きはじめる。灯が揺れ、影が台の縁を越えて踊る。

「史狗、縄。」

史狗が結び目を押さえる。風が音を立てて天文台を打つ。空は南半分が厚い雲に覆われ、北はまだ薄いだ。北斗がはっきりと見える。その柄が南から東へ戻りかけている。

「風、回る。斗の指し方と合わぬ。」白起の声に、李温が筆を走らせた。「斗杓 乱。」

「白起様。」程慶が南の端を見た。

「稲妻です。音はまだ。」

その瞬間、雲の奥で光がにじんだ。声のない稲妻。白起は目を細める。

「書け。『南 光 一、声 無』」

「承知。」李温が素早く筆を取った。墨が揺れて、点が跳ねた。

「雷。空の筋がねじれる。」白起は静かに言った。

「おそらく乱れの始まりには違いない。」

程慶が天漢の方を見て、「川が途切れました」と告げた。

白起は北へ顔を向け、「北辰は。」

「揺れていません。」程慶が即答する。

「ならば、根は折れていない。」

風がさらに強くなり、灯が一瞬だけ消えかけた。史狗が急いで覆いを手で押さえたが、火が低く揺れ、煙が白起の頬を掠めた。

「史狗、手を放せ。」白起が言う。

「しかし灯が。」

「消えた方が、空は見える。」

火が静かに落ちた。暗闇の中、雲の輪郭が黒く膨らみ、星々が一つずつ消えていく。李温は筆を止め、耳で空の気配を測った。

「風が南に流れました。雲の行方が変わった。」

「土の匂いだ。」白起は鼻で嗅ぐ。「遠くで、雨が地を叩いた。」

「上邽に届くのは。」

「まだ先だ。」白起は言う。「この風は報せだ。明日の午後には北へ抜ける。」

程慶が頷いた。「乱れは短い。」

「短い乱れは、長い安定の前触れだ。」

雲の厚みがさらに増し、とうとう北の星も隠れはじめた。

「白起様、もう記せません。」李温が筆を止めた。

「書かなくてよい。夜が自分で書いている。」

稲妻が再び走る。音はまだ届かない。白い光が台の木を照らし、全員の影が瞬間だけ地面に刻まれた。白起はその影を見て言った。

「光が先で、音が後。遠い乱れだ。焦る必要はない。」

風が木を鳴らす。縄の結び目が一度、ぎりりと軋んだ。白起はその音をじっと聞き、低くつぶやいた。

「戦場に比べれば。」

「白起様、報はどうされますか。」李温が問う。

「書く。短く。」白起は暗がりの中で声を出した。

「雲無数、風四度変。南光一、雷未至。斗乱。夜終。——以上。」

李温がその声を追って、書き取った。雨はまだ来ない。雲は北へ押し流されていく。空の端に小さな裂け目ができ、そこから一つ、星が顔を出した。

「戻りました。」程慶が笑った。

白起は頷く。「空は怒っても、長くは続かない。」

「白起様、報の最後に“静”を入れましょうか。」李温が言う。

「いや、今夜は“耐”だ。」白起は静かに答えた。

李温が筆を走らせる。「……“耐”。」

雲が薄れ、北斗がもう一度姿を現す。
柄は南を差し、季はまだ夏。風の香りは少し冷たくなっていた。

「明日は晴れますね。」史狗が言った。

「晴れる。」白起は空を見た。

雨は結局降らなかった。風は去り、空は息を整えた。夜の乱れは短く、だが確かにあった。
それを記すことで、次の夜が静かになる。

「乱れても、折れなければいい。」

その声に、誰も返事をしなかった。全員がただ、夜の終わりの音を聞いていた。水が落ち、灯が細く、風が遠くで新しい方向を見つけようとしていた。

白起は静かに言った。

「夜は持ち直した。これでよい。」

天文官たちは黙って頷き、それぞれの位置に戻った。空の裂け目から、ふたたび星がいくつも顔を出した。夏の夜は、乱れを抱えながらも、また秩序を取り戻していった。

風が静まり、白起は台の縁に手を置いた。木は冷え、夜露を吸って肌のように柔らかくなっている。漏刻の音がゆるやかに落ち、夜がまた形を取り戻していた。誰も言葉を出さない。李温は筆を置き、程慶は縄を緩め、史狗は器具室を整理する。

その沈黙の中で、白起は思った。かつて、戦場では命令が音だった。「進め」「退け」「斬れ」――声がすべてを決めた。声の届く範囲が支配の範囲であり、沈黙は敗北の印だった。敵が見えぬ闇の中で、声を持つことこそが生きることだった。その声を幾千と使い潰し、いくつもの丘を焼き、名を刻み、血の匂いを知った。

だが今はどうだ。ここでは、沈黙が命令の代わりになる。風が少し変われば、それを“聴く”。星がひとつ動けば、それを“見る”。水がひと滴、遅れれば、それを“待つ”。すべてが、かつての戦と逆だ。声を張らず、待ち、測り、残す。戦では一刻の遅れが死を呼んだ。今は、一刻の沈黙が真を呼ぶ。

白起は北斗を仰いだ。あの頃、旗印として仰いだ星だ。陣を張るたび、将校が方角を取るとき、彼も北斗を見ていた。その星が今もそこにあり、あの時と同じ角度で夏を指している。変わったのは、自分の立つ場所だけだった。

「将軍の夜は速かったな。」

白起は小さくつぶやいた。程慶が顔を上げたが、何も言わない。

「速い夜は、声で動いた。誰かの息と叫びで。」

風が台の角を撫で、低く鳴った。

「今の夜は、遅い。水と星と沈黙で進む。だが、どちらも“戦”には違いない。」

李温がそっと尋ねた。「同じ、ですか。」

「違う形の戦だ。」白起は目を閉じるように言った。

「かつては敵を制す戦。今は“乱れ”を制す戦。剣の代わりに筆、盾の代わりに灯。それでも、勝つべき相手は、やはり己だ。」

史狗が真面目な顔で聞いていた。白起は彼の肩を軽く叩いた。

「速く走る者は多い。だが、止まれる者は少ない。天文官とは、止まり続ける者の名だ。」

沈黙が台に戻る。風が少しだけ吹き、雲の端が裂け、薄い星の列が再び姿を現す。
白起はそれを見つめ、ゆっくりと息を吐いた。戦の夜は、人の息が重かった。観の夜は、空の息が軽い。どちらも孤独だ。だが、違う孤独だった。

戦の孤独は「命令して誰も救えぬ孤独」。
観の孤独は「沈黙して誰かを守る孤独」。

白起はふと、遠い記憶を思い出した。剣を拭う夜、陣の外で星を見た兵がいた。

「将軍、あの星は生きているんですか」と問われ、

「いや、光っているだけだ」と答えたことがある。

今は違う答えが浮かぶ。――光っているということは、まだ届こうとしているということだ。

「戦の果てに残るのは灰だった。だが観の果てに残るのは、言葉だ。灰は風で散るが、言葉は人に渡る。」

白起は指先を見る。かつて剣を握った時と同じ感覚を思い出す。冷たさ、重み、そして責任。

「白起様。」李温が静かに言った。

「台を閉じますか。」

白起はうなずいた。「閉じよう。」

器具庫の鍵が短く鳴った。その音を聞きながら、白起は思った。戦場を去ったとき、自分は敗れたと思っていた。だが今、ようやくわかる。人は勝つことで救われるのではない。負けても、なお秩序を見つけ直すことで、生き直すのだと。

夜は再び静まり返った。風は軽く、星は少なく、空は広かった。白起は台を離れながら、心の中でつぶやいた。

(速い戦は人を削り、遅い戦は人を残す。ならば、私はもうしばらく、遅い方で戦おう。)

丘を下る足音が、夜に吸い込まれていった。その背後で、空の星々が、確かに遅く、しかし着実に回っていた。

【4】

白起が上邽の天文台に着任してから、日々の観測は確かな流れを持ちはじめた。最初の頃は、台の四角を踏む足の重さや、漏刻の音の間隔を測る呼吸がぎこちなかった。今はそれが自然に整い、手が先に動くようになった。夜の準備も、手順を追うよりも順番が身体の中で組み上がっていく。

初更には、灯を落とし、目を慣らし、風の向きを聞く。二更には、斗の柄を確かめ、宿の動きを追う。三更には、記録を整え、漏刻を調律し、朝に備える。これらの作業が、いつの間にか息の一部になっていた。夜が来れば自然に身が起き、星の出を待つ感覚が、戦場で夜襲に備えていた頃の感覚とどこかで重なった。

記録の文字も、以前よりずっと少なくなった。言葉は短く、行は間を取り、余白を大きくした。短い言葉の方が夜をよく残すことに気づいた。文を飾れば星が遠くなり、簡素に記せば空の形がそのまま残る。観測の精度は上がり、報告の誤りも減った。昼の圭表測定では、影の伸びを一目で見分け、漏刻の狂いを補正できるようになった。

夜ごとに観測する星々も、いまは馴染みの顔になっていた。北斗の柄の向き、心宿の赤、尾と箕の明るさ、月の細り。どれも目を凝らさずとも位置がわかる。星の名前を呼ぶ必要もなく、ただ空の中の流れを掴めば、季節と時刻が自然に見えてくる。観測の正確さは、観る者の力よりも、観る者の静けさに比例することを知った。

昼の職務にも慣れた。器具の整備、木枠の油の補充、漏刻の水の入れ替え、圭表の影の記録。台の柱の一つひとつに癖があり、磨けば鳴き方で湿りがわかる。影の長さを測る時は、太陽の高さよりも風の厚みを見た。観測は星だけでなく、日中の光にも延びていった。

官としての報告にも一定の型ができた。夜ごとの記録は夜明けに清書され、県令へ渡す。句の並びは一定の順に整えられ、月初には郡へ写しが送られる。白起はその文の余白を見るたびに、自分の名がどこにも書かれていないことに気づく。将軍の頃はどの報にも名があった。功績には署名がつき、誰が決め、誰が動かしたかが明記された。今の職では、名を残さぬことが正確さの証になった。自分が書いた報でも、誰が書いたか分からなくなるのが理想だと知った。

夜の観測においても、手の動きは少なくなった。多くを指示する必要はなくなり、灯を整え、角尺を置き、測る。副官たちは言葉を待たずとも動くようになった。台の上では、誰も声を張らなくなった。風や水の音に人の声が交わらないようにするのが、良い観測の条件だと分かった。音が混じらなければ、星の位置は乱れない。

初夏から盛夏にかけて、観測の対象も移っていった。春の星々は沈み、南の空では赤い火が濃く、北の空では小さな星群が形を変えていく。季節の進みが、星の移りよりも体の疲れで感じられるようになった。夜が短く、眠りが浅い。だが、それを苦と感じなくなった。星を待つ時間が、戦の前夜とは違う落ち着きを持つ。敵を待つのではなく、秩序の到来を待つ時間になった。

白起は、仕事に慣れていくにつれ、天文官という職の重みを静かに理解しはじめていた。星を読むということは、ただ空を見ることではない。星の変化は民の暦に繋がり、暦は耕す時と収穫の時を決め、民の働きと飢えを左右する。星の一文字を誤れば、田の水が狂い、畑の種が無駄になる。戦場で軍を動かす時と同じほどの責任が、ここにもあった。だがそれは血ではなく、生活を左右する責任だった。

報告を出した翌朝、町の農夫が台の下に来ることがあった。彼らは官吏に言葉をかけることはないが、影の長さを見に来ていた。台の影が伸びているか、縮んでいるかを見て、自分の畑の仕事を決める。白起はその姿を遠くから見た。黙って影を測るその背に、戦の号令よりも確かな力を感じた。声ではなく、形が人を動かすということを、ここで知った。

夜の終わり、空が白みはじめる頃、白起は筆を置くたびに思う。この仕事には勝ち負けがない。功もなく、誉もない。だが、記録が一つでも正しければ、それが誰かの一日を支えていく。星を見上げることは、地上の営みを保つための方法の一つだ。天文官の仕事は、空と地を結ぶ細い糸のようなもので、その糸を切らずに保つことが、今の自分の役割だった。

こうして白起は、戦場で培った集中と秩序を、夜の静けさの中に移し替えていった。星々の位置と風の流れを記録し、季節を刻むこと。それが、かつて兵の動きを記録し、地図の上で戦を描いた日々の延長にあることを、少しずつ悟っていった。白起にとって、天文官としての日常は、もはや試練ではなく、呼吸のような作業になっていた。そしてその呼吸の奥に、誰にも聞こえない戦が静かに続いていることを、本人だけが知っていた。

白起が天文台に出仕してから、かなり経った頃、県令の使者が訪れた。観測を終え、報を整えていたところに、門の外で名を呼ばれた。声は落ち着いており、催促の調子はなかった。

「白起殿にお達しです。」

使者は簡素な文札を差し出した。封の朱が乾ききっていない。急を要するものではないが、即日渡されたものだとわかる。白起は文字を一読した。

──三日後より五日間、非番を命ず。
──職務勤勉にして体を養うべし。
──咸陽または郡内各地への遊行を許可す。

署名は県令のものだった。文の調子は事務的で、個人への評価も慰労もない。だが、命令としては十分だった。非番の命は、官の勤続をねぎらう意味もあったが、同時に観測に空きを設けるためでもあった。

連日の勤務で体を休める者もいれば、郡府へ報告に出向く者もいる。咸陽まで戻る者も稀にいた。白起にも同じように、行き先の選択が与えられていた。

白起は県令のもとを訪ねた。白壁は低く、門は簡素だが手入れが行き届いている。門の左右には衛士が二人立ち、名簿に目を落としている。白起が名を告げると、軽く頭を下げて通した。

県令の執務室は広くない。文書棚が壁に並び、中央には几帳と机、机の端に筆と印が並ぶ。白起が入ると、筆を止めて顔を上げた。

「白起殿。天文の勤め、聞いておりますぞ。報告の書も整っており、郡府も感心しておられる。」

白起は軽く一礼した。「過分なお言葉です。」

「さて、非番の件。正式に通達します。」

県令は筆を置き、札を取り上げた。

「五日間、職務を免除します。咸陽への帰省も許されています。もっとも、道は長く、今の季節では骨が折れましょう。咸陽に戻る場合はさらに休暇を延長できます。郡内の名所でも見てこられるとよい。北の谷には水車が新しくでき、南の村では祭があるそうです。」

白起は静かに聞いていた。だが返答の時、少し間を置いた。

「ひとつ、お願いがございます。」

「何か。」

「郡の南西、丘を越えたあたりに屯田と開拓の村があると聞きました。非番のあいだ、そこを見てまわりたいのです。」

県令の表情が少し動いた。

「屯田の村ですか。」

「はい。天文の記録を続けるうえで、地の様子を見ておきたく存じます。星の運行は土の働きと無関係ではありません。畑の区画、用水、影の長さも確かめておきたいのです。」

「……ふむ。咸陽に戻らず、遊興でもなく、屯田の視察か。」

「はい。」

「悪くありません。許可します。ただし、軍の監察ではない。村人に余計な詮索はなさらぬよう。」

「心得ております。」

「随行は?」

「一名。子弟の蒋を連れて行きます。」

「承知しました。荷物も多いでしょう。荷馬車を一つ手配いたしましょう。」

「ありがたきご配慮。」

県令は文に印を押した。

「期間中、報告は不要です。ただし戻りの際には簡単な記録を。」

白起は深く頭を下げた。県令は筆を取り直し、再び机に向き直った。白起が退出する際、背中越しに声がかかった。

「白起殿。」

「はい。」

「あなたほどの方が、今は天文におられる。不思議なものですな。」

「それも天運でしょう。」

短く会釈して部屋を出た。

県府の外は強い陽射しだった。石畳の目地が白く光り、通りの水路には草が揺れている。白起は門の外に出て、一度だけ空を見た。空は澄んでいた。雲の形は平らで、風がほとんどない。視察にはよい天気だと判断した。

帰り道、町は昼の静けさに包まれていた。市場の店は半分ほどが戸を閉め、残る店では干し魚や雑穀を並べていた。道の端では子供が木の輪を転がし、女が井戸で桶を洗っている。馬のいななきと、遠くの鍛冶の音が重なって聞こえた。

白起はゆっくり歩いた。通りの家並みは整然としている。だが奥に入ると、土壁が崩れかけた家や、草に埋もれた小道も多い。町の繁栄と疲れが、交互に並んでいた。

白起は、視察先の村々の姿を思い浮かべた。もし星を読む職が、地を治める者と離れすぎれば、暦も役に立たなくなる。星は空の秩序を示すが、地にそれを写すのは人の手だ。それを確かめに行く。それが、この非番の意味だった。

家の門をくぐると、凛が掃き掃除をしていた。

「白様、お帰りなさいませ。」

「うむ。」白起は履物を脱ぎ、手を洗った。

「県令から呼び出しがあった。」

凛が顔を上げた。「何かございましたか。」

「非番を言い渡された。五日間だ。」

凛は少し驚いたように目を見開いたが、すぐに笑った。

「それはよいことです。少しはお体を休めてくださいませ。」

白起は首を振った。

「休むつもりはない。屯田村を見てくる。」

「屯田……ですか。」

「郡の南西の方角だ。畑を見、地形を確かめる。空を読むには、地の形を知らねばならん。」

凛は手にしていた箒を立てかけた。

「蒋とご一緒に?」

「そうだ。出る。杜とお前は留守を頼む。」

凛は短くうなずいた。

「承知しました。荷はどうされますか。」

「必要なものだけでよい。観測具は持たぬ。記録と筆、食と水、衣服、最低限のものだけとする。県府が荷馬車を用意してくれるそうだ。」

凛はすぐに奥へ下がり、帳をめくって杜を呼んだ。着古した衣の袖をまくり、手に油の染みをつけている。

「何かありましたか、白様。」

「明日から五日、非番だ。屯田村へ出る。そちは家を頼む。凛と共にな。」

「承知しました。万事上手く致しておきます。それから伯の件で少しお聞かせしたいことがありますので後ほど。」

「うむ。蒋にも伝えておくように。」

「帰ってきたら伝えておきます。」

白起はうなずいた。

「最近は屯田と開拓に力を入れているそうだ。まだまだ均衡には宝が眠っている。」

凛が帳の向こうから声をかけた。

「衣はどうなさいます?」

「軽装でいい。官の衣は不要だ。」

「承知しました。」

支度の音が家に満ちていった。白起は座に戻り、筆を取り、行程の概要を書きつけた。上邽から南西へ十里。丘を越え、川沿いの道を行き、屯田村に至る。二日目には西の開拓民の村を回り、三日目に南の旧地を経て帰途につく。予定は三日だが、余裕を見て五日とした。

筆を置いたとき、凛が湯を運んできた。

「白様、喉を潤してくださいませ。」

白起は礼を言い、湯を口に含んだ。凛は、微笑を浮かべた。

「よい旅になりますように。」

白起はその言葉を聞きながら、窓の外に目を向けた。夏の空は高く、雲はゆっくりと流れている。その下に広がる土地が、明日から自分の歩く場所になる。戦場ではなく、観測でもない、ただ人の営みのある土地。それを見ておくことが、これからの仕事に繋がると感じていた。

翌朝、空はまだ薄い青だった。夜明け前の光が東の山を照らし、屋根の端が白く光った。白起は早く起きて支度を整えた。衣は麻の軽装、腰には小さな袋。中には筆と竹簡、日数分の乾食。凛が夜のうちに準備を済ませていた。杜は台所で湯を沸かしており、蒋は外で馬の様子を見ていた。

白起は家の前に出て、空を見上げた。雲はなく、風も穏やかだ。遠くの丘が霞んで見えた。

「よい日だ。」

誰に言うでもなく、白起は小さくつぶやいた。凛が盆を持って出てきた。

「白様、朝の粥を。」

木の椀から湯気が立っている。白起は静かに受け取り、少しだけ口にした。味は薄いが、体に馴染む。

「凛、留守を頼む。」

「承知いたしました。白様のお戻りまでは、家のこと、杜と力を合わせます。」

「余計な客が来たら、戸を開けるな。」

「はい。」

杜が外に出てきた。

「白様、荷はすべて積みました。蒋が馬を繋いでいます。」

「うむ。助かる。」

白起は粥をじっくりと味わい、頭の中で旅程を想像する。この視察も糧にする。天文官としての技量を深めてくれると感じていた。

「凛、良い粥であった。」凛が辞儀する。

白起は家の戸を閉めた。木の軋む音が、朝の静けさに溶けていく。門の外には蒋が立っていた。

「白様、馬車の準備ができました。」

「御苦労。」

馬車は小型で、幌が張られていない。二頭立てで、荷台には筆箱、壺、麻袋が並んでいる。杜が手を合わせた。

「ご無事を。」

凛も頭を下げた。白起は短く頷き、馬車に乗り込んだ。

蒋が手綱を握り、馬がゆっくりと動き出す。車輪の音が響く。町の門までの道は緩やかな坂になっている。屋根の影が伸び、行商人たちが荷を背負って歩いている。朝の市が開く前で、通りはまだ静かだった。

上邽の町を出ると、空気が変わった。城壁の外は広い平野で、遠くでは草が波のように揺れている。道の両側には畑が続き、ところどころに灌漑の水路が走る。その水の音が、町のざわめきよりも近く感じられた。

白起は、馬車の揺れに体を合わせながら、目で周囲を見ていた。農民が畑に出て、鍬を振っている。男も女も、衣は薄く、肌は日に焼けていた。子供たちは水路のほとりで小石を投げ、犬がそのあとを追って走る。それらの動きが、町の中の秩序よりもずっとゆったりしているように見えた。

しばらく夏の空の下を進んだ。気温は上がり始め、汗が滲む。

「白様、ここから丘を越えれば、屯田の村です。」蒋が言った。

白起は頷き、地図を見た。

「道は一本か。」

「はい。谷を抜けて川沿いに出ます。近ごろは軍の倉ができ、荷の往来も増えております。」

丘に近づくにつれ、道は狭くなった。両側に低木が並び、ところどころに石が露出している。馬の歩みが遅くなり、蒋が手綱を軽く引いた。白起は荷台から降り、歩いた。足元の土は乾いているが、ところどころに水の跡があった。

「このあたりは雨が溜まりやすいか。」

「はい。春の頃は道がぬかります。村人たちが溝を掘っておりますが、追いつかぬようです。」

丘を登る途中で、一人の老人が道の端に座っていた。背中に木の桶を背負い、杖をついている。白起は立ち止まり、軽く頭を下げた。老人も同じようにうなずいた。

「上邽からですか。」

「そうだ。」

「この先の村なら、道に注意なされまし。」

白起は礼を言い、再び歩き出した。丘を越えると、視界が開けた。広い平野が南へ向かって伸び、中央に一本の川が流れていた。その川の両岸には畑が広がり、ところどころに家屋が点在している。家は土壁で、屋根は葦で葺かれている。煙がいくつかの家から上がっていた。

「見えたな。」白起が言った。

蒋が頷いた。「はい、屯田村です。」

道の端に干し草が積まれている。乾かすために並べられたもので、香りが強く、風に乗って流れてくる。

「よく乾いている。風の通りが良いのだろう。」

「はい。村人たちは北の風をうまく使っております。」

村の入口に差しかかると、子供たちが遊んでいた。彼らは白起たちを見ると、一度立ち止まり、すぐに走って家の中に入っていった。やがて、年長の男が出てきた。腰に布を巻き、手に鍬を持っている。

「上邽からのお方ですか。」

「そうです。」白起は答えた。

「県で天文官をしている白起と申します。休暇を使って村の様子を見に来ました。」

男は驚いた様子もなく、軽く頭を下げた。

「どうぞ。まずは屯田村を仕切っている役所の方へご案内します。」

村の中は整っていた。道は狭いが、左右に畑が並び、用水路は石で固められ、清らかな音を立てて流れていた。ところどころに竹の竿が立ち、風向きを測る布が揺れている。白起はその竿を見上げた。

「風は一定しているな。」

「はい。ここは南からの風が多く、作物がよく育ちます。」男が答えた。

畑の端には小さな祠があり、木の札が下げられていた。白起は足を止めて札を見た。墨で「天」と書かれている。

「天の札か。」

「はい。雨の加減を祈る札でございます。」

白起は黙ってうなずき、札に軽く頭を下げた。

すぐに役所がわりにしている家屋に到着した。白起の邸宅と同じくらいの規模で柵も門も備え付けられている。

「こちらが屯田村を管轄している建物になります。屯田長に伝えて参りますので、しばしお待ちください。」

すぐに男が戻ってきた。

「どうぞ中へ。」

蒋と二人で中に入ると、書き物をしている50代くらいの痩身の男と目が合った。

「白起様ですか。お名前は存じております。私はこの村の管轄の責任者で昆陽と申します。今は天文官になられたのですか。」

「はい、もう軍門の方には戻ることはないでしょう。」

「それは…。」昆陽の表情が暗くなった。

「あなたほどの人物の代わりがおりましょうか。」

「それは王様が見極められるでしょう。軍にも多くの人材がいます。これで秦国が傾くことはありません。」

「残念でなりません。」昆陽の表情は変わらない。

もしかすると昆陽は昔、従軍していたのかも知れない。その時に白起と同じ軍にいたのか。昆陽は詳細を語らなかった。白起も問うことはしなかった。

「公務ではありませんので、特別な配慮は必要ありません。お構いなく。」

「そうですか、しかし、宿の手配くらいは致します。どうか今夜だけでも滞在ください。」

白起はしばらく考え、この村に一泊することに決めた。蒋に荷馬車を預け、宿舎に先行させた。宿泊費も先払いさせ、普段通りの営業にしてもらうことも伝えた。

「夕食はぜひ我が家でお取りください。」昆陽が懇願した。

「お言葉に甘えます。また夕刻に戻ってきます。

村を抜け、川沿いに出ると、対岸にも畑が見えた。その向こうに、さらに小さな集落が点在している。白起は川の流れを眺め、足を止めた。水は濁っておらず、浅いところでは石が見える。流れはゆるやかだ。

「水の管理が行き届いている。」

蒋が頷いた。

「村人たちは交代で水門を開け閉めしております。」

白起はしばらく川を見ていた。この土地の形、風の向き、水の流れ。それらがどのように空と関係しているかを、頭の中で整理した。地を知ることは、星を読むことと同じだった。どちらも秩序を見つけるための仕事だ。

「蒋、少し休もう。」

二人は川辺の石に腰を下ろした。近くで農夫が鎌を研いでいる。金属が石を擦る音が、短く響いては消える。空には薄い雲が出てきたが、まだ陽射しは強い。白起は袖を捲り、水をすくって顔を洗った。冷たい水が肌を打ち、汗の感触を洗い流した。

「ここまで整っていれば、県の収穫も安定しているはずだ。」

白起は独り言のように言った。蒋は頷きながら、草の上で筆を取り、簡単な記録をつけた。

「風南、地乾、水澄、灌漑良、穀強。」

文字は少ないが、必要な情報はすべて入っている。

日が高くなり、影が短くなった。白起は立ち上がり、村の奥へ歩いた。新しく開かれた畑では、若者たちが土を耕している。彼らは白起を見ると手を止め、軽く会釈をした。白起は返礼し、その手つきをじっと見た。

土は固く、汗が光っている。人の労が、この地を形づくっている。星や暦がどれほど整っていても、実際にそれを動かすのは人の手だ。そのことを、白起は改めて感じていた。

丘の上から振り返ると、村全体が見えた。畑、川、家、そして人。すべてが一定の秩序の中で動いている。白起は静かに息を吐いた。

「よく働いている土地だ。」

蒋は筆を止めてうなずいた。

「はい。将来の実りが期待できれば働く意欲も増します。」

白起は頷き、空を見上げた。雲の流れは遅く、風は穏やか。夜になれば、この空にまた星が出るだろう。その星の動きを記すとき、今日見たこの土地の形がきっと思い出される。

馬車のほうを振り返ると、道の端で子供たちが手を振っていた。白起は軽く手を上げて応えた。彼らの笑い声が風に混じって遠ざかっていった。

「この国の未来が手を振っている。子供が飢えていない村は安泰だ。隅々まで食が行き届いている証拠だ。」

「はい。飢饉の際に子供は口減しにされますからね。」

「さあ、見るべきところはまだまだある。蒋、行こう。」

「はい。日が高くなってきましたので水をこまめに取りましょう。」

視察を終えた頃には、陽が傾きはじめていた。白起と蒋が村の外れから戻ると、村の中心で昆陽が待っていた。日に焼けた顔に落ち着いた表情をしている。

「白起様お帰りなさいませ。」

白起がうなずく。男は深く礼をした。

「お疲れのことと存じます。つかの間ではございますが、粗末な食をお召し上がりください。」

「昆陽殿、感謝いたします。」白起が辞儀をした。

昆陽の家は村の中央にあり、他よりやや大きかった。屋根の葦は新しく、壁には乾いた土が塗り直されている。家の前には二つの壺があり、一方には水、もう一方には穀が入っていた。内部は整頓され、木の卓が中央に置かれている。卓の上には煮た豆と野菜、塩漬けの肉、壺の酒が並べられた。

昆陽は白起と蒋を席に招き、自ら壺を開けた。

「官の方をお迎えするのは久しぶりでございます。郡からの役人は時折来られますが、天文のお役人様は初めてです。」

白起は盃を受け、口を湿らせた。

「天文官がこうして村を訪ねることは滅多にない。だが、星の報を作るうえで地の働きを知る必要があります。」

昆陽はうなずき、穀を手で整えた。

「ありがたいお言葉です。この村は十年前に開かれました。もとは荒地でしたが、郡長の命で屯田地と定められ、兵士あがりの者や貧民や移民を集めて耕作を始めました。」

「開拓の初めは、どのような状況でした。」

「水が足りませんでした。」昆陽の声は淡々としていた。

「このあたりは川が一本しかなく、夏には干上がり、秋には氾濫します。最初の三年は収穫もなく、半ばの民が離れました。」

蒋が眉をひそめた。

「では、今の豊かさはどうやって。」

「四年前、郡の倉から鉄の鍬と水門の木材を借り受けました。水を引く溝を再び掘り直し、村ごとに当番を決めて門を開け閉めしました。それから少しずつ実りが出はじめました。今年はようやく、県への納を済ませても余りが出ました。」

白起は盃を置き、卓の上の地図を指した。昆陽が竹簡を広げていたのだ。

「この印は何です。」

「水門の位置です。」

竹簡には川筋と畑の区画が描かれ、点がいくつも記されていた。

「この印の東は浅瀬で、冬になると氷が張ります。北の丘からの風が強く、夜の寒さが早い。」

白起は地図を見ながら言った。

「北風が早く降りてくる土地か。ならば、秋分を過ぎてからは麦よりも粟が適している。」

「ええ、去年から粟を増やしました。星を見て種をまくこともしています。春の頃、大火が濃い日は土が湿り、白い日は風が乾く。村の者も少しずつそれを覚えております。」

蒋が感心したようにうなずいた。

「それは見事ですね。」

昆陽は笑った。

「近隣の村に在野の天文学者がいるのです。その方が各村を訪れ、星や気象についての情報をもらいます。初めは信じるものはいませんでしたが、徐々に試すうちに結果がついてきました。実りが多いに越したことはありません。村中で試みがされ、豊かさにつながったのです。」

白起と蒋は昆陽の話に聞き入っていた。

「まだ始まりにすぎません。問題も多いのです。子供の数が増え、食も十分とは言えません。畑を広げようにも、隣村との境があいまいで、争いの火種になります。」

白起は竹簡を巻きながら言った。

「境を定めるのは官の務めです。だが、その判断には地の理解が要る。私は天を測るが、同じ道具で地も測れます。」

「もしご助言を賜れれば、村人も喜ぶでしょう。」

白起は頷いた。

「境を争うより、水を分け合うことを考えるべきです。水の量を調べ、日ごとの流れを記す。天文台から出す暦に、その流れの合う時期を記しておきますよ。」

昆陽は目を見開いた。

「それを記してくださると?」

「はい。郡府の報に添える形で伝えます。」

「それは……ありがたいことです。」

昆陽は立ち上がり、壺の酒を注いだ。

「白起様、この村の者を代表して感謝いたします。郡の中でこのような言葉をくださった方はおりません。」

白起は盃を受けたが、口をつける前に言った。

「私はただ、空の理を地に写しているだけです。理を伝え、秩序を守るのは、あなたがたです。」

部屋の外から子供の笑い声が聞こえた。夕暮れの光が土壁を赤く染め、影が長く伸びている。昆陽の妻が小さな膳を運び、三人分の飯を並べた。麦飯と塩の汁、干し魚。質素だが丁寧に作られていた。

「粗末なものですが。」

「十分です。」

白起は箸を取り、静かに食べた。味は淡く、だが疲れた体に染みる。蒋も無言で箸を進めた。

食後、昆陽は棚から古い竹簡を取り出した。

「これは村の最初の記録です。開拓初年、穀物が一割しか実らなかった年のもの。それでも誰も倒れなかったのは、当時の郡守が穀を分けてくださったからです。」

白起は竹簡を受け取り、文字を追った。墨は薄れ、ところどころ擦れている。

「よく残していますね。」

「県の命ではありません。村人が自ら記したものです。この記録を子に渡すことが、我らの務めとしています。」

白起は静かに竹簡を戻した。

「それを続けると後世の人間の糧となります。星を記す者も、地を記す者も、どちらも同じ仕事をしています。記録は、明日を整えるための証になります。」

昆陽は深く頭を下げた。

「心得ます。」

外に出ると、空は暗くなっていた。村のあちこちに灯がともり、家々から煮物の匂いが流れてくる。白起は振り返り、昆陽に言った。

「良い村です。人の手で秩序を作り、人の手で守っている。」

「ありがとうございます。しかし、まだ半ばです。」昆陽が答えた。

「白起様の言葉があれば、皆の心も定まります。」

白起は軽くうなずいた。

「言葉だけではなく、日々の気象を見てください。風が穏やかなら、種を入れ、荒ければ待つ。自然は千変万化です。人間も臨機応変に生きるべきです。」

昆陽は静かに頷き、道の端まで見送った。白起と蒋は馬車に戻り、夜の道を進んだ。
背後で、昆陽の家の灯が小さく揺れていた。風が吹き、野草が音を立てた。

白起は振り返らずに言った。

「この村は、空をよく見ている。在野の星を測る者がいる。影の支援者、か。」

蒋は手綱を握り直した。

「白様、報には何と記しますか。」

「『屯田村、秩序整、地安。官の指なくとも理に従う。』」

「それで十分ですね。」

「うむ。」

馬車はゆっくりと闇に溶けていった。その上には、星がひとつ、静かに光っていた。

翌朝、白起と蒋は再び馬車に乗り、次の村へ向かった。道は続き、朝日は強い。空の色が少しずつ青くなり、遠くの山の輪郭が柔らかく映えていた。白起は馬車の揺れに身を預けながら、昨日の懇談と、この土地の風を心に刻んでいた。

二つ目の村に着いたのは、陽が中天に届かない頃だった。丘を越える途中で風が変わり、馬の耳が揺れた。白起は空を見上げた。太陽が登り、光の角度が大きくなっている。

「もうじき着くな。」

蒋がうなずく。

「はい。ここは開拓民の村です。屯田とは違い、今年でまだ三年目だそうです。」

村の入口には竹の門が立っていた。縄で結われただけの簡素なものだが、近づくと小さな札が掛かっている。「新地」と墨で書かれていた。白起はその字を見て、足を止めた。土の匂いが強く、風に混じって新しい草の香りがする。土地がまだ若いという印象を受けた。

村の中は静かだった。畑は広がっているが、作物はまばらで、ところどころに荒地が残っている。家は土壁で、屋根の葺き方もまちまちだ。男たちは鍬を担ぎ、女たちは桶を運んでいた。白起が歩くと、何人かが立ち止まり、軽く頭を下げた。

一人の老人が声をかけてきた。

「お方は、お役人様で?」

「ええ。」白起は答えた。

「天文を司っています。今は休暇中で郊外の村を見て回っています。」

老人は手を合わせた。「それは珍しいことです。どうぞこちらへ。」

案内されたのは、村の中央にある大きな木の下だった。周囲には子供たちが集まり、丸太を椅子代わりにして座っている。老人は鍬を地に立て、言った。

「この村は去年からようやく形になりました。春には川が溢れ、夏には虫が出ます。だが、星を見て種を撒くようにしてから、少し落ち着きました。」

白起は目を細めた。

「星を見て?」

老人は笑った。

「はい。村の外れに、ひとり、学のある方が住んでおりましてな。その方の言うとおりにすると、上手く耕作が進むようになりまして。。」

「学のある者。」白起は興味を覚えた。

「どのような人物ですか。」

「名を夏侯成と申します。もと咸陽の書生だそうです。官には仕えず、この村で子供たちに文字を教えておられます。」

白起は少し考え、言った。

「案内してもらえますか。」

「はい。すぐに。」

老人のあとを追い、二人は村の外れに向かった。小さな流れを渡り、林を抜けると、一軒の家があった。屋根は低く、壁には書の断片が貼られている。門は開いており、戸口には青い衣を着た男が座っていた。白髪が混じっているが、顔は若々しい。

男は白起たちを見ると、すぐに立ち上がった。

「県からの方ですか。」

「ええ、県で天文官を任されております。」

夏侯成は軽く頭を下げた。

「お名前は存じ上げております。咸陽でお働きの折、噂を耳にしました。秦であなたの名前を知らない人は少ない。」

白起は表情を変えずに言った。

「ここで暮らしていると聞きました。村人たちに暦のことを教えているそうですね。」

「ええ。農を安定させるために、簡単な観測をしています。星の位置と風の向きを記し、種まきと刈り取りの目安にしています。」

白起は頷いた。

「見せてもらえますか。」

「どうぞ。」

家の中には粗末な机があり、竹簡が数本並んでいた。その中の一枚に、星の図が描かれている。線は不揃いだが、位置は概ね正確だった。白起は手に取り、静かに見つめた。

「この図は、最近の観測ですか。」

「はい。北斗と南斗の位置をもとにしています。観測の道具はありませんので、影と手の幅で測りました。」

白起は図を戻し、言った。

「道具がなくとも、筋は通っています。市井でこれほどの天文を行う人がいるとは驚きです。」

「ありがとうございます。」

夏侯成は筆を整えながら続けた。

「官の暦は咸陽から届きますが、ここまでは一月遅れです。天候も少し違うので、そのままでは合わない。それで、村ごとの観測を続けています。」

白起はしばらく黙って聞いていた。やがて、竹簡を一つ手に取り、丁寧に置いた。

「正しい考えです。空の秩序は一つでも、地の条件は違います。暦を用いるには、地に合わせて読み替える必要がある。」

夏侯成は深くうなずいた。

「もし差し支えなければ、白起様のご意見を伺いたい。この村では、夏の南風が長く続くと、その後は必ず短い旱が来ます。それを星で確かめたいと思っておりますが、何を見ればよいのか。」

白起は外に出て、空を見上げた。まだ陽は高いが、東の方に薄い白雲が流れていた。

「夏の南風は、大火の赤に現れる。色が濃く、瞬きが多いときは、湿りが強く、雲が長く留まる。赤が淡く安定しているときは、風が落ち、日が続く。」

夏侯成は頷き、筆で竹簡に記した。

「……つまり、赤の安定が旱の兆し。」

「そうです。」

蒋が横で竹簡を見ていた。

「白様、咸陽では同じことを『火伏』と呼んでおりましたね。」

「うむ。あれは戦の言葉に近い。ここでは風の読みとして伝える方がよい。」

夏侯成は筆を置き、礼をした。

「白起様、貴重なお言葉をありがとうございます。村の者にも伝えましょう。」

「人に伝えるときは、短く言うことです。長くすると空の意味が変わってしまいます。」

三人は外に出た。太陽が照り、田に影が伸びていた。川の水面が金色に光り、遠くで牛の鳴く声がした。夏侯成は空を見上げて言った。

「官の方がこうして足を運ばれるのは珍しい。空を記す者が、地を見に来る。それがこの村には嬉しいことです。」

白起は小さく頷いた。

「天文官は、星だけを見ては務まらぬと思っています。星の下にあるものを知らねば、報は空虚になります。」

風が少し出てきた。夏侯成はしばらく白起たちと歩いた。

「白起様、お会いできて光栄でした。帰り道もお気をつけて。」

「案内に感謝します。」白起は礼を返した。

馬車に戻ると、蒋が言った。

「白様、あの方は立派ですね。官には入らずとも、民を支えておられる。」

白起は短くうなずいた。

「官にいるか否かは問題ではない。秩序を守る者は、どこにいても同じ働きをしている。」

馬車が動き出した。風が背を押し、馬の足音が乾いた土を叩く。遠くの川がかすかに光り、村の喧騒がわずかに聞こえる。

蒋が手綱をゆるめた。

「白様、どちらまで参りますか。」

「しばらく進み、丘の手前で止めよう。今日はそこで泊まる。」

夕刻に迫る頃まで二人は進んだ。二人とも言葉は少なく、野を進んでいく。日がすっかりと落ち、あたりが闇に染まり始めた頃に目的地に到着した。野の端に馬車を寄せ、焚き火を起こした。蒋が壺の水を温め、乾飯をほぐす。白起は火を見つめ、記録をまとめた。

「一、地若く、風南、火赤濃。
 二、川澄み、用水堅。
 三、村人自ら暦を補う。学士夏侯成、有識。」

筆を置き、竹簡を巻いた。

「蒋。」

「はい。」

「この記録は後日、郡県に写しを送る。余計な飾りはいらぬ。」

「承知しました。」

夜が深まり、風が柔らかく吹いている。遠くで梟が鳴いた。白起は焚き火の光を見つめながら思った。天文官として、星を読むだけでなく、人を観ることも職の一部なのだと。その土地で生きる人々の暮らしを知らずに、空の報を作ることはできない。

火が小さくなり、蒋が壺を覆った。白起は空を見上げた。南の空に、赤い星がひとつ光っている。その光は静かで、遠く、揺れていなかった。白起は目を細め、静かに呟いた。

「明日は晴れる。」

風が緩み、夜が落ち着いた。遠くで生き物の鳴き声が聞こえ、川の水音が絶え間なく流れていた。白起はそれを聞きながら目を閉じ、短い眠りに入った。

白起は目を開けると、まだ薄暗い空に北斗を見た。柄は東へ戻りつつあり、夜の終わりを告げていた。焚き火の灰を払い、壺の水を少し飲む。ぬるさが喉を通り、目が冴えた。蒋もすでに起きており、馬の背を撫でていた。

「白様、風が変わりました。北の方から来ています。」

「そうか。日が高くなる頃には暑くなるだろう。」

「はい。」

荷を整え、馬車を出す。草を踏む音が柔らかく響く。露が靴の端を濡らした。道の先には、昨夜見た川が朝の光を受けて光っている。白起はしばらく黙ってその流れを見つめた。同じ川でも夜と朝ではまるで別の表情をしていた。夜には音だけがあり、朝には形がある。

「蒋、今日も手綱を頼むぞ。」

「はい。ゆるゆると参りましょう。」

「今日の気象はどうか。」白起が一人呟く。

馬車はゆっくりと丘を登った。朝の風が涼しく、雲が低く流れていた。途中、畑に出ている農夫たちの姿が見える。鍬を振り、草を刈り、牛を引く。白起はそれを眺め、手にした筆で短く記した。

「風北、湿少、労多、地整。」

蒋が問うた。

「白様、それは報に載せられますか。」

「載せぬ。ただの記録だ。」

「なぜです。」

「星の報は天を記す。地の記録は、私が見るためにある。」

丘陵をしばらく進む。途中、小さな祠の前で馬を止めた。祠の前には花が供えられ、木の札に「雨」と記されていた。白起は馬から降り、札を手に取った。墨のにじみが新しい。昨夜の雨を願ったものだろう。

「この村の者は、よく空を見ている。」

蒋がうなずく。「はい。村長が毎朝、川と雲を見ているそうです。」

白起は札を戻し、祠の前で一礼した。

「こういう祈りも、天文の一部だ。形は違えど、空を測り、秩序を求めている。」

丘を下りると、再び町の道に戻った。午前の日差しが強くなり、道の上で蜃気楼のように光が揺れていた。途中で何度か休憩し、県への帰路を進む。日が中天をすぎ、かなり傾いた頃進む遠くに上邽の町が見えた。屋根の群れが灰色に沈み、城壁の線がゆるやかに続いている。

道の両側には牛車が行き来しており、荷を積んだ農人たちが町に向かっていた。白起はその流れをしばらく見ていた。天文台で夜に記録する星の動きと、地上を歩く人々の流れが重なって見えた。どちらも決まった秩序の中を進み、乱れてもまた戻っていく。

上邽の城門は開かれており、兵が槍を立てて立っている。通行人は増え、商人や農夫の声が交じり合う。白起は人の波の中を静かに進んだ。

町に入ると、空気が少し重くなった。体が熱を帯び、屋根の影が長くなっている。白起は蒋に言った。

「夕食前に帰るのはちょうどよい。今夜は報の整理をする。」

「はい。県へは休暇明けの初日に提出いたします。」

家に着くと、凛が戸口で待っていた。

「お帰りなさいませ、白様。」

「留守の間、変わりはなかったか。」

「はい。杜が畑を見ておりました。菜も順調です。」

白起は荷物を蒋に任せ、室内に入った。土の匂いがまだ衣に残っている。凛が湯を運んできた。

「少しお疲れのようですね。」

「歩いた距離の分、考えることが多かった。」

杜が台所から顔を出した。

「白様、郊外はいかがでしたか。」

「整っていた。屯田も開拓も、秩序を保っている。星を見る職にあっても、地の秩序を知ることは欠かせない。」

凛が湯飲みを差し出した。

「では、この旅も良い仕事だったのですね。」

「そうだ。」白起は湯を口に含み、静かに息を吐いた。

「空は記録で測れる。だが地は、歩かねば分からぬ。」

蒋が荷を下ろし、竹簡を並べた。

「白様、記録は三巻ございます。風と水、村の状況、夏侯成の言葉も記しております。」

「よい。今夜じっくりと読み返そう。」

部屋の隅では、凛が畳を整え、杜が油壺の蓋を閉めた。家の中に落ち着いた静けさが戻った。白起は庭に出た。畑の端に立ち、空を見上げる。西の空は赤く、薄い雲が横に流れている。町の屋根からは煙が上がり、夕餉の匂いが風に混じる。遠くで犬が吠えた。

白起は心の中で、この非番を思い返した。天文官としての勤めに就いて以来、初めて地の広がりを確かめた。星の記録は夜に積み上がるが、地の記録は昼に積み上がる。その両方を合わせて初めて、暦が生きる。

もし空ばかりを見ていれば、人の生活は遠くなる。もし地ばかりを見ていれば、季節の理が見えなくなる。天文官の役目とは、その両方の間に立ち、つなぐことにある。

空の動きは止まらず、地の営みも止まらない。その間に人がいて、日々を記す。記すことは、秩序を保つことだ。それは戦でも政でもない、静かな働きだった。

凛が呼びに来た。

「白様、夕食の用意ができました。」

「うむ。」

白起は庭の端の畝を一度だけ見てから家に戻った。土の表面が乾きかけている。明日の朝、水をやらねばならないと思った。

その夜、机の上に竹簡を並べ、筆を取り、報の清書をした。

「風北、火赤濃、地整、村善。」

文字は小さく、余白は広く取った。記録を終えると、白起は筆を置き、灯を消した。

外では風が静かに吹いていた。遠くで水の流れる音が聞こえる。白起は横になりながら思った。この音もまた、天文の一部である。星の動きが夜を測り、水の音が地を測る。どちらも絶えず流れている。

翌朝、空は晴れていた。白起は早く起き、庭の畑に水をまいた。凛が戸口から顔を出した。

「今日も良い天気ですね。」

「うむ。」

畝の間に水が広がり、土の色が濃くなった。その光景を見ながら、白起は小さく言った。

「星を見ていると、地が遠くなる。だが地を歩くと、星が近くなる。」

凛が聞き返したが、白起はそれ以上言わなかった。ただ水の流れを見つめ続けた。数日後、郡県への報が受理され、白起の記録は正確と評された。県令からの言葉は短かったが、報の書面に朱が入った。

「文整、観確、勤慎。」

白起はそれを見て筆を置いた。評価の文字よりも、その裏にある秩序を見た。

こうして、白起の非番は終わった。再び天文台での観測の日々に戻る。だが、その夜空は以前と少し違って見えた。地の色が加わった分、星の光がより穏やかに感じられた。

夜、白起は台に立ち、空を見上げた。北斗が静かに回り、南の火が低く光っている。風はゆるやかで、漏刻の水は一定に落ちていた。白起は筆を取らず、ただ空を見た。その眼差しの中に、天と地の両方があった。

【5】

日常は、音もなく戻ってきた。非番のあいだに沈黙していた天文台の灯が、再び夜ごとにともる。白起はいつもと変わらぬ刻に起き、畑を見回り、空を仰いだ。風の向きも、雲の流れも、非番前と大差はない。だが胸の奥に、何か薄い膜のようなものが張っているのを感じた。

凛は火を起こし、杜は畑の畝を確かめていた。蒋は書を広げ、青淵から預かった論を写している。伯からの送金もいつも通り届き、封の朱もかすれていない。白起は彼らの動きを眺めながら、心の中で一つひとつを秤にかけるようにしていた。

「秩序は壊れていない」――そう思うたびに、息が少し整った。

朝の食事が済むと、凛が粥の椀を片づけ、静かに言った。

「白様、郡府からの使いが来ております。文書をお持ちとのこと。」

白起は顔を上げ、箸を置いた。

「郡府から……か。」

「はい、郡長様のお使いと名乗っております。」

白起は立ち上がり、衣の裾を正した。使者は門の外に立っていた。年若い書吏で、額に汗を浮かべ、手には竹筒を抱えている。

「上邽県天文官、白起殿にお伝えいたします。」

声がかすかに震えていた。

「郡府よりの通達。閲覧の上、署名を。」

白起は受け取り、軽く頭を下げた。

「ご苦労だった。県令殿には後ほど伺おう。」

使者は深く礼をし、足早に去った。門を閉じたあと、白起は竹筒を卓に置き、しばらくそのまま見つめた。凛が後ろから息を潜めて様子をうかがっている。杜も畑仕事の手を止め、静かに入ってきた。

「開けますか。」

白起は頷き、封の朱を切った。竹簡の表には、整った官字でこうあった。

「財政再調整により、上邽県天文官、白起、俸給三割削減。封地の余剰分、還収。」

文末には小さく、「范雎」の署名があった。凛が思わず息を呑んだ。杜は目を細め、簡の文を追った。蒋は無言で立ち尽くし、口を結んだまま動かない。白起は簡を最後まで読み切り、何も言わずに指で竹を撫でた。指先に伝わる感触は、驚くほど静かだった。

しばらくして、白起は卓の上の布を整え、竹簡を丁寧に巻き直した。

「凛、水を。」

「はい。」

盃に注がれた水を口に含む。味は変わらない。ただ喉の奥に、わずかな金属のような苦みを感じた。

「……郡府の判断でしょうか。」杜が低く言った。

白起は首を横に振った。

「郡府が自ら削ることはない。上の指だ。范雎――あの名があれば、疑う余地はない。」

凛が声を震わせた。

「白様だけが、対象なのですか。」

「おそらく。」

白起の声は穏やかだった。

「だが、理由を問うても答えは同じだろう。再調整である、と。」

沈黙が落ちた。家の中の空気が少し重くなる。外では蝉が鳴いている。その鳴き声が、まるで空の高みから降ってくるように響いていた。

蒋がようやく口を開いた。

「白様、この通達には署名を求められていましたが……。」

「署はする。」白起は短く答えた。

「下達を拒むのは、秩序を乱すことだ。」

凛が小さく言った。

「ですが……俸給の三割は大きすぎでございます。封地の還収となれば、あの伯の投資も……。」

白起は彼女の言葉を遮らず、ただ頷いた。

「わかっている。だが、心配はいらぬ。元々は官の土地なのだ。それが元の鞘に戻っただけだ。」

凛は目を伏せ、静かに台所へ下がった。杜は壁際で腕を組み、低く言った。

「范雎の名が出てくるとは思いませなんだ。あの男、白様の左遷以来、何人の官を動かしたか。」

「数え切れぬ。」白起は淡々と答えた。

「しかし、我らの仕事は星を見ることだ。都での政には関わらない。淡々と星を見る。星は誰の命でも止まらぬ。」

午後、白起は天文台へ出仕した。李温がすでに書記室を整理していた。

「白起様、県府では白起様の噂で持ちきりになっております。」

「そうか。」

「噂は誠なのですか。」

「ああ、俸給の削減と封地の大半を返還。」

それ以上の言葉はなかった。李温は唇を噛み、帳を閉じた。

「天の観測には支障はない。そちが気にすることは何もない。」

「なぜ今になって。さらに白起様だけとは。」

「宰相殿には我々の見えない策がおありなのだ。李温よ、良いか、これ以降はこの噂に関することは何も話すな。おぬしに余計な迷惑はかけたくない、良いな。」

李温は悔しそうに頷いた。

白起は観測台に上がり、夕方の空を見た。雲が薄く、風は西から流れている。遠くの山の上に、うっすらと金色の帯がかかっていた。静かだった。だがその静けさは、戦場の前の沈黙にも似ていた。

深夜、白起が帰宅すると、凛と杜、蒋がすでに卓を囲んでいた。家人の会議が開かれていた。凛は帳面を開き、俸給の減額分を計算していた。深夜にも関わらずまんじりともしていない。

「皆、どうしてまだ起きている。体に触る。早く寝所に向かうのだ。」

「白様。これは由々しき事態です。白様だけにお任せするわけにはまいりません。」

蒋が勢いよく言い放つ。他の二人も同意見のようだ。

「白様、収入が減ったとしても、秋までは現在の生活を維持できます。しかし、その先は徐々に家産が目減りしていきます。伯の送金も次からは無いに等しいかも知れません。」

杜が続ける。

「備蓄はひと月半。畑の収穫まではなんとか持ちますが、冬が来れば厳しい。」

蒋が口を開いた。

「講の会費をしばらく止めます。暫くは自習で問題ありません。」

「普段の食事も少し切り詰めなければなりませんね。粥も安くはありませんから。雑穀を中心に考えてみます。」

凛が善後策を述べていく。白起は一同を見回した。皆の顔には焦りが浮かんでいる。それでも、誰も声を荒らげなかった。白起はゆっくりと座り、卓の上の文書を見た。

「――よい。各々、手を止めずにおれ。」

「白様……?」凛が顔を上げた。

「官の俸給は削れても、星は減らぬ。それに無給になった訳ではない。これまでが豪勢すぎたのだ。時には質素倹約な生活も良いだろう。これが永久に続くとも考えにくい。それに、農は天に従う。土があるかぎり、我らは飢えぬ。」

凛は唇をかみ、蒋は筆を止めた。杜は腕を組み、短くうなずいた。白起は立ち上がり、戸口に向かった。外の空は暗く、雲の隙間から北斗がかすかに光っていた。

「天は見ている。」

誰にともなく、白起はつぶやいた。その声は、風に溶けて消えた。

翌日、白起は官服を整え、天文台に向かう前に県府へ立ち寄った。門前には二人の兵が立ち、夏の陽を浴びて槍が鈍く光っている。

「上邽県天文官、白起、通達について県令殿に拝顔を。」

白起の声は落ち着いていた。兵はうなずき、内へ伝える。待つあいだ、白起は城門の影に立ち、庭の梧桐の葉の揺れを見た。風はほとんどなく、葉が重みで落ちかけている。夏の終わりを感じさせる匂いだった。

「白起殿、どうぞ。」

案内に従い、白起は県令の執務室へ入った。部屋は薄暗く、壁際の文箱が整然と並んでいる。県令の表情は柔らかいが、目の奥に疲労の色があった。文書を読む手を止め、立ち上がった。

「白起殿、来たか。」

「はい。昨日の通達について伺いたく参りました。」

「……やはり。」県令は小さくため息をついた。

「実はその文、郡府の印こそ押されているが、対象はそなただけ。」

白起は黙って聞いた。

「他の官には同様の削減はない。吏・兵・工、いずれも従来通りの俸給。文面上は“財政再調整”と記されているが、明らかに個別措置。」

白起は机の上の文簡を見た。

「理由の記載は。」

「ない。ただ末尾に――」県令は指で文の隅を示した。

「“宰相議決”の字がある。」

沈黙が落ちた。白起は簡の表を指でなぞった。墨はまだ新しく、紙面にかすかな光沢を残している。

「つまり、郡府ではなく、咸陽の決裁ということですね。」

「そうだ。郡守も困惑している。異議を唱えようにも、范相の署名があれば、誰も動けない。」

白起は目を閉じ、短く息を整えた。

「封地の返還範囲は。」

「封地の九分。」

「……そうですか。」

県令は声を低めた。

「白起殿、これはどう見ても個人への処分だ。范相が、あなたの名をまだ咸陽で覚えている。咸陽での件――あの召喚の後、あなたが上邽へ左遷された経緯。“再調整”という言葉の裏には、“忘れていない”という意志がある。」

白起はわずかに首を傾げた。

「怨みですか。」

「おそらく。だが、そのような疑いを持てば、我々まで巻き込まれる。私はこの件を“郡府の書類の一件”として処理する。」

白起は静かに言った。

「ご配慮、感謝します。ただ、私は何も申しません。通達を受け、任を続けるのみです。」

県令は言葉を失い、しばらく白起の顔を見つめた。

「……本当に、それでよいのだな。」

「よいのです。私には星があります。」

県令は深く息を吐いた。

「范雎という男は、理を言葉に巧みに飾る。削ることを“整える”と呼ぶ。だが、削られる側の理は、どこへ行くのか。」

白起は答えなかった。ただ、机の上の文を丁寧に巻き直し、印の位置を確かめた。

「私は理を問いませぬ。ただ秩序を守るのみです。」

その言葉に、県令はもう何も言えなかった。白起は深く頭を下げ、静かに部屋を出た。

外に出ると、陽がすでに高く、門前の石畳が熱を帯びていた。白起は一歩進み、空を見上げた。太陽は真上にあり、影がほとんど地面に消えている。彼はふと、自分の足元を見た。影のない立ち姿――それは、孤立を映しているようにも見えた。

夕刻、天文台での業務はいつも通り始まった。李温が報の整理をしていたが、白起の顔を見ると口をつぐんだ。

「白起様……通達の件、存じております。」

「聞いたか。」

「はい。郡府から副官宛に通知がありました。しかし、他の官には影響はなく、皆が驚いております。」

白起は観測台に上がり、空を見た。雲は薄く、風が東から流れている。

「仕事を続けろ。星は止まらぬ。」

「……はい。」

夜の観測が終わるころ、李温が灯を調整していた。油が少なく、炎が揺れている。白起は筆を置き、言った。

「灯を絞れ。油が尽きても、星は見える。」

「白起様……このまま黙っておかれるのですか。」

「語る言葉を持たぬ者が、最も長く残る。」

「……。」

「報を仕上げろ。天の記録は、誰の政治にも左右されぬ。」

その夜、白起は家に戻ると、凛と杜、蒋が卓を囲んで待っていた。
凛が静かに言った。

「白様、県令様からの報の噂をお聞きしました。」

「そうか。」

「この処分、白様お一人だけとか。」

「そのようだ。」

杜が拳を握った。

「あの范雎という男、何を恨んでいる。ここまでやるのか。」

「怒るな。」白起は静かに言った。

「怒りは理を乱す。理を乱せば、己が崩れる。」

蒋が低い声で言った。

「白様は、それでも続けるのですね。」

「務めを辞すことはできぬ。官とは、理不尽を飲み込み、秩序を保つ器だ。」

凛が椀を差し出した。

「せめて今夜は、少し温かいものを。」

白起は受け取り、一口だけ飲んだ。味は淡く、苦みがあった。

「これでよい。味があるうちは、まだ平らかだ。」

家の中は静かだった。外の風が戸を叩き、遠くで犬が吠えた。白起は灯を見つめながら言った。

「風は変わる。だが、星は巡る。我らは星のほうを見る者だ。」

凛が頷き、杜と蒋も黙ってうなずいた。その夜、白起は寝所に入る前、庭に出た。
畑の端に立ち、空を仰ぐ。北斗がゆるやかに回り、南の火が低く光っている。封地を奪われても、空の領分だけは誰にも奪えない。

彼は目を閉じ、静かに言った。

「これが私の封地だ。」

夜風が通り過ぎ、畝の葉を揺らした。白起はしばらくその音を聞き、家へ戻った。

次の咸陽からの報せは、夏の終盤に差し掛かった頃に届いた。使者は昼下がりに上邽へ入り、県府を経て天文台へ文を届けた。印は「監察司」。文面には短く、「県政および天文職掌の実務状況視察」とだけあった。末尾には范雎の署名があった。

李温がそれを読み、眉をひそめた。

「白起様、これは……。」

「読むがよい。」白起は静かに言った。

李温は言葉を選びながら続けた。

「監察司が直接派遣されるのは、通常は郡府以上の規模でございます。上邽一県に、しかも天文職へとは……。」

「理由は書かれていない。」

「はい。――ただ、“勤務査察を含む”と。」

白起は頷いた。

「いずれにせよ、来る者は拒めぬ。準備を整えよ。」

その日の夕刻、町では監察官一行が入るとの噂が流れた。道のほとりに立つ者たちが口々に言う。

「咸陽の人間が来るらしいぞ。」「また税か。」

だが誰も本当の理由を知らなかった。

翌日、昼を少し過ぎた頃、天文台の前に四人分の馬が止まった。
先頭の男が下馬し、名を告げた。

「咸陽監察司、趙徴である。上邽県天文台の実務を査す。」

白起は正装で出迎えた。

「遠路ご苦労にございます。拙官、天文官白起にございます。」

趙徴は頷くだけで、視線を白起の背後に向けた。天文台の屋根、器具、石台――それらを一瞥する。

「規模のわりに設備が整っているな。これでは経費がかさもう。」

「観測の正確を期すためでございます。」白起は穏やかに答えた。

「ほう。正確――。」趙徴は短く笑い、文を取り出した。

「天文職掌に関する勤務規定を再査する。以後、勤務時間を日没前一刻から翌暁一刻までとする。」

李温が息を呑んだ。

「それでは、従来の倍に……。」

趙徴は目だけで李温を見た。

「異議があるか。」

「いえ……。」李温は言葉を飲み込んだ。

白起は深く一礼した。

「御命、承りました。」

その晩から、白起の勤務は変わった。夕刻、日が沈む前から器具の点検が始まり、夜半を過ぎても終わらない。漏刻の水が尽きれば補い、油が切れれば自ら注ぐ。夜明け前の風が吹くころ、帳面の確認と整理が続く。李温は心配そうに見ていたが、白起は何も言わず筆を動かし続けた。

翌日、趙徴はさらに命を下した。

「天文報の整理を、正天文官自ら行え。副官の手を借りること、許さぬ。」

李温が思わず口を開いた。

「それは本来、私の職務にございます。」

趙徴は冷たく言った。

「では、そなたの職務を別に与えよう。県府文庫の整理を手伝え。」

「は……。」

白起は軽く頭を下げた。

「拙官が代わりに引き受けます。」

「当然だ。」趙徴は筆を走らせ、命令書に印を押した。

白起の一日は、昼夜の区別を失った。夜は観測、朝は報告、昼は雑務。夜明けの空を記す手が、午後には県府の記録簿を写している。目の下に薄い影ができ、筆の握りが少し震えるようになった。

杜は心配して言った。

「白様、このままでは体が持ちませぬ。」

「働けるうちは働く。俸給も封地も削減されているのだからな。」

「范雎の差し金だと誰もが言っております。なぜ抗わぬのです。」

「抗えば、秩序が乱れる。秩序が乱れれば、星の道も歪む。観測の歪みは天文官の恥だ。それは何に変えても私が許せぬのだ。これ以上私から奪うことはさせぬ。」

凛は夜食の粥を持ってきたが、白起はほとんど口をつけなかった。

「白様、せめて一刻だけでもお休みを。」

「寝るより、書くほうが楽だ。書く、書く、書くことが。」

凛は言葉を失い、椀を置いた。

日が経つごとに、白起の顔色は青ざめていった。それでも筆を止めることはなかった。報の文字は相変わらず整っており、観測の記録も乱れがない。李温はそれを見て、思わず呟いた。

「人ではなく、岩のようだ……。」

三十日目の夜、観測の途中で雨が降った。器具を覆い、記録を守るために白起は台の上に立ち尽くした。衣が濡れ、髪が額に張り付く。李温が声を上げた。

「白起様、下へ!」

「まだ観測が終わっておらぬ。」

「この雨では星は見えませぬ!」

白起は微かに笑った。

「雲の動きもまた、天の一部だ。」

雷鳴が一度、遠くで鳴った。その音に重なるように、趙徴の声が台の下から響いた。

「白起殿、明朝は県府へ出仕せよ。郡の査問書の写しを命ずる。」

「承りました。」白起の声は揺れなかった。

夜が明けるころ、雨は止み、空に薄い光が差した。白起の衣は重く、指は冷たかった。それでも彼は筆を取り、観測の記録を整えた。

「天、雲多、風東北、星影薄。」

文字は滲んだが、形は崩れなかった。

翌日、白起は夜明けと同時に県府へ出仕した。眠りはわずか一刻にも満たず、目の奥が重く痛んだ。趙徴の指示で、郡から届いた査問書の写しを作成する任務が与えられていた。
竹簡数は百に及び、朱印の押し位置まで指定されていた。

白起は机に向かい、筆を取った。昼の光が差し込み、墨の影が細く面に伸びる。隣の席では李温が監察官の視線を気にしながら文を整理していた。趙徴は部屋の奥で帳簿を開き、時折、視線だけを白起に向けた。

「筆を速めよ。」

「は。」

白起は答え、速度を上げた。筆先が乾き、墨が薄れる。再び墨を含ませようとしたとき、趙徴の声が飛んだ。

「墨の補給は定時に限る。余分な浪費は許さぬ。」

「承知いたしました。」

白起は目を伏せ、乾いた筆のまま書を続けた。文字の線がかすれ、黒が灰に変わっていく。それでも一行たりとも乱れなかった。

正午を過ぎても休憩はなく、白起は椅子から立たなかった。李温が水を運んできたが、趙徴の目を見て、机に置くだけで去った。水はぬるく、盃の中で光が揺れた。

夕刻、ようやく趙徴が筆を置いた。

「本日の業務、ここまでとする。夜は天文台にて観測を続けよ。明朝、報を持参せよ。誤字あれば再写。」

白起は立ち上がり、深く頭を下げた。

「御命、承りました。」

外に出ると、日が沈みかけていた。風が強く、土が舞い、目を細めても痛いほどだった。その風の中で、白起は静かに息を吐いた。胸の奥が熱を持っている。だが、怒りではなかった。むしろ、熱が冷めるような感覚――自分の中の何かが静かに削られていく。

夜の観測が始まった。空には薄い雲がかかり、星がちらちらと見え隠れしている。李温は白起の顔色を見て言った。

「白起様、今宵は私が代わりに記録を。」

「ならぬ。命を受けているのは私だ。」

「しかし、お身体が……。」

白起は筆を持つ手を上げ、遮った。

「筆を置けば、理が崩れる。理が崩れれば、官も民も道を失う。道を失わせることを天文官が許してはならぬ。それはどのような罪よりも重い。それを見過ごすことはできない。たとえ病を得ようともな。」

李温はそれ以上言わなかった。白起は天を見上げ、宿星の位置を測った。手の震えを抑え、筆を走らせる。

「風北、雲散、柳宿明。」

文字はやや滲んでいたが、形は乱れなかった。その夜の報は、翌朝、趙徴のもとへ届けられた。監察官は目を通し、朱筆を入れた。

「誤字あり。再写。」

白起は文を受け取り、再び机に向かった。誤字は一字もなかった。それでも言い返さなかった。

「承りました。」

その一言で済ませ、再び筆を取った。李温がその様子を見て、歯を食いしばった。だが白起の顔には、怒りも屈辱も浮かんでいない。ただ、何かを静かに観察するような眼だけがあった。

「人は、理に逆らうほど小さくなるものだな。」

それが誰に向けた言葉か、李温にはわからなかった。日が重なり、白起の体は痩せていった。頬の肉が落ち、指の骨が目立つようになった。それでも勤務を休むことは一度もなかった。昼夜の区別もなく、机の前か天文台の上にいる。変わった点は、凛の粥はしっかりと食べるくらいだ。

「白様、せめてお休みを。明日の観測は李温殿が補うと。」

「いや、夜空は一夜として同じではない。私の眼で見たことを、私の筆で記す。」

凛は俯いた。夜の灯が彼の横顔を照らし、影を壁に映す。影の輪郭は薄く、まるで透き通っているようだった。

やがて季節の風が変わった。朝の空気に、秋の匂いが混じりはじめた。白起は夜の観測を終え、空を見上げた。北斗が南へ傾き、秋分が近いことを告げていた。そのときふと、彼の胸の内に一つの思いが浮かんだ。

――星は変わらぬのに、人はなぜ変わるのか。

それは怒りではなく、純粋な疑問だった。范雎も、趙徴も、皆、人の理の内で動いている。理の形を歪めてまで、人は何を得ようとしているのか。答えは出なかった。ただ、彼の中で何かが静かに沈んでいった。

ある夜、趙徴が突然天文台に現れた。

「白起殿、報の提出が遅れた。」

「申し訳ございません。観測の風向が乱れ、再測をいたしておりました。」

「言い訳は無用だ。明朝までに三晩分を提出せよ。」

「承知いたしました。」

趙徴は去り、夜の風だけが残った。李温が口を開きかけたが、白起は首を振った。

「よい。仕事を続けよ。」

夜明け前、白起は筆を動かし続けた。腕が重く、視界が滲む。一瞬、墨の中に星が落ちたように見えた。そのまま筆を止めず、最後の一行を書き上げた。

「星静、風定、理巡。」

筆を置くと、全身の力が抜けた。椅子の背にもたれ、天井の梁を見つめた。そこにあるのは、ただの木の線。だが、その線が星の軌跡のように見えた。

夜が明け、報を提出した。趙徴は受け取り、目も通さず机の上に置いた。

「今後も同様に励め。」

「はっ。」

その声は掠れていたが、揺れてはいなかった。白起が家に戻ると、凛が戸口で待っていた。

「白様……お顔の色が……。」

「少し眠れば戻る。」

「お休みの前に、少し召し上がりを。」

白起は椀を受け取り、粥を飲んだ。熱が舌を刺し、体に沈んでいく。がつがつと白起は食べた。何かの怒りをぶつけているかのように。しかし、批判めいた事は何も言わない。白起の矜持がそうさせるのだろう。

「凛よ、家は静かであるか。」

「はい。杜が資産を、蒋が畑を見ております。」

「そうか。」

白起は目を閉じた。

「秩序が保たれておれば、それでよい。凛よ、そなたにも家を任せきりで申し訳ないな。私よりもずっと働いているのだ。体を労るのだぞ。」

凛はぐっと頷きながら、膝をつき、低く言った。

「白様、このような仕打ち……。」

「言うな。言いたいことは分かる。」

「けれども――。」

「人の理に怒っても、天は応えぬ。私は人の理が如何に理不尽に変わるかを見てきた。これはどうしようもないことだ。しかし、天の理は変わらぬ。人間の埒外にある。私はそこに惚れたのだ。」

白起は椀を置き、ゆっくり立ち上がった。

「私は天文官。天を記す者が、人の塵に惑わされてはならぬ。」

外へ出ると、風が吹いていた。空は高く、雲が薄く流れている。白起は空を仰ぎ、深く息を吸った。

「星は遠い。だが、観測するほどに理は近くなる。これほど面白い職はない。それを趙徴なぞに奪われてたまるまい。」

白起は不適な笑みを浮かべていた。そして、それは誰に向けた言葉でもなかった。ただ、自分を保つための声だった。その不適な笑みを見て、凛は少し背筋が寒くなった。

その夜も、白起は天文台に立った。李温が記録を整え、程慶が灯をともす。星はよく見え、風は穏やかだった。白起は筆を取り、そっと書き始めた。

「天清、風正、理不動。」

その文字を見つめ、微かに笑った。まだ、崩れてはいない――そう思えた。だが、彼の肩の震えを、李温だけが見ていた。その小さな震えの中に、疲労と、それでも折れぬ理が宿っていた。

夜が終わる少し前、天文台の灯が一つ、音もなく消えた。灯を落としたのは風ではなかった。灯の前にいた白起が、静かに机へ崩れたのだ。筆が滑り、墨が散った。竹簡の上を黒が流れ、乾かぬまま止まった。

李温が振り向いた。

「白起様!」

返事はなかった。体は冷え、息は細かった。額の汗を拭うと、掌に異様な熱が伝わる。

「程慶、担架を!史狗、湯を!」

短い命が交わされ、音だけが次々に走った。外の風は止んでいた。虫の声も消え、夜がそのまま耳にまとわりつく。倒れた白起の顔は、まるで眠っているようだった。しかし眠りではなかった。働き続けた人間の、限界を超えた静止だった。

家へ運ばれる途中、凛は戸口で待っていた。

「白様……」

声がかすれ、目が潤んだ。杜がすぐに寝所を整え、蒋は薬湯を用意した。白起の体は軽く、担いだ者が驚くほどだった。横たえられると、白起の呼吸は少し落ち着いた。凛が額の汗を拭き、濡れ布を替え、また絞った。そのたびに布はすぐ乾いた。熱が強すぎたのだ。

二日が過ぎた。夜も昼も区別のない看病が続いた。凛は粥を温め、杜は交代で看を続けた。蒋は郡医の指示を仰ぎ、薬草を煎じ直した。誰も大声を出さなかった。静かな焦りが、家全体を覆っていた。

三日目の夜明け、白起が薄く目を開いた。

「……灯は。」

凛が答えた。「消してございます。」

「消すな。灯を絶やすと、家が冷える。」

凛は布を替えながら、微笑んだ。

「冷えませぬ。皆おりますゆえ。」

白起は小さく頷き、そのまま眠った。

四日目、熱がようやく下がった。汗が全身を濡らし、衣を替えるたびに凛の指が震えた。
脈はまだ速く、声も出ない。それでも、白起の瞼は前より確かに動いていた。

五日目の朝、白起は起き上がろうとした。杜がすぐに押し留めた。

「まだ歩かれてはなりません。」

「府へ報を出さねば。」

「李温殿が代筆しております。」

白起は目を閉じた。

「筆跡で人は伝わる。代われば理も変わる。」

凛がすかさず言った。「理よりも命を。」

白起は答えず、目を閉じたまま息を整えた。午後、監察司の吏が門に現れた。

「監察司趙徴殿より。報告遅延の件。」

凛が出て言った。「白起様は病中です。数日を。」

「監察は理由を問わぬ。」

そのまま書付を置いて去った。凛は唇を噛み、杜が静かに手を置いた。

「怒っても届かぬ。見守るしかない。」

その夜、白起は筆を取った。凛が止めようとしたが、白起は笑った。

「書かねば休まらぬ。」

彼は寝所で竹簡を膝に置き、口述した。蒋が筆を取った。

「天、風南、宿度正、雲散。」

声は掠れていたが、言葉は途切れなかった。終えると、白起はそのまま眠った。

六日目の朝、白起は衣を着た。凛が帯を握りしめた。

「行かれるのですか。」

「行く。机を放せば、戻るまでに埃が積もる」

「埃は払えます。そのために天文部の皆がおります。」

「理に積もる埃は、誰にも払えぬ。」

凛は黙り、衣の皺を伸ばした。杜が肩を貸して門まで送った。

「お送りいたします。」

「大丈夫だ。杜よ、今は苦難の時だ。家を頼むぞ。」

白起は振り向かずに歩き出した。足取りは重く、息は浅かったが、一歩ごとに形が整っていた。

天文台では李温と程慶が待っていた。李温が深く頭を下げた。

「お戻りをお待ちしておりました。」

白起は軽く頷いた。

「器具は。」

「漏刻は調整済み、圭表も位置に誤りはありません。」

白起は石台を指で叩き、音を確かめた。

「始めよう。」

日が沈むまでに観測器の配置を見直し、記録の余白に註を加えた。筆は少し震えていたが、線は整っていた。夜が深まり、空が澄んだ。白起は宿星を一つずつ追った。風が穏やかで、油の灯も揺れない。

「天清、風正、宿度平。」

その三行で、報は締められた。

夜更け、李温が小声で言った。「お身体を、」

白起は首を振った。「体を休めても、理は止まらぬ。監察官は見逃すまい。しかし、李温よ、そなたの情は、この白起の気を高めてくれている。感謝する。」

ぐっと拳を握りしめたが、李温はそれ以上言わず、灯を下げた。

帰宅すると、凛が待っていた。粥の香りが薄く漂っていた。

「おかえりなさいませ。食事の準備は整っております。」

「いい香りだ。香草か何かを使っているのか。」

「はい、市で仕入れた薬草を混ぜ込んでおります。」

「ふっ、白家に倹約令を出しておきながら、私が一番の金食い虫だな。」

白起は自嘲気味に漏らす。凛が微笑する。白起は器を受け、ゆっくりと口に運んだ。味はわからなかった。味覚が少し鈍っているのかも知れない。だが、熱が喉を通る感触だけで十分だった。じんわりと凛の情が流れ込んでくる。

「薬湯も召し上がりますか。」凛が言った。

「うむ、頂こう。今宵は食欲がある。」

「すぐにお持ちします。」

凛の足取りが軽くなる。今宵の白起の容体に安堵しているのだろう。薬湯を流し込み、凛と少し話し込んだ後に寝所に下がった。灯はしばらく揺れ、そのうちに小さく沈んでいった。

夜の静けさの中で、白起は目を閉じた。眠るというより、呼吸を整えるように。家の中は息を潜めていた。凛は隣室で灯の火を守り、杜は庭の水瓶に布をかけ、蒋は筆と簡を拭いた。それぞれがそれぞれの持ち場を離れずにいた。

明け方、白起は目を覚ました。喉が痛み、体が重い。それでも、立ち上がった。歩くと体が少し前に傾いた。その傾きを、自分の意思で戻した。その瞬間、少しだけ顔に血の色が戻った。

昼、白起は県府へ向かった。役所の門の前で足を止め、空を見上げた。青が深く、雲は細く、風は乾いていた。季節が変わりかけている。天の気は移り、人の理はその流れに乗らねばならぬ。白起はそのまま門をくぐった。

郡からの通達は増えていた。雑務の整理、文書の再写、倉庫の印の照合。誰もが少しずつ白起へ押しつけた。これも監察官の圧力なのだろう。だが、白起は何も言わず、順に片づけた。一つを終え、一つを始める。その順だけを守った。理は声で守るものではない。行いで保たれるものだと、白起は知っていた。

夜、天文台に戻ると、李温が報告した。

「趙徴殿は三日ほど姿を見せません。」

「久しぶりの朗報だな。」

白起と李温は互いには淡く笑った。笑ったが、眼の奥は静かだった。灯を見つめ、筆を取る。墨を含ませ、簡に触れる。その一瞬に、世界の音が消える。筆が進むたび、空の星が並ぶように、秩序が戻る。

「風西、星定、理明。」

その三行を書き終えたとき、白起の指がわずかに止まった。指先が痺れてきた。だが、白起は筆を置かず、最後まで線を整えた。

外の風が窓を打った。季節の変わり目の風だった。白起はその音を聞きながら、静かに息を吐いた。それは、生きている証でもあり、働き続ける者の習慣でもあった。

白起の復帰は、誰にとっても予想外だった。監察司の趙徴でさえ、数日は臥せていると踏んでいた。だが、夜が明ければ白起は台に立ち、筆を取り、灯を見上げていた。風の具合、星の移ろい、雲の濃淡――すべてを記し、途切れなかった。

翌日、県府から新しい命が下った。文面には「観測記録整理の補助、兼行」とある。実際は、李温の担当していた書庫の分類を白起一人で請け負うことだった。棚の埃を払い、帳面を改め、朱印の摩耗を写し直す。夜は観測、昼は文庫。それでも白起は文句を言わなかった。

李温はその様子を見て、眉を寄せた。

「白起様、せめて監察官がいない間は交代を」

「必要ない。監察官の命令に交代はない。李温よ、出世が遅れるぞ。」

白起は冗談めかして言った。これまで冗談などほとんど言わなかった白起に李温は驚いた。もしかすると、よほど心身に疲労がきているのではないかと。

「白起様が公務中に冗談を放つとは。」

「そうでなければ乗り切れない情勢もある。戦場でもそうだ。星も、人も、理の順に並ぶ。逆に動かすと乱れる。」

李温は頷き、職務を継続した。

昼の府庁は暑かった。竹の匂い、古墨の粉、汗の混じった空気。白起はその中で一歩も乱さず、筆を進めた。姿勢は変わらず、息も一定。ただ、背の骨が少し目立つようになった。

夕刻、白起は帰宅した。凛が門の前に立っていた。

「白様、昼餉もお召しにならずに。」

「筆が乾くと、墨が無駄になる。それに空腹の方が凛の飯を美味しくいただけるではないか。」

「お言葉は嬉しいのですが…。」

「さあ、食事を始めよう。この後も公務があるのだから。」

凛は何も言わず、ただ家へ案内した。粥と干し肉、薬湯、香の物が用意されていた。
白起はそれらを食べ、静かに椀を置いた。

夜半、凛は灯を見ながら呟いた。

「白様は、どこまで理を背負うおつもりか」

「白様に理がなければ、上邽が乱れる」杜が答えた。

「それで白様が倒れたら」

杜は首を振った。「倒れても、あの方は立つだろう。」

「こういう時こそ家人が奮闘すべきはずなのに。」

蒋が悔しそうに言う。

「白様は、我らに害が及ばぬように配慮されているのだろう。寡黙な方ではあるが、お優しい方なのだ。」

杜がしみじみ呟く。

「今、私たちができることは白様を陰で支え、家の安寧を保つ事です。」

凛が二人に語りかける。

「できることを精一杯、後は理が導くだろう。」

杜が消え入るように述べる。凛は沈黙し、灯を小さくした。

次の日、また命が来た。

「昼の監査補助、追加。夜間も巡察。」

意味は簡単だった。白起にさらに勤務を延長させる命令だ。李温が文を読み上げると、台の空気が重くなった。

「白起様……これはあまりに。」

白起は短く言った。「承る。」

程慶が「御身を」と続けようとしたが、白起は手で制した。

「言葉を減らせ。言葉は時に災を招く。お前たちにも将来がある。何のために長い間、天文官を勤めてきたのだ。このような瑣末な事で未来を潰す事はないのだ。」

程慶、李温、史狗が悔しそうに俯いた。

夜になると、白起は台に登った。足取りは少し乱れ、息も短い。だが、灯を前に立つと、背がすっと伸びた。星は薄雲の間にあり、風は湿っていた。筆を持つ手が震えても、線は真っ直ぐだった。

その姿を、下の官吏たちは黙って見た。いつの間にか、誰も白起に軽口を叩かなくなっていた。冗談も、笑いも、すべて消えた。代わりに残ったのは、目に見えぬ敬意だった。「倒れても星を放さぬ人間」として、白起の名は台の中で囁かれるようになった。

家では凛が次第に怒りを抑えられなくなっていた。

「白様が何をなされた。咸陽の役人どもは、人の命をなんと思うのか。」

杜が答えた。「声を上げても届かぬ。范雎の名がある。」

「ならば、せめてお休みを。」

「白様が休む時は、天文官を退く時だ。」

凛は拳を握ったが、白起の前では何も言わなかった。彼が「平然」を崩さない限り、家人がそれを崩すわけにはいかなかった。蒋は夜の講を終えると、家の外へ出て空を見た。星が高く、風は涼しかった。

「白様の星は、動かぬようで、誰よりも歩いている。」

そう呟き、静かに屋内へ戻った。

月が過ぎた。監察官の趙徴は、視察の終わりを告げる文を県府に置いた。

「任期満了。監査完。」

白起はその報を受け取り、深く頭を下げた。

「長きご公務、感謝申し上げます。」

趙徴は鼻を鳴らした。「規に従ったまでだ。これで終わりと思わぬことだ。」

「はい。理もまた、規に従うものでございます。」

趙徴は一瞬だけ顔を上げ、何か言いかけて、やめた。

その日、天文台には静けさが戻った。灯の炎が久しぶりに穏やかに揺れ、風も緩やかだった。李温が小声で言った。

「終わりましたね。」

白起は筆を持ったまま答えた。

「終わりは、始まりの形をしている。」

李温は黙って頷いた。白起は、机の上に指を置いた。掌の骨が浮き出ており、皮が薄くなっている。それを見て、白起は小さく息をついた。

「形は残る。形が残るうちは、理も残る。」

夜が更けた。李温が退出し、灯を残したまま白起は座に残った。観測は程慶に一任し、史狗に薬湯を作ってもらった。墨を垂らし、筆で薄く広げる。墨は広がり、また縮んだ。その模様が風の流れに似ていた。

「人の理も、このようなものかもしれぬ。時には広がり、時には縮小する。」

白起は呟き、筆を置いた。

家に戻ると、凛が玄関で灯を掲げていた。

「監察が終わったのですね。」

「うむ、終わった。」

「これで、少しは……。」

「理に休みはない。だが、白起にはしばしの休みをもらおうか。」

凛の顔が明るくなる。白起は少しだけ笑った。白起の眼には疲労の色が残っていたが、光は消えてはいなかった。凛は灯を下げ、静かに言った。

「粥を温めます。」

白起は頷いた。その日は久しぶりに白家に団欒が戻った。それぞれの心の中まで温かくなり、皆が白起に心配と慰労の言葉を送った。特に杜は涙まで流し、これまでの苦悩を打ち明けた。それに釣られ、凛も蒋も目を赤くした。白起は三人に感謝と労いの言葉をかけ、凛の食事を堪能した。

夜半、白起は独り、庭に出た。空は澄み、秋の匂いが混じっていた。星がゆっくりと傾き、北斗が西に寄っている。季節が移る。それでも星の形は変わらない。ただ人の立つ場所が変わるだけだ。

翌朝、郡府から使いが来た。凛が門で受け取り、文を白起のもとへ運ぶ。白起は印を見て、眉を動かした。

「出張天文観測。隣県臨洮。三日内に出立せよ。」

凛の顔が青ざめていた。

「また……」

白起は文を丁寧に巻き直した。

「ふっ、理の続きが始まったようだな。」

白起はどこか楽しそうに凛の顔を眺めていた。

程慶が台で報を聞いた。

「白起様、臨洮への道は荒れます。まだ、お身体も万全ではないのでは。」

「昨日しっかりと休息をとった。体調も上向きになっている。心配は無用だ。」

程慶は黙り、深く頭を下げた。白起は筆を整え、記録の余白に一行だけ記した。

「命在、理動。」

それは報告でも、詩でもなかった。ただ、白起自身の息の証だった。

日が沈み、上邽の町は早く暗くなった。白起は机の前に座り、荷を卓の上に並べた。
竹簡、筆、皮袋、油壺、小布、糧の干し飯、干し肉、塩、上衣。余計なものはない。必要なものだけを、等間に置いた。並べ直すことはしない。最初の並びで足りねば、道の上で整える。

凛がそっと入ってきた。

「包みは済みました。できるだけ軽くしてあります。」

「うむ、助かる。」

「粥を少し濃くいたしました。出立前の景気付けです。」

白起は頷いた。

「白様、臨洮へは初めてなのですか。」

蒋が心配そうに尋ねる。

「ああ、まだ見ぬ町だな。ここよりは厳しい環境と聞いたことがある。」

「この時期は雨季にあたるかも知れませぬ。道中と向こうでは用心なさってください。」

杜が湯飲みを置きながら言った。

粥が運ばれた。椀から湯気が上がり、塩の匂いが薄くする。白起は完食し、椀を置いた。
凛が満足そうに黙って見ている。心の中は不安で満ちているのだろう。しかし、おくびにも出さなかった。

「この出張の期限は不明だ。いつ戻れるかも分からない。その間、三人で白家を守ってくれ。臨洮から便りを送る。こちらにも近況を知らせてくれ。」

三人が頷く。

「もしかすると、監察官の手の者が向こうにも配されているかも知れぬ。心して参った方が良さそうだな。」

「白様、伯の投資の件ですが、少し進展があり、封地の没収の前に幾許か資産を移せたようです。それらを元手に商いを増やしているそうです。うまくいけば秋の中頃には仕送りが復活できるかも知れないとのことです。」

「ほお、さすが杜の息子だ。凛よ、台所の心配が薄れそうだな。」

「はい、しかし、倹約令は継続しますよ。」

凛が軽口を飛ばす。白起も同時に笑った。杜も蒋も。

「お前たちさえいれば白家はいつでも盛り返せる。私もこの程度で折れる事はない。」

白起の言葉に皆が明るい顔で頷いた。

明け方は冷えが早かった。白起は目を開け、起き上がる。衣を重ね、帯を締める。
包みを肩に通す。

戸口に三人が並んだ。
凛、杜、蒋。三人の顔が並ぶ。不安はない。

「任せる。」

「承知。」

言葉はそれだけだった。

門を開ける。空の色は薄く、東の端が白い。土の冷たさが足から上がる。歩幅を決め、最初の一歩を置く。呼吸が一定になる。音は小さく、道は長い。


家は家の秩序で動く。天文台は天文台の秩序で動く。道は道の秩序で続く。白起は歩きながら、胸の内で小さく言った。

(遅い戦を続ける。)

空が明るくなり、北斗が薄れていく。星の形が消えるのではない。昼の光が上から重なり、見えなくなるだけだ。見えないものも、そこにある。白起はその考えを短く掴み、手放した。考えを長く持つと、足が遅くなる。

臨洮への道が続く。足音が続く。星は見えないが、そこにある。

【第2章完】

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31歳 工場労働者 孤独と自由を設計し、 歴史と小説を通して 世界の“構造”を語る人。 半隠遁ライフ / 日本史講義 J-POP考察 / 小説はKindleで販売中。