第一節 礼節は、刃を包む
阿波城下町は、
穏やかだった。
秋も深まり、
町を包む色は赤よりも
褐色に近い。
紅葉狩りの人出は
すでに落ち着き、
商いも日常の調子に
戻っている。
穏やか、というのは、
動きがないという
意味ではない。
余計な動きが見えない、
というだけだ。
町人町の通りでは、
豪商の蔵から荷が出入りし、
町役人が検分に立ち会い、
それを遠巻きに
眺める商人たちが
いつも通りの顔で
頭を下げていた。
「ご苦労さまですな」
「いやいや、こちらこそ」
言葉は柔らかい。
声も低い。礼は正しい。
だが、その場にいる
誰一人として、
言葉通りに
受け取ってはいない。
礼節は、
円滑のためではない。
敵意を隠すために使われる。
伊予屋の謀次郎は、
少し離れた場所で
その様子を見ていた。
見るつもりはなかった。
たまたま、
そこを通っただけだ。
だが、
視線が集まる場に、
視線を集めない男がいると、
それはそれで目につく。
「伊予屋さん」
町役人の一人が、
謀次郎に気づいて声をかけた。
「ご無沙汰しております」
謀次郎は立ち止まり、
軽く頭を下げた。
「こちらこそ
いつもお世話になっております。」
それだけだ。
町役人は、
少し間を置いてから言った。
「最近、お忙しいようで」
「相応にですね
ありがたいことです」
相応、という言葉は便利だ。
多くも少なくもない。
説明を拒む言葉だ。
「近頃、
大きな動きがありましてな」
町役人は、
あくまで雑談の口調だった。
「御用の件で」
「……」
謀次郎は、続きを促さない。
促さないと、
相手は自分で話し始める。
「普請やら、奉公口の整理やらで、
人が要るのですよ」
そう言って、町役人は笑った。
その笑いには、
期待が混じっている。
「伊予屋さんのような方には、
ぜひ力を貸していただきたい」
謀次郎は、
すぐには返さなかった。
返せば、その言葉は
「約束」に近づく。
「話があれば、改めて
伊予屋にて伺います」
それだけ言った。
町役人の表情が、
ほんのわずかに曇る。
だが、すぐに戻る。
戻せるということは、
まだ本気ではない。
謀次郎が去ると、
町役人は
隣の豪商に目を向けた。
「どう思います」
豪商は、
袖の中で指を組んだ。
「使いにくい男ですな」
「ええ」
使いにくい、という評価は、
能力とは関係がない。
思い通りに動かせない、
という意味だ。
豪商は、
ちらりと謀次郎の背中を見た。
「ああいうのは、
味方にできればよいが」
「できねば」
町役人が続ける。
「邪魔になりますな」
言葉は、穏やかだった。
だが、方向は一致している。
その日の夕刻、伊予屋には
幸吉が戻ってきた。
「旦那」
「何だ」
「面白い話、聞きまして」
面白い話、という言い方は、
たいてい碌でもない。
「御用絡みで、
人の取り合いが始まるそうです」
「……」
「同業の何軒かは、
もう動いてる」
謀次郎は、
帳面を閉じた。
「伊予屋も、
声がかかるでしょう」
「かかっている」
「え?」
「今日、
町役人に会った」
幸吉は、
一瞬だけ黙った。
「……面倒ですね」
「面倒だ」
その評価は、一致している。
夜、海が湯を
運びながら言った。
「最近、町の奥様方が
妙に探りを入れてきます」
「何を」
「奉公先の話を」
佐一も、
帳面から顔を上げた。
「奉行所の文言も、
少し変わってます」
「どう変わった」
「人の扱いが、
数字みたいです」
謀次郎は、
三人の話を聞いて、
何も言わなかった。
言わない、という選択は、
最も目立つ。
権謀術数は、
動く者同士で始まる。
だが、
動かない者がいると、
全体の均衡が崩れる。
誠実とは、
正しさではない。
計算に入らないことだ。
その夜、
伊予屋の暖簾は
いつも通り掛けられていた。
だが、
その下を通る人間の目は、
すでに、違う色を帯び始めていた。
表では礼節。
裏では算段。
そして、そのどちらにも
はっきりと属さない男が、
否応なく、盤上に置かれた。
権謀術数は、
静かに始まる。
音を立てるのは、
いつも少し後だ。
第二節 礼の裏、刃の先
伊予屋の戸を叩く音は、
朝の湯気より先に
立つことがある。
謀次郎はそれを
「仕事の匂い」と呼ばない。
匂いと呼べば、
好き嫌いが混じる。
口入屋は、
好き嫌いで飯を
食う商いではない。
「ご免なすって」
声はやわらかい。
暖簾の外に立つのは、
町役人の手先に近い男——
名を才蔵という。
髷はつやつや、鼻緒は新しい。
才蔵はまず、手土産を差し出した。
包みは上等。
味噌漬けか、干菓子か。
包み紙の手触りでわかる。
「お口直しに。皆さまへ」
幸吉が受け取ろうとして、
謀次郎の目だけが動いた。
幸吉の指が止まり、
いったん引っ込む。
「用向きは」
謀次郎が言うと、
才蔵は深々と頭を下げた。
「いやあ、伊予屋さまには日頃から。
町内も助かっておりますで。
実は、少々、噂がございまして」
噂。江戸の町で噂を運ぶのは、
風と人足と湯屋である。
阿波の城下も変わらない。
ただし、風は責任を取らない。
「噂は誰の腹にも入ります」
佐一が小声で言った。
几帳面な小僧は、
紙より先に人の顔を折る。
才蔵は笑って、
口元だけで手を振った。
「そんな難しい話では。
近ごろ、豪商の吉田屋さまが、
町方へ“面倒”を持ち込まれて
おりますでしょう」
吉田屋。
米と木綿で太り、
慈善で細るふりをする男。
表で施し、裏で値を吊り上げる。
偽善欺瞞の見本のような家だ。
「その“面倒”に、
同業の口入が絡んでいる、と。
伊予屋さまは、まさか、
そんな泥の中へ足を
入れはしませんが……
町というのは、ねえ」
才蔵は言いながら、
畳の縁を指で撫でる。
縁を撫でる手つきだけが、
場違いに馴れていた。
幸吉が口を挟む。
「泥の中に足を入れねえと、
米が取れねえ田んぼもあるんで」
謀次郎が、幸吉を一度だけ見た。
幸吉は、笑いを少し引っ込めた。
才蔵は、笑っているふりで答えた。
「いやあ、若い衆は元気だ。
ですが元気が過ぎると、風邪をひく。
——役所の風邪は長引きます」
脅しではない。忠告でもない。
ただ“方向”を示しただけだ。
権謀術数とは、
刀を抜かずに切る術である。
謀次郎は言った。
「伊予屋は口入屋です。
働き口と奉公人を繋ぐだけ」
「ええ、ええ。
そこが伊予屋さまの
立派なところで。
ただ、町方も忙しい。
忙しいと、人は近道を選ぶ。
近道を選べば、誰かの庭を踏む。
踏まれた側は怒る。
——よくある話です」
才蔵は立ち上がり、
また頭を下げた。
「何もないのが一番。
何も起こらぬよう、
伊予屋さまも、くれぐれも」
何もないように、
何かをする。
それが町役人の美徳であり、
悪徳でもある。
才蔵が帰ると、
幸吉が鼻を鳴らした。
「“何もない”ってやつが一番怪しい」
「怪しさは、
怪しいと言えるうちは怪しくない」
謀次郎が言うと、
幸吉は苦い顔をした。
「じゃあ、何が一番怪しいんで」
「“怪しくない”と言い切る口」
佐一が、
帳面を抱えたまま首を傾げる。
「才蔵さまは、
怪しくないと言い切りましたか」
「言葉にしなくても、
包み紙が言い切ってる」
幸吉が
手土産の包みを指で弾いた。
音が軽い。中身は重い。
海が奥から顔を出した。
手拭いをたたみながら。
「では、これは……返しますか」
「返すと角が立つ。
角が立つと折られる」
謀次郎が言った。
海は「角」と「折られる」を聞いて、
黙って包みを引いた。
「町は折るのが上手なんですね」
その言い方は、
誰かを責める温度がない。
ただ、知っているという声だった。
その日の昼、
今度は同業の口入屋が来た。
名は
「浪速屋(なにわや)庄兵衛」。
人の良さそうな頬、
柔らかい笑い、
背中に泥がついていない
——ように見える。
「いやあ、伊予屋さん。
お忙しいところ、まことに。
今日はね、ちょいと“ご縁”を
持ってきまして」
庄兵衛は、
手土産の包みを二つ。
才蔵より一段、上等である。
礼節の競りが始まっている。
「ご縁とは」
「ええ、ええ。
吉田屋さんが、
奉公人の入れ替えをお考えで。
伊予屋さんのところは
誠実だと聞いております。
もしよろしければ、
うちと共同で——
いや、伊予屋さん主体で!」
主体。
言い方だけがへりくだり、
実態だけが取り込む。
これも権謀術数の一種だ。
幸吉が笑った。
「浪速屋さん、
うちを褒めるのが上手い。
褒めて値切る口だ」
庄兵衛は笑い返し、
扇子を広げた。
「いやだなあ。値切りませんよ。
ただ、商いは“持ちつ持たれつ”。
敵の敵は味方、と申しますしね」
その言葉が出た瞬間、
空気が一寸だけ冷えた。
味方という言葉は、
敵の存在を前提にする。
謀次郎が、静かに言った。
「敵は、どなたです」
庄兵衛は、
笑ったまま目を細めた。
「ええ、まあ……町には、
魑魅魍魎がおりますから。
伊予屋さんほど真っ直ぐだと、
かえって目立つ。
目立つと、狙われる。
——お互い、気をつけましょう」
忠告に見せた宣告。
“狙われる”と言い切った時点で、
誰が狙うかを知っている。
庄兵衛が帰ると、
幸吉が背中で舌打ちした。
「敵の敵は味方、ね。
あれは“味方のふりした敵”
の台詞だ」
佐一が真面目に言う。
「では、敵はどこにいます」
幸吉は笑って、外を指した。
「外にも中にもいる。
——一番厄介なのは、
“味方の顔した町”だ」
謀次郎は、帳面を閉じた。
「伊予屋は
伊予屋の仕事をする。
口入屋が、町の腹を
満たすことはできない。
だが、腹の底を
見ないふりはできる」
海が、湯を注ぎに来た。
湯気が立つ。
湯気は真っ直ぐ上がる。
上がる途中で曲がることもある。
誰かが息を吹きかければ。
「謀次郎さま」
「何だ」
「今夜、町内の寄り合いが
あるそうです。
“伊予屋も顔を出せ”と……」
幸吉が笑った。
「来た。礼節の顔をした首輪だ」
謀次郎は立ち上がり、
外の空を見た。
晩秋の月は、白く、薄い。
白いものほど、
汚れが目立つ。
「行く」
「え、行くんで?」
「顔を出さねば、
“出さない理由”を作られる」
権謀術数の町では、
沈黙さえ証拠にされる。
誠実は、
正義ではなく異物として
扱われることがある。
異物は、飲み込まれるか、
吐き出されるかだ。
謀次郎は袂を整えた。
「佐一、帳面。
幸吉、口を軽くするな。
海、戸締まりを頼む」
三人が返事をする。
返事は短い。
短い返事の方が、
長く生きる。
伊予屋の灯が、
提灯の中で揺れた。
揺れは、
風のせいだけではない。
町そのものが、揺らしている。
その夜、
寄り合いの座敷で——
謀次郎は初めて、
“敵の敵は味方”の
続きを聞くことになる。
第三節 敵の敵は、味方ではない
町内の寄り合いは、
城下でも名の知れた
料理屋の二階で開かれた。
座敷は広く、
灯りは多い。
その分、影も濃い。
町役人、豪商、顔役、
そして同業の口入屋たち。
誰もが笑っている。
だが、
笑いの向きが揃っていない。
謀次郎は、末席に座った。
上座に近づこうとはしない。
だが、
下座に逃げ込むこともしない。
その位置が、この場では
最も落ち着かない。
「伊予屋さん」
声をかけてきたのは、
昼に来た浪速屋・庄兵衛だった。
「今日は、お忙しいところ」
「寄り合いですから」
謀次郎は、
それだけ返した。
庄兵衛は、
杯を差し出す。
「一献」
「ありがとうございます」
杯は受ける。
だが、口はつけない。
その仕草を、
何人かが見ている。
「さて」
上座の町役人が、
手を打った。
「本日は、近頃の御用について、
腹を割って話したい」
腹を割る。
この場で最も信用できない言葉だ。
「人の出入りが激しい。
商いが滞る」
「裏で、手を回している者が
いるのではないか」
言葉は柔らかい。
だが、方向は決まっている。
誰かを“選びたい”
という流れだ。
「伊予屋さんは、
どう思われますか」
突然、
名を振られた。
謀次郎は、
少し間を置いた。
考えているのではない。
言わない言葉を選んでいる。
「口入屋としては、
人の働きぶりを見るだけです」
それだけだった。
座敷に、小さな沈黙が落ちる。
「なるほど、誠実だ」
豪商の一人が、
感心したように言った。
誠実。褒め言葉だ。
だが、この場では
評価ではなく分類だった。
「だが、誠実だけでは
町は守れん」
別の町役人が、
すぐに続ける。
「今は、時勢というものがある」
時勢。これもまた、
責任を消す言葉だ。
庄兵衛が、
ここで口を挟んだ。
「伊予屋さんほど
筋を通す方が我々と歩調を
合わせてくだされば、
心強いのですがな」
歩調。
合わせる、という言葉の裏に
服従の欲が見える。
「何を、
合わせるのでしょう」
謀次郎は、静かに聞いた。
庄兵衛は、
一瞬だけ言葉を探した。
「……余計な混乱を
起こさぬように、です」
余計な混乱。つまり、
こちらが決めた秩序に
従えという意味だ。
「伊予屋さんは、
敵を作らぬ」
町役人が言う。
「敵を作らぬのは、賢さだ」
「敵の敵は、
味方になることもある」
その言葉が、
何度目かに出た。
謀次郎は、杯を置いた。
「敵の敵は、その時だけ
味方に見える」
座敷の空気が、わずかに張る。
「その先は、敵になります」
誰かが、
笑いで誤魔化した。
だが、その笑いは
遅れた。
「伊予屋さんは、
利用されるのがお嫌いか」
豪商が、穏やかに聞いた。
「利用は、結果です」
謀次郎は答えた。
「目的にされるのは
好みません」
目的。
それを口にした瞬間、
幾つかの視線が
はっきりと冷えた。
庄兵衛は、
小さく息を吐いた。
「……強情だ」
その声は、
誰にも聞かせない
つもりの音量だった。
だが、
謀次郎には
十分だった。
寄り合いは、
その後も続いた。
誰かが誰かを庇い、
誰かが誰かを
遠回しに刺す。
名は出ない。
だが、線は引かれる。
そして、
その線の外にいる者が
一人いる。
謀次郎だった。
外にいるということは、
自由ではない。
狙いやすいということだ。
散会の折、
町役人が近づいてきた。
「伊予屋さん」
「はい」
「今後とも、町のために」
町のため。また出た。
謀次郎は、頭を下げた。
「伊予屋のために」
その返事に、町役人は
一瞬だけ言葉を失った。
帰り道、幸吉が
小声で言った。
「旦那、あれは……」
「味方探しだろうな」
「伊予屋の行く道は何処です」
「そうだなぁ」
謀次郎は、夜道を見た。
「敵探しだろう」
敵の敵は味方。
その言葉が出る場では、
すでに敵は決まっている。
そして、
決まった敵は
“使えない者”だ。
伊予屋の灯が、
遠くに見えた。
誠実は、この町では
武器にならない。
だが、
武器にならないものほど、
最後まで残る。
謀次郎は、それを知っていた。
だから、
歩調を合わせない。
合わせぬ者は、
やがて標的になる。
その覚悟を持って、
謀次郎は暖簾をくぐった。
第四節 嫌がらせという政治
嫌がらせは、
音を立てて始まらない。
音を立てれば、
政治ではなく喧嘩になる。
伊予屋に最初に届いたのは、
断りだった。
「今回は、
見送らせていただきます」
理由は、丁寧だった。
「条件が合わず」
「時勢を見て」
「別口で決まった」
どれも、よくある話だ。
だが、重なった。
一件、二件、三件。
「……妙だな」
幸吉が、帳面を見ながら
呟いた。
「今までなら、一つくらい
決まってる」
謀次郎は、帳面を閉じた。
「重なる時は、
理由が一つとは限らない」
「限らない、ってことは」
「誰かが動いている」
それ以上、言わなかった。
言えば、それが確定になる。
確定した疑いは、
次の一手を要求する。
だが、伊予屋は
政治をしない。
その日の昼、
奉行所から使いが来た。
「伊予屋の者を、少し」
口調は、柔らかい。
「確認したいことがあるのだ」
確認。
繰り返された
この言葉は、刃の形をしている。
謀次郎は、静かに応じた。
奉行所の一室で、
役人は
帳面を開いた。
「最近、御用口に
絡んでいるな」
「絡んではおりません」
「名前が、挙がっている」
挙がる、という言葉は
誰の責任も伴わない。
「どこからでしょう」
「それは」
役人は、言わなかった。
言わないことが、権力だ。
「奉公人の斡旋に、
偏りがあるとの話だ」
「偏り、とはいかに」
「特定の家に、有利だと」
謀次郎は、一瞬だけ
考えた。
考えたが、答えは
同じだった。
「条件に合っただけです」
役人は、それ以上
追及しなかった。
追及しない、という選択は
警告だ。
「今後は、慎重にな」
それだけで、終わった。
伊予屋へ戻ると、
海が眉を寄せていた。
「奉公に出した
女中の話が……」
「何か」
「“伊予屋は裏がある”と」
裏。便利な言葉だ。
裏があると言えば、
表の説明が
不要になる。
佐一が、
紙束を差し出した。
「奉行所の文言です」
「何か変化は」
「“注意”が“留意”に
変わってます」
小さな変化だ。
だが、こういう変化は
後から重くなる。
夜、伊予屋の前を
人が通らなくなった。
避けている
わけではない。
様子を見ているだけだ。
様子を見る、という行為は
最も無責任で、最も政治的だ。
「旦那様」
幸吉が、低い声で言った。
「仕掛けてきてますね」
「仕掛けは、返さない
川のように流すさ」
「返さないと、舐められますよ」
謀次郎は、少しだけ笑った。
「舐められるのは、
悪くない。弱き者を
装うことは時に利がある」
幸吉が、言葉を失う。
「舐める側は、
歯を立てる時、
必ず口を開ける」
その瞬間を待つ。
それが、伊予屋の
やり方だった。
翌日も、伊予屋は
暖簾を出した。
変わらない時間に。
変わらない態度で。
誠実は、武器にならない。
だが、嫌がらせは必ず
己の正体を露わにする。
権謀術数は、自分の影を
隠しきれない。
伊予屋の灯は、
静かに夜を照らしていた。
その灯が目障りに
見える者たちは、
もう引き返せない
場所まで来ている。
嫌がらせは、
政治の終盤に現れる。
次は、必ず仲間割れだ。
第五節 策は、策に喰われる
崩れる時は、音がしない。
いや、音は出ている。
ただ、
出した本人にだけ聞こえない。
奉行所の前に、
人が並び始めたのは
伊予屋への嫌がらせが
一巡した頃だった。
町役人が一人、
呼び出された。
「事情聴取」
という名目だった。
次の日、別の町役人。
さらにその翌日、
豪商の番頭。
噂は、走る。
走るが、誰も追いかけない。
追いかければ、
自分も呼ばれるからだ。
幸吉が、町の外れで
聞いてきた話を
低い声で伝えた。
「旦那、金の流れが
引っかかったそうで」
「どこで」
「町役人と、豪商の間です」
金は、正直だ。
言葉は嘘をつくが、
金は嘘の重さを残す。
「それと……浪速屋です」
幸吉は、言いにくそうに
続けた。
「奉公人の横流し。
条件の改ざん。
証文の書き換え」
謀次郎は、
黙って聞いていた。
「全部、“よくある話”
だったらしいです」
よくある話。
それはつまり、
前例が多すぎた
という意味だ。
前例が多いものは、
守られない。
だが、同時に裁きやすい。
奉行所は、公平だ。
見せしめとして
公平なのだ。
数日後、
町の顔役だった豪商が
屋敷を閉じた。
病気、という触れ込みだった。
その翌日、蔵が封をされた。
町の者たちは、
噂を肴に酒を飲んだ。
昨日まで
恩を受けていた相手を、
今日は「元々怪しかった」と
言い合う。
人は、正義が好きなのではない。
安全な位置から
裁くのが好きなだけだ。
安全地帯から撃つ鉄砲ほど
面白いものはない。
伊予屋にも、人が来た。
「……すまなかった」
誰とは言わない。
名を出せば、次の標的に
なるからだ。
「伊予屋さんが
一番正しかった」
その言葉は、軽い。
重く受け取ると、
こちらが沈む。
「正しいかどうかは、
知りません」
謀次郎は、そう答えた。
「ただ、余計なことを
しなかっただけです」
それが、最も難しい。
浪速屋・庄兵衛は、
奉行所から
短期の営業停止を
言い渡された。
罰は、軽い。
だが、信用は戻らない。
それを知っている者ほど、
罰より顔色が悪かった。
「伊予屋さん」
庄兵衛が、最後に来た。
髷は、少し崩れている。
「……あなたはどうして
そこまで芯を通せるのか」
謀次郎は、
否定しなかった。
否定は、相手を安心させる。
「何もしなかったからですよ」
庄兵衛は、それが
一番、理解できなかった。
策を弄する者は、
策のない場所を
想像できない。
「町は、また動きます」
庄兵衛はそう言って去った。
動く。それは、真実だ。
だが、動くたびに
誰かが削れる。
伊予屋の暖簾は、
変わらず
掛けられていた。
町の人間は、
何事もなかったように
通り過ぎる。
昨日の敵も、昨日の恩人も、
同じ顔で。
謀次郎は、
それを責めない。
責めれば、自分も
同じ場所に立つ。
誠実は、勝利ではない。
だが、最後まで場に残る。
権謀術数は、速い。
だが、長くは持たない。
策は、必ず策に喰われる。
残るのは、
策を使わなかった者と、
噂を肴にする者だけだ。
夜、伊予屋の灯は
いつもより静かだった。
嵐は過ぎた。
だが、町はまた嵐を呼ぶ。
そのことを謀次郎は
知っている。
だから、今日も帳面を閉じる。
明日も同じ暖簾を
掛けるために。
第六節 豆腐と酒
騒ぎが収まった日の夕方、
城下は妙に静かだった。
普段なら、
噂話が尾を引く。
勝った者、負けた者、
それぞれの評判が
酒の肴になる。
だが今回は、早かった。
誰もが、
もう次を見ている。
町は、そういうところだ。
伊予屋の台所では、
豆腐が一丁、
まな板の上にあった。
白く、余計なものがない。
「今日は、これで」
海が言った。
「それと、酒を少し」
謀次郎は頷いた。
幸吉が、徳利を手にとった。
「大勝利の宴、
ってやつですか」
「勝っていない」
謀次郎は、即座に返した。
「負けてもいない」
佐一が、膳を並べながら
首を傾げる。
「では、何ですか」
「役目が終わっただけだ」
その答えに、佐一は
納得したような、
していないような顔をした。
酒は、燗にした。
熱すぎず、冷めすぎず。
豆腐は、切っただけ。
薬味も、最小限。
「うまいなぁ」
幸吉が言った。
「空腹は何よりの薬味だな」
「うまいもんはうまい」
その言葉に、謀次郎は
否定しなかった。
否定する理由がない。
「町は、何も変わってませんね」
海が、ぽつりと言った。
「変わるのは、名前と噂かな」
謀次郎は杯を傾ける。
「人は、昨日の正義を
今日の過ちにする」
「その逆もありますね」
幸吉が続ける。
「だから、正義は使い捨てだ」
少しだけ、笑いが落ちた。
「……旦那」
幸吉が真面目な声に戻る。
「怖くなかったですか」
「何がだ」
「敵を作ることです」
謀次郎は、しばらく黙った。
豆腐を箸で崩し、また一口。
「敵を作った覚えはない」
「でも、狙われました」
「狙われたのは、
敵だからではない」
幸吉と佐一、海が
同時に顔を上げる。
「使えなかったからだ」
それだけだった。
策に乗らない。
算段に加わらない。
借りを作らない。
それは、善ではない。
不便なだけだ。
「誠実って、損ですね」
佐一が、正直に言った。
「得をする
ためのものでもない」
謀次郎は酒を置いた。
「誠実は、残るためのものだ」
残る。それは、
勝つこととは違う。
負けないこととも違う。
ただ、同じ場所に
立ち続けられる
というだけだ。
外では、風が吹いた。
晩秋の風だ。冷たく、
乾いている。
もうすぐ冬が来る。
「鍋にしますか」
海が言った。
「悪くない、明日にでもやろう」
謀次郎は答えた。
「今日は、このままで頂くさ」
豆腐と酒。
権謀術数の果てに
残ったのは、
それだけだった。
町では、また新しい
腹の探り合いが
始まっているだろう。
だが、
伊予屋の暖簾は
明日も同じ時刻に
掛けられる。
それで十分だと、
謀次郎は思っている。
誠実は、武器にならない。
だが、
武器にならないものだけが、
最後まで人を人のまま座らせる。
熱燗は、冷え始めていた。
豆腐は、少し残っている。
夜は、まだ長い。
今日くらいは夜更かしも悪くない。
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